おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

精神医学と法律の境界線を脅かす診断インフレ-診断インフレを考える②-

2023-12-07 07:15:32 | 日記
1881年、ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺事件の裁判で、チャールズ・ギトーは
「愚か者として釈放されるよりは、人間として絞首刑にされる方がましだ。」
と陪審員たちに叫んでいる。

ギトーの弁護団は、精神障がいを主張しようとしたが、ギトーは拒否していた。
なぜなら、彼は、自らを悪の支配からアメリカを救うための使者と見られたがっていたし、
何より、精神疾患患者として、無罪を言い渡されたら、自分の主張に信憑性がなくなってしまうので、犯罪者として有罪の判決を受けることを望んだからである。

この裁判は、多数の医師が弁護側および検察側の証人として証言したし、多数の医師が裁判で弁護側と検察側に分かれて病の有無や子細な病名までを証言するという今日に至るまで引き継がれる裁判の風景を形作った、と、意味で世紀の裁判である。

また、ギトーは正気を失っていると見なす医師もいれば、かなり心得違いをしているにせよ、正気の犯罪者だと見なす医師もいた。

診断インフレはこのように望みのレッテルを司法の場ですら使う、いわんや普通の診察室においてをや、である。
今日、診断インフレは、精神医学と法律との境界線を絶えず脅かし続けている。(→精神医学と政治の境界線ついては次回-診断インフレを考える③-で取り上げる予定なので、今回は精神医学と法律との境界線の意味で描きます。)
ギトーはもちろん、ユナボマーやノルウェーの大量殺人犯のアンネシュ・プライヴィークのような政治的テロリストを司法の場で裁くとき、刑罰の度合を定める根拠と論拠の多くを、果たして医師の診断に委ねるべきなのであろうか?彼ら/彼女らは、診断名に拠って、政治犯と見做されるべきなのか、精神疾患患者と見做されるべきなのか決まるのだろうか??

また、メディアはいつも、著名人や犯人が正気かどうかをとりあげるが、それぞれの事件そのものの背景(例えば、どうして事件を起こす考えに至ったのか、など)やそこに横たわる問題(例えば、なぜ事件に使われた武器を犯人が入手できたのかなど)についてあまりに掘り下げてはいない。

多くの裁かれる人たちは、法的な精神病患者とされるかどうかの曖昧な境界線上にいる。
また、見方次第では、野蛮な政治的、宗教的過激派にも、妄想性性の精神病患者という子細な病名までを付けることが出来るのであろう。
さらに、両陣営の証人となった精神医学の専門家は、決まって、相手の証言を否定し合う。

しかし、その(事件を起こした)人物を病人と見做すか、悪人と見做すかは、医学でなく社会が決めるべきであろう。
法廷での診断インフレは抑え込むべきであり、おおかたは、「病人」ではなく「悪人」として扱った方が良い。
「悪人」の中には「病人」が含まれるかもしれないが、「悪人」≠「病人」であるのだから。

さらに、一般社会、というか、私たちが日々生きる中で、偏見が精神疾患に結びつけられること自体、好ましくないし、診断インフレに繋がる要因のひとつであろう。
まやかしの診断で誤ったレッテルを貼られ、偏見を持たれることを(私のかつての経験から言うと)患者は望んでいない。
そのような、私たちの身近にある診断インフレのせいで、診断された患者本人が、前より希望が持てなくなったり、気力がなくなったり、責任感が失われたりするのであれば、ある意味有害な診断だといっても過言でないであろう。

そして社会が過剰な診断を認め、構成員のかなりの割合を「病気」として扱ったら、その社会は強靱な回復力のある社会ではなくなり、人為的に「病んだ」社会になる。
私たちの祖先は、レッテルや薬の過剰な使用に頼らずとも、現代の私たちには想像も出来ない窮乏や戦争を切り抜けてきたのだから、その子孫である私たちにも、社会から過剰な診断を廃することが、出来るのであろう、と、私は信ずる。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
やっと本調子に戻ってきたかな?というような感じです。
日々の寒暖差&風邪には気を付けたいですね。
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*毎回のことですが、見出し画像は自分の本棚の中から興味のある本や、かつての写真から想い出したものを選んで載せているつもりです。



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