おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

シューマンの「青い花」

2024-04-30 06:56:00 | 日記
シューマンの死後40年あまり経った頃、シューマンの一番弟子であるブラームスは死を前にして
「ロベルト・シューマンの最後の変奏曲、あの音楽は、いつも頭のなかで響いています。
いったい、誰があれほど美しく、この世に別れを告げることができるでしょうか」
と述べている。

ブラームスのいう最後の変奏曲とは、シューマンの「天使の主題による変奏曲」(Die Geistervariationen, WoO.24)のことである。

シューマンは蝶の美しさをよく知る人だったのかもしれない。

最後の変奏曲は、ひらひらと、虚空へ羽ばたいてゆくような、儚さの極みともいえるような曲である。

それを生み出すシューマンも、羽の脆さを知りながら飛びつづけた蝶のような人である、とも、思う。

だからこそ、シューマンは、蝶の羽は脆いが、その脆さが蝶をかくも美しくすることを知っていたのかもしれない。

さて、ドイツ・ロマン主義は、プロイセン王国を中心にドイツ人としての民族意識が高まる時代の精神であり、すなわち、まさにドイツ民族そのものにとっての青春時代を意味していたようである。

そして、それは、個人にとっての青春がそうであるように、現実をはるかに超えたものへの夢、憧憬として訪れる。

ノヴァーリスは「青い花」を幻視し、ゲーテのヴィルヘルム・マイスターは、理想を求めて旅に出る。

しかし、夢は必ず醒めねばならず、理想は必ず挫折せねばならず、だからこそ、夢は翳りのある哀しい美しさを常に持っているのだろうか。

シューマンの生涯には、ドイツ・ロマン派の栄光と悲劇が過不足なく備わっている。

この早熟な文学少年は、10代から、人間の理想をミケランジェロやベートーベンの作品に見出し、文学と音楽とが融合した世界を作り上げ、人生そのものを芸術と化すことを目論むのである。

しかし、勿論、それは容易なことではない。

あまりに夢みがちなシューマンの精神は、蝶のようにひらひらと幻想の世界を飛ぶことは出来るが、嵐のなかを突き進んだり、天空の高みにまで至ることは出来ないのである。

そのためには、鷲のような強い骨格と筋力が必要である。

蝶の羽は脆すぎるのである。

シューマンが作曲していたのは、いずれもピアノの小品が多かった。

それらは、まだ夢の断片のようなものであり、シューマンは行き詰まりを感じていたようである。

転機は、ロマン派らしく、愛とともに訪れた。

クララとの出逢いである。

夢は実現するし、愛は存在する、と感じられるほど、シューマンの現実生活は満たされたのであろう。

自信を得たシューマンの創造力はこれを機に一気に開花する。

歌曲「詩人の恋」、交響曲第1番、ピアノ五重奏曲などを書き上げてゆく。

そして、長年の夢であったピアノ協奏曲の作曲に取り組むのである。

実は、シューマンは、それまでに3回ピアノ協奏曲に挑戦し、挫折してきた。

協奏曲という形式には、複数楽章を通じて統一性、一貫性を持たせる力、つまり強靱な構築力が必要である。

先にも述べたように、それまでのシューマンは、作品には小品が多く、いわばフィギュアスケートでショートプログラムは得意だが、フリープログラムは息切れしてしまっていたのである。

1841年、ピアノとオーケストラのための「幻想曲」を書き上げるが、シューマンは、もはや、幻想を決して手の届かない「青い花」のままにとどめようとは考えない。

「青い花」へと着実に到達する梯子、つまり、論理性が必要になったシューマンが見出したのが、バッハの対位法だったのである。

対位法を十分に研究した成果をもとに、ついに「幻想曲」を第1楽章とする全3楽章のピアノ協奏曲が1845年に完成するのである。

作品における形式と内容の完璧な一致というものは滅多にないが、
このピアノ協奏曲は、シューマンの生命への意志と音楽形式とがついに和合した、奇跡的な、そして怖いまでに幸福な曲である、と、私は感じるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像は、子どもの頃に読んで懐かしかった本を懐かしさから買ってしまった......の続きです^_^;

気温の変化が激しいので、体調管理に気をつけたいですね。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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