80代になったカール・アイカーンは、自分が使い切れるよりもはるかに多い財産を得ているのに、なぜしきりに会社を乗っ取って財産を増やしているのか、と聞かれたときに、
「それだけが、自分の成功を測れる方法だから」
と答えている。
アイカーンが、特殊なわけではない。
大多数の人々もまた、もっと多くの物を手に入れたいという飽くなき欲を見せている。
それは、常に自分よりも、もっと多くの物を手にした者がいるからである。
どうも、進化によって、霊長類には、「公平」の概念が確りと組み込まれたようである。
それを示す興味深い実験がある。
キュウリが好きで、どの実験でも、キュウリを手に入れるためなら作業を頑張るサルがいる。
ただし、このサルは、キュウリよりもブドウがもっとおいしいことを知っている。
同じ部屋にいる2匹のサルにまったく同じ作業をさせ、その対価として、1匹にはブドウを、1匹にはキュウリを与えたとき、キュウリを与えられたサルは、もう1匹に対する対価よりも劣っていることに激しく怒り、これまでとても大切にしていたキュウリを拒絶し、実験者に投げ返す。
そこには、
「公平にやろう。あちらのサルがブドウをもらえるなら、自分もブドウをもらう資格がある」
という明確なメッセージがある。
同じ作業に対して、等しい対価を得ることは、私たち霊長類の心理の根幹にもともと組み込まれているようである。
さらに、サルたちは、
「人生に対する満足感は、他者が得ていると思われる満足感との比較と切り離して経験することは決して出来ない」
というもっと大きなメッセージを教えてくれたようである。
人は、自分が持っている物で幸せを感じるのではなく、むしろ、自分の周囲が持っている、あるいは持っていると思われる物と比べて、自分が何を持っているかという観点で幸せを感じるのである。
満足感は、ほぼ常に相対的であり、他と比べることによって決まってくる。
人間は、自分がたくさんの物を持っていても、友人がもっと多くの物を持っていると思える場合、自分が持っている物は、 幸せを感じるには不十分であるようだ。
2500年前、アイスキュロスは、
「嫉妬心を少しも持たず、友人の成功を喜ぶ強い性格の持ち主は皆無である」
と述べている。
残念ながらこれが、少なくとも2500年前から変わらない人間の姿である。
不幸にも、私は、自分を、アイスキュロスが言うところの
嫉妬心のない人間に数えることは、出来ない。
誇れることではないが、この人間が生まれ持った性質をいかんなく発揮し、自分だってブドウを手に入れられるはずではないか、と考えたりしているのである。
......。
飽くことなく貪欲になる能力は、私たちのゲノムに組み込まれているようである。
その能力が鈍るのは、もっと欲しいと思える余分の量が無いときだけである。
アリのように本能的に平等主義の社会(→女王アリは例外だが)を作り、資源を平等に分配するのではなく、私たちは、ごく少数の者に富が集中する階級社会に向かう傾向にある。
ブドウとキュウリの公平な分配がうまく保証されている例は、北欧社会以外では、ごく少数であろう。
あらゆるテクノロジーの進歩により、格差は広がり、公平さの片鱗も見えなくなりつつある。
サイバー革命とグローバリゼーションが相まった今、新しい裕福な時代が生まれたのかもしれない。
現在、世界の富裕層上位60人の保有資産は、貧困層35億人の資産総額よりも多い。
1965年、平均的なCEOの報酬と従業員の報酬の比率は、20対1であった。
それは、1978年には120対1に、現在ではほぼ300対1となっている。
テクノロジーと生産性の向上によって、必要とされる従業員の数が減ったことで、賃金引き下げの圧力が強まり、よい収入を得られる仕事が減る一方で、富裕層はその差額を得ることになる。
アメリカでは、1人あたりの富は、わずか数十年で3倍に増えた。
しかし、以前よりも幸せな国だ、と、感じる人は少ないようである。
原因のひとつは、富裕層が得た利益が、不公平に分配されていることであるようだ。
さらに、アメリカに住む方によると、
「今の自分と当時の自分」を比べることはあまりなく、「自分と隣人、自分とYouTubeに出ている人、さらには金融危機を起こした後でも、たくさんのボーナスを得たウォール街のズルい人たち」と比べている、そうである。
......。
富の格差拡大は世界規模で起きている現象である。
その一部は、まさに経済学の基礎である自由市場の原理、とりわけ、新たなテクノロジーが通常の人的労働力に依存する既存のシステムを揺るがす際に、報酬が資本やイノベーターに流れることが原因で起きているようである。
人口過剰でハイテクの世界では、報酬は自然と上昇する。
しかし、富の分配が、経済的見地だけに基づいて決められる場合、状況は通常予想されるよりも、さらに悪くなるのである。
富は
「金は金を引き寄せる」
という、経済の引力の法則に従っているのかもしれない。
豊かな人は、さらに豊かに、貧しい人はさらに貧しくなり、不平等が大きくなる。
大金を持つ者は、大きな政治権力を引き寄せ、大きな政治権力は、彼ら/彼女らの欲求を満たす行動をとる。
そのようにして、大金を持つ者は、ますます裕福になる、という、決して終わることのない循環が生まれる。
クレプトクラシー(泥棒政治)
を行う全体主義政権と、クレプトクラシーを行う民主主義政権は、どちらが多くの億万長者を生み出せるのか、を競い合っているようである。
冒頭のアイカーンのことばからもわかるように、人間の本性には、裕福な社会で演じる幸福の悲劇が組み込まれている。
大富豪は、富を蓄えるためのゴールのないレースを強いられており、もっと裕福になろうと、実現不可能な幸福を、延々と追求し続けている。
このような行為のために、ブドウとキュウリは明らかに不公平に分配されるようになり、大多数の人々が、他者に比べて、十分な物を手に入れていないと感じて、自分は不幸だと考えるようになる。
そのしわ寄せから、日々苦しいことばかりの極貧状態におかれたり、健康にも幸福にもなれない人々が生まれてしまう。
さらなる社会の不公平の拡大を、支え促すのは、社会が抱く幻想である。
社会は、崩壊する直前に最も階級化が進む傾向にある。
その中で滴り落ちる富の流れは、全く機能しないのではないだろうか。
さらなる社会の不公平の拡大を、支え促す
「裕福な人がさらに裕福になれば、その恩恵は徐々に滴り落ち、すべての人々に行き渡り、世界はよりよい場所になる」
という考えを、見直さなければならないときに、私たちは、直面しているようである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
学部時代を想い出しながら描いていたら長い日記になってしまいました^_^;
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。