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先祖を探して

Vol.104 義本王の三男(1)


Vol.100で記事に書いた「宗家の先祖は中城御殿」。
あれ?宗家は北山王の次男であった真松千代が沖永良部の島主になり世之主と呼ばれていて、その子孫では?
なぜ北山を滅ぼした中山=尚氏の系統になるの???と疑問を持たれた方も多いのではと思います。もちろん私もその一人です。

琉球の歴史って、三山時代から第一尚氏によって琉球が統一されて以降も含め、血縁関係が結構複雑で、フムフムと一度は理解したつもりでもすぐに混乱に陥る私なのです。結局三山時代の3つの王の家系も、その後の尚氏もぜーーーんぶ親戚じゃん。なので、永良部世之主の系統も尚家と親戚といってしまえば、そうなのかもしれませんが、、、それだとアバウトすぎる。日本国民のほとんどは先祖を辿れば天皇家と繋がっていると言っているようなものですからね。

お爺様の書の中に中城御殿=第二尚氏との繋がりを裏付ける記述やヒントが無いか、探していました。
すると、以下のような記述がありました。



当家の中城は義本王の第三子の子孫だというのです。
あれれ?
義本王と第二尚氏との繋がりは???
義本王って、一説には伝説の王で実在しないと言われていたり、沖縄本土や奄美諸島でもその子孫だと言われる家がいくつか存在しています。実在したのかどうかはいまだ不明ですが、お墓説も色々な場所にあって、沖永良部にもVol.71の記事で紹介したように、畔布というところの海岸沿いの林の中にお墓があるようです。

Wikipediaの義本王のページには以下の内容が書かれています。

義本の直系子孫といわれる花崎家の伝承によれば、国頭村の辺戸に隠遁し、時世が落ち着いてから読谷村の瀬名波に渡り、晩年は北中城村仲順で没したという。国頭村辺戸に逃れた義本は、祝女との間に男子を儲け、それが第二尚氏尚円王の祖先であるという。

この伝承が事実であるとすれば、義本王 → 尚円王 → 中城と繋がっているのかもしれません。
はたまた、義本王の子供は北山王と繋がっている説もあります。
義本王の次男が北山の羽地按司となり、その孫が怕尼芝(1290-1352) 在位(1322-1352)ということです。この羽地の曾孫が樊安知や永良部世之主ということになります。

どの説も、ぐるっと周れば皆親族になりそうですが、お爺様が言っている義本王の三男説ですが、公表されているネット上の系譜を見ると子供は長男(浦添王子:尊義)、次男(羽地按司)という二人の情報しかありません。
しかし、伝承によると三人目の子供の話があります。それが上記のWikipediaに書いてある祝女との間に生まれた子供です。
この伝承は別記したいと思います。


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