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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

「上海理容室」新井一二三著

2007-09-20 20:59:00 | Weblog
原文は台湾の大田出版から出版された新井一二三著「櫻的寓言」収録の「上海理髪店」です。著者及び出版社の許諾を得ておらず、知的所有権を侵害した上での翻訳ですので、抗議等あり次第削除する可能性があります。



「上海理容室」

 ニューヨークから帰って、まずやらなければならないことは上海理容室へ行くことだ。
 
私が行く店はノースポイントのフェリー乗り場の近くにある。ある上海の男の子が毎月私の髪をカットしてくれる。私のヘアースタイルはもう20年間基本的に変化がなく、普通の日本の赤ちゃん頭、つまりおかっぱだ。ただ、流行に沿って、時にはやや長めにし、時には短めにカットするというだけのことだ。こういったヘアースタイルは、一見簡単そうに見えるけれど、いざカットする段になると、かなり技術を要する。

私の母が結婚前理容師をしていた関係で、私が小さい頃、家では母が子供たちみんなの髪を切っていた。中学へ上がって、ようやく私は理容室へ行き始めた。その後何ヶ国の何軒の理容室で、何人の理容師にカットしてもらったかわからない。

北京へ留学していた頃、最もモダンな理容室は燈市口の「四聯」だった。ある中年の男性理容師がカットしてくれた前髪はとてもきれいだった。私はその場で写真を撮り、後になって私の初めての本に載せた。あの日わたしの写真を取ってくれた友人が、今ロックのスターになっている、唐朝バンドのボーカルの丁武だった。

その後カナダに行き、私がぶつかった難題というのが、アジア人の髪をうまくカットできない理容師がいるということだった。これは多分私たちの髪の毛が硬くて多く、柔らかい上に少なめな西洋人の髪の毛とはちょっと違うからだろう。

トロントには日本人理容師は少なく、なかなか見つけられなかったし、その上値段がかなり高かった。そこで私はチャイナタウンで香港人移民がやっている、「基本髪」という名前の理容室へ通い始めた。そこは技術が確かな上に値段もリーズナブルだったし、さらに香港から送られてきた新聞や雑誌を読むことができるので、私はとても気に入っていた。

 私が香港へやってきたばかりの時、セントラルにある一見斬新な美容院に行った。美容師はかなりな芸術家的意気込みで、私の頭を素材にひとつの作品をクリエイトしようとした。残念ながら、結果は今ひとつだった。というのも、私が家でシャンプーした後で、自分でドライヤーをかけると、彼のその作品を再現しようがなかったからだ。
 
その時ある人が私に香港には別の種類の理容室があって、それは上海理容室だ、と教えてくれた。ノースポイントにも何軒もあり、外から見ると、古びた印象だけれど、彼らの技術水準はかなりのものだ。そこで私は勇気を奮い起こして階段を上り、一言言った、「カットしたいの」

正直なところ、初めはあまり信用していなかった。店の従業員の方が客より多く、理容師の着ている制服はミルクコーヒー色をしている。元々その色だったのか、それとも後で変色したのかは知らないけれど。見回すと、客の大部分が中年以上の女性で、年は私の母と変わらないぐらいだった。彼女たちはここへ来てカットし、パーマをかけ、さらに髪を染めるのだが、全体的な雰囲気は客と設備同様古めかしかった。

 私を担当したのは唯一の青年で、見たところ27、8歳らしく、その上普通話(注:北京語のこと)が話せた。彼は上海から来たと言ったが、しかし彼の言う「上海」が「上海市」を指すのではなくて、上海近くの(私もどれだけ近いのか知らない)浙江省の小さな村だということを後になって知った。

 彼は私とおしゃべりしながら私の髪を上手にカットしてくれた。鏡を見て、私はなかなかいいと思った。けれど、私が本当に彼の腕前の良さを知ったのは、翌日の朝シャンプーした後のことだった。ドライヤーをささっとかけると、私の髪はすごく聞き分けがよかったのだ。上手にカットされた髪は手入れがとても簡単なのだった。

 そのため、私は毎月その上海理容室に行く。若い理容師は私の髪の質や私の好みにますます詳しくなってきた。私は彼に二言三言話すと、すぐに新聞を読み始める。15分後、彼の仕事はすでに完了している。値段は安くて、去年はたった65香港ドルで、最近70余りに値上がりした。そうそう、旧正月前夜にカットに行った時、その青年は私に言った、「すみません、今は休暇の特別料金なんですよ」私は後で香港の上海理容室が「旧正月期間2倍料金」という伝統があるのを初めて知り、一瞬ちょっと驚いたが、それからまあいいかと思った。いずれにせよ、私は彼の腕前にとても満足しているのだし、一年に一度彼にこんな形で「ボーナス」をあげるのは当然のことだろう。

 この前カットに行った時、彼はいなかった。別の理容師が彼は上海に帰ったと私に言った。別の人がやってくれた髪型も決して悪くはなかったが、私はやはり少し寂しさを感じた。私はあの上海青年と本当の知り合いといえるほどの間柄ではないし、彼も私がどこに住み、何をしているのかは知らない。だが、毎月彼と一度会うことはすでに私の習慣になっていて、彼がいないことで私は小さな失望を感じた。

 今回、やはり彼はいた。「申し訳ないです。休暇を取って家に帰ってまして」と彼は言った。そうして私は彼が実は家庭持ちであり、「上海」の奥さんが赤ちゃんを産んだのだということを知った。「おめでとう」、と二言三言話してから、私はすぐに新聞を読み始めた。ここへ来ると、私は余計なことを言う必要がない。なぜなら私は彼をすごく信頼しているのだから。翌日の朝シャンプーすると、私の髪は聞き分けがよかった。いつも行く理容室があるということは、私が香港に「生活」を持ち始めるようになったということを意味する。それは何もすごい事などではないけれど、私はとても嬉しかった。


「大衛とシジミの味噌汁」新井一二三著

2007-09-15 20:32:07 | Weblog
 原文は台湾の大田出版から出版された新井一二三著「東京的女兒」収録の「大衛和蜆味噌湯」です。著者及び出版社の許諾を得ておらず、知的所有権を侵害した上での翻訳ですので、抗議等あり次第削除する可能性があります。

 この文章は以前新井さんに関することを書いた時に部分的に引用したものの全文です。後半の反日旋風時に新井さんが現地の友人たちから白眼視されたというのは、新井さんが新聞に載せたコラムの内容が彼らの民族感情に抵触したことが原因なわけですが、詳細はそのコラムを読んでいないのでわかりません。私としては、これはある面貴重な経験であり、新井さんがいつかその経験を何らかの形で日本語で発表されることを個人的には望んでいます。



「大衛とシジミの味噌汁」


 あの頃、香港の中国返還前夜、夜私が友人たちと酒を飲みに行く場所は、十年一日のごとく、ほとんど例外なく、いつも必ず蘭桂坊と決まっていた。

 言うのも変だが、私が香港に住んだ3年半、蘭桂坊には数えきれないほど行った。あの狭い坂道で、私たちはかつて色んな喜怒哀楽を経験し、またさまざまな悲喜こもごもの出会いと別れを演じた。けれども、数年がたち、今になって、遠く離れた場所に身をおき、蘭桂坊で過ごしたそれらの夜を振り返ると、なぜだかわからないが、まるで我が身で体験したことではなく、夢で見た物語か、あるいは王家衛のどれかの映画のストーリーのようだ、と感じてしまう。

 『恋する惑星』と『欲望の翼』が私に残した印象が強烈過ぎたからだろうか。ひょっとしたらそうかもしれない。だが、同時に、香港の街もとても映画のセットに似ているのだ。とりわけ、蘭桂坊に夜灯される色取り取りのネオンをつけ加えると、酔っ払いたちは否応なくフェイ・ウオンや金城武に成りきらざるをえない・・・。
  
 植民地の歓楽街はまるで映画のセットのようだ。例えば、戦前のモダンな上海の有名な外灘のように、川沿いの大通りの洋風ビルは、正面から見ると本物そっくりだが、横から見ると、長さは不ぞろいとなり、いくらも深みのないものだ。なぜなら東方の魔都が必要とするのは西洋化された表面だけにすぎないからだ。

 香港の蘭桂坊のビルは、平べったくはないけれど、全体として人に与える印象はやはり非現実的なものだ。ひょっとすると、どの道も坂道で、平衡を保つのが難しく、しっかりと地に足をつけることなど更に不可能だからかもしれない。蘭桂坊では、誰もが喘ぎながら登るか、或いは嘆きながら下っていく。映画のセットは現実感には乏しいが、逆にドラマ性には満ちている

 大衛のような人間は、たとえあの狭い香港でさえ、蘭桂坊にはおいてしか会えないだろう。

 あれは1995年の夏だったはずだ。ある晩、私はひとりで蘭桂坊の栄華里にある「六四バー」(注:六四とは天安門事件を指す)に行った。ママさんはカナダに行って不在だったが、店内でビールを立ち飲みしている客は若い西洋人ばかりだった。私は赤ワインを一杯買って奥へ入って座った。

 ほどなくして、長毛が入ってきた。彼は香港ではかなり有名な革命家だった。テレビのニュース番組が民主派の過激分子が当局に抗議したり、または警察に引っ張って行かれるなどの場面を報道する時は、いつも大声でスローガンを叫ぶ長い髪をお尻まで伸ばした彼がいるのだった。

 長毛は以前「六四バー」で働いていたことがあり、その後もしょっちゅう顔を出していた。みんなは名革命家に酒をおごりたがった。あの晩長毛に酒をおごった人間、それが大衛だった。

 もし長毛の紹介がなかったら、私はきっと大衛には、敬してこれを遠ざけていただろう。というのも彼の風貌がひどく恐ろしかったからだ。一重まぶたの目からは非常に強い視線が発せられていて、その上鼻は歪み、耳たぶは縫ったばかりだった。聞くところによると、少し前に大喧嘩をしたらしい。

 大衛は、見たところボクサーのようだった。だが、長毛は、彼はニューヨークから帰ってきたジャズのギタリストだと言った。ただ、香港では音楽だけで生計を立てるのは難しいので、昼間は商売を始めていた。「だから、俺にはお前らの酒を買う金があるのさ」と、大衛は言い放った。
 
 彼は英語を話したが、それは香港人の話あの種の英語ではなかった。言うならば、大衛はとてもニューヨークの黒人に似ていた。ちょっと間をおいて単語をひとつ口に出し、またちょっと間をおいて別の単語を口に出す。ややどもって聞こえるが、けれど感情表現に富んでいた。実のところ、彼の態度、表情、はどれも私にニューヨークの黒人を思い起こさせるのだった。
 
 あの晩、「六四バー」からコーズウェイベイの日本料理店「一番」に行き、わたしたちは酒を飲みながらおしゃべりをした。私と長毛の話の多くは無駄話だった。大衛自身は沈黙している時間の方が長かったが、しかしいったん口を開くと、一言一言が力強く、まるで言葉の重量級ボクシングのようだった。
 
 大衛は香港のブルーカラー階級の出身で、ハイスクールを途中でやめて働きに出た。14歳の時、セントラルにある日本料理店で雑用係をやり、日本へ行って金を稼ぐことを思いついた。三ヶ月の観光ビザで羽田空港へ飛び、飛行機を降りると、すぐに直接工事現場に行って肉体労働をした。そんな風に何度も日本へ行ったと、大衛は言った。

 彼の年齢から計算すると、それは70年代のことのはずだ。私が中学へ行く道の傍らで、ひょっとすると香港から飛んできた若い労働者が黙々と働いていたことがあったかもしれない。その上、日本語がしゃべれない彼がもしかしてある日本の女の子と深い関係にあったかもしれない。

 「シジミ」と、大衛は遠くを見て言った。「シジミの味噌汁。酒を飲みすぎて、次の朝起きた時、頭が死にそうに痛い。そんな時一口飲むシジミの味噌汁ときたら、すごくいい香りだったなぁ!」

 私は香港を含め、海外で多くの日本通に出会ったことがある。けれど、二日酔いの薬としてシジミの味噌汁を上げたのは大衛が初めてだった。シジミの味噌汁は外ではめったに売っていなくて、普通は家庭で日本の女が自分の愛する男のために自らの手で作って、はじめて飲めるものだ。

 大衛はどんな状況でシジミの味噌汁を飲んだのかは別に言わなかった。ただ、彼の言った別の一言が、かつてある日本の女の子が彼に深い愛情を持っていたことを確信させたのだった。

 「中原中也・・・・・。日本に中原中也っていう有名な詩人がいただろ。ある人が俺に彼の本をくれたんだ。けど、それが日本語なもんで、おれは読めなかった」それは1930年代の有名な詩人だ。30歳で死んだ抒情詩人で、私が中学生の頃、クラスに中原中也に憧れていた女子が何人かいて、彼を純真な青春を代表するアイドルとみなしていた。彼女達のうちのひとりが中也の詩集を香港の建築労働者にプレゼントした・・・・、私はそんなことを心の中で想像したりした。

 それから、大衛はニューヨークへ行き、ギターを勉強し、黒人なまりの英語も勉強した。残念ながら、あの晩私たちはそれ以上のことを話すには時間が足りなかった。

 何度か、私は「六四バー」で大衛に出くわした。だが、長毛が傍にいないと、私は大衛と単独でおしゃべりする勇気がなかった。もっとも彼の鼻も耳ももうとっくに治ってはいたのだけれど。

 その後、1996年の秋、香港に一時反日旋風が巻き起こった。多くの現地の友人の私に対する態度が私をひどく悲しませた。同じ年の12月、失業し、また失意の中にあった私が「六四バー」に行くと、幾人かはあからさまに私に対して見て見ぬ振りをした。ただひとり大衛だけが私のほうへやって来て、黒人なまりの英語で一言言った。「I’m very sorry」

 私が最後に彼に会ったのは1997年の、香港の中国返還のあの年のことだった。毎週月曜日、大衛は友人たちと「六四バー」の奥で小さな演奏会を開いていた。ある晩、私は彼のギターを聴きに行った。

 ステージの上で、大衛はやはりまるでニューヨークの黒人のようで、表情は硬く、見るとちょっと恐い感じがした。私が客席にいるのを見つけた時、たった一瞬だったけれど、目がふっと優しくなった。不思議なことに、正にその瞬間、私の鼻はどこからともなく漂ってきた蜆の味噌汁の香りを確かに嗅いだのだった。

香港式ミルクティーあれこれ(7)

2007-08-26 15:59:06 | Weblog
以下の文章は許可を得ずして翻訳及び掲載しているため著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

原文:文學世社出版「香港記憶」中の『港式奶茶瑣語』
著者:小航(編集者・香港資深文學工作者)



香港式ミルクティーあれこれ(7)


林黛玉(注:「紅楼夢」の登場人物)が初めて栄という貴族の邸宅に上がった時、食事の後下女が小さな茶碗を奉げ持ってきたため、彼女は手に取って飲もうとしたが、ふと周囲を見ると、皆が手をお茶の中に浸してすすいでいたので、彼女はすぐに真似をして、ようやく笑いものにならずにすんだのだった。

客が茶餐廳のテーブルにつくと、ここでも店員はまずお茶をコップ一杯持ってくるが、このお茶は、もちろん飲んでもかまわないし、もともとは客に飲ませるものだった。ところが、大部分の人はまず先にテーブルの上に並べてあるフォーク、箸、スプーンの類をお茶の中に浸けるのである。

テーブルの上を見てみればいいが、店員がフキンでそのテーブルを拭いたにも係わらず、まだ汚れが残っており、その食器にはまだ米粒やおかずの残り粕がついているではないか。何はともあれ、実質的には客の茶餐廳の衛生部門の仕事ぶりに対する糾弾であるその行為は、決して店員の不満を引き起こすことはないはずである。

お茶を飲み、ご飯を食べた後、タバコを一服したくはないだろうか。大丈夫である。香港特区政府は100人を超える収容能力を持つ喫茶店やレストランはすべて禁煙区域を作らねばならない、と規定しているが、普通の茶餐廳はたとえ100人入れようが、客はその禁煙区域がいったいどこに区切ってあるのかわからず、皆は相変わらずタバコを吸い、それに干渉したり抗議する人はいないだろう。

しかし、見ると、テーブルの上に灰皿はない。この時は床を見なければならない。他のテーブルの下も吸殻だらけなら、遠慮する必要はなく、思う存分タバコを吸い、灰は軽くとんとはじけば床に落ちる。吸い終えれば、吸殻を床に捨て、靴底で上からさっと踏み潰せばおしまいだ。そこで、客もある種の渡世人の気風のよさを味わうだろう。

香港には、客に殻付きの落花生を一皿出してくれて、客に殻を床に好きに捨てさせてくれる高級なバーがあるのだが、この種の思いやりあるシステムは客に非常に喜ばれている。見たところ、地面に何かを捨てることは多くの人が心に持つ欲望のようだ。労働者人民の恨みつらみはまずタバコの煙とともに空中に漂い、最終的には捨てられ踏みつけられ、わずかに残った不満もこうして擦り消されるのである。

目下、特区政府はごみ捨て犯を厳しく取り締まっており、すべてゴミを捨てたものは一律に600ドルの大金を罰金として課している。何か捨てたくて手がむずむずするなら、茶餐廳は格好の場所である。

ただ、このためにはちょっとばかり我慢しなければならないことがある。お茶や食事を楽しんでいると、あるおばさんがやってきて、「ごめん、ちょっとどいて」と命令すれば、すぐにおみ足を高く上げて、彼女が箒で足元を掃き清めることに協力しなければならない。

このように、茶餐廳はその臨機応変さでもって、経済不況の中で生き抜きいてきたばかりでなく、さらに勢いよく発展してきた。多くの高中級レストランが持ちこたえられなくなって、茶餐廳に形を変えて引き続き飲食業としてやっている。

中にはたとえ完全に形を変えたとはいえなくても、茶餐廳化しているものあって、例えば、メニューに「大牌[木當]ミルクティー」という名称を加えているものもある。この大牌[木當]ミルクティーは紅茶とミルクを先に混ぜてあることを除けば、使われるのはその多くが丈の高いガラスのコップであって、精緻な陶器ではない。

要するに、香港人はミルクティーを飲むのがあまりにも好きなので、たとえもしそれが茶餐廳でなくて、粥麺屋や潮州料理店、上海料理店のようなところであっても、ミルクティーを飲もうとすることに差し障りはないのである。

言わなければ分からないことだが、理論的にはどの茶餐廳で淹れた紅茶でも味は皆同じというわけではない。西洋紅茶はもともと我々の中国茶と同様に、異なった品種と産地がある。

紅茶を淹れるのに用いる茶葉は大牌[木當]の長老の明かすところによると、ひとつの品種だけを使うことはなく、異なる茶葉を混ぜ合わせて作るのであって、このため紅茶を淹れて出てきた味が良いか悪いか、独特の口当たりがあるかどうかは、茶葉を混ぜ合わせる調理師の腕にかかっているのだという。

もし、それぞれの茶餐廳のミルクティーの味がほとんど同じだと感じるのなら、茶葉を混ぜ合わせる秘伝が失われているのでなければ、すでにどのように茶葉を混ぜ合わせれば最高の効果が出るかを研究する忍耐強さを持った人がいなくなってしまっているのだ。こんなことになってしまうことこそが、飲食業の最大の悲哀なのである。

ひとつの金融ショックが香港経済の根幹を揺らし、また香港人の自信をも揺さぶった。我々はどうやれば生き残っていけるのか、と多くの人が問いかける。茶餐廳のモデルから、我々はひょっとしたら、多くを師としてこれに学ぶ、これまさに生存の道なり、ということを会得でき、そして一人の普通の市民としては、欲しいものを少し減らし、プライドを少し捨てれば、悠々自適に生活して行けないこともないのかもしれない。


香港式ミルクティーあれこれ(6)

2007-08-25 10:23:53 | Weblog
以下の文章は許可を得ずして翻訳及び掲載しているため著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

原文:文學世社出版「香港記憶」中の『港式奶茶瑣語』
著者:小航(編集者・香港資深文學工作者)



香港式ミルクティー(6)


だから、茶餐廳に入ると、まるで宝探しの旅のように常に意外な驚きと喜びを発見できるのである。

だが、茶餐廳は草の根階級の飯屋に起源を発しているだけに、店の管理の方面は往々にして非常にプアーなものであり、いつ何時となく上半身裸の、何の仕事をしているのかわからない人間が幾人も客の目の前を出たり入ったりする。

店員は制服らしき白いシャツを着てはいるが、しかし実のところそのシャツの色は白色と形容するにはとても無理のある色をしていて、表面にはあらゆる形をした汚れやシミがついており、ポケットのペンを挿すところは、使っているのが安物のボールペンなものだから、青色一色に染まってしまっている。

店員が水の入ったコップやスープのお碗を客のところへ持ってくる時、彼のその束ねた指の黒い汚れに縁取られた爪の、うへっ、半分ほどが水やスープの中に浸かっている。

客に飲み物や食べ物を持って来ながら、店員がたまに突然大声で叫ぶことがある。「5番テーブルお勘定!」香港では結核はもうあまり流行っていないから、彼の唾の中に致命的な病原菌はさほど多くは入っていないことは保証できるが。

おっと、注文したミルクティーが来た。客がコップを持ち、さて飲もうとしようとする正にその瞬間、店員が不意に客の手を押さえて、この時意外にえらく優しく客に言うのである。「換えてあげますね」

何も問題のないお茶をどうして換えねばならないのだろう、と客が目を凝らして見てみると、お茶の上に一匹のハエが浮いている。もし、客がその前に何かしでかさなかったり、何か店員の気に障ることを言わなかったのであれば、安心していい。彼はきっとお茶を新しいものに換えてくれ、こっそりとハエをつまみ出してもとのお茶をそのまままた出すようなことはしないだろう。

宝探しとは、ちょっと刺激的なものである。香港映画のやくざ映画の中でだが、渡世の親分が「話をつける」のも常に茶餐廳で行われ、一言間違えば、すぐに刀がギラっと抜かれ、周囲のものはびっくり仰天蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。幸いにもこれは映画の中のストーリーにすぎず、現実にはこんな状況に出くわすチャンスはほとんどない。

ただ、競馬シーズンの競馬の日にあるいは茶餐廳が満員になっているのを見かけるかもしれない。しかし誰も声高に話すものはなく、みな厳粛かつ真剣に新聞を持って読んでいて、聞こえる音はただひとつ、すなわちラジオからの放送である。

彼らは何をしているのだろうか。「競馬記事」を研究しているに決まっているではないか。時には茶餐廳の店主が非合法のノミ屋をやることもある。しかし、内情を知らないものは、やはり軽挙妄動して、やたらにあれこれ訊ねないほうがいい。

前に、高級レストランはほの暗い、と書いたが、茶餐廳は例外なくあかあかと輝いている。もしそうしなければ、親父さんたちはまたどうやってあのゴマのように細かい字の競馬記事をしっかり読めるだろうか。




香港式ミルクティーあれこれ(5)

2007-08-21 16:11:30 | Weblog
以下の文章は許可を得ずして翻訳及び掲載しているため著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

原文:文學世社出版「香港記憶」中の『港式奶茶瑣語』
著者:小航(編集者・香港資深文學工作者)(注:資深文学工作者とはベテラン作家とでも訳すしかないと思います)



香港式ミルクティーあれこれ(5)

砂糖とミルクの入れ加減や、これを省きあれを抜く、ということから茶餐廳の経営が臨機応変なものであることが見て取れるが、これも正しく香港のあらゆる業種が不景気であるにもかかわらず、茶餐廳が一本の活路を開くことができたことの理由なのである。

茶餐廳の適応能力と吸収力はとても強く、かなり以前から茶餐廳は鉄板焼き料理を導入したのだが、洋食レストランより半値の安さだ。しかし、店員は客に「焼き具合は」などと聞くはずもなく、調理場の調理師が焼きたいように焼くだけなのだが、ただ使うのが大抵は冷凍物なので、生焼けにしすぎることはできず、少なくとも七部の焼き具合になるだろう。

食べ物の面において、伝統的な茶餐廳が売るのはトーストやサンドイッチの外に、まだスパゲティ、マカロニ、オートミール及び中華風洋食ディッシュライスがある。後に、中華風炒め物もできてきて、それは上海料理店の定食のように一皿をさっと炒める小料理に、スープを一碗とご飯一碗をつけた定食である。

それから、焼臘の部門を作ってもよく、そうして中国レストラン特有の叉焼、焼肉、焼いたアヒルに焼き鴨を売り始めた。更にもうひとつ粉麺部門を加えて、ワンタン麺、魚蛋粉を売ったりして、できないものはないのである。
(注:焼臘とは叉焼、アヒル、鴨などをあめ色に焼いてつるしてあるあれである。臘とは臘腸で、中の肉に酒をしみこませた中国式ソーセージのことで、これを切って白米の上に載せ、たれをかけると、臘腸飯いっちょうあがりということになる) 

近年では日本の食品が流行し、茶餐廳のメニューにもうな丼や、日本式肉うどん、焼き豚肉定食などもろもろが載るようになっている。もし、運がよければの話だが、フランスのアヒルのスモーク肉うどん、イカのスープスパゲティなどのような奇怪な組み合わせに出会えるかもしれないが、これは香港だからこそあるのであって、世界には絶対無いこと請合いである。

これまで書いてきた大牌[木當]は、社会が日増しに豊かになり、さらに政府が市内の景観を整えることに力をいれるにつれて、今では例え完全に跡を絶ったとはいえないにしても、残っているのはわずかとなってしまった。大牌[木當]は政府の鑑札を持ち、経営は合法的だ。あの頃はその他に一種の移動式食[木當]があった。

主人は木製の車を押し、車の上にはコンロや水、或いは気体燃料の器具を置き、スープ(中に大量の味の素が入っているのは避けられない)を沸かした鍋がひとつ載せられ、その他の半分の場所は仕切りで区切られていて、それぞれの仕切りの中には異なった具材料が入っており、これを街の道端に置けば、それが麺[木當]となるわけである。

客が麺を注文すると、麺玉をお湯の中でほぐし、具は客が小さな仕切りの中から選ぶに任せ、麺を煮たスープを杓子でひとすくいしてかければ湯麺一丁出来上がりである。

どんな具が選べるのだろうか。主として、大根、猪皮(豚の皮)、猪紅(豚の血を豆腐のように固めたもの)、魚蛋(魚のすり身の団子)、牛腩(ハラミ)等々だが、まだ青菜や野菜の茎、韮などの類もある。麺も滑らか麺、幅広麺、油麺など選べるようになっている。

客は道端で立ったりしゃがんだりして食べるのである。この種の麺[木當]を車仔麺と呼ぶ。同じような理由から、車仔麺は大牌[木當]と同じ道をたどるか、さらには大牌[木當]よりもっと早く社会から消え去ってしまった。

だが、このような香港の特色を持った麺食品が、また茶餐廳で復活し、そしてその具材料の選択もより多元化されたのだった。およそすべてお湯の中につけることができるものなら、みな具の材料とでき、時には10数種20数種類にも及ぶことがある。受け入れる度量の大きさ、これが茶餐廳のありのままの姿なのである。

自分の胃袋の好みに合う物について、西洋人にはある言い方があり、「my cup of tea」と言う。私の一杯のお茶。香港の茶餐廳において、あなたはきっとあなたの一杯のお茶を探しあてることができるのである。