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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

都江堰の大地震

2008-05-13 12:48:40 | Weblog
昨日ニュースで四川省の地震報道の第一報が入った時、死者の数はまだ3人程度しか報告されていなかった。

その段階では事態の深刻さはまだ知らされていなかったし、ニュース画面で見る限り、成都市内の建物には被害はなく、せいぜい頭から血を流している人がパトカーに乗せてもらっているぐらいだったから、私は老姑婆に、「危ないとこやった。もうちょっとで俺も怪我してたかもしれん」と笑っていたぐらいだ。

私は4月の11日から17日まで成都に滞在していた。だから成都を離れてからまだ一ヶ月たっていない。大自然の時間的観念というか、地震の起きる時間的周期では数十年ぐらいは我々の数日程度の感覚でしかないという話を聞いたことがある。

だから、地震予測で、ここ10年くらいのうちに、と言われると、それは明日起こっても不思議はないという風に考えなければならないらしい。となると、私の場合も人間の時間からすると、瞬きよりもっと短い時間で、つまり間一髪逃れたということになる。

これは運がよかったのか、それとも悪かったのか。もし成都で地震に出くわせば、その経験談を得意気に話せたのに惜しいことをしたな、などと不謹慎な話をしたものである。

ところが、被害状況が段々明らかになるとその深刻さは冗談ごとではなくなった。特に都江堰では中学校の校舎が倒壊して900人の生徒が生き埋めになったという。

都江堰は成都から約40キロのところにあり、地図で見ると震源地の汶川と成都のほぼ直線状の真中に当たる位置にある。だからその地震の衝撃は成都どころではないだろう。

私は4月の14日に都江堰に行った。一人旅だから間違って路線バスに乗ってしまい、えらく難儀をして都江堰に辿りついたのだが、それはそれでいい経験だった。

ホテルでもらったパンフレットによると都江堰は世界遺産に登録された風光明媚な場所だということだった。二千年も前に、度重なる洪水を防ぐため河の水利工事を行い、それが今に至るも残され使われていることが有名で、その堰一帯が観光地となっている。

そこへ行ったことは成都旅行の一環としてまたブログに書こうと考えていたのだが、その前にこんな大災害が起きてしまった。

都江堰で私が最も印象深かったのは、都江堰そのものではなく、観光地の外となる、都江堰市のど真ん中をまるでダムからの放水のようにごうごうと流れる河の水流の勢いだった。

街の真中をこんな洪水のような河が流れていいのか。もし雨が続いたら一体どうなるんだろう、と思ったものである。もちろん、そのために堰が作られたわけだから、水量が増えれば調整するのだろうが。

また、市内には河が幾筋も流れているが、どれも水が満々と流れ、しかもある河はほとんど最上部まで苔がついていた。ということはしょっちゅうそのあたりは水が溢れ出ているということだろう。堰や土手が壊れて増水し、街が水に浸かるといったことはなかったのだろうか、と心配になったが、ニュース画面ではただ建物の倒壊しか映されていなかったからわからない。

成都市内のビルなどは新しいものも多いが、中国では田舎へ行けば行くほど、貧困の度合いが増し、家も古く改修されないままのものも多い。そういった家は阪神大震災の時のように、ひとたまりもなく崩れ落ちてしまうのではないか。

都江堰の観光区(中国語なら旅遊区となるが)の入場料は90元というバカ高いものだったが、来たからには入らないわけには行かない。私は元を取るべく、中の森なども歩き回り、十分堪能してから外へ出た。

それからバスターミナルには歩いていってみようと、出口の案内所兼土産物屋で都江堰市の地図はないか、と売り子の中年のおばさんに聞いてみたら、素っ気なく、「没有」と一言だけ返された。どうにも愛想のないことおびただしい。そんな中国人気質には慣れているとはいうものの、やはり気分のいいものではない。

だから、大陸で中国人から少し親切にされると、この上なくありがたく感じてしまう。普通の親切が倍に評価されるのだから、これってある面得だなぁと思う。

さて、タクシーに乗ってぼられるのも嫌だしどうしたものかと、ぶらぶら歩いていて、ふと左手の路地を見ると、突き当りに「市人民政府」と大きな看板がかかっていて、その路地を入ったすぐ右手に、古びた、日本語でいうならしもた屋風のしょぼいとしかいいようのない本屋があった。

子供向けの本が主体で、冊数も多くはなく、それどころか本が数冊しか並んでいないすかすかの書棚もある。観光案内所にないぐらいだから、もともと市内地図などないのだろうし、あったとしてもこんなしけた店には置いていないだろう、と全く期待を持たずに、新聞を読んでいた店番の老人に声をかけてみた。

「都江堰市の地図ありますか?」

老人は多分70歳半ばくらいだと思うが、きちんと整髪した白髪の頭を新聞から持ち上げ、ゆっくりと老眼鏡をはずして私を見て言った、「ありますよ」

老人の指さしたところ、老人のすぐ傍の書棚の横に広げた状態で都江堰市の地図が掛かっていた。

値段は3.5元だった。

私はついでにバスターミナルにはどう行けばいいのか、と老人に尋ねた。

老人はまた老眼鏡をかけなおし、地図を見てちょっと考えていた。都江堰市は田舎町である、地図などなくても街の中心地区のことはすべて頭に入っているだろうから、日頃地図など見ることはないのだろう。却って戸惑っているようだった。

私たちは二人して地図を覗き込み、現在位置をそこだのここだの言い合いして、地図を指で辿った。その結果老人は路地の外の幸福路をずっと下って、観景路との交差点で右折し、そして迎賓大道に当たって左折して少し行けば「市客運中心」がある、と教えてくれた。

その老人は若い頃例えば教師をやっていたような雰囲気をしていた。少なくとも肉体労働的な仕事をしていた人のようではなかった。ただ丁寧に教えてくれるその姿は先ほど書いたように、一般によくある店の無愛想さとの落差が大きく、私に何がしかの安堵を与えてくれた。

私は代金を払い、「ありがとう」と言って、背後に「慢走(気をつけて)」という老人の声を聞きながら外へ出た。

それから地図を見ながらバスターミナル、つまり「市客運中心」を目指したのだが、そこで私の悪い癖が出た。

地図を見ると幸福路を下るより、ずっと手前で建設路を右折すればすぐに太平街と交わる。この道を下れば後は目的地まで一本道だ。太平街は観景路と交わってから迎賓大道と名前が変るだけだ、ということを発見した。

こっちの方が早いじゃないか。私は老人の指示を採用せず、自分の判断に従うことにした。

ところがこれが裏目に出た、どう歩いても太平街が見当たらないのだ、うろうろ探し回り、結局地図上では太平街を通り過ぎて天乙街に入ってしまったが、そのまま歩くと最終的には相当遠回りになってしまう。おかげでまた市内をあちこち見ることもできたが、時間はどんどん遅くなってくる。成都に帰り着いても、バスターミナルでまた市内中心部行きのバスに乗り換えるという仕事も待っている。何事も初めてだから暗くなる前に成都に帰り着きたかった。

このままだとまたこの先で迷ってしまったらえらいことになる、と焦ってきた私は結局途中からまた幸福大道へ向けて歩き、ようやく老人の指示通りにバスターミナルに到着した。年寄りの言うことは聞くもんである。

私の旅は行き当たりばったりが信条だが、それだからこそ新たな発見もあり、結果的に面白いことにも出くわすことができる。しかし、おかげで徒労や危険と隣り合わせということもままあるのである。良い子のみなさんは真似しないでくださいね、ととりあえず言っておきたい。

成都への帰りは高速バスで40分ほどで着いた。往きの路線バスでは予定の倍以上の2時間半ほどもかかった。それはそれで面白かったのだが、その体験は1回でたくさんだった。

日は暮れていたが、まだ明るく私のホテルがある総府路を通る4路バスはすぐに見つかった。始発だから好きなところへ坐れる。発車して、窓の外を眺めながら、疲れたがなかなか収穫のあった一日だったと思った。

さて、大地震の話に戻る。

テレビでは全世界の悲惨な出来事を毎日放送していて、私たちはそれを夕食のテーブルでご飯を食べながら見ている。イラクの戦争、つい先日のミャンマーでの台風被害、そして今回は四川省の大地震だ。

だが、それらを見ながらご飯が喉を通らないという人はほとんどいないだろう。所詮それらは他人事なのである。そう感じることも人間としてのある種の防衛本能なのではないだろうか。

世界は悲惨に満ちていて、いちいちそれを真剣に気に病んでいては、それこそこちらの神経が参ってしまい生きていけなくなる。まず自分が生きることが先決なのだ。その次が家族であり、親戚友人であり、同じ国の人となっていく。

だから、四川省の大地震も私にとっては他人事であって、ニュースを見ても私の食欲には何ら影響はなかった。

だが、ただひとつあの都江堰の本屋の老人の安否だけは気に掛かる。古びた家だったから、激震で崩れ落ちるということは容易に想像できるのだが、老人は無事に逃げ出せただろうか。

あの老人は親戚でもなければ友人でもない。しかし、私が気に掛かるのは、通りすがりのひとりぼっちの旅行者として、あの日本から見れば世界の果てともいえる都江堰で、唯一私とコミュニケーションを取ってくれた人物があの老人であり、私が具体的に認識できるひとりの人間だからである。

老人の顔をしっかりと憶えているわけでもないし、出会ってもわからないだろう。それでも、テレビに映る幾多の人々は映像の風景のようなものに過ぎず現実感がない。だが、顔も憶えていない、自分の記憶の中にだけしかないあの老人はひとりの人間としての存在感を持ち続け、私に安否を懸念させるのである。














大陸は汚い?

2008-05-12 15:49:58 | Weblog
「いやあ、とにかく汚いんだ。もう、ほんとに汚い」

阿豪はほとんど泣き笑いの顔で言う。深圳にある阿豪の婚約者の家について聞いた時のことだ。

いったい何がそんなに汚いんだ、と私は突っ込んだ。

「彼女の家の中のことじゃないんだよ。家の中はきれいだけど、家の周りが無茶苦茶汚いんだよ」

彼女の親はもとから深圳の住人で土地を持っていたから、経済特区になったことで運が向いてきた。自分の土地に6階建てのマンションを建てて、自分たちもそこに住み、他の部屋を賃貸にして、その家賃収入で余裕を持って暮らせている。1階は食べ物屋の商店が3、4軒入っているのだという。

だが、婚約者のマンションも含め、その一帯の住人たちがごみを窓からぽんぽん外へ捨てるのだそうだ。表通りだけは市の清掃人が朝掃除してくれるのでとりあえずきれいになるが、裏手や横はやってはくれない。だからゴミだらけで汚いのだそうである。

「だからさ」

とそこだけは日本語で阿豪は言った。この言い方は直させねばならんなと常々考えているが、それはまぁ別の機会にすることにする。

自分の母親もまだ彼女の実家に連れて行ってないのだという。あれを見たら学校の教師をしていた母親がショックを受けて、結婚に反対しないとも限らないと、阿豪は心配していた。

「確かに、大陸の人は汚いの平気だよなぁ」

私は阿豪の言い分に深く頷き、成都での経験を話した。

数年前、ディズニーランドができ、大陸からの観光客が押し寄せてきた時、大陸からの旅行客が多い時は香港人はディズニーランドには行かない、と聞いたことがある。

大陸の人は平気で「打尖(だーちむ)」、つまり列の先頭に割り込むし、ごみをポイ捨てするし、いたるところで痰を吐くから、汚くて不愉快だというのである。

それを私は成都でも経験した。街を歩いているとしょっちゅう、「カアーッ、ペッ!」という痰を吐き飛ばす音が耳に飛び込んでくる。どこへ行ってもそうなのだが、どうしてあんなに痰がからむのだろう。

空気の汚染度から言えば、香港の方が悪いと私は感じた。1週間滞在した成都は始終どんよりと曇っていて、青空はたまに雲の隙間にぼんやり見えるぐらいだったし、交通量もかなり多いから、街はすっきりとした印象を与えてはくれなかったが、例えば時にネーザンロードで感じるような形容しがたい澱んだ重い空気の息苦しさはなかった。

それでも人々は盛んに痰吐きを連発するし、それはあんまり男女を問わないようだ。

成都からの帰り、中間の席の通路側に坐った私の左斜め前に妙齢のキャリアウーマン風のきれいな女性が坐り、離陸するやいなやノート型パソコンを取り出して何やら作業を始めた。

おお、なかなかかっこいいではないか。ファッションといい、ヘアスタイルといいどこに出しても恥ずかしくないレベルである。顔もこちらから見える範囲においては及第点に花丸をつけてあげたいくらいだった。

ところが、しばらくして、やおら身体をかがめると、前の座席の背もたれについているポケットから、あれは衛生袋とでもいえばいいのか、備え付けの防水の紙袋を取り出したかと思うと、「カーッ、ペッ」とやった。

こ、これはあかん。せめてティッシュでこっそりと処理して欲しかった。途端に私の彼女に対する好感度は急降下したのだった。

さらに驚くことがあった。雑貨店や食料品店の店先に座っている店番が自分の店の前に痰を吐くのを何度も目撃した。それどころか、店番をしているおじいさんとか母親とかが自分の子供や孫が飲み終えてくしゃくしゃになった飲料の紙箱をポンッと自分の店の前に投げ捨てるのである。

これが他人の店の前でそうするのならまだ理解できる。だが、自分の店先だ。私の感覚では、それじゃ汚くて客が逃げるだろう、と思ってしまう。だが、大陸の人は、店先が痰で汚れていようがゴミが散乱していようが無頓着なのだろうか。

う~ん、そうかもしれない。

私たちから見て、香港人も日本人ほどは清潔好きではないと思うが、その香港人が大陸の人の不潔さに辟易するという。実に文化の違いは何層にも分かれて複雑である。

「やっぱり、お母さんを連れて行くのは結婚式の後にした方がいいな」

と私は阿豪の考えを支持した。結婚式の日取りまで決めた今となっては、あらゆる障害は避けて通るのが賢明だ。

しかし、ここで成都の名誉のために弁解しておかねばならないが、普通に街を歩く限りにおいては、成都は決して不潔な街ではなかった。清掃も行き届いていると思うし、とりたててゴミが目につくということもなかった。

ただ、人々の衛生観念やマナーというそのあたりに文化の違いがあるということだろう。

また、窓からゴミを捨てるというのは深圳に限ったことでもない。上海駐在員の方のブログを見ていたら同様な嘆きが書かれていたから、これは大陸全般にわたる現象のようだ。

というか、中国人全般の伝統的な文化なのではないだろうか。今では香港で「カアーッ、ペッ」という音を耳にするのは極まれなことだが、尖沙咀から黃埔へ帰る小巴の中に備え付けてある宣伝や政府の啓発映像を流しているテレビを何気なく見ていると、「痰を吐いたり、ゴミを捨てたら罰金1500ドル」というのが映し出された。

香港人だって、まだまだ完全には手綱を緩めるわけにはいかないようである。

続結婚するんだとおー!

2008-05-05 23:12:20 | Weblog
阿豪の結婚相手とは深圳の女の子だということだ。何はともあれようやく相手が見つかってよかった。兄さんも姉さんもまだ結婚していないのだから、お母さんはさぞかしほっとしているだろう。

香港では男性の数が女性の数をかなり上回っており、結婚適齢期の女性にとっては売り手市場だという。なおかつ、ベリンダやクリスティーヌのように結婚より仕事を選ぶ女性も多く、女性側の条件もますます高くなる一方となる。

となると女性の態度もいやが上にも男性対して高飛車になろうというものだ。まして、英国植民地時代のレディファーストの伝統もあるから、男にとっては扱いにくくてしょうがない、ということになるだろう。

そこで、最近では大陸の人をお嫁さんにもらう香港人男性が増えているのだそうだ。私なんかから見ると、中国人女性は気が強すぎて恐いという先入観があるのだが、それでも香港人男性にしてみれば香港人女性よりは優しいと映るらしい。恐るべし香港女。

現にある友人の長兄もタクシー運転手をやっているが、深圳の女性と結婚して、深圳に家を借り、毎日深圳から香港へ出勤している。子供だって、深圳から香港へ毎日越境通学して来るのがいるそうだ。

しかし、阿豪が大陸の女の子と結婚するとは思わなかった。本人いわくでは、友人の紹介で知り合ったということだ。以前卓球の練習で毎週土曜日に深圳にコーチをしてもらいに行っていたから、その女の子が目的で行っていたのかと問い詰めたら、そうじゃないです、と慌てて首を振った。

外側の世界にいる私は、香港と大陸との融合は加速度的に進んではいるが、それでもまだまだ越えがたい垣根があるという色眼鏡で見ていた。つまり、香港人が大陸人を見下すという以前は現にあった見方なのだが、どうも昨今ではさほどの抵抗もなくなっているようなのである。

昔は深圳や東莞あるいは広州で香港ドルで支払いをすると喜ばれたものだが、今では逆転して、香港ドルでは受け取ってくれないのだという。香港ドルは米ドルとリンクしているから値打ちは下がる一方で、現在香港ドル1ドルに対して中国元は0.89ぐらいで1.1対1すら割り込んでいる状況だ。

だから、つい最近香港の銀行が中国元での預金口座開設を始め、中国元で貯金する人が増えてきたというニュースがあった。

私が今回香港の空港から東莞までバスで行った際、空港内のバス会社のカウンターで切符を買う時、運賃が180ドルなので香港ドルで200ドル渡すと、おつりを人民元の20元札でくれた。一瞬、ちょっとちょっと、と言おうとしてとっさにやめた。

考えてみればわずかではあるが、この方がお得なのだ。バス会社にしてみればレートの高い方を渡しサービスしているわけだから文句を言われる筋合いのものではない。それに、私はこれから大陸に行くわけだから、人民元の方が役に立つ。

跑馬地の入口にある新華書城で本を買った時も、本に書いてある人民元の定価で売ります、とわざわざ張り紙がしてあった。つまり香港ドルと人民元を1対1のレートで結構です、お安くしてますよ、というサービスなのである。もっとも、他の二楼書店など小規模店では2割引が普通だから、大したサービスでもないが、大陸出版の本は単価が安いからこれ以上の値引きはしんどいのかもしれない。

すべての要は経済力である。昔大陸の人間を低く見ていたのも向こうが貧しかったからだ。今では大陸からの買い物客がわんさか訪れ、しかもブランド品をばんばん買っていく。商売人にとっては大陸ご一行様大歓迎である。ディズニーランドだって、本当の目当ては大陸からの旅行者だろう。

もちろん、大陸人のマナーの悪さに眉をひそめることは今でもあるらしいが、中国なくして香港成り立たず、は動かしがたい事実であり、そうなれば人の見方も変わろうというものだ。まして、もともと同じ中国人なのである。

また、深圳の人なら現在はもう往来がほぼ自由なのである。だから阿豪も彼女もデートするのにさほどの支障はない。深圳や広州など大都会の大陸人なら、すでにファッションも香港人や日本人と区別がつかない人が多い。これは沿岸部だけではなく、私が行った成都も大都会であり、そこの女性たちも服装はもうかなり進んでいた。

まず香港と大陸の大都市との均一化が進み、それから大陸の人間に対する意識にも変化が生じ、次第に香港人意識が淡白になってゆく、そんな気がする。

それが何か、と聞かれれば、返す言葉に詰まる。余計なお世話だからである。そんなことは私たち外国人がとやかくいうことではないのだろう。ただ、もし香港のあの独特な雰囲気がなくなるのなら、ちょっと寂しい気がするとだけしか言えない。

阿豪の婚約者はいつでも自由に香港に来られるが、香港で働くことはできないと言う。だから、結婚しても子供ができるまでは別居生活をする予定なのだ。

「こっちじゃ昼間ひとりっきりだから退屈でしょ。赤ちゃんができたら、その世話とかやることがあるしさ」

ふーん、そんなので大丈夫か。土日だけしか会えないんじゃ良くないんじゃないのか新婚なのに、と私はおせっかいを焼いた。

「いつでも会えるよ。平日でも仕事が終わったら、すぐに深圳に行って、次の日は彼女が車で税関まで送ってくれるから、そこで通関して、バスに乗ったらそのバスが会社のすぐ前で停まるんでとても便利なんだよ」

阿豪はこともなげに言った。今でもそんなことはしょっちゅうで、必ずしも土日に向こうへ行くとは限らないのだと言う。

鉄道で行かない場合、香港側の税関は落馬州にあり、そこで通関して、またバスに乗り、ちょっと行くと今度は大陸側の皇崗の税関がある。鉄道とは違って少々手間がかかるが、香港人たちは身分証明書だけだから通関も早い。

へえー、そうなの。私は想像していた以上に深圳と香港との垣根が下がっていることを知った。例えていうならまるで大阪から京都か神戸へ行くような感じなのだろう。地理的にも意識の上においても。

時代に後れているのはこっちの方だな、と私は思ったが、その日本人の私たちですら、今では2週間以内ならビザなしで大陸に入ることができ、勝手気ままに旅行できるようになっているのである。香港と大陸が溶け合ってしまっても何の不思議もありゃしないのだ。

結婚するんだとおー!

2008-05-03 23:27:13 | Weblog
「いやぁ、ずっと言わなかったんだけど」

と阿豪は急にもじもじしながらへどもどと話し始めた。

場所はネーザンロードからキンバリーロードへ入り、それからまた左手の路地に入り階段を上ったところである。そこはバーやレストランなど鬼佬(外人)向けの店がたくさんあり、ほぼ満席の状態だった。屋外のテーブルがたくさんあって、開放的な雰囲気がなかなかよろしい。

こんなところにこんな場所があったのか、と私が言うと、友人が近くに住んでいるのでたまに来るんだ、と答えた。いわば九龍の蘭桂坊といったところだろう。しかし、席が見つからないので、その中のスターバックスに坐るという平凡なことになってしまった。もっとも、そこもようやく二人分の席が空いていただけだった。

で、最初の話だが、実は来年の2月に結婚する予定だという。おめでたい話である。

相手は27歳で阿豪は今年38になるから10歳も下ということになる。うまいことひっかけたものである。そんな要領のいい人間には見えないのだが。

ずっと付き合ってのだが、秘密にしていたらしい。とはいっても友人の紹介でグループ付き合いをしていたから、まったくの秘密というわけでもない。

そこで、私は、何で黙ってたんだ、友達甲斐がないやつだなぁ、とわざとしかめ面をして言った。

何しろ私は、一昨年も昨年も年2回、今年はもうこの4月と本来年一の私にしてはハイペースで香港へ来ていて、その都度顔を合わせていたのである。

「すみません、すみません」

とそこだけは日本語で阿豪は言った。はっきり決まってから言おうと考えていて言わなかった、ついては結婚式に出てもらえないだろうか、という。えらく申し訳なさそうな顔をして言うので、私も調子にのった。

う~む、と私は考える振りをした。実はこの3月に定年まで数年を残し早期退職をしたから、実にフリーダムなのである。別段考える必要も何もないのだが、一応勿体をつけてみる。秘密にしておきながら、結婚式に出てくれとは虫が良すぎはしないかい、と嫌味を言った。

「いや、ほんとうにごめんなさい」

阿豪は真に受けて、今度は広東語で冷や汗顔で何度もそう繰り返した。

阿豪は友人のスタンレーの甥で、スタンレーと知り合ってまもなく、スタンレーが当時日本語を勉強していた甥の阿豪を紹介してくれたから、もう20年以上のつき合いになる。ここで申し出を断るなどというのはこっちこそ友達甲斐のないやつとなり、信用が急降下してしまうだろう。

日本で大阪から東京へ行くのとは違い、飛行機賃も馬鹿にならない。結婚式に出るだけでの出費としては高くつくが、ここは踏ん張りどころである。前向きに検討しましょう、と私は言った。

ところで、日本語の方はどうなった、と聞くと、阿豪はにっこり笑って、「とても楽しいですね」と答えた。

長い間日本人を紹介してくれないかと頼まれながら果たせずにいて、この前のクリスマスにベトナムから帰国する小村さんが香港に寄った際、小村さんが莫さんという商売づきあいの人と会うから一緒に食事をしようと提案してきた。

ところがその日は阿豪との先約があり、バッティングとなった。困ったことになったが、そこは横のつながりを大切にする中国人である。かまわないから一緒に食事しましょう、と阿豪は別段気にする風もなく答えた。

「あなたのトモダチ、私のトモダチ」

まぁいわゆるひとつの横の関係を広げようとする中国人特有の論理である。こういうことに彼らは実に屈託がない。

さて、その晩は銅鑼湾でちょっとチープなタイ料理の店に行った。人数が増えたために阿豪が先に予約していた店の席が取れなくなったのだ。莫さんが竹園でおごってくれるつもりだったらしいよ、と後で老姑婆が損をしたといった口調で言ったが、中華料理もいい加減厭きたので、私は結構満足していた。

食事の後で場所を変えたホテルの喫茶店でコーヒーを飲みながら話をしていると、その莫さんが日本人のボランティアが日本語を教えているところがある、という話を持ち出した。阿豪にとっては願ってもないチャンスだ。

そこで、莫さんの紹介で阿豪はその日本語講座にまた久し振りに通うことになった。レベルは中級以上で、教師役の日本人はあんまり広東語を解さないらしく、授業のやり方も雑誌の記事を翻訳したりするような形態で面白そうだ。それはある程度日本語をやったことのある阿豪にとっても好都合だった。

何より、教師役の日本人は3人か4人いて、結構おしゃべりの時間も取れるらしく、普通の会話学校といった雰囲気ではないようだ。阿豪も満足していて、私に感謝していた。やれやれ長年気にかかっていたことがこれで何とか解消でき面子が立ったと、私はほっとした。

しかし、考えてみれば妙な話だ。実はずっと昔のことだが、この莫さんはデイビー連が紹介してくれて、いつか日本にも来たことがあり、その際私たちが小村さんに会わせ、また商品見本市などにも一緒に行った。

莫さん自身は日本に留学経験があり日本語はぺらぺらで、香港やマカオで会ったことを合わせると合計で3、4回は会っているのだが、すっかり私たちのことは忘れていた。こっちはよく憶えているのだが、皆目憶えていと言う。後でメールを送った際にも、20年以上前に1回だけ会っただけでは憶えられないのは仕方ないですとメールで弁解していたが、私もいや3、4回会ってますよとまでは書かなかった。

小村さんの論では、中国人は商売なんかで利益でつながってないとすぐに忘れちゃうからなぁ、ということになる。私も別に気を悪くしたわけではない。

莫さんはデービーやフランクと商売上のつながりがあって、私が紹介してからは小村さんとの間で商売のやりとりを続けていたようだ。その後カナダに移民して向こうの国籍をとり、そしてまた香港へ帰ってきた。中国人にしては珍しく、商売に関しては割と控えめな話し方をする。あんまりもうかりまへんわ、てな調子である。

マカオから香港へ移り、またカナダに移民し、さらに香港へ帰ってきた。その間には仕事も何度か変わり、カナダでもいろいろあっただろう。そんな、私たちから見れば波乱万丈な生活の中で、接触のない私たちのことが記憶の中からはじき出されても、それは極自然な話だ。

それにしてもである。最初のデービーから始まって、スタンレーやフランク、そして莫さんと小村さん、それに阿豪という友達の輪ができあがり、それがめぐりめぐって、ここでようやく阿豪と莫さんががっちんこしたことになる。

人の縁というものは不思議なものだな、とつくづく思った次第である。それも私が性懲りもなく香港と付き合い続けていることが核になっているのだけれど。

聖火リレー

2008-04-28 12:32:32 | Weblog
聖火リレーで大もめである。

あれは何日だったか、4月18日の金曜日だったような気もするが、私が跑馬地のとっかかりにある新華書城という本屋に行った時のことだ。日付についてはちょっと違うかもしれないが、とにかくその日は聖火リレーのリハーサルが行われ、尖沙咀から始まり、終点が湾仔のコンベンションセンターということで、その間の主要道路が時間封鎖されるということだった。

このためバスや小巴でも運休したり、路線変更したりするのがあるから外出時には気をつけるように、とクリスティーヌに言い渡されていた。

その新華書城の裏側禮頓道に101のバス停がある。このバスはいわゆるトンネルバスで香港島から海底トンネルを通って九龍サイドの観塘に行く。黃埔に帰るにはこれに乗り九龍城というバス停で下車すればいい。黃埔は九龍城の隣というか沖合いに埋め立てられて作られた住宅団地で、もともとあった九龍城は地元では「旧区(がうこい)」と呼ばれている。

新華書城に入る前にバス停で確認してみると午後4時から5時までバスの運行が中止されると書いてあった。

本屋で本を見ているとあっという間に時間がたつ。気がつくと3時半である。私が慌てて本屋を出てバス停に行くと、間髪を入れずに101が来た。

乗り込んで空いた席に座り、やれやれ間に合った、まだ日にちがあるからこの本屋はまた来ることにしようと思った。

しかし、それにしても聖火リレーのリハーサルのために道路を封鎖するとは大仰なものだ。それとも日本も含めて世界中どこもこんなことをしているのだろうか。それはちょっと考えにくい。

やっぱり、中国内地と同様に、聖火リレーで万にひとつも粗相があっちゃならんと特区政府高官が考えてのことだろう。香港は中国の一部なんだなぁ、と窓の外の相も変らない香港の風景を眺めながらつくづくそう思った。

オリンピックは平和の祭典だとか、純粋にスポーツのためのものだとかいうが、そんな考え方はかなりずれているのではないだろうか。国旗を揚げる以上、オリンピックは国家間のイベントであり、競争だ。そして国家が関係する以上政治と切り離せるわけがないではないか。

まして日本も含め多くの国が国威発揚のためにオリンピックを使ったのは紛れもない事実だ。その後の韓国もそうであり、今回中国が国威発揚のためオリンピックを使うことは誰もとやかくいえるものではない。

東京オリンピックの開催は私が中学一年の時だったからよく憶えているが、これでようやく世界に肩を並べることができたと国民全体が感じたはずだ。他人のことを嘲笑っている場合ではないのである。私たちもまた中国語で言うところの「過来人」なのだ。

しかし、国旗を揚げることをやめれば、途端に選手や観客のオリンピックに対するモチベーションは下がるだろう。政府の援助は打ち切られ、オリンピックの運営自体が立ち行かなくなるに違いない。

国家とは政治そのものだろう。その国家の支持なくしてオリンピックが存在し得ないとすると、オリンピックこそ極めて政治的なものと言わざるを得ない。

国旗が揚がるからこそ、観衆は熱狂し、そして選手も死に物狂いになる。オリンピックは民族主義や国家から切り離して存在し得ない。その民族主義や国家主義を支えているものは程度の差こそあれ私たち自身の中にある。

東京オリンピックだったか開会式で無数の鳩が放たれた。鳩は平和の象徴だといわれる鳥だからだ。だが、これは聞いた話だが、鳩の雄は雌を獲得するために血みどろの争いをするのだそうである。