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先祖を探して

Vol.115 四天王の1人であった後蘭孫八という人(1)


沖永良部島の世之主伝説の中には、後蘭孫八(ごらん まごはち)という人のことが語られています。
世之主伝説とはいっても、島の内城というところには世之主の琉球式のお墓がありますし、後蘭孫八についても後蘭というところに城跡(居住跡)があって、そこにはお墓もあり、そして当家と同様に子孫の方もいらっしゃいます。

世之主の墓


後蘭孫八の墓(後蘭の城跡)

ですから、伝説と言われているのは文字による記録が残っていないので詳細が分からず、証拠がないからなのです。実在はしていたでしょうし、こうして子孫もいるのですから、ただ歴史学的に史実としては認められていないだけなのです。

あれ?これを書きながら思ったのですが、史実ってどうやったら認められるのでしょうね?誰が認定するのでしょうか?世界遺産認定みたいな感じで、何か認定事務局があるのですかね???ちょっと別の疑問が出てきましたが、、、

話は本題に戻って、最近のことなのですが、何と!何と!何と! 
この孫八さんの子孫になられる方と縁あって知り合いになったんですよ!
ご先祖探しって不思議ですね。私が気になっていることについて、必ず自然と助け船が来るんです。孫八さんについては資料が少なく、しかし当家のご先祖様である世之主との関わりもあるので、ずっと知りたいなと思っていたところでした。知り合いになれて、色々とお話を伺うこともできますので、本当に嬉しく思っております!


後蘭孫八とは

後蘭孫八さんですが、いったいどんな人物であったのかというと、まず世之主をサポートしていた四天王の1人だったと伝承されています。
本名は平 孫八(たいらまごはち)。平という苗字が示すように平家の出身で先祖が落人として沖永良部島の後蘭という地域に住み着き、豪族になったそうです。北山の王子であった真松千代が沖永良部島を統治する初代王の世之主として島に来た時に、城の築城を任されるほどの腕前だったそうです。一説には、世之主が居城した城は既に孫八が築城して住んでいたのを世之主が譲りうけたとも言われています。また、武術にも長けていたので屋者 真三郎(やじゃ まさばる)、西目 国内丘衛佐(にしみ くにべえさ)、国頭 弥太郎(くんじゃい やたろう)と共に四天王として世之主に仕えたたのだそうです。

この四天王説ですが、私は個人的には疑問を持っております。なぜかというと、当家の平安統が1850年に書き記した「世之主由緒」には、世之主に仕えていた人物としては後蘭孫八と屋者真三郎のことしか書いてないんです。世之主の墓に一緒に納骨してある遺骨も、この二人だと書いてあって、あとの二人のことは記述されていません。たまたま書いてないのか?
この西目 国内丘衛佐と国頭 弥太郎については実在した人物だったかもしれませんが、四天王うんぬんというのは、世之主由緒が書かれた1850年以降に新たに付け加えられた話かもしれません。あくまで私の考えですが。


世之主由緒より


後蘭という名

後蘭ですが普通読みはゴランですが、島ではグラルと呼んでいます。
孫八の後蘭は地名が後蘭だったので苗字も後蘭と呼ばれていたのか、逆で苗字が後蘭だったから地名が後蘭となったのか?
しかし彼の本名は平 孫八です。そうなると???

ある説では、頭のことを(ゴラ)と呼ぶそうで、頭目=かしらを意味するカワラからコウラ→ガラ→グラルと音が変化していったのではないかとも言われています。そして、頭目=かしらとしての意味でグラルとなったのではないかということです。世之主が島を統治する前は、孫八は按司として島もしくは村を統治していたのではと言われていますので、この頭説は有力かもしれません。
島での言葉の発音は少し本土とは違いますので、言語学的に色々と見ていくのも面白いですね。


おもろさうし

そして、この孫八さんのことは、おもろさうしの中にも歌われています。
『おもろさうし』(おもろそうし)は、琉球王国第4代尚清王代の1531年(嘉靖10年)から尚豊王代の1623年(天啓3年 )にかけて首里王府によって編さんされた歌謡集です。歌を意味する「おもろ」は「思い」と同源の語で、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられており、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられているそうです。全22巻もあり、沢山の歌が納められています。

その中に孫八のことが歌われているものがあります。

しよりゑとの節 13-860(115)
 一永良部まこはつが/玉のきやく 崇べて/ひといちよは/すかま内に 走りやせ/又離れまこはつ/玉の 

一えらふまこはつか/たまのきやく たかへて/ひといちよは/すかまうちに はりやせ/又はなれまこはつ/たまの

「たまのきやく」とは御嶽の神の名前で、沖永良部の孫八が沖縄本島の国頭村の「奥」の杜の神を尊崇していて、永良部と山原の奥という集落まで往復していたという意味になるそうです。
この「奥」というところは、山村地帯で薪や材木の供給地であったようで、この歌から、孫八は永良部には無かった築城の材料を求めてここにやってきていたのではないかと言われているそうです。

このようにおもろそうしにも具体的に孫八のことが歌われていて、やはり実在していた人物だということですね。

孫八さんのことはまだ続きがありますので、また次回書きます。


 


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