放浪日記

刮目せよ、我等が愚行を。

信じてる?

2007年11月30日 | 東京編集格闘道
「あなたは悪魔を信じますか?」
なんていきなり聞かれたら、もう完全に新興宗教の勧誘かと思ってしまうよね。
誰だってそうだ。



[ダラス 29日 ロイター] 
米オンライン調査会社が29日に発表した統計によると、米国では「ダーウィンの進化論」よりも「悪魔の存在」を信じる人の数が多いことが明らかになった。
同調査はハリスポールが11月7─13日の期間で、米国の成人2455人を対象に実施。
全体の82%が神の存在を信じていることが分かったほか、奇跡を信じている人が79%、天国を信じる人が75%、地獄や悪魔を信じる人は62%となった。
一方、ダーウィンの進化論を信じていると答えたのは全体の42%にとどまった。進化論を信じるかどうかは信仰する宗教による差が顕著で、キリスト教の宗派別では、カトリックで43%、プロテスタントで30%、キリスト教再生派で16%が進化論を信じると回答した。





なんか、すごくね?
さすがアメーリカですな。わははは。
科学よりも悪魔を信じちゃう。そりゃ、学校で進化論とか教えるな、みたいな裁判もするわ。
きゃつらは、どうしても神の存在を信じたいみたいです。でもアラーやシヴァじゃ嫌なんだよね。あくまでも「俺たちの神様」じゃないと。
世界最狂の宗教国家は、間違いなくアメリカでしょ。



そんな国が世界を動かしている現実。





もう、本当に、神様いてくれればいいのに。
で、もし本当にいて、みんなの前に現われたら、お願いしよう。
地球上でいちばん他の国に迷惑をかけている国を消してくださいって。


またも背景変更

2007年11月29日 | 東京編集格闘道
こんにちは。
Googleで「放浪日記」って検索すると、いちばん最初に出てくる「放浪日記」のにいやです。
いや、なんか、嬉しいね、正直。
ブログ始めたころは、検索しても出てこなかったりしたのにね。
これもひとえにこのブログを観ていただいているみなさまのおかげでございます。



ということで、ある事に気付いてしまったので、背景を変えることにしました。



それは、



Googleで検索したとき、



僕の「放浪日記」のすぐ下に、


というかまるで僕のブログのように、もうひとつの「放浪日記」が出てくるのですが、


そのブログもgooブログで、なおかつ、背景も一緒だったので…。











別にどっちかが真似したとか言ってる訳じゃなく、たぶんもうひとつの「放浪日記」さんも気付いていないだろうし、偶然なんでしょうけど。

でも、タイトルも背景も同じって知ってしまったら、むしょうに変えたくなりました。
暫定的に、これにしてます。またいいのを見つけたら、すぐに変えます。


暇だから、予想する

2007年11月28日 | 東京編集格闘道
今年を表す漢字一文字って、毎年年末に発表しているけど、

今年は、「偽」だと思う。


食品の偽装事件とか多いし。防衛省関連とか社会保険庁とか、ね。



ネットで検索してみたら「愛」とか「命」とか、なんかポジティヴな文字が続いてますが、今年はネガティヴに傾く気がします。

って、思いついたから書いてみただけ。当たるかな?

OUR DAILY BREAD

2007年11月27日 | 電影
英題が「OUR DAILY BREAD」という、映画「いのちの食べかた」を鑑賞。

渋谷の単館系映画館で上映されていたが、土曜日に行くと、とんでもないくらいの人が映画館の外に群がっていた。ロビーはもうロビーとして機能しておらず、ちょっとありえない満員電車並みの混雑さ。
たまたま鑑賞後と鑑賞前の人が入り混じっちゃっているのかな?と楽観的観測のもと受付に行ってみると、この日のこの回はなんとかという映画にも少し関連しているようなイラストレーターの方の講演があるようだった。だから混んでいるのかと、チケットを買おうと思ったら、なんと最前列になりますと言われる。映画もその前で見ないといけない?と聞くと、はい、とのお答え。

インドで毎日のように映画を見続けていた経験則から物申すと、映画館ではなるべく後ろの席の方が上席だと思う。インドでは、スクリーンに近い前の席と出入り口に近い後ろの席とでは、値段が倍くらいも違う。劇場の規模が日本とは比べ物にならないほど大きいため、スクリーンもまたそれまた大きく、安さにつられて前の方に座ってしまうと、鑑賞後にはムチウチにでもなってしまったのではないかと思うくらいのとんでもない負担が首にかかってしまうほど見上げ続けなければいけないのだ。(ちなみに一度体験してすっかり懲りてしまったため、以降は後部席のさらに倍の金額を払って、セレブな気持ちで2階席に行くことにしている)
だから映画は、なるべく後ろで見るほうがいいのだ。だいたい首を動かさずに、視界のなかにスクリーンの端から端、上下左右がちょうどすっぽりとおさまるくらいがちょうどいいと思う。日本の映画館では、だいたい後ろから2~3席目がこの位置にあたる。

そんな感じで、せっかく安くもないお金を払って作品を鑑賞するわけなので、一番前はないだろうとあきれ果て、じゃあまた明日来ます、といって出てきてしまった。


で、翌日、日曜日。再挑戦。
今度は時間に余裕をもって、上映一時間ほど前に行ってみると、ロビーには人が数人しかいなかった。やっぱり昨日は講演があったから混んでいたんだなと、受付に行ってチケットを買ったら、整理番号を渡されて、この順番で入場していただきます、と言われた。
その番号、55番…。
ちなみに、この映画館って何席あるの?と聞いたら、108席ですと言う。上映一時間前なのに、なんでこないに混んどるんや! とキレぎみテンションで館内を物色していたら、この映画がいろんなメディアに紹介されたという切り抜き記事が貼ってあった。新聞や週刊誌が並ぶそのなかに、スマステ稲垣&香取が選んだ今週の映画ナンバー1!という記事が。
どうやら僕の知らないところで、そうとうに宣伝されていたわけですね、この映画。
だから人も多いのね、と、ちょっと納得。


そして上映。
全108席の館内にはおそらく150人ほどの人間が。
席はもちろん満席。あぶれた人は、床や階段に座布団が置かれており、そこでの鑑賞、もしくは立ち見となる。
そこまでして観たいか、映画って?








長い前置きになりましたが、以下から映画評。








オーストリアの監督が撮ったこの作品。
全編を通して、ナレーションも音楽も入っていない。流れてくるのは、その「いのち」を「食べ物」に加工していく現場の音のみ。

僕たちが日々口にしている食べ物は、いったいどうやって生産されているのか?
それだけを淡々と映し出した映画だった。

どうやって生産されているか、なんて幼稚園児への質問みたいだけど、そんなもの誰でもわかるに決まっている。牛肉は文字通り牛の肉で、牧場などで育った牛が場に運ばれて解体されてお肉になるわけだし、卵は一般的に鶏の卵で、養鶏場で産まれた卵が台所まで割れずに無事に運ばれてくるわけだし、野菜は世界のいろんなところの畑でつくられて、しおれないように冷蔵なり冷凍なり農薬なりを用いて運ばれてくるのだし、魚介類は漁師さんが海で獲ったり養殖場で育てられたりしていたものがもともとなわけだし。
ね、そうなんでしょ。
そんな答えをする人であれば、ぜひこの映画を観るべきだ。

今、僕たちが口にしている食べ物のほとんどは、食用を目的として生産・飼育された生物を加工しているというその現実を、はたして僕たちはどれほど理解しているのだろう。

たとえばこの映画では、野菜の大規模な収穫を映し出している。永遠に続くんじゃないかと思われるほど広大な農場いっぱいに育てられているキャベツ。はたしてどのように刈り取っているのか?
眼がくらむほどの黄色を太陽に向って咲かせているヒマワリ畑の上に飛来する小型セスナ機。はたしてセスナはなんのために飛んできたのか?
川をさかのぼってくる大量のサーモンらしき魚。これを捕獲するのに使われる道具とは?
養鶏場で飼育されるブロイラー。地面が見えないほどに埋め尽くされた鶏舎のなかを大きなバケツを持って歩く係員。このバケツは空だ。なにに使う?

生き物が、機械の流れにのって、次々と加工されていく。
僕はこの映画を観ながら、ある言葉を思い出していた。

「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計でしかない」 スターリン



この映画は現実であると同時に喜劇でもある。
物がどんどんと加工されていく過程は、まさに機械化のもっともたるところで、完全に無駄がない。(人間のために)生命を奪うということを追求した結果の効率である。観ていて美しい。それはミリタリー関連のものに通じる美しさがあった。
かつて僕はベトナムで、実際にベトナム戦争に使われた銃火器がズラリ陳列されているのを見て、その美しさに感動した。人を殺すためというただひとつの目的に向って、いかに軽く、いかに殺傷能力を上げ、いかに持ち運びやすく、いかに撃ちやすいかを徹底的に追求した結果の産物だったからだ。
(人殺しが素晴らしいなんて一言も言ってない。ただひとつの目的のために、追求された物というのが素晴らしいのだ)
ひとつの生命が奪われていく瞬間は、やはりそれが食べ物となって人間のためになるとわかっていても、見ているのは心苦しいものだ。
ところが、それが百の単位、千の単位ともなってくると、生命が生命ではなくなっていく。ただ目の前で展開されているのは、生命を奪い食品へと変えるという「行為」に見えてくるから、あら不思議。そこに可哀想なんて感情は生まれず、いや、感情そのものが停止して、現状を記録している映像を見ているという行為になる。

一匹数秒で解体される魚。脳天に一発くらって動かなくなる牛。のどから血を流しながら運ばれていく吊るされた鶏。体液を穴という穴から吹き出す牛。ボールのようにベルトコンベアで流されていくヒヨコたち。

それらは生命であるが、次第に生命には見えてこなくなってくる。それを確認できるだけでも、僕はその映画を観る価値があると思う。




実際の現場から隔離されて僕たちは生きている。
だからこの映画を見せられたとき、僕たちはショックを受ける。ああ、そうだったのか、と。
衝撃を受けるということは、いい意味でも悪い意味でも感動することだと思う。

「なにか」から隔離されたこの社会で生きる僕たちは、日々感動を求めている。
旅に出るという行為だってそうだ。感動を求めに行くわけだろう。
インドとかネパールとかに行くと、なんかそんな連中がウヨウヨいる。バラナシのガンジス川沿いには火葬場があって、毎日昼夜分かたず人を燃やし続けている。そんな光景を見に、観光客は出かける。眼前で次第に炭になってゆく元肉体を眺めながら、人は、感動し、生命と死の関係を考える。
でも、それって、隔離された僕たちだから、でしょ。
東京大空襲で、広島長崎の原爆で、戦地の爆弾で、日本のB29から降ってくる焼夷弾で、黒こげ死体を嫌というほど見てきた今の爺さん婆さん連中が、インドくんだりまで出かけて火葬を見て感動すると思うか? 否。そんなのもう見たくねえよって言うに違いない。
黒焦げの死体を見て、川に流されて水分でブヨンブヨンになったドザエモンを見て、なんらか思うのは、僕たちだけなんだって。


ネパールでは神に捧げるために、ククリと呼ばれる大きな刀で牛と山羊の首を刎ねる儀式を見る機会に恵まれた。一刀両断とはまさにこのこと。女性の胴まわりほどある首が一瞬で落ちる瞬間。血なんてすぐに吹き出やしない。断面が空気にふれ、一瞬の間のあと、吹き出すんだ。鼻につながれたロープを押さえられ、死を目前にしても、牛は牛のまま、けれど、死がやってくる本当の瞬間、牛は気付く。そして鳴き、暴れる。それは神秘的という言葉でしか分かりえない瞬間。山羊の場合も、同じだった。
動物ってそんなもんなのかとうっすら思ったあのときから、時は流れ、映画館のスクリーンを通して、牛が死ぬ瞬間に再び出会った。そして、今回も、牛は死を本当の目前にして、なにかに気付き、叫び、死んでいった。
エジプトの有名な観光地の路地裏では、家族の祝い事だからと、家の前で牛がさばかれた。頚動脈をかっ切ったあと、浴びれるほど吹き出してくる鮮血は、そのまま側溝に流されていた。湯気を出しながら。ナイフを牛に入れた男は、その血を両手につけると、家の入口に手形をつけた。こうすると幸福になれるんだよと笑いながら。傍らで眺めていた子どもたちも、それを真似して、牛の血で両手を真赤に染め、ぺたぺたと路地裏の壁に手形をつけて遊んでいた。食べるのかどうかわからないが、腹のなかから現れた腸にナイフを差し込むと、ムリムリッと糞があふれでてきたが、草ばかり食ってるその牛野郎のウンコちゃんは、血の臭いの影に入ってしまい、臭くもなんともなかった。
お前どこから来たんだ?日本です。日本ってどこだ?なんて会話をしながら鶏をつるりとさばいてくれたイエメンのオッサン。うちの肉は新鮮だよ、という証明として、さばいた牛の頭をレストランの軒先に吊るしていたのも、イエメンだった。
タイの屋台では、蒸した鶏が吊り下げられていて、注文が入るとそこから必要なだけを切り取り、切り刻んでご飯の上にのせてくれる、そんなカオマンガイと呼ばれる料理は。僕の大好物だ。
香港の屋台では、鶏や豚などの材料がそのまま展示されていて、客はこの豚のここらへんを何斤なんて言いながら注文する。実際に品物を見ないと、新鮮かどうか。おいしそうかどうかわからないだろ、と下町の兄ちゃんはカタコトの英語で教えてくれた。


食べ物が、自分たちのまわりにある。
それは、ある国では当たり前のことで、ある国ではありえないことだ。


あなたが世界のいろんな地域を旅して、いろいろな現場を見てきたのであれば、この映画を観たときの衝撃は大したことがないのかもしれない。
でも、機械化された、工業化された現場を見る機会として、ぜひ見ていただきたい。

この映画に答えは、ない。
観た人がそれぞれ考えれば、それでいい。淡々と過ぎ行く光景に眠くなる人もいるかもしれない。
ただ、その現場は、びっくりするほどシステマチックで、美しかった。

ネット依存症?

2007年11月25日 | 東京編集格闘道
初めてインターネットなるものを試したのは、いつのことだっただろう?
みんなはその瞬間、世界とつながった瞬間のこと、覚えてる?
僕はあんまり覚えていない。
たしか大学の構内だったと思う。就職活動はインターネットでもできるんですよ、ってなんか就職課のオッサンかオバハンかが説明していて、言われるがままに触っていたのだろう。

で、中国を旅していたときなんか、まだネットなんて誰もやってなくて、パソコンもほとんどの人が持っていなかった。
初めてHotmailをいじったのは、インドのとき。これは明確に覚えている。
インドのカルカッタ(何度も書いているが、コルカタという呼び方は慣れない)のサダルストリートと呼ばれる安宿街の一角にあるマリアという安宿の一階にあったパソコンで。
同部屋の日本人の旅行者から、Hotmailっていうの知ってる?と言われて、なんとなく便利そうだからつくってしまって、アドレスなんてそれ以来ずっと同じものを使っている。その当時、ネットやフリーメールを使っている旅行者なんてほとんどいなかったのだけれど、いつのまにか誰しもが使いこなしていて、いまではネットも使えない旅行者なんて的な風潮があったりなかったり。
まさか、これほどまでに普及するとは思わなかった。


なんて回想にふけってみたりしたのは、いきなりネットがつながらなくなってしまったから。
アダルトサイトでも観ていて、変なウイルスにひっかかったのであれば、恥ずかしくて書けないんだけれど、youtubeでおもしろ画像とか、アダルト動画を見ていたほうがまだマシなくらいな人な映像を見ていたりしたからだろうか。

自宅でニュースをチェックしたり、ブログを書いたり、ちょっとわからないことを調べてみたりと、いつのまにかネットは僕の生活になくてはならないもののひとつになってしまっているという事実に、ネットに接続できなくなって気づいた。このあいだだって、コタツの掛け布団をネットで注文したところだし。本だってネットで注文することもあるし。
なんか完全に中毒者みたいなことを書いているけれど、別にそこまでハマっているわけでもないが、でも、ないと確実に不便なのだ。

文明はどんどんと、環境もなにもかもを踏みつぶしながら、加速度を増して進んでいっているこの現代。
ネットって、なんかそういう現代を象徴するような存在っぽいし、それがある瞬間からなくなってしまうということは、世界から切り離されてしまったような喪失感にも似たところがあると思う。
東京沙漠の真ん中で、誰とも会わない三連休なんて過ごしているから、そういう寂寥感を味わってしまうのかもしれないし、実際にそうなんだと思う。

幸いにも、ネットはすぐに復旧して、こうやってまたブログにもアクセスできているのではあるけれど、なんかその一瞬の空白、世界から切り離された浮遊感が、快適ではお世辞にもなくて、少し不安があったっていうことは、僕もネット中毒者なのではないかと思ったのだ。


硫黄島からの手紙

2007年11月24日 | 電影
ひさしぶりに映画でも観ようかと思い立った、三連休の初日。

中国で買ってきたDVDのなかの一枚、「硫黄島からの手紙」に決定。


クリント・イーストウッドが監督だったり、すっかりアメリカに活動拠点を移したケンワタナベが主演だったりする映画なわけだが、戦争ものだし、とりあえず見てみようじゃないかと、期待値は低いまま、鑑賞。



硫黄島の戦いについて、ちょっとWikipediaで調べてみると、『1945年2月~3月にかけて行なわれたこの島の攻防(硫黄島の戦い)で、日本軍2万129人、米軍2万8686人の戦死傷者を出す大激戦が繰り広げられた。』とあった。

映画の中での出てくるのだが、圧倒的火力を目の前にして、十人殺すまで死ぬな、とか、精神力で勝つ!みたいな状態に陥ってしまっている日本軍。その恐怖はどれほどのものだったであろう。
日本軍はほぼ壊滅、にしても人数以上の米兵を殺しているのだから、散っていった兵士たちの気合いたるやすさまじいものであったに違いない。

雨のように降ってきたであろう銃弾、自分の真横で倒れていく仲間たち、水すらもない極限状態、死ぬとわかっていながらの戦いのなかで、自分がとるべき道は「相手に向かって引き金をひく」ということでいいのかという煩悶。

その当時の状況にくらべたら、こんな37℃程度のぬるま湯につかりきった現代社会に生きる僕たちに、わかることなんて絶対にできやしないとは思う。
でも、確実にわかることはできなくても、わかろうとする方向に自分の姿勢を向け、考えていくという行動をとらなくてはいけないのだろう。

この映画が戦争というものを考えるひとつのきっかけになったということにおいて(これは僕だけでなく、普段戦争というものに目を背きがちな人に対しても)、この映画の存在意義はあると思う。
ただ、惜しむらくは、この映画は「ドラマ」であって、「リアル」ではないということ。監督がアメリカ人だから日本人のことなんてわからねーよなんてことを言う気はないが、理解しづらい部分はあったに違いないし、そこを勉強した上で撮影した監督は賞賛すべき点が多い。

やはり、「硫黄島」については日本人が撮るべきだという声がネット上などで多くみられた。
僕もそうは思うのだが、満点とはいかないまでもこの作品が「硫黄島」についての戦争映画のレベルを上げたことに異論はないだろう。次に、日本人監督で「硫黄島」を観たい。でも、中途半端な作品はつくれないよね。満を持して、つくってもらいたい題材のひとつだと思った。


褒められて伸びる子

2007年11月23日 | 東京編集格闘道
連休初日に入りましたが、まだなんかもったいなくて寝てません。
そんな深夜3時。
明日仕事がないってだけで、こうも夜更かしできてしまう幸せ。
こういうのが、ミクロな旅で味わえない幸せなんだろうかとふと思う。


昨夜になってしまうが、仕事をしていたら、先輩社員から急に飲みにいかないかと誘われた。
酒は好きなので、基本飲みに関しては、誘われれば行くというストロングスタイルを通しているので、もちろん参加。

みんなお金がないのか、むらさきでいいやと妥協し、ガッツリ飲み食いしてしまう。

先輩方も酔ってくるといろんなことを言い始め、なんか会社の愚痴からはじまり、いろんな方向へ話が飛んでいきつつも、とりあえず、僕のこの2週間の仕事っぷりみたいなところへ話が落ち着く。
自分を目の前にしながら、自分の話で場が盛り上がっている不思議な感覚。

で、簡単にまとめると、案外好評価でビックリ。
実際働くまでどういう人間がくるのかわからなかったが、その働きっぷりから(←当然僕のことだ!)、ほかの部署からも、にいやが欲しかったと言われているという。ほんまかいな。そういうこと言われると調子のりまっせ。
でも、褒められるのは照れ臭いけれど、やはり嫌ではない。
うまいようにのせられているのかもしれないけれど、まぁうまくだまされておこう。

これからは、マジ忙しくなる。
でも、正直言うと、じつは今日の午前中は、突発的に部署3人中、僕を除く2人が休んでしまい、ひとりで3人分の仕事をこなしていたのだが、案外それくらいが僕にはちょうどいいかとも思えてしまったこと。ええ、言いすぎでしょうがね。
でも、褒められた日のブログくらい、ちょっと偉そうに書いてもいいんじゃない?


連休直前!

2007年11月21日 | 東京編集格闘道
ずっとずっと数年間休み続けだったので、まだ働くということに体がついていっていないことが、今朝わかりました。
なんか、ものすっごく寒いでしょ、東京の最近の朝って。
いまだ暖房などがない我が部屋は、ふつうの東京よりも寒いです。
で、当然のように、ぬくぬくの布団から出たくないわけ。
まったく。
二度寝、三度寝、当り前の世界。
あやうく遅刻になりそうな感じで、ギリギリチキンタイムレースを自分自身と戦っているわけです、毎朝。

連休まであと二日!と、そんな布団の中で思ってしまったら、急に会社に行きたくなくなりました、ちょっとだけ。

で、そんな考えはよくないって思って、思いきって飛び起きて、会社にいきましたが。おかげさまで、二番乗りでした。



いままでそんな鬱っぽいこと考えたことなかったけれど、なんかいきなりやってきた。
精神的にきちゃうときって、こんな感じなのだろうか?




いや、そういうことを考えているから、また鬱に一歩近づいてしまうわけで。

とりあえず、金曜から連休ですね。
働いているから改めてわかる、休みの日のありがたさ。

みなさんの予定はなんですか。

僕の予定は、とりあえず役所にいって、引っ越しなどで生じたいろんなめんどくさいことを解決してこなければいけません。
で、あとは映画だな。
渋谷イメージフォーラムでやっている「いのちの食べかた」って映画。見てこよう。

風邪ひくなよ!

2007年11月20日 | 東京編集格闘道
寒いですな、日本。

旅に出ている間は、ずっとTシャツ短パンでいられるところを狙って動いていたので、寒いところなんてほとんど行きませんでした。

で、2年ぶり近い寒波が僕を襲う。

風邪ひきそう。
インフルエンザも流行っているみたいで。

気ぃつけましょ、みなさん。



本当はブログの記事を書くつもりでしたが、体調回復のため、今日はお休みします。
また明日以降。

ロボットに会う

2007年11月14日 | 東京編集格闘道

上野の国立科学博物館で行なわれている「大ロボット博」に行ってきた。

雨の休日、東京の空。
昨日の洗濯物がまだ乾いていない。
なんだかやる気のおきない、週末だ。

数日前に旅に出る前にいた会社の同僚が仕事で上京してくると連絡があった。
数年ぶりの再会。
僕も東京観光をほとんどしたことがないため、一緒にどこかに行こうかと考えていたら、メールが入り「大ロボット博」に行こうと言われた。



上野の国立科学博物館で行われているらしい。
ロボット…。
インターネットで調べてみると、HONDAのASIMOなどの最新ロボットから、江戸時代のからくり人形まで、いろんなロボットが展示されているらしい。

友人の知り合いがそのイベントの関係者ということもあり、関係者入口から場ができるそうだ。

ロハですか?と尋ねると、イエスとのお答え。

行きます、行きます。
そんなん大好き。ロハ、大好き。


というわけで、上野で待ち合わせ。小雨降るなか、国立科学博物館へ。

すると、信じられないほどの人がすでに会場の外まで列をつくっていた。
え?そんなに人気なの、このイベント?とちょっと意外。理系離れと言われて久しいこの日本だが、ロボット人気は関係なく高そうだ。
いやぁ大盛況ですねぇなんてスタッフの方に言うと、この調子だと午後からはおそらくもっと混むかもしれないです、なんてお返事。
ガンダムやマジンガーZなどのロボアニメ系の展示もあるので、秋葉原にいるような方が多いのかと思いきや、これまた意外にも、家族連れ圧倒的多し。雨の週末、家族サービスは子どもの教育も考えての博物館なのか? それとも父親が楽しむために付き合わされているのか?


いままでロボットについてなんてあまり考えたことがない。
一般家庭で犬型ロボットが飼えますなんて報道もとくに興味がなかった。いままであまり公にしてこなかったが、正直言うと、ガンダム世代ど真ん中なのに、ガンダムをまったく見たことがない。マジンガーZとかかろうじて知ってるくらい。サンバルカンなどの戦隊ものだって、最後のロボットが戦うシーンは退屈していた。
ロボットなんて僕の生活には無縁だと思っていた。


が!


入場していきなり目の前に広がるアニメの世界のロボットたち。
ガンダムのモビルスーツのプラモデルが百体近く、さらに上記のようなロボットがショーケースのなかに並んでいた。

なんという迫力。70年代80年代の少年心を思いきり揺さぶられる感じがした。
ロボットという現実ではありえない存在が、模型という範疇を出てはいないものの、圧倒的迫力で目の前に勢ぞろいしている。
ガンダムの横には、マクロスだ、ザブングルだ、ゴールドライタンだの、80年代ロボットのフィギュアが陳列してあった。
あ、これ知ってる!とつい声を大きく、友人に言うものの、友人は豪州人。知ってるわけもなく、ふーんと一蹴。


ロボット音痴の僕でもテンションが高くなりながら通路を進む。
次に出てきたのは、本物の動くロボットたち。
SONYなどの有名企業がつくっているロボットたち。なんかいくつかは愛知万博でも見かけたような気がする。
楽器を弾けるとか、走れる、掃除しますなどなど。へぇロボットって、もうこんなにも実用化に向けて動き始めているのね、とかなり感心。

掃除用ロボットの並びに、なぜかマジンガーの姿も。

ロケットパンチをかっこよく飛ばしているが、かっこいいものの、やはり違和感。マジンガーはパイロットが飛行機に乗って、頭の部分にマジンガーを操るのです。ロボットの頭脳は、やはり人間であるべきだ、と、永井豪大先生のコメントがついていたが、やはり違和感。
まだマンガの世界で万能なロボットを見せられるよりも、リアル社会で活躍する不完全なロボットのほうがわくわくしてしまう。



こんなんとか。


HONDAのASIMO。
これを見るのに、1時間待ち。


さらに進むと、江戸時代から明治時代にかけて作られた(もしくは復元した)日本のからくり人形が展示されていた。
プラスチックもコンピュータもなかった当時、ぜんまいなど機動だけで動き人々を楽しませた人形たち。有名なお茶運び人形などは、江戸時代初期からもう完成していたという。なんかすごい。そりゃ、当時からくり人形を目にすることができたのは、一部の人だけだろうけど、その時代にこれだけのものが完成していたってのがすごいことじゃないか。















と、なんか予想外の感動をしてしまったロボット展なのだが、ふと思い出してみると、なんか自分が過剰なまでに感動してしまっていたのではと思った。
純粋にロボットを見ていることは楽しかったのだが、なんなんだ、この感じは。

たとえば、からくり人形。
いまから400年も前に完成していたのは、そりゃすごいことに違いないのだが、はたして本当に「すごいこと」なのか?
ちなみに、1600年ごろというと、ヨーロッパではレオナルドダビンチもとっくに死んでしまっている頃で、イギリスが東インド会社を立ち上げていたり、オランダが独立宣言、シェークスピアのハムレットの初演、明と後の清となる女真族が戦っていたりと、まあそんな感じ。日本じゃ、天下分け目の関が原だ。
どうなんだろう。なんか微妙なラインではあるが、ヨーロッパのほうでもからくり人形くらいのなにかは発明されていてもおかしくはない気がする。中国とかはもっとなんかありそう。その1000年くらい前に、諸葛孔明とかがひょっとしたらなんか発明していてもおかしくはない匂いがぷんぷんするし。
あくまでも、これは、僕の歴史に関する理解の浅さゆえに、「400年イコール大昔」→「昔に発明されたものの精巧さに驚いている自分」ということに、感動しているだけなのではないだろうか。


そして、現代のロボットについても。
楽器を弾けるとか、走れるとか、それって、まぁそりゃすごいことだろうけど、なんか余り前っちゃあ当たり前の動きができたにすぎない。
顔の表情のロボットがあったが、やはり本物の生命にたどりつくまではまだまだはるか遠い道のりという気がした。観客の大勢が、わっ気持ち悪いなんて反応してたし。
老人介護などで使われているという、アザラシのふわふわぬいぐるみをかぶったロボットは、ひげのセンサーをさわったり、なでたりすると、甘えたような声を出し、叩くと哀しそうな声を出す。たしかにかわいいロボットではあるのだが、それって、反応がかわいいのではなくて、あくまでも外見のぬいぐるみについての反応だ。それが動くからかわいいと思うだけだ。だったら、生き物でいいじゃないの? え?世話が大変? それすらも厭うようになる人間って、どうよ?
今実用化されているロボットというのは、やはりまだまだ不完全なところも多く、その機能のみで考えると、やはりイマイチといわざるを得ない。開発者の方は、寝る間も惜しんで作っておられるのであろうが。でも、こういう過程があって、完成形への一歩となるのだから、仕方ないといえば仕方ないのは理解しているのだが。
つまり、これは前述のからくり人形と同じように、ロボットはまだまだ未開発のもので、なんにもできるわけがないという頭の中の前提があって、そのフィルターを通して見てしまっているものだから、走ったり、物を取ったりするだけで興奮してしまうのだ。そんなん、犬だってできるわ。
僕は、ロボットにそんなに期待しているほうではないのだが、やはり目標はドラえもんだとかアトムとか言っているのであれば、それは人間をつくるという行為に近いわけであるし、であるならば、今のロボットはまだまだ生後数か月の赤ちゃんにすぎないということをしっかりと頭の中にたたきこみ、ロボット開発から数十年でようやくここまでしかこれていないのであれば、ちゃんとした人間のようなロボットが生まれるのは、ぜったい僕の生きている間はないだろうなと思った。


それよりも、僕は、装備するだけで数十キロの物も持ち上げられるアーマードスーツのような開発のほうがより実用的であると思った。介護の現場でも、そういうロボットを使えば働いている人の負担を軽減できると思うし。
同じ介護の現場でロボットの力で人間の負担を軽減するのであれば、そういった肉体的負担にするべきで、アザラシのぬいぐるみを置いておけばボケジジイ&ババアの相手はしなくてもいいなんて考えは、間違った方向に進んでいると思う。

ロボットはあくまでも人間のサポートに徹すべきであり、ロボットがいるから人間がいらないなんて発想、これ、ヤバいぜ。

ひとつずつ

2007年11月13日 | 東京編集格闘道
編集者として、うれしいことなのか、危惧すべきことなのか、わからないが、

毎日、ひとつずつ、














担当する仕事が増えていっている…。







出勤9日目で、すでに5つほどの仕事を同時にこなしている。
大きな仕事はふたつ。
3月の山場に向けて、坂道を登って行っている感じ。






これってどうよ。
本人も驚きの即戦力っぷり。
過労死だけが心配。

こういうネタ大好き

2007年11月11日 | 東京編集格闘道
デイリースポーツの記事より



漫才コンビ・青空球児(66)&好児(64)が、北京五輪出場を目指す野球日本代表のリリーフコンビで、同じ呼び名で話題の阪神・藤川球児投手&巨人・上原浩治投手に激励の言葉を送った。

この日、横浜市内での公演で青空球児は「新聞で見て気にかけていました。2人は同じ名前ということで特に頑張ってもらいたい。応援していますよ」とエール。大の巨人ファンの青空好児も「字は違いますが、上原投手には頑張って欲しいですね」と同名選手の活躍に期待を寄せた。

12日から代表組の宮崎キャンプがスタートするが、青空球児は「時間があえば2人で表敬訪問をしたい」と、直接の対面を熱望。さらに「『ゲロゲーロ』をやって緊張感を少し解きほぐせればいい」と、チームの命運を握る2人のために、持ちネタを披露するプランを掲げた。






ゲロゲーロ。

緊張感をほぐす効果バツグンでしょうな。

あぁ、球児好児師匠の生ゲロゲーロ聞きたい!

こんなもんだっけ?

2007年11月10日 | 東京編集格闘道
再就職してから初めての、月曜から金曜まできちんと働いた週が終わった。

やはり働いていると一週間なんてあっという間だ。
朝起きて、満員に近い状態の電車に揺られて会社に行って、なんやかんやでバタバタして、気がつくとお昼で、昼飯は弁当屋にいって今日はどれにしようかななんて思いながら選んで、自分のデスクで食べて、午後からもガッツリ雑用をこなし、気がつくと終業時間。なるべく早く帰ろうとは思いながらも、やはり残業になってしまって、きりのいいところで帰宅電車に乗る。帰宅して晩飯をつめこみながらテレビなんて見たり、こうやってパソコンをいじったり。
これが平日は毎日続く。
いままでの経験からすると、おそらく今後もこれが続くだろう。

自分からなにか動かねば、まったく「変わらない」日々が過ぎていく。

こんなもんだっけ?
いまのところは、こういう日々が楽しいけれど、そろそろ次の生活パターンも考えるべきかと、気の早い感じで思っている。

背景の変更

2007年11月07日 | 東京編集格闘道
またしても、背景を変更。
旅行中はほとんど、アンコールワットの夕焼けの絵かアフリカのサファリのシルエットだった。
数回短期間のあいだ変えたこともあってけれど、ま、だいたいこのふたつ。

帰国して落ち着いていたのは、墨絵で龍が描かれているもの。
ドラゴンズも日本一になったことだし、龍も空に帰そうかと、今宵の帰宅電車のなかでふと思うた。

で、今回は夕方の帰宅電車風景。
遠くに富士山が見える。
なんか、東京って感じがしたので。

ただそれだけ。
気に入らなかったらすぐに変えますが。



gooブログは比較的背景を選べるほうだと思うのだが、チベットの風景とかヒマラヤとかインドとか、そういうのないのかなぁ。

生かされている?

2007年11月06日 | 東京編集格闘道
仕事の話。

入社直後の僕には、あまり仕事がまわってこない。
まわりには銃弾が飛び交う主戦場なのだけれど、今のところ新人という中立地帯に放り込まれている感じなので、免れている状態なのだ。

だが、あまりにも暇そうにしている僕を見かねて、一日数件仕事が降ってくる。
今日は、とある本の手書き原稿をデータにするように打ち込むというもの。




ひたすらパソコンに向かい、キーボードを叩く一日だった。
で、原稿を打ち込むという作業は、当然その内容を読みながらでなければできないわけで。

その中身の話。

とある年配の作家さん数人が書いた随筆風の文章が多かったのだが、そのテーマが「命」だった。
命。
日々幾万の命が消滅し、それ以上が誕生する現在の地球を書いた人。
自ら命を絶つ者、生きたくても生きられない命、戦争で失われる命。
そんな内容のものが多かったのだが、そのなかで僕が気になったのは、執筆しているのが年配の方というのもあるのか、「生かされている」という言葉が多く出てきたことだ。

ひたすら今までの人生で幾多の困難を乗り切ってきて、自分の人生を振り返り、生きてきたのではなくて、生かされてきたのだと気付いた。日々のなかの小さな出来事、それはたとえば木々の生命力を感じたり、風を気持ちいいと思ったり、夕日の光線に安心感が内包されていると気付いたとき、などに、残り少ない人生をせいいっぱい生きていこう、生かされている自分、今日までの命にありがとう、そんな感じの内容が多かった。


べつにそれ自体を否定するわけではない。
あいだみつをみたいなこと書いちゃうけど、
いいんじゃない、しあわせならば。


日本の社会に復帰して、満員に近い電車に揺られて会社に通ってみて、やはりこの日本、いや東京の生活はちょっと病的だと思う。
そんななかを必死に突っ走ってきて、ある程度のところまで来てしまって、ふと振り返る自分の半生。
いろんなことがあったけれど、とりあえず生きているし。
時間ができてゆっくりと周りが見渡せる。そんなときにあらためて気付いた、自分の身の回りにあふれる生命の輝き。アスファルトに塗り固められた地面を歩き、コンクリートの日陰で休息をとるそんな生活の中でも、空は青いし、川に水は流れ、鳥はさえずり、虫は羽ばたいて飛んでいる。
なんか急にガツンと脳みそをブッ叩かれたような衝撃。
ああ、生命。
わたしは、今、こうして生きているんだ。地球という生命体の一員なんだ、って。






今の僕は、そんな言葉を口にすることはないと思う。生かされているのではなく、生きている、と書きたい。
日々の小さな幸せは、今までに十分に感じてきた。

旅に出ていると、やはり基本ヒマなので、そういう哲学というか宗教チックなことを考える時間がたくさんある。そこにインドなんて行っちゃうと、サイババとかヨガとかメディテーションだとかが旅人の集まるところにはあふれていて、街には日本ではなかなかお目にかかれない死がいたるところに散らばっている。チベットなんかでは、目に見えない力に五体投地をして祈り続ける人間を見たり、鳥が骸をついばんでたりなんかする。
そんなときにふと気付く瞬間、ああ、生かされている、って。
あまりにも巨大なエネルギーの前にたじろぐ、たった二十数年しか生きていないちっぽけな自分。とうていかなわないということを本能的に悟ったとき、人は、巨大ななにかを感じる。それが神という人もいるかもしれないし、地球という人、生命力を感じる人もいるだろう。そのまえに精神的にひざまずくことは、容易なことだ。楽に違いない。
今までがんばって生きてきた年配の人はそれでもいいでしょ。
でも、なんか、僕はいやだった。今日仕事で文章を読んでいて、なにか嫌悪感を感じた。僕は、生きている。生かされているのかもしれないけれど、まだ、生きているという感覚を楽しみたい。
そう思った。
単純に。
ただそれだけのことだ。



生かされている、なんて、とっくに知ってたじゃないか。
今は、生きている、と言い続けたい。