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先祖を探して

Vol.10 宗家に連なる人々1:宗 秋月

世之主の子孫である当家の一族で、ご活躍された方々を紹介していこうと思います。

最初の方は比較的新しい年代の先祖の方ですが、当家(屋号:上花城)の直系の子孫になる方で、宗義保(後年に改名して宗秋月:そう しゅうげつ)と言われる方です。

我が家のお爺様である宗義経のすぐ上のお兄様です。

 

肩書元 : 熱海市長
本名 : 宗 秋月 (旧名:宗義保)
生年月日 : 明治31年2月24日
出生地 : 鹿児島県大島郡和泊村(現・和泊町)
学歴 : 沖永良部にあった内城小学校から、北九州にある小倉中学に飛び級で入学。その後は東京の第一高等学校(現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校である。「旧制一高」とも呼ばれる。) 早稲田大学法学部中退後に中央大学経済学部
職歴と経歴:経歴熱海ホテルに勤務し、海岸埋立反対運動にたつ。その後も朝鮮人問題などで活躍し、昭和8年検挙された。9年熱海町議となり、12年日本無産党から市議に当選。12年人民戦線事件で検挙される。戦時中は大西拓殖満州支店長に赴任。戦後は社会党に入り、同党熱海支部長として静岡県支部連合会の結成に尽力。23〜27年熱海市長を務めた。
没年月日:昭和39年5月26日

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長女である和子さんが現在は神奈川県の真鶴に在住です。82歳ですがまだまだ元気な和子さん。ご高齢でありながらパソコンも使いこなすスーパーおばあちゃまです。現役当時はお父様と同様に政治家として議会などでご活躍されていたようです。英語の先生もしていらしたそうで、美食家でお料理を作るのが好きで、中でもケーキ作りが大のお得意だそうです。私たちは親族ではありますが、これまで離れて暮らしていることもあって親族としてのお付き合いはありませんでした。ですが、私の先祖調査の活動の中で、偶然にも親族であることが分かりこうしてお付き合いが始まりました。お父様である秋月さんについて、色々とお話を伺うことができました。

秋月さんはお家ではとても躾の厳しい方だったそうで怖い存在だった半面、とても子煩悩な方だったようです。実はこの時代に社会主義者として活動していたため、自分が沖永良部出身であることなどは家族には全く話をしをしていなかったそうです。

和子さん談によると、「戦前戦中は主義者は非国民、戦時中は特高の監視がついていた。当時は連座制で、何かあったら家族はもちろん親族一族、同罪にされた。自分の家族は仕方がないと思っていたと思うけど、何も知らない実父たちには迷惑をかけたくなかったんだろうと思う。母でさえ、結婚して何年も経って、父が沖永良部の出身だと、警察官に教えられて初めて知ったのだそう。本籍は熱海に持ってきて新しい戸籍を作ってあったからだそう。もっとも親父さん、なかなか母や子どもを籍に入れなかったそう。多分連座制を配慮しての扱いだったと今にしては思う。」

なかなかハードな叔父様であったようですが、熱海の市長時代には大変なご活躍をされて、名誉市長と呼ばれています。ご活躍の内容は熱海のホームページなどにも書かれていますので、和子さんにお聞きしたお話を掲載します。

「親父さんの市長時代、まだ進駐軍が滞在していた時代。日本だって占領下だったんだよ。親父さんが支配人をしていた熱海ホテルと隣の樋口旅館を接収して、アメリが軍が使っていた。戦後すぐは、ここ東海道だから要所要所にMP(ミリタリーポリス)が常駐していた。熱海ホテルのクリスマスパーティに招かれて、家族で出席したことがある。記憶にあるのは樋口旅館の窓の手すりをペンキで真っ赤に塗られてしまったこと。友達とアメリカ人てセンスないね、木材の良さ、きっとわからないんだね、と言いながら通っていた。アメリカ人が、熱海の大火で市役所が焼け落ちる様子を写真に撮ったのをもらった。それがカラー写真で、びっくりした。大火で思い出すけど、焼け跡のまだ生々しい時、市長命令で焼け跡に杭がうたれ、区画整理が行われた。温泉町だから自然発生的に町が出来ていたから、道路も狭く、一車線ぎりぎりのところが多かった。バスが軒ぎりぎりに走っていた。それを幹線はすべて2車線と歩道を確保。「日本はやがてモータリジェイションの時代になる、2車線でも狭いくらいだ」と父は言っていた。でも外国を知らない私は、温泉街としては広い道は情緒がない、なんて文句を言っていた。今も市内はその2車線道路を使っている。パリのシャンゼリゼなんて4車線ぐらいあるけど、18世紀後半、まだ馬車の時代、ナポレオン三世がセーヌ県知事オスマンに命じておこなったパリ大改造が基本。分厚い本が出ていて、それを読んだ。親父さん、国政に出ようとしたことはあるよ。初回は落選。次の衆議院に出馬する準備をしていたら、社会党の委員長をしていた人が立候補したいと相談されて、後輩に譲った。国政で活躍していた鈴木茂三郎、加藤勘十、みんな同志でね、よくうちに来ていた、だから彼らは親父さんが出てくるのを待っていた。

 

秋月さんは現役市長の時に市長役として映画にも出演されています。そのことについてうかがいました。

「蜂の巣の子どもたち」は鬼才と言われた清水宏監督の作品でそれに出演したいる。清水監督は今なお天才として評価され、いまだにファンも多い。残念ながら、御幾つだったのかな、若くして亡くなってしまった。蜂の巣の子どもたちは、清水監督が、ご自身がつくった「蜂の巣学園」に戦災孤児たちを引き取り、その様子をもとに映画にしたドキュメンタリーの要素の強い作品。親父さんが出演したのはこの続編。「続蜂の巣の子どもたち」市長役(現職の市長)なんだけど、実にへたくそでね。本人を前に下手だ下手だと大笑いしてしまった。日頃はワンマンで威張っていた親父さんも形無しだった。
映画の中でね、「今日はお土産を持ってきたよ」と言って市長さんが子どもたちに箱を渡す。中から飛び出したのは2羽の白いアヒル。元気よく、水しぶきをあげて池に飛び込んでいった。実はこのアヒル。私たち子どもがヒナから育て可愛がっていたアヒルだったの。名前はが~ちゃん。が~ちゃんて呼ぶと顔を横にして、が~が~って返事をして傍に来る。そのアヒルをお土産に持っていくからと取り上げられて、ブスブスいっていたんだ。でも箱から飛び出して嬉しそうに池に飛び込んで泳いでいる姿を見たら、ほっとして、あげてよかったと思った。

 

小学校から島を出て飛び級で中学入学。とても頭の良い方だったようです。高校から大学に上がるときに病気になり進学を断念して病気療養。同級生がみんな東大に行ってしまい、学年が1つ下になるのでそれが嫌で東京大学はやめて早稲田に入学するが、教授が嫌で辞めて、その後に中央大学に行ったそうです。字がとても上手でいらしたそうで、義経お爺様と同様にそこは宗家の血筋なのかもしれません。

中学に上がるために行った北九州には当時は八幡製鉄所などがあり、島から沢山の人たちが出稼ぎに行っていたそうです。親族の方もいたようで、そこを頼って島を出たのでしょう。上のお兄さん二人も同様に北九州の中学に通っていたようなので、島を出て本土の方の学校までわざわざ行かせるとは当時の時代背景を考えると勉学に熱心な家庭だったのだと思います。

 

秋月さんのことは、この本にも詳しく書いてあります。


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