横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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「ジョン万次郎とペリー提督」

2021-03-25 20:20:36 | コロナ巣ごもりレポート

「ジョン万次郎とペリー提督」

 

著者 横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

万次郎の難破

 

 14歳になった万次郎は1841年1月27日漁師見習いとして船に乗り、飯炊き兼釣れた魚をはえ縄から外す役目を与えられた。出漁した船は長さ8メートルの二丁櫓で、乗組んでいたのは万次郎の他に宇佐浦の漁師4人。出漁3日目、四国山脈から吹き下ろす突風で船はまたたく間に沖へ流され、黒潮の大蛇行に乗って南東へ流された。

 

 漂流7日目に南東方向に島影を発見し近づき、翌日上陸したのは江戸から580キロ南に位置する「鳥島」という周囲6・5キロの無人島。「鳥島」は名前の通り、現在は国の特別天然記念物に指定されているアホウドリの一大生息地であった。幸運にも繁殖時期で、巣には卵もあり親鳥も簡単に捕らえることができ食料には事欠かなかった。

 

 しかし滞在日数が長くなり、5月中旬になるとアホウドリは子育てを終えて次々に飛び去り、海岸で海藻や貝、蟹などを獲って飢えをしのぐ毎日となった。

 

捕鯨船による救助

 

 ある朝、大きな帆船が島の近くで停船した。午後になって小船が2艘漕ぎ出して島に近づいて来た。この船はアメリカ国籍の捕鯨船ジョン・ハウランド号で、船長はウイリアム・H・ホイットフィールド。この日の航海日誌には「1841年6月27日、日曜日、南東の微風あり。午後1時、島を目にする。海亀でもいないかとボート2艘を調べに出す。漂流者5名を発見し、直ちに本船に収容する。北緯30度31分」とある。

 

 漂流から150日、無人島でのサバイバル生活143日目に5人は奇跡的に救助された。

 

 ジョン・ハウランド号は1841年11月20日、補給と休養を兼ねハワイのオアフ島ホノルルへ寄港。ここで漁師4人は下船したが、万次郎は船長の誘いに従いアメリカ本土へ行くことを希望した。利発な万次郎は船での作業も良く手伝い英語も覚えた。船員にも可愛がられ、船名にちなんで「ジョン・マン」と愛称で呼ばれ、以後自身をジョン万次郎と名乗るようになる。

 

 ジョン・ハウランド号はホノルルを出てから捕鯨を続け1年半後の1843年5月6日、アメリカ東海岸マサチューセッツ州ニューベッドフォードの母港へ帰帆した。

 

 万次郎がホームステイしたホイットフィールド船長の家は、隣町のフェアヘーブンにあり、海岸の近くの二階建ての家であった。

 

 近年船長の家は朽ち果てて売りに出ていたが、日野原重明医師ら日本の著名人36人が発起人となり日本で募金活動を行い、修復工事が完成した2009年5月7日「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」としてフェアヘーブンの町に寄贈された。

 

 

ホイットフィールド船長の家
2012年 筆者撮影

 

 

 

 船長の好意で万次郎は高等教育を受けることができ、高等数学、航海術、測量術、捕鯨法などを習得し、1846年5月バートレット・アカデミーを優秀な成績で卒業した。この年20歳で捕鯨船フランクリン号の船員に採用され、遠洋航海に出発した。航海途中で1847年4月小笠原父島の二見港へ寄港し10日間滞在し、10月にホノルルに寄港し漂流仲間と5年ぶりに再会した。航海中に副船長兼一等航海士に任命された。

 

 近々日本を開国するためアメリカ艦隊が派遣されるとの報道を知り、一大事を伝えるため帰国を思い立つ。日本帰国の資金を得るため、1849年8月ゴールドラッシュに沸いていたカリフォルニア州サンフランシスコへ行き、金の採掘に従事し600ドルを手にする。その金でハワイへ行き、生存していた2人と一緒に米国の商船サラ・ボイド号に送られ、1851年琉球近海にて下船しボートで現在の沖縄県糸満市に上陸した。

 

 鹿児島と長崎で10ヶ月半の取り調べの後、万次郎が帰宅できたのは土佐の海に漁に出て以来なんと11年10ヶ月ぶりであった。

  

 

ペリー提督の書簡

 

 

 ペリーは1852年2月29日デラノに宛てた手紙の後半で次のように質問している。(ニューベッドフォード捕鯨博物館所蔵)

 

「Can you give me any information as to whereabouts of the Japanese, who at one time were residing at the Sandwhich Islands or of any Japanese, or natives whom it might be desirable for me to take with me.」

 

「一時ハワイ諸島に居た日本人について何か知っているでしょうか。もし私の意にかなうような人物であれば日本に連れて行きたいのですが」

 

1852年2月29日付 ペリーからデラノ宛手紙

 

 

 ペリーの目にかなったこの日本人はアメリカの捕鯨船に救助された後に一時ハワイに滞在し、その後アメリカで教育を受けたジョン万次郎のことであろう。日本へ同行させたいと希望したのは、通訳として採用するつもりであったのか。

 

 フェアヘーブンのJ・C・デラノの従兄弟ワレン・デラノの家の向いに万次郎の友人が住んでいて、頻繁に遊びに行ったそうで、デラノ家で万次郎のことが知られていたであろう。

 

 1852年3月3日ペリーは郵便蒸気船総監督官を解任され、3月24日正式に東インド艦隊総指揮官として日本遠征を命じられた。11月にノーフォークを出発したペリーは、1853年7月8日第一回日本遠征で浦賀に来航した。

 

 

ペリーは万次郎に会えたのか

 

 

 ペリー来航時に日本に英語が読み書きできる者はなく、1853年万次郎は幕府の召し出しにより江戸に到着し、江川太郎左衛門英龍に手附(書生)として召抱えられた。アメリカの最新情報を知る人物として重用され、幕府直参「御普請役格」に取り立てられ「中濱万次郎信志(のぶゆき)」と名乗る。

 

 1854年2月第二回日本遠征で来航したペリー艦隊は、横浜沖に停泊し条約交渉が始まった。

 

 江川太郎左衛門は万次郎をペリーとの通弁に採用することを老中首座・阿部正弘に推薦したが、御三家の水戸藩主・徳川斉昭の反対により、老中たちの賛成も得られなかった。

 

 条約交渉は英語ではなくオランダ語で行われ、3月31日に日米和親条約の締結に至る。

 

 ウィリアム・エリオット・グリフィスは、1887年発刊したペリーの伝記『マシュー・カルブレイス・ペリー』の文中で、万次郎が日米条約交渉に関与したと記述している。

 

 「米国でしっかりと基礎教育を受けた中浜万次郎は、(条約交渉が行われている)隣の部屋に座り、英語を日本語に訳す通訳として(関係者には)見えないが活発に活動した。全ての英文と漢文の書類が彼のところに回されて、修正と校閲を行った。」

 

 万次郎がペリー来航時に通訳として活動した記録はなく、江川太郎左衛門の屋敷から出ることはなかったはずで、グリフィスはこの誤った情報をどこから得たのか定かでない。

 

 グリフィスの誤記を引用した書物やネット上の書き込みが幾つかある。

 

 

再び渡米した万次郎

 

 

 1860年日米修好通商条約の批准書交換のため、万次郎にアメリカへ行く使節団に通弁として同行する命が下る。批准使節団は米艦ポーハタン号で渡航するが、その随伴船として幕府は咸臨丸の派遣を決めた。咸臨丸の最高責任者は軍艦奉行・木村摂津守、艦長は勝海舟、従者に福沢諭吉を含む日本人乗組員96人、ジョン・ブルック米海軍大尉とその部下10人も乗船した。ブルック大尉ら一行は日本近海で測量作業中に船が座礁し、帰国便を待って日本に滞在していた。

 

 咸臨丸は外洋に出た翌日に荒波に翻弄され、日本人乗組員は全く作業ができず、操船はブルック大尉らに頼るしかなかった。しかし日本人の中で万次郎ただ一人、どんな荒天だろうとブルック大尉の指示通り確実に作業をこなし、捕鯨船の船乗りとして鍛えられた真骨頂を発揮した。咸臨丸は修理が長引きサンフランシスコから日本へ引き返すことになり、同年5月帰路ハワイへ寄港した。木村摂津守にカメハメハ王から王宮への招待状が届き、万次郎は通訳として随行した。表敬訪問で日本人が署名したハワイ王宮の芳名帳がオアフ島ホノルルに保存されている。

 

 筆者は2010年調査したハワイ州立公文書館にて、この貴重な史料を撮影し書籍等への掲載許可を得られた。

 

 そこには1860年5月25日午前11時に王宮を訪問したことが記録され「Nacahama Mungero」との自筆サインがある。万次郎の筆跡による英字で、木村摂津守、福沢諭吉らの名前も書かれている。(ホイットフィールド船長への手紙は、「John Mungero」とサイン)

 

 

万次郎のサイン
ハワイ州立公文書館蔵

 

 

万次郎の証言を伝える新聞

 

 1860年米国訪問の帰路に寄港したオアフ島ホノルルで、万次郎は9年前に日本帰国の支援をしてくれたサミュエル・C・デイモン牧師に再会できた。牧師は主に船員のために編集した宗教新聞「ザ・フレンド」を1843年から発行していた。1850年万次郎がハワイから帰国の準備中、デイモン牧師は「ザ・フレンド」に「日本への遠征」と題した特集記事を掲載し、万次郎たちの帰国計画の支援を呼びかけてくれた。この記事のおかげで多くの資金や物資が寄せられ、励ましや応援メッセージが続々と届けられた。

 

 ペリー来航の際、万次郎は江戸に居ながらペリーらと面会ができなかったと1884年夏に来日したデイモン牧師に無念の気持ちを告白し、その証言は1884年10月発行の「ザ・フレンド」に次のように掲載されている。

 

「I was in Yeddo at the period of Commodore Perry’s visit, but was not introduce to any of officers of the expedition.」

 

 日本開国のためアメリカが海軍艦隊を送ることを知った万次郎は、死罪をも恐れず日米の橋渡しになろうとの信念で帰国を果たした。しかしペリー艦隊の乗組員らと会うことは叶わず、アメリカで学んだ英語の知識を生かすことができなかったことを悔やんだ。

 

両家の子孫と交流

 

 2009年友人の仲介でジョン万次郎の三男・慶三郎の孫にあたる中濱武彦氏と酒席を共にし、著書『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』を贈呈された。

 

 私もハワイ大学図書館で入手した万次郎に関する新聞記事のコピーを提供し、以来交流が続いている。上記ハワイ州立公文書館所蔵の万次郎のサインに関して、中濱武彦氏著書『ジョン万次郎に学ぶ 日本人の強さ』に掲載された、「アルファベットの書 中濱万次郎筆」の資料写真から万次郎の筆跡であると特定することができた。

 

 (財)ジョン万次郎ホイットフィールド記念・国際草の根交流センター(CIE)の招きで、2011年高知での講演を依頼され来日したマシュー・カルブレイス・ペリー博士(生物学者)と知り合うことができた。ペリー提督の兄レイモンドの4代目子孫である。

 

翌2012年にメリーランド州の博士のお宅に4日間ホームステイして、ペリー日本遠征に関する調査で首都ワシントンを案内いただき、それ以後も互いに情報を提供し合い交流が続いている。

 

『ペリー日本遠征記』掲載、絵師ハイネ作の富士山を描いた「BAY OF WODOWARA」の版画からペリーに関する調査が始まり、まさかジョン万次郎とペリー提督のご子孫と交流を深めることになろうとは…。そのご縁に今更ながら驚いている。


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