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OXFORD(牛津大学出版社)出版
胡燕青著「更暖的地方」より『更暖的地方』
「もっと暖かい場所」
瀟湘の人少なきを厭うことなかれ、水多くマコモに米、岸辺にはイチゴに海苔と作物豊富なり
子供の読む物語では、カタツムリはみんな自分の家を背負って歩いているが、家が邪魔すぎて、それでカタツムリは歩くのが遅いのだ、といつも言われている。私たちはただ単に遅いだけだろうか?それどころか常にその場で足踏みをしているのではないか。重すぎる家が私たちの後ろ足をひっぱり、私たちをその場に固定しているのだろうか。家の空間が小さすぎて、私たちを閉じ込めているのだろうか。それとも、家の歴史がいたずらに長すぎて、私たちをがっちりと縛りつけているのだろうか。おそらくそのどちらでもないのだろう。私たちはずっと自分の家を探し当てられていなのに過ぎない―背中のその重い圧力の外には、私たちには何もない。
父が私を母の傍から力ずくで引き離し、私を連れて香港にやって来た時、私は小学校に上がったばかりだった。当時の私の心にはある種強烈な感覚があった。それは、私たちはすぐに家に帰れる、離れ離れは少しの間のことだ、というものだった。しかし、その後数十年ずっと広州に帰って生活することはなかった。
あの頃私はほんとうに香港が嫌いで、香港は私の家ではあり得なかった。いつも自分は家を離れた夢を見ていて、ごちゃごちゃした都市の夢を見ているだけなのだと考えていた。そこには、偉大で尊敬できるものは少しもない―英雄はおらず、少年先鋒隊の赤いスカーフはなく、国旗掲揚の儀式はなく、「祖国」や「犠牲」等という人をうっとりとさせる言葉もない。
そこでの通りの名前はすべて奇妙で俗っぽい。私が広州に住んでいたところは永漢路高街といい、後に北京路群衆街と改名されたが、前者は古典的で気高く、後者は先鋭的で昂揚感があり、どちらも好きだった。だが、花布街だの、大角咀だの、茘枝角道だのは心底嫌いだった。
香港人がつけた名前はみな泥臭過ぎ、原始的すぎて、見るだけで嫌になる。ほら、徳忌笠、缽甸乍、蘭開夏・・・・これはひど過ぎはしないか。私はすでに香港というこの見慣れぬ夢の中に住み続けてきてはいるが、心の中ではずっと自分の家を捜し求めていた。
しかし、広州の家は徐々に壊れていった。祖母が亡くなり、母はがんを患い、妹は北京に転勤になり、弟は失業した・・・・次々とやってくる砕け散る音が私の耳元でずっと破裂音を響かせていて、幼い頃から大人になるまで響き続け、一度も止むことがない。
家に帰れない恐怖は次第にはっきりとしてきた。広州には、私の子ども時代に猫と戯れ、妹と示し合わせて一緒に痰壺の上に座ってうんこをしたあの家はもうなくなってしまった。
香港へ来るのを申請することが、すなわち母と弟妹が「家に帰る」ということだったのだ。だが、心の中のこの「家」を彼らは見たことさえなかった。もし、父と私が6、7平方メートルの小さな部屋に住んでいるに過ぎず、多くの家庭と同じ便所、同じ台所を使わねばならないことを知っていたら、千数百尺の古い家から出てきた人がどうして慣れられるものだろうか。
母と弟が香港に来たころ、テレビではちょうど《獅子山下》(注訳:ライオンロックの麓)というドラマの第一集を放送し始めたところだった。その時私はすでに大学生になっていた。
テレビの中の「香港人」が住んでいるのは公営団地であり、香港テレビが彼らを主人公にしたことから、当時の典型的な市民とは正しく普通の下層の人々だったということがわかる。
私と母は背中を丸め二段ベッドの縁に座ってテレビを見ていたが、まるで自分の願望を見ているかのようだった。四人一部屋の生活環境から逃れ、公営住宅へ入ることが、私たちの「家に帰る」ことの新しい夢となった。
20年が過ぎた。父と母の家はずいぶん大きくなった。民間の住宅を買い、公営団地は政府に返した。馬鞍山恆安団地の束の間の家は、私の三人のやんちゃな子どもたちに多くの笑い声をもたらしてくれた。団地の傍の緑深い小道で、子どもたちは一人また一人と自転車に乗れるようになった。このすばらしい「家」は、今ではすでに記憶の貯蔵庫へしまい込まれて、記念品となってしまった。けれど、その他の幾つかの記憶はより特別な形で処理する必要があり、そうしなければ、人生における痛みとなってしまうだろう。
二年前、母は私を連れて広州の「家」に帰った。私たちは階下からすでに見知らぬ人が住んでいる家を見た。母はあちこちを指差し、指で多くの過ぎ去ったことの輪郭を描いた。私たちはそこにしばらく立って、頑強な過去にひとつの地理的な終止符を打ったのだった。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。
そこを離れる時、母は私を連れて果物を買いに行った。私は言った、「昔は広州でこんなにいい果物は絶対食べれなかったよ」母はさらにその小さな店の主と値切り交渉をした。それが単に本当の商業社会での必然的な儀礼にすぎないことは分かっていた。果物を手に下げると、私たちはもっと暖かい南の方へ向けて歩いていった。
97年の香港返還の後、30年間の豊かな日々を送った香港人は貧しくなった。一軒の「家」を持ったために、多くの友人たちが「不良債権の人」になってしまった。
高給と高い地位を捨てた財政司司長が、突然この《獅子山下》という歌を持ち出したことに、私はとても多くの感慨を覚えた。テレビがそのためにまた改めてこの歌を放送しなおした時、私は感動を抑え切れなかった。
私は自分の心を振返ってみた。もともと私はすでに香港というこの場所を受け入れてしまっていたのだろうか。この相も変わらずごちゃごちゃとした都市が自分の家であることを認めるようになっていたのだろうか。古臭い尖沙咀、土瓜湾、鹹魚欄、西湾河・・・・今の私は喜んで「他人の物は自分の物」としてしまっていたのだろうか。
羅文(訳者注①)のあの張りつめて高揚した歌声、さらに黄霑(訳者注②)の感情的に過ぎるが、しかし自らを鼓舞する歌詞、それらにとうとう私の涙がはらはらとこぼれ落ちた。
光る涙の中に、私は突然梁錦松(訳者注③)が香港大学九十周年の記念行事の晩餐会で台上に駆け上がり、何東(訳者注④)の銅鑼を奪い取ったのを見、また引退して間のない陳方安生(訳者注⑤)が何東の「女の子」の一群の中に立ち、彼を大声で叱っているのを見、また大学へ入ったばかりの頃、図書館へ入る勇気がなくて同級生にからかわれた時の狼狽した自分の顔を見、はっきりとした手ごたえのある過去が確かに次第に自分の子供時代の強大な家に帰るという夢を覆っていくのを見た。
家に帰る、ということの元来の意味はひとつの予想外の贈り物をほんとうに受け取ることに過ぎないのだ。どんな子供にもみな、自分の欲しいものが父母がくれるものとは違っていたという経験があるものだ。
成長してから後、あの世の父がすでにもっとよいものを贈ってくれていたことに私は気がつき始めていた。私はただずっと傍に立ち、かんしゃくを起こして求めようとしなかったのに過ぎなかった。
つまるところ、今の私はもう赤いスカーフをつけることを渇望する広州の子供ではなくなっていたのだ。香港へやってきた時に、もともととっくに家も運んできていたのだった。
ハイスクールの時、校歌にこんな一節があった、“’T was mine, but was not mine alone.” (訳者注:それは私のものだったが、私だけのものではなかった)この言葉以上に今この地にある私の気持ちを形容できるものがあるだろうか。
私の家が本来ちゃんとあった場所とは、売春婦や露天商ややくざたち、それに多くの真面目な労働者たちが必死に生きていた深水[土歩]であり、また旺角の小さな丘の上のあの900人の貧しい少年たちが集まっていたクイーンエリザベス中学であり、西営盤の中腹の濃密なイギリスの雰囲気の溢れる陸佑堂(訳者注:⑥)であり、獅子山の麓のあの小さな騒がしい大一教室であり、街の通りをスリッパを履いて市場に通った美孚の「新」団地であり・・・・
この場所とは、私のすぐ足元にあり、私の頼りない肩の上にものっている。名を香港という。
訳者注;
①羅文―歌手、2002年10月死去。
②黄霑―作家、作詞家、プロデューサー。2004年11月死去
③梁錦松-前香港特別行政区財政司司長
④何東-富豪で香港大学にも多額の寄付をし、その大学寮にも名がつけられた。映画『玻璃之城』の監督張婉婷も学生時代そこに入っていたため映画のシーンにも使われた。「何東の女の子」とはそこに入っていた女性たちのことではないか。
⑤陳方安生-前香港特別行政区政務司司長、現在立法議会補欠選挙に立候補中。民主派からの立候補者として注目されている。
⑥陸佑堂-香港大学内の大講堂
OXFORD(牛津大学出版社)出版
胡燕青著「更暖的地方」より『更暖的地方』
「もっと暖かい場所」
瀟湘の人少なきを厭うことなかれ、水多くマコモに米、岸辺にはイチゴに海苔と作物豊富なり
子供の読む物語では、カタツムリはみんな自分の家を背負って歩いているが、家が邪魔すぎて、それでカタツムリは歩くのが遅いのだ、といつも言われている。私たちはただ単に遅いだけだろうか?それどころか常にその場で足踏みをしているのではないか。重すぎる家が私たちの後ろ足をひっぱり、私たちをその場に固定しているのだろうか。家の空間が小さすぎて、私たちを閉じ込めているのだろうか。それとも、家の歴史がいたずらに長すぎて、私たちをがっちりと縛りつけているのだろうか。おそらくそのどちらでもないのだろう。私たちはずっと自分の家を探し当てられていなのに過ぎない―背中のその重い圧力の外には、私たちには何もない。
父が私を母の傍から力ずくで引き離し、私を連れて香港にやって来た時、私は小学校に上がったばかりだった。当時の私の心にはある種強烈な感覚があった。それは、私たちはすぐに家に帰れる、離れ離れは少しの間のことだ、というものだった。しかし、その後数十年ずっと広州に帰って生活することはなかった。
あの頃私はほんとうに香港が嫌いで、香港は私の家ではあり得なかった。いつも自分は家を離れた夢を見ていて、ごちゃごちゃした都市の夢を見ているだけなのだと考えていた。そこには、偉大で尊敬できるものは少しもない―英雄はおらず、少年先鋒隊の赤いスカーフはなく、国旗掲揚の儀式はなく、「祖国」や「犠牲」等という人をうっとりとさせる言葉もない。
そこでの通りの名前はすべて奇妙で俗っぽい。私が広州に住んでいたところは永漢路高街といい、後に北京路群衆街と改名されたが、前者は古典的で気高く、後者は先鋭的で昂揚感があり、どちらも好きだった。だが、花布街だの、大角咀だの、茘枝角道だのは心底嫌いだった。
香港人がつけた名前はみな泥臭過ぎ、原始的すぎて、見るだけで嫌になる。ほら、徳忌笠、缽甸乍、蘭開夏・・・・これはひど過ぎはしないか。私はすでに香港というこの見慣れぬ夢の中に住み続けてきてはいるが、心の中ではずっと自分の家を捜し求めていた。
しかし、広州の家は徐々に壊れていった。祖母が亡くなり、母はがんを患い、妹は北京に転勤になり、弟は失業した・・・・次々とやってくる砕け散る音が私の耳元でずっと破裂音を響かせていて、幼い頃から大人になるまで響き続け、一度も止むことがない。
家に帰れない恐怖は次第にはっきりとしてきた。広州には、私の子ども時代に猫と戯れ、妹と示し合わせて一緒に痰壺の上に座ってうんこをしたあの家はもうなくなってしまった。
香港へ来るのを申請することが、すなわち母と弟妹が「家に帰る」ということだったのだ。だが、心の中のこの「家」を彼らは見たことさえなかった。もし、父と私が6、7平方メートルの小さな部屋に住んでいるに過ぎず、多くの家庭と同じ便所、同じ台所を使わねばならないことを知っていたら、千数百尺の古い家から出てきた人がどうして慣れられるものだろうか。
母と弟が香港に来たころ、テレビではちょうど《獅子山下》(注訳:ライオンロックの麓)というドラマの第一集を放送し始めたところだった。その時私はすでに大学生になっていた。
テレビの中の「香港人」が住んでいるのは公営団地であり、香港テレビが彼らを主人公にしたことから、当時の典型的な市民とは正しく普通の下層の人々だったということがわかる。
私と母は背中を丸め二段ベッドの縁に座ってテレビを見ていたが、まるで自分の願望を見ているかのようだった。四人一部屋の生活環境から逃れ、公営住宅へ入ることが、私たちの「家に帰る」ことの新しい夢となった。
20年が過ぎた。父と母の家はずいぶん大きくなった。民間の住宅を買い、公営団地は政府に返した。馬鞍山恆安団地の束の間の家は、私の三人のやんちゃな子どもたちに多くの笑い声をもたらしてくれた。団地の傍の緑深い小道で、子どもたちは一人また一人と自転車に乗れるようになった。このすばらしい「家」は、今ではすでに記憶の貯蔵庫へしまい込まれて、記念品となってしまった。けれど、その他の幾つかの記憶はより特別な形で処理する必要があり、そうしなければ、人生における痛みとなってしまうだろう。
二年前、母は私を連れて広州の「家」に帰った。私たちは階下からすでに見知らぬ人が住んでいる家を見た。母はあちこちを指差し、指で多くの過ぎ去ったことの輪郭を描いた。私たちはそこにしばらく立って、頑強な過去にひとつの地理的な終止符を打ったのだった。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。
そこを離れる時、母は私を連れて果物を買いに行った。私は言った、「昔は広州でこんなにいい果物は絶対食べれなかったよ」母はさらにその小さな店の主と値切り交渉をした。それが単に本当の商業社会での必然的な儀礼にすぎないことは分かっていた。果物を手に下げると、私たちはもっと暖かい南の方へ向けて歩いていった。
97年の香港返還の後、30年間の豊かな日々を送った香港人は貧しくなった。一軒の「家」を持ったために、多くの友人たちが「不良債権の人」になってしまった。
高給と高い地位を捨てた財政司司長が、突然この《獅子山下》という歌を持ち出したことに、私はとても多くの感慨を覚えた。テレビがそのためにまた改めてこの歌を放送しなおした時、私は感動を抑え切れなかった。
私は自分の心を振返ってみた。もともと私はすでに香港というこの場所を受け入れてしまっていたのだろうか。この相も変わらずごちゃごちゃとした都市が自分の家であることを認めるようになっていたのだろうか。古臭い尖沙咀、土瓜湾、鹹魚欄、西湾河・・・・今の私は喜んで「他人の物は自分の物」としてしまっていたのだろうか。
羅文(訳者注①)のあの張りつめて高揚した歌声、さらに黄霑(訳者注②)の感情的に過ぎるが、しかし自らを鼓舞する歌詞、それらにとうとう私の涙がはらはらとこぼれ落ちた。
光る涙の中に、私は突然梁錦松(訳者注③)が香港大学九十周年の記念行事の晩餐会で台上に駆け上がり、何東(訳者注④)の銅鑼を奪い取ったのを見、また引退して間のない陳方安生(訳者注⑤)が何東の「女の子」の一群の中に立ち、彼を大声で叱っているのを見、また大学へ入ったばかりの頃、図書館へ入る勇気がなくて同級生にからかわれた時の狼狽した自分の顔を見、はっきりとした手ごたえのある過去が確かに次第に自分の子供時代の強大な家に帰るという夢を覆っていくのを見た。
家に帰る、ということの元来の意味はひとつの予想外の贈り物をほんとうに受け取ることに過ぎないのだ。どんな子供にもみな、自分の欲しいものが父母がくれるものとは違っていたという経験があるものだ。
成長してから後、あの世の父がすでにもっとよいものを贈ってくれていたことに私は気がつき始めていた。私はただずっと傍に立ち、かんしゃくを起こして求めようとしなかったのに過ぎなかった。
つまるところ、今の私はもう赤いスカーフをつけることを渇望する広州の子供ではなくなっていたのだ。香港へやってきた時に、もともととっくに家も運んできていたのだった。
ハイスクールの時、校歌にこんな一節があった、“’T was mine, but was not mine alone.” (訳者注:それは私のものだったが、私だけのものではなかった)この言葉以上に今この地にある私の気持ちを形容できるものがあるだろうか。
私の家が本来ちゃんとあった場所とは、売春婦や露天商ややくざたち、それに多くの真面目な労働者たちが必死に生きていた深水[土歩]であり、また旺角の小さな丘の上のあの900人の貧しい少年たちが集まっていたクイーンエリザベス中学であり、西営盤の中腹の濃密なイギリスの雰囲気の溢れる陸佑堂(訳者注:⑥)であり、獅子山の麓のあの小さな騒がしい大一教室であり、街の通りをスリッパを履いて市場に通った美孚の「新」団地であり・・・・
この場所とは、私のすぐ足元にあり、私の頼りない肩の上にものっている。名を香港という。
訳者注;
①羅文―歌手、2002年10月死去。
②黄霑―作家、作詞家、プロデューサー。2004年11月死去
③梁錦松-前香港特別行政区財政司司長
④何東-富豪で香港大学にも多額の寄付をし、その大学寮にも名がつけられた。映画『玻璃之城』の監督張婉婷も学生時代そこに入っていたため映画のシーンにも使われた。「何東の女の子」とはそこに入っていた女性たちのことではないか。
⑤陳方安生-前香港特別行政区政務司司長、現在立法議会補欠選挙に立候補中。民主派からの立候補者として注目されている。
⑥陸佑堂-香港大学内の大講堂