こちらもやはり地味なモハ60改造クモハ54であるクモハ54127。元々はモハ60095でした。ただ本車は一切Hゴム化されていない美しい姿を保った点が特筆されます。
(1978.1.3 辰野駅)
この時の編成をメモから再現しますと、茅野発平岡行238Mで、[53運用]54127+68042 + [77]47011+54106 + [79]51027+68402という編成でした。ここ辰野で[79]を切り離し、伊那松島で[77]を分離し、[53]運用単独で平岡へ向かう予定でした。この写真を見ると底冷えのする辰野駅が思い出されます。
例によって本車の車歴を見てみますと...
1943.7.17汽車会社東京支店製造(モハ60095)→1943.9.20使用開始(大ミハ)→1948.9.3大ヨト→1948.12.19座席整備→1950.11.14大ミハ→1953.6.1改番(モハ54127)→1954.3.21大アカ→1955.10.13更新修繕I(吹田工)→1965.7.13静トヨ→[77-6全検浜松工]→1978.12.20廃車(静トヨ)
(資料『関西国電50年』、一部現車確認)
やはり早めに飯田線に来たため、原型窓を留めていたのですね。なお1954年に大ミハを追われ大アカに移ったのは、80系の投入で押し出されたためでした。本車も他の静トヨ所属のクモハ54同様、ここでも80系の投入で押し出され、消えていきました。
(1978.1.3 辰野駅)
この時の編成をメモから再現しますと、茅野発平岡行238Mで、[53運用]54127+68042 + [77]47011+54106 + [79]51027+68402という編成でした。ここ辰野で[79]を切り離し、伊那松島で[77]を分離し、[53]運用単独で平岡へ向かう予定でした。この写真を見ると底冷えのする辰野駅が思い出されます。
例によって本車の車歴を見てみますと...
1943.7.17汽車会社東京支店製造(モハ60095)→1943.9.20使用開始(大ミハ)→1948.9.3大ヨト→1948.12.19座席整備→1950.11.14大ミハ→1953.6.1改番(モハ54127)→1954.3.21大アカ→1955.10.13更新修繕I(吹田工)→1965.7.13静トヨ→[77-6全検浜松工]→1978.12.20廃車(静トヨ)
(資料『関西国電50年』、一部現車確認)
やはり早めに飯田線に来たため、原型窓を留めていたのですね。なお1954年に大ミハを追われ大アカに移ったのは、80系の投入で押し出されたためでした。本車も他の静トヨ所属のクモハ54同様、ここでも80系の投入で押し出され、消えていきました。
かなり昔の「我が心の飯田線掲示板」で吹田工場のHゴム窓改造が話題になった時、写真を寄せ集めて工事がどう行われたか検証したことがあったのですが、早い車では昭和38年の工事が確認され、その後時代が下るにつれて工事が進んでいくことが確認されました。面白いのが前面窓の工事と戸袋窓の工事は、前面窓が先行したのではなく、戸袋窓の工事の方が先行した車も存在したことが確認されたことです。
工事の経過と比較すると、新潟ローカルの第1陣として長岡に転出したクハ68001等、前面窓が木枠原型だった車の転出は昭和37年末でしたが、ちょうどこの時は吹田工場のHゴム工事の始まる直前だったことがわかりました。
前面、側面に対して後位の連結面の戸袋窓のHゴム化は写真が非常に少ないのですが、クハ55110が工事が確認できる写真が「我が心の飯田線」内「お客様の部屋」にあります。
あと、阪和線に正面左側がHゴム化されていても、運転台(右)側が原型という珍品がありました(クハ55800代)。通常は原型窓が残っていたとしても逆なのですが。
先日掲載しました阪和線の写真をご覧頂きますと載っています。