高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

流電1次車中間車元サハ48であったサハ58000 (蔵出し画像)

2016-03-20 11:08:35 | 旧型国電
 前回第1次流電の中間車元サロハ46を紹介しましたが、こちらは元サハ48であるサハ58000(岡オカ)です。これも既に写真を一度流電と共に掲載しています。
 モハ52一統は1950年9月に宮原から鳳に移って、阪和線急行仕業に就いています。しかし、本車はなぜかその2年前に単独で鳳に移り、その後再び宮原に戻るものの、50年9月にはモハ52たちと分かれて流電グループサハ48たちは遠く横須賀線に移ります。
 ただ、移った先の横須賀線では、既存の32系一族のサハ48の多くがそのまま、もしくはクハ47に改造され静岡、岡山局に流れたり、あるいは車両によってはサハ87扱いされて80系に組み込まれて転出していったのに対して、流電サハ48グループはなぜか東鉄で愛され、横須賀線新性能化まで使われます。その間1964年には横須賀線の混雑に対応して3扉化され改番もします。結局横須賀線では関西に匹敵する15年間の長きにわたって活躍することになります。
 とはいえ、クモハ43, 53 (→クモハ50, 51200代)が横須賀-久里浜間のMcTc2連用兼用で最後まで残されたのは理解できますが、70系に占められつつあった当時、サロでもない2扉中間車がなぜ残されたのか、運用上不便ではなかったのか(結局最後は3扉化されますが)、という点が気になります。
 ただ『タイムスリップ横須賀線』(2004, 大正出版) などの写真を見ると、
1960年前後当時の横須賀線は 下り←McTTsMMTc→上り またはTcMTsMMTcの6輌基本編成で運用されており、ラッシュ時はこの基本編成を2本つなげて運用していたようです。この時、43,53がMcTTsMMTcの一番下り寄り(偶数側)に、そして次位のTにサハ48が入っていたようです。おそらく東京寄りが混雑が激しく、横須賀寄りが比較的空いていたため、2扉車をなるべく下り寄りに持ってきていたのではないでしょうか。従ってクモハ43, 53は横須賀線時代下り先頭に出るのが原則だったようです。だから静岡局に転出したクモハ43の多くは奇数車(上り向き)だったのですね。また偶数車(下り向き)だけだったクハ47100代(元クハ58)はクモハ43と被るので、静岡局や伊東線に出されたようです。
 因みに一部サハ48がクハ47に改造されたのも、必ずしも地方転出のためだけではなく、横須賀線内でTcMTsMMTcの下り寄りに使っていたケースが見られます。これも2扉車をなるべく下りに寄せて使うために行われたものと思われます。

 現在の発想なら全部70系に統一してしまえば簡単なのに、なぜ下り寄りに寄せるというような運用の不便を我慢しつつ2扉車の使用に固執していたのかと思いますが、おそらくは横須賀線の「格」を考えて、なるべくクロスシートの座席数を極力たくさん確保したい、とか、やはり扉数が少ない方が車内が落ち着いて乗客サービスとしてよいという考え方があり、それと横須賀線の混雑度の増加との兼ね合いで決められていたのではないでしょうか。そういう意味では横須賀線の中で42系や急電グループの尊厳は保たれていたのではないでしょうか。

 またどこで読んだかは忘れましたが何かのエッセイで (團伊玖磨の『パイプのけむり』あたりだったかも知れません) 、当時の鎌倉駅のラッシュ時では2扉車と3扉車が混在している位置では、乗客の間に3扉車が来ても真ん中のドアから乗らない、真ん中のドアで待たない暗黙のルールがあった、ということを読んだ記憶があります。

 ロングシートが大半となってしまった今の横須賀線はずいぶん格落ちしたものだと思いますが、丸の内に勤務するエリートが鎌倉から通うという時代でもなくなったということでしょう。もちろん、ハイカラな海軍さんが乗る路線ではなくなったのは、さらに昔に遡りますが。ただ一部にセミクロスシートが残されているのは当時の発想が今も格落ちながら辛うじて残っているということでしょう。もっとも当時2扉車が残っていたのは横須賀寄り。今は東京(千葉)寄りなので、向きは反対ですが。

 横須賀線新性能化で第2の故郷を追われたサハ58000は3扉化されたお陰で奇跡的に古巣であった関西の東海道・山陽線運用にマルーンに塗りつぶされて復帰しますが、すぐ関東の新性能化で捻出された73系に追われ岡山に追いやられ、最後の10年間を過ごし、最後は小山電車区から流れてきた115系トップナンバーらに追われて、飯田線の仲間より一足早く廃車となりました。

 1952年頃に横須賀線から飯田線に転出して再び急電編成が復活していれば... あるいは大阪に復帰せずに飯田線に都落ちしていればと思うところですが、なかなか現実は上手く行きません。


 第2次、3次流電・合いの子のサハ48を三扉化したサハ58は非常に違和感がありましたが、本車は狭窓の分違和感が少なく好ましい感じです。

こちらは室内連結面と屋根からの写真です。貫通路扉はオリジナルの木製です。禁煙表示があるのに灰皿がある点が何とも。


では車歴を見ていきましょう。

1936.5.5川崎車輌製造 (サハ48029)→1936.6.26使用開始(大ミハ)→1943.2.11大アカ→1943.7.5座席撤去→1948.12.20大オト→1948.12.23座席整備→1949.7.1大ミハ→1950.9.17東チタ→1950.12.15更新修繕I(大宮工)→1959.1.31更新修繕II(大宮工)→1960.4東フナ→1964.1.23改造(大船工 サハ58000)→1965.2.11大アカ→1966.8.9岡オカ→1976.9.11廃車

データ出所: 『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー


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サハ58形の「向き」 (原口 悟)
2016-03-23 23:56:33
岡山ローカルのサハ58形は写真の000を鉄道コレクションクモハ52001,002の後ろ半分を、020をクモハ52003,004の後ろ半分を貼り合わせて製作しています。

サハ58形は「方向」が厄介な車です。
写真のサハ58000は岡山駅の新幹線高架を背景にして、左側にエンド標記が書き込まれており、中央扉は右(下関側)へ開くので、形式図通りの奇数向きの車です。サハ58020,021も同様に偶数向きで中央扉は後ろへ開きます。
これに対してWCが付けられているサハ58010,011は形式図ではWCは後位にあり、中央扉も後ろへ開くように描きこまれていますが、現車はWCのある方が前位で、中央扉はWCの側へ開きます。このため、形態は形式図通りなのですが、方向は逆で、形式図の右側が前位になります。一方で、岡山駅を基準にすると、新幹線高架を背後にして左側にエンド標記があることは58000,020,021と同じなので、エンド標記を基準にした方向はそろっているのですが、中央扉が開く方向は左(姫路側)と逆になっており、車体基準では逆を向いていると見なせます。
元サロハのサハ58050も変わった車で、エンド標記と中央扉の開く方向は58000,020,021と同じ標準的な車ですが、旧2等室(1300mm幅の窓のある方向)は下り側です。同じ元サロハ46,66形であるクハ47151,153,155と比べると、これらの車は奇数向きで、旧2等室が前位なので、これらの車と比べると車体基準ではサハ58000は前後がひっくり返っています。また、サハ48034は旧2等室が前位なのはクハ47151,153,155と同じなのですが、全体の構造としては方転しており、流電と編成を組むとクモハ52004と同じ方向が前位になっています。このため、サハ58050の方向は「車体基準ではサハ48034と同じ偶数向き」であるが、「エンド標記を前後でひっくり返して書き直しており、エンド標記基準では奇数向き」となります。

岡山ローカルの戦前型は最末期は客用扉を半自動化しており、窓に半自動扉のステッカーが貼っているのが確認できます。ただ、全車には及ばなかった可能性があり、昭和50年代初頭の時点で半自動扉の車と全自動扉の扉が混じっていました。
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