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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

成都行き当たりばったり(2)

2008-07-14 22:25:30 | Weblog
私の隣の窓際に坐っていたのはがっしりした色黒で頭は五分刈りという、見たところ肉体労働者風で50代半ばぐらいの一見恐そうな顔つきの男である。

関空もそうだが香港の空港も遠い。空港を出て九龍半島とランタウ島を結ぶ青馬大橋を越えるだけでもう20分が過ぎてしまう。バスはそこから香港側の税関がある落馬州へ向かって走る。

私は何気なくバスの切符を取り出して眺めていた。すると、隣の男が北京語で声をかけてきた。

「あんたのはなんで180ドルなんだ?俺のは200ドルなんだが」

切符を差し出してきたのでよく見ると広州往きである。

「俺は東莞までだからね。広州の方が遠いんだから、それで高いんだろう」

ああ、そうなのか、と男は納得した。

で、今度はこっちが聞いた。

「あんたどこの人?」

「台湾の新竹だ。あんたは?」

「俺は日本人だよ」

「商売できたのか?」

「いや、旅行だ。退職したんでね。今はやることがないんだ。で、あんたは?」

「焦炭を掘ってる。焦炭は今でも日本で使ってるか?」

不覚にも私は焦炭を練炭と間違えた。

「いや、日本じゃ今はもう使ってないなぁ、俺が子供の頃は使ってたが」

新竹男は、ふんふんと頷いた。

「日本は進んでるからな。もう使わなくなったのかも知れんな」

ここまで話して、はたと思い出した。焦炭とは製鉄で使うコークスのことではないか。それなら日本の製鉄所でも使うだろう。とんだ間違いだ。しかし、今更訂正するのもかっこ悪いので、私は知らん振りを決め込んだ。それに、ひょっとしたら何か新しい技術が開発されてコークスは要らなくなったのかもしれない、とも考えた。とにかく素人にはよくわからない問題だから避けて通ることにした。

その新竹男は私より一才年下だったが、子供はもう大学を卒業して土木の設計技師をしているのだという。

こう書くといかにも会話がぺらぺらみたいに見えるだろうが、実のところ相手のなまりがひどくて、というか私のヒアリング力も悪いのだが、聞き取れるのは八割程度である。だが、八割わかれば大体の話には問題はない。これが通訳とか商談といった込み入った話になると100%正確でないと後々問題が起きるが、気楽な旅の空だから、うわの空でもかまわないのである。

だが、このなまりというやつには成都でも散々悩まされた。

「コークスを掘るったって、どこで掘ってるの?」

「広西だよ。もうベトナムの国境に近いとこなんだが、質のいいのが取れるんだ」

広西壮族自治区のはずれのベトナム国境近くといえば、田舎も田舎、土田舎である。そこには台湾人は自分ひとりしかいないと言う。ベトナムにもたまに出かけることがあるとも言った。

「治安の方はどうなの?」

と聞いたら、最近は随分ましになって、あまり問題はないと答えた。ということは逆に言えば昔は結構危なかったということになる。腕っ節は強そうだから、度胸もあるのだろう。地元の役人に金も使ってはいるだろうが、やはり現場では身体を張って仕事をしているのだろう。相手は大陸の中国人だからなめられたらおしまいである。

しかし、台湾人がそんなところまで出張っているとは、その商魂のたくましさには感心した。今日は広州についたら商売先との接待の場に出て、夜行バスで仕事場のある広西に行くのだという。タフなのである。とてもじゃないがまねできない。

「いやあ、疲れるよ」

新竹男はうんざりしたように顔をしかめた。まぁ、いくらタフとはいえ50も半ばを超えれば身体もそうそう無理がきかなくなるだろう。

そういえば、台湾の総統選挙があった。男は見たところ本省人だろうが、一体国民党と民進党のどっちを支持したのだろう。私がそう聞くと男はにやっと笑った。

「大陸で商売してる人間は馬英九に入れるさ。今日だって直行便があったら、広州まで直行できるんだ。何もこんな遠回りしなくてもな」

そりゃ、そうである。台湾の桃園空港から香港へ来てバスを乗り継いで広州へ行く、それは時間も体力も消耗するだろう。国民党の総統になり、台湾と大陸の関係はずいぶん近づくに違いない。台湾人自体それを望む声が多くなっている。昨今では大陸の大学へ留学する台湾人も増えているし、第一ビジネスの面からして台湾はすでに大陸抜きではやっていけなくなっている。

これはそれこそ香港の「いつか来た路」を思わせる。近い将来台湾と大陸が合体する日が来ても私は驚かない。その際には「一国二制度」ではなくて「一国三制度」とでもいうのだろうか。物事は動き始めるとあっという間に終点に向けて突っ走るものだ。

「あんたそんなに中国語がうまいのにコークス売ったらどうだ?」

ほら来た。中国人はすぐこれである。

「いや、俺は商売の才能はないからだめだよ」

「どうってこたあないよ。物があるんだから、その買い手を見つけるだけの話だ」

彼らのその前向きというか、楽観主義は、時には学ばねばならないと思うが、商売がそんなに簡単にいくものなら、失敗して泣きを見る人間はこの世にいやしないことになる。現に自分だってそんな辺鄙な田舎に単身赴任して、現地の人間相手に悪戦苦闘してるはずだ。もっとも、単身赴任のおかげで若い二号さんを囲ってうまいことやってる可能性は大だが。

「はっは、俺は商売人じゃないんでね」

大して金があるわけではないが、金のためにあくせくするのはもうこりごりである。残った人生で好きな本でも読んで旅行ができれば、もうそれで御の字だ。人間欲をかくとろくなことにならない。

「そうかぁ、もったいないよなぁ」

親竹男は、さも残念そうに言った。私がその気になれば、ひょっとしたら日本に直接輸出して大口の顧客を獲得できるかもしれないと、とっさに算盤をはじいたらしい。


成都行き当たりばったり(1)

2008-07-11 22:20:33 | Weblog
大阪の桜も終わり、4月も中旬になろうかという頃、私は成都に向けて出発した。長年勤めた退職のご褒美である。

関空を飛び立って飲み物をもらうのだが、私はウィスキーの水割りを頼んだ。酒は好きだが弱いので、ビールなら缶ビールが一缶、ウィスキーなら水割りが一杯でもう十分だ。経済的なことこの上ない。航空会社にとってもコストのかからないいいお客だろう。

もう電話も何もかかってこないし、まだ到着していないので、とりあえず何のトラブルも、拘束するものもない、まったくのモラトリアム状態である。酔いがじんわりと広がってくると、開放感が身体の隅々に染み渡っていく気がする。これが毎回香港へ行く時の私の至福の時間なのである。うーん、たまらんなぁ、とつくづく思う。

コースはまず香港へ行き、空港からすぐにバスで大陸に入り、東莞のベリンダのところで1泊し、翌日深圳から成都へ飛ぶ。そしてその後は出たとこ勝負ということにした。

最近の大陸は2年前にスタンレーの口利きで日帰りの深圳ツアーに参加してマッサージでぼったくられ気分を悪くしたぐらいで、他のところはどこも知らないに等しい。大陸の評判はあまり芳しいものではないからすぐに嫌になるかもしれないので、そうなったら速攻香港へ逃げ帰るつもりだった。

だから、とりあえず成都に3泊だけホテルの予約を入れていた。そしてもし気に入ったら、ついでに重慶まで足を伸ばしてもいいかな、と考えていた。

元来計画性のない性格なので、どこへ行って何をするか散々悩んだ挙句が、結局まぁ行って様子を見てから決めようか、となったわけなのだ。ったく何のためあれこれ悩んだのかよくわからないが、まぁ性分だから仕方がないのだ。

もちろん関空から成都へ飛ぶのが手っ取り早いのだが、ここはやはり香港ははずせないし、また香港から飛ぶよりも深圳からの方が飛行機代は格段に安いという話だった。このため香港人たちもわざわざ深圳まで行き、それから国内線のフライトを使う人が多いそうだ。

確かにランタウ島にある赤臘角空港はかなり遠いから、それならついでに深圳まで足を伸ばしても香港人にしてみれば感覚的にはさほどの変わりがなく感じられるのだろう。まして値段は半額ぐらいになるそうで、香港人がそうするのもよくわかる。

前年の夏、香港の空港から直で深圳に行った経験から、東莞へバスで行くのはもう様子がわかっていたつもりでいた。もっともその時は深圳までベリンダが会社の車で迎えに来てくれていたし、阿ジョーが一緒に行ってくれたので、私は金魚の糞常態でついて歩けばいいだけだったのだが。

さて、香港の空港へ着いたが、いつものように入国審査は長蛇の列だ。観光で稼ぐつもりなら、これってもう少し係員を増やせないものかといつも思う。で、一応香港の滞在地としてあるホテル名を入国カードに記入して手続をすました。

この後香港には泊まらずそのまま直で大陸へ行くわけだからこれは嘘の申告になるが、かといって大陸のホテルを書くのもいかがなものか、これがよくわからない。第一大陸の東莞ではベリンダの家に泊めてもらうのだが、住所なんか聞いてないから書きようがない。昨今ではメールと電話で連絡を取り合うから住所など無用なのである。

私が35年ぐらい前初めて香港へ来てまず税関でトラブったのが、この滞在先を記入していなかったことだった。係員としては空欄で出してもらっても困るのである。だから、とりあえず何でも書いておけばいいわけだ。まず穏便にことを進めるのが妥当である。

機内持ち込みのキャリーバッグだけだったから、荷物待ちもなく、検査も素通りで入境エリアを出るとほぼ正面にバス会社のカウンターがあった。私は直行して、東莞へ行きたい、黄江太子酒店で泊まるバスはあるか、と訊ねた。

係員の小姐は180ドルだと言い、200ドルを渡すと、人民元で20元札をおつりでくれた。えっ、香港ドルじゃないの、と一瞬口に出かけたが、大陸へ行くわけだから、確かに不都合はない。

その後ゆっくり考えてみると、今は1香港ドルより1人民元の方がレートが高いのである。ということはこの方がこっちにとっては得であり、わずかな金額だがむしろサービスしてもらっているのだ。文句をつけたら恥をかくところだった。

昔は大陸の人は香港ドルを欲しがったが、今では香港ドルでは受け取ってくれないという。もう香港と大陸とには逆転現象が起きている。ふと、ボブ・ディランの「時代は変る」という歌が頭を掠めた。ほんとに「タイム イズ オールウェイズ チェンジング」なのである。若い人には何の話かわからないだろうけど。

ベリンダは東莞の黄江太子酒店のホールで待てと言っていたので、私はバスはこのホテルへ停まるかと念を押した。するとその小姐は、まるで子供をあやすみたいにはいはいと頷きながら、丸いワッペンの上に「太子酒店」とマジックで書き、私の胸にぺたっと貼り付け、また別の係りの女の子を指さしてついていけと言った。

ここでは行き先にもよるが、バス会社の客引き競争がかなり激しい。前回などは阿ジョーと私が別々の会社の女の子からワッペンを貼られて往生したことがある。

とにかくそんなこんなでバスのどてっぱらのトランクに荷物を入れ、ミネラルウォーターを一本もらって席にどたりと坐りこんだ時にはほっとして疲れがどっと出た。朝は5時起きだったのだ。やれやれとにかくこれで一件落着だと思った。

それは大きな間違いだったのだが。


都江堰の大地震そろそろ最終編

2008-05-25 23:33:50 | Weblog
新聞報道では、中国のネットのあのいわゆる「憤青(怒れる若者たちとでも訳せばいいだろう)」たちが、日本の救助隊が犠牲者の遺体を前に黙祷している写真にえらく感動し、日本に対する感謝と評価の書き込みがばんばん飛び交っている、と書かれていた。

さらにネットのニュースで、カルフールが多額の寄付をした途端、あの反仏不買運動した中国人が一転して、カルフールに感謝しよう、買い物に行こうと呼びかけてる、という記事を見た。

「これだもん」と私はため息をついた。

先日も書いたが、そうした情緒的な言動はコインの裏表のようなものであって、1枚の写真で湧き上がった好感はまた別の1枚の写真で一挙に反日に変る性質のものだ。だから、そんなものに一喜一憂するような底の浅い報道は止めてほしいものである。

マスコミとしては何かネタが欲しくてたまらないのだろうが、ジャーナリズムはできるだけセンセーショナルなものから距離を置かねばならない、と思う。私たち一般庶民はとかく目先の現象に目を奪われて我を忘れがちになるが、そこで手綱を締めるのがジャーナリズムの仕事だろう。

さて、前回私はなぜ成都軍管区の部隊の都江堰への出動があんなにも遅かったのか、という疑問を呈したわけだが、同じ質問をとある中国からの留学生の女の子にぶつけてみた。

すると、彼女からはこんな答が返ってきた。

彼女の元彼が軍人で、現在ちょうど成都の軍にいるため、地震のことが心配で、電話をかけてみたそうである。

まぁ、人民解放軍といっても色んな部署があり、お金儲けの商売までしている部門もあるわけで、元彼は部隊の兵士ではないのだが、彼の話では軍隊の末端では地震発生直後にすぐに救助出動態勢に入ったそうだ。

そして、各兵士はスタンバイオーケーで、出動命令を待っていた。兵士としても余震はあるしで、恐怖心ももちろんあっただろう。だが、一方日頃教育されているように「人民に奉仕する」という使命感にも火がついているから、ここはいっちょうやらねばならん、という気持ちも同時に奮い立たせていただろう。いわば、リングに上がる前のボクサーの心境である。恐怖心と闘争心が絡まりあい、テンションはいやが上にも高まる。

ところが、待てど暮らせど命令が降りてこない。命令がなければ出動はできない。

テンションが頂点に達しているだけに、そんな精神状態は長続きがしない。待機状態が24時間を過ぎてしまうと、今度はその緊張感が一気にしぼんで、ふにゃふにゃになってしまったそうだ。

では、なぜそうなったかというと、まず第一に、各大隊レベルの将官の間でどこが出動するかでもめていたという。「うちはどこそこの警備をしなけりゃならんから、今度はあそこが先だろう」、「いや、うちこそその前のまた前にあれこれをやったんだから、そっちが行けよ」てな具合だったらしい。

そして第二に、災害発生が起きてから、慌てて作業手順、必要機材その他のマニュアル作成を始めた、という。そんなこんなで出動が遅れたという俄かには信じがたい話である。

四川、雲南はここ10年間で大小何回かの地震が発生しているはずだし、中国ではこの数年来毎年のように内陸で大雨による水害が起きている。いくらなんでも災害救助のマニュアルぐらい作っているだろう、とは思うのだが、しかし、軍に所属している人間からの直接的な伝聞だから、まぁまるっきり嘘とも考えられない。

とはいうものの、他にも諸々の公にできない状況や事情もあって、検討が長引き即応できなかったということもあるのだろう。まぁ真相は藪の中である。しかし、少なくとも軍の下の方はそんな風に考えているのは事実だ。

今回の地震では昔と違い格段に情報の公開が進んでいるという評価が外部ではされているが、核施設関連の被害情報の遅れとか、外国からの救助隊受け入れの遅れとか、あるいは日本の救助隊の扱いとかに、ただ不慣れだけでは済まされない部分も見えるから、そう簡単に評価を変えていいものかどうか疑問だ。

今ではインターネットも普及し、外国の衛星写真という情報手段もあるので、変に隠すとやぶへびになるという視点から、ある程度は出しときましょうや、という判断が働いているというのが正直なところではないだろうか。そのあたりはいわゆる「中央宣伝部」などが、かなりぴりぴり神経を尖らせながら匙加減をしているのではないか、と私は疑ってかかっている。

その留学生の子は災害援助のための寄付をしたそうである。

それを聞いて、私は言った。

「わりぃが、おれはやめとくわ。はっきり言って、その金が実際に被災者に届くかどうか信用でけへんからな」

すると彼女は、うーん・・・、と唸りながら腕組みをして視線を落とし、反論はしなかった。彼女自身自分の国に賄賂や汚職がはびこっていてどうにもならないことをよく知っているからである。今朝の新聞でも役人の救援物資の横流しが報道されていた。こんな時にそんなことするかぁ、ほんまに、である。

「いや、まぁあんたは中国人やからせんわけにはいかんやろ。顔もあるしなぁ」

一応周囲の中国人仲間の眼というものもあるだろうから、彼女がするというのは当然だと思う。

しかしながら、送られた金は中央から地方へ回るうちに、中抜きを繰り返され、最後に被災者に届いた段階では一万円がせいぜい千円程度になっているのが落ちではないのか。

例えば現地の役人にしても、自分の家に亀裂が入っていたり、倒壊していれば、まずその修理の金が欲しいだろう。また身内や友人、知人などを助けるためにも先立つものが必要だ。それには支援物資や義捐金は手っ取り早い獲物となる。

人を救うよりまず自分である。中国はすべてのものが激変の中にある。社会主義が実質崩壊し経済は資本主義となり、「先富起来(とりあえず先になれるものが金持ちになろう)」という小平の言葉を受け、他人をかまわず、とにかく自分が儲ければいいのだ、と先を争って金儲けに走るようになった。いわゆる「向銭看」(金向け金)である。

例えば中国人はビデオテープを知らない。それが普及する前にもうVCDやDVDの時代になったからだ。だから日本企業の駐在員が日本からビデオテープを持って行ったら、「それは一体何だ」と驚かれたそうだ。

さらに、呼び出し電話から一挙に携帯電話になった。日本のように各家庭に固定電話があり、それから携帯が普及したというような段階を踏んではいない。だから価値観や倫理観にもすさまじい落差が起こった。家で飼われていた家畜やペットがある日突然一斉に野に放たれ、自分で勝手に生きていきなさい、といわれたようなものだ。

そこへもって共産党の独裁政権である。「有権就有銭」(権力があれば金になる)学校や病院、就職等様々なところで裏金や付け届けが必要とされる。私も中国在住日系企業の社員からのメールマガジンやブログで、役所との金の関係で泣かされる話を何度も読んだことがある。

そんなジェットコースターに乗ってるかのような社会では弱肉強食がまかり通るのも不思議ではない。みんな他人を蹴飛ばしてでも自分が生き延びようとするようになるのも当たり前といえば当たり前だろう。日本は格差社会になったといわれるが、それでも中国の比ではない。

だから、私は義捐金には協力しないでおく。日本政府が援助するがそれには私が払った税金も入っているのだからそれで勘弁してもらおう。

もっとも、もし、あの都江堰の本屋の老人や、成都のマッサージ屋の小陳に直接手渡すことができるのなら、私としても何がしかのカンパをしてあげるにやぶさかではないのだが。

続続都江堰の大地震 

2008-05-19 22:37:39 | Weblog
四川省の大地震による救済活動は遅々としてはかどっていないように見える。瓦礫に埋まった人が156時間後に救出されて、それは感動的場面として報道されてはいるが、倒壊した中学校や小学校ではまだ何百人もの学生が崩れた校舎の下敷きになったままだというのが現状だという。

私は現地にいるわけでもないから現状はわからないし、余震による二次被害に対して慎重にならざるを得ない面もあるだろう。また山間部については土砂崩れで道路が寸断されて容易に近づけないのは理解できる。

しかし、解せないのは、例えば倒壊した聚源中学校は名前からして都江堰市の聚源鎮にあるのだろうから、地図から見れば都江堰市の中心部より成都よりにあり、成都への高速道路と国道が通っている。

なのに、先日見た映像では校舎の周囲をぐるりと警官が取り囲み、その後ろの瓦礫の山には救助の人影が見えなかった。泣き叫ぶ保護者が警官に制止されている場面を見たが、どうも救助作業が迅速には行われていないようにしか見えなかったのである。

新聞報道によると、ある慈善家として知られる富豪が、自社の掘削機60台と人員120名を36時簡以内に江蘇省などから被災地に送り込み、現場入りは軍とほぼ同じで、その迅速さは軍の専門家も舌を巻くほどだったという、と書いてあった。

おい、ちょっと待てよ、と素人でも思うだろう。

いやこの富豪は大した人物だと思う。しかし、都江堰市は成都からわずか40キロだ。中国各省にはそれぞれ軍管区があるのだから、成都軍管区の軍関係者は30時間あまりも何をしていたんだろう。

私は成都から都江堰市へは、下手をかましてしまって、地道の国道をバスで行ってしまった。だから知っているが、都江堰市は成都平原の端っこで、それまでは全く平らな道がほぼまっすぐに(カーブがないという意味ではありません)成都から通じている。もちろん、山などないし、沿道には畑が多く、成都市郊外には工場があっても道路のすぐ傍にビルは建っていなかった。

昔、1987年だったか、広州から佛山へ行った時は、舗装はしてあるもののあちこちでこぼこで参ったが、今回のこの道はきれいに整備された広いものだったので、中国も変ったなあ、と感心したものだった。また、測ったわけではないが、中国の道路の車線幅は日本のものより少し広いのではないだろうか。とにかく国道自体はゆったりした快適なものだった。

そう考えると、並行して走る高速道路は阪神大震災のように橋脚が崩れて使えなくなっていることは十分あり得るが、横を走るあの国道は土砂崩れや家屋の倒壊でふさがれることもないはずだ。

もちろん、路面の陥没や、ひび割れはあるだろうが、軍には工兵部隊というものがある。渡河作戦などでは、味方の援護射撃はあるものの、弾丸の飛び交う中丸腰で河に浸かりながら命がけで架設の橋を架け、兵員や戦車までも通す作業をする。

だから、都江堰に出動するくらい、その気になれば、それこそ10時間以内にできなければおかしいのではないか。しかも人民解放軍は中国共産党の下、誰からもいちゃもんをつけられない存在だ。

この点は日本の自衛隊みたいに、野党から上げ足を取られないよう常々気を使わなければならい「陰日なたに咲く花」とは大違いなのである。国道を大きな顔をして戦車だってぶっとばせるはずだ。

しかし、それがはるか江蘇省からやってきた民間人と同様の機動力しかないというのは、要するに、民生部門についてはやる気がないのではないか、と考えざるを得ない。

自衛隊の場合、災害時の出動というものは活動の一環として確立しているが、人民解放軍にはそれがないのではないか。もちろん、これまでも水害などで軍隊が出動して作業しているのを何度もニュース報道で見たことはあるが、あくまでもそれは軍隊出さなきゃしょうがないから出しましょうや、ということになり、党中央が命令を出し、重い腰を上げてようやく出てくる、ということなのではないだろうか。それと、共産党及び軍は人民のためにこれだけやってますよ、という宣伝工作の一環として行われるものに過ぎないのではないだろうか。

これまでの報道を見聞きする限りにおいては、過去毎年のように大きな水害が起き、地震も結構多く起きており、唐山地震という今回よりもはるかに多くの犠牲者を出した経験もあるのに、それらの災害経験が何も生かされていないようにしか見えないのである。

また、おそらく、体制の組織にも問題があるのだろう。トップダウンのやり方に染まりきってしまっているため、各部署独自の判断で迅速に動けない。地元の災害現場では、とりあえず自分たちで何とかしようと右往左往していて、上への災害報告や救援要請が遅れたのではないか。

地震に限らず、人命救助は一分一秒を争うことなのに、どう見ても治安維持の方にしか頭が回っていなかったようにしか思えないのだ。

今日のMSNのトピックスでは産経新聞ニュースで軍関係者は日本の災害援助隊に対して快く思っていない、という記事が載っていた。それは、

17日に青川の被害現場で活動したが、軍の兵士の一人は「あれは日本隊だろ。早く帰れよって感じだ」と口走った。それ以外にも不快感を示した救助関係者もいた。

という内容である。

その他にも、これは日本側のひがみかもしれないが、活躍できそうにない場所ばかり割り当てられ、移動の繰り返しで時間ばかり浪費している。軍には他国の救助隊に生存者を救出されては面子にかかわるという考えがあるようだ、との報道もあった。

軍隊だから、一般以上に反日感情を叩き込まれているだろうことはわかる。だが、ことは人命救助だ、んなこと言ってる場合じゃないだろう。まったくケツの穴の小さな連中である。もし、人民の人命救助を最優先に考えているのなら、そんなことを感じている閑なんかないはずだ。

これまた報道だが、今回の日本からの救助隊の派遣によって対日感情が好転したというニュースもあったが、しかし、日本のマスコミもこんなことで一喜一憂するなよ、と言いたい。そんなものは内閣の支持率と一緒で、ちょっとしたことですぐまた大暴落するものだ。大衆の感情というのはそんなものなのである。私もそうだからよーっくわかる。

私たちは中国人は大陸的でおおらかだが、日本人は島国根性だから心が狭い、とよく自分たちでも言う(日本人は自虐ネタが好きだ)。

けれど、私の経験だが、それは違うと思う。もちろんおおらかな人もいるが、結構かたくなで他人の意見を受け入れない人が多いし、間違いを認める度量がない。

中国人は面子を大事にするというのは多くの人が口にする言葉だ。だが面子などというものにこだわることこそ心の狭さを物語ってはいまいか。本当におおらかな人なら、少々面子が立たなくても柳に風と受け流すものだ。それこそが大人の風格というものではないだろうか。

人工衛星を飛ばし、次は月面着陸をめざすという。大陸間弾道弾も多数持ち、核兵器もごっそりお持ちである。軍事費の増額にはすさまじいものがある、というし、今年は殲10というアメリカ製F16戦闘機に匹敵する最新鋭戦闘機も配備された。

それらは中国人の民族意識を高揚させる。一般の中国人たちも熱狂しているが、彼らはそれにかかるお金について考えてみたことがあるのだろうか。

中国共産党は、ここらでもう一度民生面について考え直すべきだと、私は思う。大国になりたい、とはどんな国家も思うものである。しかし、それはいつかなればいいのであって、急ぐ必要はない。まず足元を固める方が先だろう。

経済が発展しているというのに、民衆の命や生活を後回しにしすぎているのではないか、この国は、と私は考え込んでしまう。

成都で私はマッサージ屋さんに2日通った。そのことはまた書きたいと思っているが、私を担当してくれた小陳が気に入ったからである。

そこは普通の庶民が入るマッサージ屋だから、値段が驚くほど安かった。1時間で20元である。で、オーナーが半分取るから手取りは10元だ。10元というのは日本円で150円である。

日本なら1時間6000円が大都市での相場だろう。何だか気の毒になって、2日目は3時間してもらった。それでも60元、つまり900円だ。またまた申し訳ないような気になり、それにもう翌日は香港に帰るから人民元には用はなくなる。それで、30元をチップに上げたら、眼をむいてびっくりされてしまった。

一日平均4、5人くらいマッサージするとから、月に千元ちょっと稼ぐと言っていたが、田舎への仕送りもあるし、とても貯金どころではないらしい。でも、田舎よりはましだと言う。田舎には現金収入の道がないのである。

彼女たちの仕事は日銭仕事だ。この地震騒ぎでとても商売などやっていられないだろうから、しばらくは客足も遠のくだろう。そうなると稼ぎもない、いやそれどころか自分自身が怪我をしているかもしれない。今後の生活には相当困難をきたすに違いない。低所得者層ほど災害から受けるダメージは大きい。

さらに、授業中のため小学生や中学生が多く亡くなった。一人っ子政策のため、一人しか子供がいない家庭の場合、その両親の老後の問題はどうなるのか。

中国では一見若者がたくさんいるように見えるが、実は社会の高齢化がどんどん進んでいるという。以前の純然たる社会主義体制でなら、大体において年金なども保証されていたが、改革開放政策の後、国営企業や公営企業の民営化が進み、その従業員の社会保障が整っていないと聞く。ならば、頼るのは我が子ということにならざるを得ない。その子供をなくした人たちは子供の支えを期待できなくなる。

ほんとうに人工衛星なんか飛ばしたりしてる場合じゃないのである。民生部門への予算配分の充実、それがまず急務だと思う。

同胞のボランティアや、献血、献金、さまざまな奉仕活動が報道されているが、他人の噂も75日ではないが、それらはそうそういつまでも続くものではない。みんなそれぞれ自分の生活があるのだ。ある時間を過ぎれば、人々の熱も冷める。それは仕方のないことだ。

だからこそ制度改革による公的支援しか道はないのである。ただ、あの国ではそれは実に難しそうだが。


続都江堰の大地震

2008-05-15 22:37:04 | Weblog
四川省で発生した大地震の被害状況は、時間が経つにつれどんどん深刻さが増している。

テレビや新聞で、泣き叫ぶ被害者の親族や瓦礫となった自分の家の前で呆然と立ちつくす被災者の姿がこれでもかというほど報道されるのを目にしていると、「他人の不幸は蜜の味」を座右の銘としている私ですらさすがに心が痛んでくる。

まして、そこがつい先日自分が訪れた場所であるだけに、全くの他人事とは思えなくなり、ちりちりっと胸を刺す感覚がある。

15日付読売新聞朝刊の記事によると、都江堰の人口中州の上流部に亀裂が入り、水門管理棟と発電機棟が倒壊したが、上流ダムの水位調節により流れ自体には影響が出ていないらしい。

私が懸念した市内を流れる河川の氾濫や土手の決壊などはなかったようだ。

都江堰は水利調節のために2000年以上前に作られた堰であり、長らく長江の上流域である成都平原の灌漑や、大雨からの氾濫を防ぐ役割をしてきて、その山間の景観の美しさもあって世界遺産とされた。

しかし、まず水利という面から見れば、その人口中州が要だ。前回も書いたように90元というバカ高い入場料を払って門を入り、きれいに手入れされた公園を抜け、上流に向かって歩き中州の先端まで行く。

そこの手すりから見下ろすと、下には丸みを帯びたコンクリートの塊が上流に向かって伸びて流れに沈み込み、それがまるで潜行しかけている潜水艦の舳先のように見える。流れる水はその舳先の突端にぶつかり、白い波を立てて激しい勢いで見る者の右手に流れ下っていく。

今ではそれはコンクリート製に変わっているが、昔は石を積み上げて作られていたのではないだろうか。

堰は中州の左手に作られていて、普段は閉じられている。私の行った時、左側は干上がった河のようにところどころ水溜りがあるだけだった。だが、一旦大雨などで増水すれば堰を開けて、左側に水流を誘導することで、成都平原への氾濫を抑えるという仕掛けになっている。

ただ、現在は上流にもダムができているわけだから、実質的には都江堰の水利機能としての役割はさほど重要なものではなくなっているのかもしれないが。

都江堰の中州の先端近くには右手の河岸に渡る長い吊橋がある。この橋を渡るのが結構恐いのだ。下は板張りで手すりはロープが何本もついているから、落ちることはまずないだろうが、まかり間違って躓いてそのロープの間に突っ込んだらそのまま激流の中に落ちるんじゃないか、と想像してしまう。

橋の入口にも故意に揺らさないでください、との注意書きがあり、ご丁寧にも日本語とハングルでも書かれていた。

ちなみに都江堰市は観光でもっているのだろう、いろんな看板が簡体字中国語と英語、及び日本語さらにハングルで書かれている。それも街の通りの表示板までもがそうなのだ。ということはそれだけ観光客が多く、また観光に力を入れているということだ。

考えてみれば、ここは工場誘致などには全く不利な場所であり、観光に力を入れるしか生きる道はないのだろう。そう考えれば90元というぼったくりの値段にも若干ながら納得がいく。許せるとまでは言いたくないが。

中国政府は西部開発に力を注ぐと言っているが、その進捗状態はまだまだのように見えたし、四川省でも雲南省寄りの地域ならまだその先のベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーへの進出経路として、今後の経済発展に活路を見出す可能性もあるだろうが、都江堰あたりで成都平原は終わりを告げ山間部が始まる。

最近の報道でも見られるように、その先はチベット人の多く住む更に貧しい地域であり、どんどん山奥へ入り、この頃つとに有名になった九賽溝などに行き着いてしまう。いわばもうどん詰まりである。工業発展など望むべくもないだろう。

さて、その吊橋だがゆっくり歩いていてもぶらんぶらんと揺れるのである。そこへわざと揺らす輩がいる。下は激流だから高所恐怖症の私としてはおびただしく恐い。あれだと思わず手すりにしがみついて、その拍子に手に持ったカメラなんか落とす人もいるだろう。

しかし、ここが氏も育ちも悪い貧乏人の性なのだが、90元の元を取るため私は人の少ない頃合を見計らって、思い切り足を踏ん張り、橋のど真ん中でカメラを構え、激流に相対してシャッターを切った。

吊橋を渡り終えると森になり、そこには多くの廟や祠がある。団体ツアー客は大体平坦なルートを通って出て行くが、何しろ私は、元は取る、と硬く決心している。森の中の階段をどんどん登って行った。

平日でもあり、参拝客も少ないのに、赤いロウソクが何本もたてられた祠があったり、思いがけず大きめな廟があったりした。いずれも古く、作り物でない歴史が染み付いた趣があった。文革の時に破壊されることもなかったようだが、いったいどれくらい長い間この森の中に蹲ってきたのだろう。

急な階段は上ったり下ったりといろんなルートがあったが、私はひたすら上へ行く階段を選んでは登り続けた。出会う人もまれで、緑に埋もれて歩くのは心地よく、空気にも森の精気が溢れているようだった。

そしてとうとう最上部と思われる展望のいい場所に出た。来た時に降っていた小雨はもう止んでいて、そこからは曇り空の下にパンフレットの写真そのままの都江堰の姿が見渡せた。

私はそこで写真を撮り、しばらく休息し、今度は急な階段を下へ下へとゆっくり降りていった。

そうしているうちにふと気がついたのだが、どこからともなく二胡か何かの音楽が流れてくる。

はて、こんな山の中で、しかも90元も払うような場所で誰が演奏しているのだろう、と見渡してみても、どこにもそれらしい人間の影もない。しかし、よくよく耳を済ませてみると、それは道端の草むらから聞こえてきているのだった。

一体全体どうなってるんだ、と私は身体をかがめて覗き込んだ。すると何やら人の頭ほどの石からその音楽が流れているのである。石が鳴ってる、と一瞬度肝を抜かれたが、それはプラスティック製の石の張りぼてで、その中にスピーカーが仕込んであるらしかった。

まぁ、90元もとっているのだから精一杯サービスさせてもらってます、という市政府としての善意なのだろうが。自然は自然のままでいいのだ。この種のサービスは古色蒼然としたこの森のたたずまいにはマッチしない。

「手に取らで やはり 野に置け 蓮華草」ではあるまいか。ものはあるべきままのものが最もそれを生かし、美しくみせるのであって、やたら手を入れるものではないだろう。森閑とした静寂こそが都江堰の森には似合う、と私は思う。

何度も書くが、私の旅は行き当たりばったり、出たとこ勝負だ。だから、この都江堰の中でも、とりあえずその場その場のルートをその時の思いつきで歩いた。そのため出た場所は最初に入ったのとは違うところに出てしまったのだが、その出口への道は両側を古い苔むした瓦屋根の祠が連なる階段だった。

苔で緑色をした瓦の屋根はそれぞれの角が反り返り、天に向かうかのように鋭い切っ先を持った飾り瓦がついていた。そこから見下ろすと突き当たりの二層の門の向こうに都江堰市の街並が望めるのだった。

新聞報道では発電棟が倒壊したと書かれていたが、ならばあの森の中の多くの古い廟や祠はどうなったのだろうか。テレビではちょうどその日都江堰に行っていたという日本人旅行者が、街では家の瓦が降り注ぐように落ちてきたと語っていた。

それでは、あの長い年月を得て苔むし、しっとりと人の心を落ち着かせる色合いをした瓦も地面に滑り落ち、あるいは祠ごと崩れ落ちて粉々に砕け散ってしまったのだろうか。さらに、長い年月を生きてきた廟や祠もついに崩れ落ち、森の中に溶けてしまったのだろうか。