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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

腰痛

2008-04-27 12:29:39 | Weblog
腰を痛めてしまい、昨日はとうとうマッサージに行った。

それまで湿布薬でしのいで多少ましになってはいたが、どうにも完治には程遠い様子なのでそろそろマッサージでぐいぐいやってもらうことにしたわけである。

筋肉を傷めて部位が炎症を起こしている場合、マッサージは逆効果になる。その時は冷湿布して安静にしているのがいちばんだが、3、4日もすると炎症は引くから今度は温湿布かマッサージが有効になり、冷湿布は逆効果になるという話だ。

私はマッサージ好きでよく行くが、普段はいろんな疲労からくるこりなので今回とは違い、調子が悪くなるとすぐ行くことにしている。

マッサージを嫌う人もいるが、私なんかあれほど気持ちのいいものはない、と至福の時として過ごしているので、小遣いの3分の1ぐらいはマッサージ代で消える。

と、まぁ話がどんどん本ブログとは関係のない方面に進んでしまうので、マッサージ話はこの辺にしておいて、なぜ炎症型の腰痛になったかだ。

実は4月になって10日から香港経由で大陸は四川省の成都に行ってきた。成都には1週間滞在して香港に帰り、今回は一人旅のため黃埔のクリスティーヌのところにお世話になった。

何しろ今香港のホテル業界は強気である。ホテル代はがんがん上がり、もちろん地価も上がっているから不動産価格も以前アジア金融バブルがはじける前の水準に戻り、それを超えているらしい。当時高値で買って暴落後ショックを受けていたクリスティーヌもホッとしているようだ。

そんな訳だから、ただで泊めてもらえるのは実にありがたく、6泊させてもらったからざっとみても6万は浮いた勘定になる。もちろん、雑居ビルの中にあるゲストハウスなどならもっと安いがそれでも1泊5000円近くにはなるのではないか。しかも窓がなかったり、隣の声がまる聞こえということなどもあったり、安全面でいかがなものか、という問題もある。もちろんだからこそ面白い、ともいえるからここらあたりは人それぞれの好みの問題ではあるのだが。

ただ、中国人の友人と付き合うには、相手に頼るということも必要だ。泊めてあげると言われて、いや結構ですホテルに泊まります、なんてやると、逆に友達甲斐がない、と思われてしまう。

その代わり彼らが日本に来れば、貯金を下ろしてでも歓待しなければならない。彼らは横のつながりを大切にするから、こうやって相互扶助の関係でそれを確認し、維持しているようだ。

「転がる香港に苔は生えない」で著者の星野さんが、友達同士の助け合いで物を安く買えたりするけれど、そのお返しもしなければならないから、トータルで見ると別に安く買えたわけではないのではないか、という趣旨のことを書いていたが、私もまったくその通りだと思う。要は友達の輪の発展及び維持にあり、ただおごってもらうばかりでお返しをしない、つまり義理を欠くとその輪からはじき出されてしまうことになる。

また話がそれたが、その問題の腰痛というのが、帰国前日に荷物を詰め込んだキャリーバッグを持ち上げたのが発生原因だ。飛行機の機内で持ち上げて上の棚に入れる練習をしたら、胸のあたりまで持ち上げたところで、重すぎてグギっと腰が悲鳴をあげた。多分30キロはあったのだろうと思う。

この前の年末に香港へ行った際買った本もまだ半分くらいしか読み終えていなかったから、今回はあまり買うつもりはなかったのだが、本屋さんめぐりをしているとついつい目についたものを買ってしまい、結局20冊以上も仕入れてしまった。

本も1冊1冊は大した重さではないが、束になると紙は重いものである。しょうがないから、日本から持参した赤白青袋(今では大陸でもあまり見かけない。極めてダサいものになってしまった。空港でもあの袋を持っている人はひとりもいなかった)に半分以上移し、衣類で包んで寄艙(げいちょん)にしてもらった。

まぁそんな訳での腰痛である。つくづく自分の年を考えねばいかんと思い知らされた次第だ。










密入国(4)

2008-03-02 14:55:47 | Weblog
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私の母の密入国は紆余曲折を経ていた。母は深圳の辺防証(注1)を親戚から借りて、2回監視所を通ろうとして、2回とも監視兵に止められた。母が私の兄を深圳の病院に診てもらいに連れて行くという口実を使うと、必ず深圳を通って家に帰るよう命令された。

ある時携帯食を食べつくしたため、深圳の旅館でご飯を買おうとしたが、旅館の従業員は一目見て田舎の農民だとわかると、すぐに母子二人を追い払い、人民元と食糧配給切符があっても、どうしても売ってくれなかった。幸いなことに、中にいた香港から故郷へ帰省中のひとりの老人が見かねて、二人にご飯とお茶をふるまってくれた。それでようやく腹をすかせたまま歩いて家に帰らずにすんだのである。

三回目はお祖母さんが母と兄を連れて、恐怖におののきながら逃げ出した。その晩母は亡くなったお祖父さんがお別れを言いに来た夢を見たが、小さな声でひそひそしゃべるので何を言っているのかわからなかった。お祖母さんは心の中で、ご先祖のご加護があるのだから密入国はきっと成功すると思った。

明け方彼女たちが坂道を急いでいると新しい監視所ができていた。湖南省から来た軍人は監視が厳しく、その上広東省の監視兵より凶暴で、銃で射撃してくるのだ。

途方にくれていると、突然自転車に乗って密入国しようとしていた一組の若い夫婦が山道の端っこから自転車を突き落とし、狂ったように走り始めた。兵士たちは自転車を捨てた人間がいるのを発見した。それを餌に兵士をおびき出し監視所から離れさせる作戦だということはわかってはいたが、しかし自転車は当時極めて手に入りにくいものだったから、兵士たちはすぐに山を飛ぶように走り降りていった。自転車の方が大事だったのである。

監視所には見張りが誰もいなくなり、みんなは大声を上げながら監視所を抜けて行った。

1994年4月、私は香港の新聞「信報」において、もし香港が真に2000年を記念する物を建造しようとするのなら、「自由記念碑」(Freedom Monument)を建て、傍には「自由博物館」を建設し、密入国の文化財と歴史の聞き取りを広く募るのがいいのではないか、と呼びかけたことがある。博物館の傍にはトーチを立て、聖火を永遠に燃やし、密入国で命を失った数多くの魂を追悼するのだ。

記念碑ができたなら、歴史を重視する第一代中国大統領が恭しく献花し、民族の百年来の度重なる苦境の中で自由を追い求めた中国人たちを記念することを期待したい。

文章を発表した後、多くの長年の読者たちから励ましの手紙をいただいたが、これが長期にわたって実現不可能だろうということは誰にもわかっていることだ。中国大陸で文化大革命の記念碑や記念館を建てることができないのと同じように、自由記念碑が存在しないことの方が、より一層国と民族の運命を記念することができるのである。


注1:辺防証
深圳は経済特区のため、域内に入るには許可が必要とされる。




密入国(3)

2008-02-29 20:24:37 | Weblog
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お祖母さんの願い(原題:阿婆的精神遺產)


さらにもうひとつ、平湖の遠縁の親戚にあたる謝さんの話がある。謝さんは幼いころ両親と死に別れ、お祖母さんがこじきをしながら育て上げた。身体は黒くてかさかさだった。お祖母さんは死に際に、いつも隠し持っていた干からびたおにぎりを謝さんに渡し、必ず密入国して香港へ渡っておくれと言い残した。謝さんは筵でお祖母さんを包んで葬り、お祖母さんからのおにぎりを携帯食にして、山を越え嶺をつたって香港へやってきたが、山の上にいると解放軍が来るのが見えたので、すぐさま棺桶を改葬した時放置されたままの穴の中に跳び込んで隠れた。

謝さんのお祖母さんの願いから、文盲のこじき女ですら自由の貴さを知っていたことがわかる。中国人は生まれながらに下賎だから独裁政治が好きなのだなどと誰が言えるだろうか。

謝さんは香港へ来てから、左官の仕事をやった。初めての給料でアコーディオンを買い、到る所で人を探しては弾き方を習ったので、仕事仲間みんなに馬鹿な奴だと思われた。数年後、謝さんは私の家に来て「モスクワ郊外の夕べ」を弾いて聞かせてくれたのだが、その後どうなったかはわからない。後で噂に聞いたところでは、謝さんは水夫になり、アメリカについた時、船を跳び降り陸に上がっていなくなったそうである。ひょっとしたら香港にはまだ自由が足りないと思っていたのかも知れない。



密入国(2)

2008-02-26 18:43:51 | Weblog
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身を寄せる親戚のないものは、発さんが徳堅お爺さんの所へ連れて行った。お爺さんは上水の善人の塊のような人で、多くの家作を持っていて、例え同郷人が逮捕されても、裏金を使ってとりなし、彼らの身柄の保証人になって釈放させ、それから仕事を紹介して身を落着かさせてやったのだった。お爺さんと親戚関係にないものたちでも、みんなが尊敬の念をこめて徳堅お爺さんと呼んでいた。 

お爺さんは詩経と礼経を代代伝える家柄で、知識人を非常に尊敬しており、私の父は「反右派闘争」(注1)の迫害に耐え切れずに香港へ密入国して、すぐにお爺さんを頼ってかくまってもらった。今でも憶えているが、お爺さんはよそ者が親戚を騙るのを防ぐため、父に毛筆で郷里のお堂の対聯(注2)を書いてみてくれと言った。父は真四角な柳字体でお堂の対聯を書いたのだが、お爺さんはそれを見るなり、涙ぐんで召使に父のためにお茶を差し上げるようにと命じたのだった。

私は香港で生れ、三歳の頃お爺さんはすでに八十前だったが、故郷から出てきた後輩に対する教えは厳しく、「長幼内外を問わず、家法にのっとり道理正しく言葉遣いを厳しく戒める」という《朱子家訓》を身を以って行っていたのである。

ある時、同郷の者が食事に遅れてきたのだが、お爺さんは客家のことわざを引用して容赦なくその人を叱って言った。「墟散抽魚籃,捋食在今尾」つまり、怠けて寝坊してしまえば、市場は終わってしまい、その日の午後は乞食をしなくてはならなくなる」ということである。

あの当時発さんと徳堅お爺さんは法を破るという危険を犯してまで、正義を行った。だが今日私たちの社会では、法を破りさえしなければ、悪いことはし放題だという人間があまたいる。両者を較べれば、香港人気質の堕落を見ることができるのである。


注1:反右派闘争
1957年から58年前半に毛沢東が「百花斉放、百家争鳴」を提唱し、共産党に対しての批判を許したが、それが増大すると一転して方針を弾圧に転換し、批判者は反党分子として、公職を奪われ、農村へ送られた。この後「労働改造」というシステムが作られるようになった。またここから毛沢東の個人崇拝が強化され、「大躍進」という悲劇的な状況が生まれることになる。

注2:對聯
対になっているめでたい句で、門や壁面、神棚などに左右に分けて貼る。

密入国(1)

2008-02-23 22:58:55 | Weblog
この翻訳は著者及び出版社の許諾を得ておりませんので、講義等あり次第削除される可能性があります。

書名:「舊時風光」より『偷渡』
著者:陳雲
出版社:花千樹出版有限公司



『密入国』


「香港魂」の話になると、香港政府は市民が懸命に働いて豊かになったとか、生活が改善されたとかいうこと以外は、魂の本当の源については述べようとしない。香港魂は農村の古い習俗にあるのではなく、「漁村から商業港に変わった」というお上の神話にもなく、さらには成金の「最初の千両箱の物語」にあるのでもなく、密入国してきた50万の先輩達の自主独立の精神の中にこそあるのである。故郷に別れを告げ、山を越え、海を渡り、自由を追求した、これこそが多くの人々の香港魂なのだ。


≪大逃亡≫


密入国は中国共産党の大躍進(注1)時期の誤った政治を突き動かした。中国共産党はすでに誤りを修正して安定を取り戻してはいるが、しかし依然として古いことはあまり取り上げたがらない。香港返還後、政府はおろか民間にまで様々な名状しがたいタブーがあり、あの当時多くの人々が密入国して来た事を取り上げることは極めてまれである。

私は生れが遅いため、密入国の話はただ子どもの頃聞かされたいくつかを知っているに過ぎない。密入国者が自由に向かって身を投げ出すことは無論敬うべきだが、しかし、自由へ身を投じる見知らぬ人間を助ける人はそれ以上に尊敬すべきである。

まず、第一に書くに値する人は国境地域の蓮麻坑村の農民の発さんである。50年代末、大躍進が失敗したため、広東は飢餓に陥り、大量の難民が密入国して香港へ押し寄せてきた。父の世代からの口伝えによると、国家主席の劉少奇が国境警備を極力緩めて、飢えた人々を香港へ逃げて生き延びられるようにしてやったのであり、これを「大逃亡」と呼んだ。

1980年10月26日以前は、香港政府は「ホームイン政策」(注2)をとっており、密入国者が国境を越えて新界の市街区に辿り着きさえすれば、強制送還することはなかった。発さんは「スネークヘッド」も兼ねていて、密入国者をわらぶき小屋にかくまってやり、夜になると彼らを連れ山道をたどり上水に出て、それから彼らの親戚を訪ね、少しばかりの謝礼をもらっていた。謝礼の額にはこだわらなかったし、難民が働いて金を稼いだ後に払うこともよしとしていたのである。難民の婦女子に対しては、尚のこと発さんは指一本触れることはなかった。

多くの同郷人たちを発さんが連れ出してきたが、長らくたって、彼らが一家を成し事業に成功すると、子供達を連れて発さんに会うため上水へやって来て、酒やタバコを贈り、自分の子供達に改めて挨拶をさせるのだった。

発さんは身分の高い人間ではなかったし、ドイツのシンドラー氏がユダヤ人を救ったほどの能力はなかった。彼は読み書きもできない一介の農民にすぎず、自分のでき得る範囲で、難民をひとりまたひとりと市街区へ連れ出してやり、自らの生計の傍ら、あるべき道徳心を身を以って表したのである。




注1:「大躍進」
1958年から60年にかけて毛沢東の号令で行われた急進的な社会主義化運動で、人民公社の設立や、農業工業における実現不能な生産向上を進めたため、自然災害もあいまって多量の餓死者が出るような事態を招いた。後年劉少奇が文化大革命で紅衛兵の迫害を受け、瀕死の状態で放置され死んだのはこのあたりでの毛沢東との路線の違いに端を発しているとされる。

注2:「ホームイン政策」
原文では「抵壘政策」となっている。「抵」とは「着く、到達する」という意味で、香港の空港ではarrivalが抵港と書いてあることからわかるだろう。「壘」は本来「砦」とか「城壁」の意味だが、野球の「ベース」の意味もある。したがって、ベースにたどりついたということだが、野球の「ホームイン」にした方がわかりやすいと考えた。これについては法律的に英語の訳があるはずだが、調べてもわからなかった。