
今月は、原発反対運動の先駆的存在だった高木仁三郎の全集から数冊に目をとおした。 原子力資料室を1975年に創設し、市民科学者を地で行った高木は惜しくも2000年に60歳あまりで亡くなっている。しかし、その間、全集で10巻を越える著作を残し、反原発運動の先頭に立って活動し、原発の危険性と廃止を訴え続けて世界からも認められた人だ。1970年代に書かれた「プルトニウムの恐怖」や癌に侵され死期が近づいた1999年に書かれた「市民科学者として生きる」は、いずれも現在まで岩波新書で版を重ねている。 (残念ながら私は高木氏のことを3.11が起こるまでろくに知らなかった。)
高木は、群馬のマエタカ(前橋高校)から東大理科Iに入った秀才だが、彼の学生時代はアインシュタインや湯川秀樹も存命で物理学が理科学生だけでなく、大衆の間でも感心の高かった時代だ。高木は、プルトニウムという物質を発見したグレン・シーボーグの著作を読み、その歴史に新たなページを書き加えることを若くして夢見る。 1942年にアメリカのシーボーグなどが発見したプルトニウムは、ウランより重い超ウラン元素(元素記号94)であり、崩壊過程で莫大なエネルギーを放出する。そのエネルギーを利用して原爆を作るマンハッタン計画が遂行され、広島、長崎への原爆投下、その後の核軍備競争への道が開かれてしまったわけだが、プルトニウムは1マイクロミリグラムでさえ致死量の放射能を出す猛毒物質でもあった。しかし広島、長崎の悲惨を経験しても、冷戦時代に突入した世界は、核爆弾の軍備競争と原発による核エネルギーの平和利用へと突き進み、その毒性、人体や環境への影響への検証は後回しにされた。 1962年に高木仁三郎が東大理科を卒業して日本原子力産業に入社したのは、そんな日本の商業原発が闇雲にスタートしたばかりの頃だった。
高木は、実験炉の放射能の影響を調べる仕事を受け持ち、バケツで炉の冷却水を汲んで放射線量を測るといった荒っぽい調査をやったりしながら、次第に上層部が自分の研究に冷淡なことに気づく。放射能が人間に良くないことを発見するような研究は有難がられないことがわかり、数年で研究所を後にする。その後、東京理科大学で助教授の職を得るが、まもなくそれも投げ出してドイツのハイデルベルグの大学に留学する。そこで原発反対運動にも触れた高木は、日本に帰り翻訳や科学誌への執筆で食いつなぎながら、1975年に原子力研究室(後にNPO認定)を立ち上げる。この間、農民に混じって三里塚の闘争にも参加している。
その後は、一貫して反原発に徹した活動を行い、核燃料サイクル政策の批判や原発立地反対運動に関わり、1997年にはもうひとつのノーベル賞といわれる「ライト ライブリフッド賞」を受賞し、その業績は世界にも認められた。1999年、東海村での放射能漏れ事故が大きな波紋呼んだころ、高木に残された余命はわずかだった。 高木は死の床でも力を振り絞って書き続けた。 「友へ、高木仁三郎からの最後のメッセージ」という短い文章を読み返すとき、彼の希望と怖れが2011年3月に同時に現実のものになったといわざるをえない。
「皆さんのおかげで、体制内の標準的な一科学者として終わっても不思議のない人間が、ともかくも、「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
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残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でも、それはもう時間の問題でしょう。 すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。 なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。 JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力を持って、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。….」
高木の怖れは、東日本大震災と福島第一原発の事故により現実のものになってしまった。 世界は高木が10年前に予見したよりもはるかに高い代償を払わずに、原発最後の日を見ることはできなかった。 しかし、今このときこそ、高木の遺志を継ぐ人々が何千、何万と日本で世界で声を上げつつあるはずである。 「透徹した知力と、活発な行動力」を持って原発の時代を終止させ、新しいエネルギー観とライフスタイルの創造に向かわなければならない。それを「希望」として天国から精一杯応援している高木仁三郎の姿が目に浮かぶようだ。