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おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

今、想うこと。

2024-01-26 09:50:06 | 日記
「勉強する」とは何でしょうか。

私は、例えば、スーパーで手に取った1匹の魚を見て、眼の前の魚しか観ることの出来ない人間は、どんな肩書きが在れ、何か違うなあ、と思ってしまいます。

私は、病気をして劣等感に苦しんだ私の目線は、いささかならず、ひがみっぽいのですが、
病気から立ち直っている今の・私にとって、「勉強」とは、
スーパーで買った眼の前の魚が、
どの海で泳いでいて、
誰がどのような苦労をして獲って、
誰がどのような苦労をして運んで、
どこでどのように競りにかけられて......といった
1匹のスーパーで手に取った魚の背景を、広く、深く豊かにみることができるようになることであると考えています。

「お金があれば魚が買える」だとか、「買った自分の魚だから、煮て食おうが、焼いて食おうが勝手だ」という考えに、私が、ずっと、苦しんできたからかも、しれません。

そんな人は、二流・三流な、自分勝手な考えの持ち主だから、と、聞き流すまで、時間がかかりました。

名人・一流といわれる人は、
その素材をみて、
泳いでいた海、
働いていた人の苦労、
獲ってきた季節をみて、
それに合ったものを作ろうと思って包丁(庖丁)を入れます。

また、「型にはまる」というと、なんだかいやな響きを感じる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、型を知ったり、型に嵌まりすぎた人間にしか、型を破ることが出来ないのではないでしょうか。

良かれ悪しかれ、基本的な型を
身につけておいてはじめて、今度は自分なりの型を会得してゆけるのではないかなあ、と思います。

型をはじめから馬鹿にしてかかって、これを無視するならば、結局、何も身につかない、実のない人生を送るようになるようにすら、私は思うのです。

私は、独自ではなく、平凡でない人生を送る人は、誰ひとりいないと思います。

せっかくなってしまった病気から、再生しているので、そんな気付きを確りと持ち続け、自分自身の人生に誇りを持ち続けたいと思います。

*見出し画像はお散歩途中の朝の景色です( ^_^)


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