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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

もっと暖かい場所

2007-10-27 12:05:34 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ておりませんので、著作権を侵害しており、抗議等あり次第削除される可能性があります。

OXFORD(牛津大学出版社)出版
胡燕青著「更暖的地方」より『更暖的地方』




「もっと暖かい場所」


瀟湘の人少なきを厭うことなかれ、水多くマコモに米、岸辺にはイチゴに海苔と作物豊富なり



子供の読む物語では、カタツムリはみんな自分の家を背負って歩いているが、家が邪魔すぎて、それでカタツムリは歩くのが遅いのだ、といつも言われている。私たちはただ単に遅いだけだろうか?それどころか常にその場で足踏みをしているのではないか。重すぎる家が私たちの後ろ足をひっぱり、私たちをその場に固定しているのだろうか。家の空間が小さすぎて、私たちを閉じ込めているのだろうか。それとも、家の歴史がいたずらに長すぎて、私たちをがっちりと縛りつけているのだろうか。おそらくそのどちらでもないのだろう。私たちはずっと自分の家を探し当てられていなのに過ぎない―背中のその重い圧力の外には、私たちには何もない。



父が私を母の傍から力ずくで引き離し、私を連れて香港にやって来た時、私は小学校に上がったばかりだった。当時の私の心にはある種強烈な感覚があった。それは、私たちはすぐに家に帰れる、離れ離れは少しの間のことだ、というものだった。しかし、その後数十年ずっと広州に帰って生活することはなかった。

あの頃私はほんとうに香港が嫌いで、香港は私の家ではあり得なかった。いつも自分は家を離れた夢を見ていて、ごちゃごちゃした都市の夢を見ているだけなのだと考えていた。そこには、偉大で尊敬できるものは少しもない―英雄はおらず、少年先鋒隊の赤いスカーフはなく、国旗掲揚の儀式はなく、「祖国」や「犠牲」等という人をうっとりとさせる言葉もない。

そこでの通りの名前はすべて奇妙で俗っぽい。私が広州に住んでいたところは永漢路高街といい、後に北京路群衆街と改名されたが、前者は古典的で気高く、後者は先鋭的で昂揚感があり、どちらも好きだった。だが、花布街だの、大角咀だの、茘枝角道だのは心底嫌いだった。

香港人がつけた名前はみな泥臭過ぎ、原始的すぎて、見るだけで嫌になる。ほら、徳忌笠、缽甸乍、蘭開夏・・・・これはひど過ぎはしないか。私はすでに香港というこの見慣れぬ夢の中に住み続けてきてはいるが、心の中ではずっと自分の家を捜し求めていた。



しかし、広州の家は徐々に壊れていった。祖母が亡くなり、母はがんを患い、妹は北京に転勤になり、弟は失業した・・・・次々とやってくる砕け散る音が私の耳元でずっと破裂音を響かせていて、幼い頃から大人になるまで響き続け、一度も止むことがない。

家に帰れない恐怖は次第にはっきりとしてきた。広州には、私の子ども時代に猫と戯れ、妹と示し合わせて一緒に痰壺の上に座ってうんこをしたあの家はもうなくなってしまった。

香港へ来るのを申請することが、すなわち母と弟妹が「家に帰る」ということだったのだ。だが、心の中のこの「家」を彼らは見たことさえなかった。もし、父と私が6、7平方メートルの小さな部屋に住んでいるに過ぎず、多くの家庭と同じ便所、同じ台所を使わねばならないことを知っていたら、千数百尺の古い家から出てきた人がどうして慣れられるものだろうか。



母と弟が香港に来たころ、テレビではちょうど《獅子山下》(注訳:ライオンロックの麓)というドラマの第一集を放送し始めたところだった。その時私はすでに大学生になっていた。

テレビの中の「香港人」が住んでいるのは公営団地であり、香港テレビが彼らを主人公にしたことから、当時の典型的な市民とは正しく普通の下層の人々だったということがわかる。

私と母は背中を丸め二段ベッドの縁に座ってテレビを見ていたが、まるで自分の願望を見ているかのようだった。四人一部屋の生活環境から逃れ、公営住宅へ入ることが、私たちの「家に帰る」ことの新しい夢となった。



20年が過ぎた。父と母の家はずいぶん大きくなった。民間の住宅を買い、公営団地は政府に返した。馬鞍山恆安団地の束の間の家は、私の三人のやんちゃな子どもたちに多くの笑い声をもたらしてくれた。団地の傍の緑深い小道で、子どもたちは一人また一人と自転車に乗れるようになった。このすばらしい「家」は、今ではすでに記憶の貯蔵庫へしまい込まれて、記念品となってしまった。けれど、その他の幾つかの記憶はより特別な形で処理する必要があり、そうしなければ、人生における痛みとなってしまうだろう。

二年前、母は私を連れて広州の「家」に帰った。私たちは階下からすでに見知らぬ人が住んでいる家を見た。母はあちこちを指差し、指で多くの過ぎ去ったことの輪郭を描いた。私たちはそこにしばらく立って、頑強な過去にひとつの地理的な終止符を打ったのだった。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。

そこを離れる時、母は私を連れて果物を買いに行った。私は言った、「昔は広州でこんなにいい果物は絶対食べれなかったよ」母はさらにその小さな店の主と値切り交渉をした。それが単に本当の商業社会での必然的な儀礼にすぎないことは分かっていた。果物を手に下げると、私たちはもっと暖かい南の方へ向けて歩いていった。



97年の香港返還の後、30年間の豊かな日々を送った香港人は貧しくなった。一軒の「家」を持ったために、多くの友人たちが「不良債権の人」になってしまった。

高給と高い地位を捨てた財政司司長が、突然この《獅子山下》という歌を持ち出したことに、私はとても多くの感慨を覚えた。テレビがそのためにまた改めてこの歌を放送しなおした時、私は感動を抑え切れなかった。

私は自分の心を振返ってみた。もともと私はすでに香港というこの場所を受け入れてしまっていたのだろうか。この相も変わらずごちゃごちゃとした都市が自分の家であることを認めるようになっていたのだろうか。古臭い尖沙咀、土瓜湾、鹹魚欄、西湾河・・・・今の私は喜んで「他人の物は自分の物」としてしまっていたのだろうか。

羅文(訳者注①)のあの張りつめて高揚した歌声、さらに黄霑(訳者注②)の感情的に過ぎるが、しかし自らを鼓舞する歌詞、それらにとうとう私の涙がはらはらとこぼれ落ちた。

光る涙の中に、私は突然梁錦松(訳者注③)が香港大学九十周年の記念行事の晩餐会で台上に駆け上がり、何東(訳者注④)の銅鑼を奪い取ったのを見、また引退して間のない陳方安生(訳者注⑤)が何東の「女の子」の一群の中に立ち、彼を大声で叱っているのを見、また大学へ入ったばかりの頃、図書館へ入る勇気がなくて同級生にからかわれた時の狼狽した自分の顔を見、はっきりとした手ごたえのある過去が確かに次第に自分の子供時代の強大な家に帰るという夢を覆っていくのを見た。

家に帰る、ということの元来の意味はひとつの予想外の贈り物をほんとうに受け取ることに過ぎないのだ。どんな子供にもみな、自分の欲しいものが父母がくれるものとは違っていたという経験があるものだ。

成長してから後、あの世の父がすでにもっとよいものを贈ってくれていたことに私は気がつき始めていた。私はただずっと傍に立ち、かんしゃくを起こして求めようとしなかったのに過ぎなかった。

つまるところ、今の私はもう赤いスカーフをつけることを渇望する広州の子供ではなくなっていたのだ。香港へやってきた時に、もともととっくに家も運んできていたのだった。



ハイスクールの時、校歌にこんな一節があった、“’T was mine, but was not mine alone.” (訳者注:それは私のものだったが、私だけのものではなかった)この言葉以上に今この地にある私の気持ちを形容できるものがあるだろうか。

私の家が本来ちゃんとあった場所とは、売春婦や露天商ややくざたち、それに多くの真面目な労働者たちが必死に生きていた深水[土歩]であり、また旺角の小さな丘の上のあの900人の貧しい少年たちが集まっていたクイーンエリザベス中学であり、西営盤の中腹の濃密なイギリスの雰囲気の溢れる陸佑堂(訳者注:⑥)であり、獅子山の麓のあの小さな騒がしい大一教室であり、街の通りをスリッパを履いて市場に通った美孚の「新」団地であり・・・・

この場所とは、私のすぐ足元にあり、私の頼りない肩の上にものっている。名を香港という。






訳者注;
①羅文―歌手、2002年10月死去。
②黄霑―作家、作詞家、プロデューサー。2004年11月死去
③梁錦松-前香港特別行政区財政司司長
④何東-富豪で香港大学にも多額の寄付をし、その大学寮にも名がつけられた。映画『玻璃之城』の監督張婉婷も学生時代そこに入っていたため映画のシーンにも使われた。「何東の女の子」とはそこに入っていた女性たちのことではないか。
⑤陳方安生-前香港特別行政区政務司司長、現在立法議会補欠選挙に立候補中。民主派からの立候補者として注目されている。
⑥陸佑堂-香港大学内の大講堂
    

出前一丁を台無しにする

2007-10-19 21:01:55 | Weblog
著者の同意を得ずに翻訳し、掲載しているため、著作権を侵害しており、抗議等あり次第削除する可能性があります。


TOM(Cup Magazine)Publishing Limited 出版

梁家権著「尋找失落的菠蘿油」より『糟蹋了出前一丁』



「出前一丁を台無しにする」


インスタントラーメンを総括すれば、たった三種類しかない。「福」字麺、公仔麺と出前一丁だ。ここ数年日系スーパーマーケットの棚に山積みにされた日本ブランドはぜいたく品であり、主流となるのは困難だ。

「福」字麺は正真正銘のインスタントラーメンで、離島フェリーや学校の購買部では多くが「福」字麺を使っている。その卸値はかなり安く、市場のシェアを奪い取っているが、だが、実はその作り方が簡単だからこそ購買部の歓心を得られているというのが本当のところだ。

「公仔麺」という名前はよくつけたもので、すでにインスタントラーメンの代名詞になっている。ところが思いがけないことに、その有名さがたたって、屋台や茶餐廳などでは良かろうが悪かろうが、すべて公仔麺と呼んでいるが、ところが運ばれてくるのはもちろん安物で、可哀そうに公仔麺は麺の質は同じように良質なのに、「出前一丁」に王座を占められている。

出前一丁がインスタントラーメンの中の貴族となれたのは、値段の設定が主な要因だ。人間は食べれば食べるほど「こだわる」ようになり、2ドル余計に出して「丁麺」に買い換えたから、ワンランク上がって、よりおいしいと感じているだけで、これは価格が市場を動かしたわけである。

どのインスタントラーメンがうまいのだろうか。化学調味料の種類や、ごま油かラー油が入っているかどうかは省く。

「福」字麺はただ熱湯を注ぎ、数分間蒸すだけで、一丁上がり、である。ただお湯に浸け、蒸すだけで煮たりはしないので、手品師でも麺を硬くしたり軟らかくしたりはできない。それは食べる人には分かりきったはずのことで、ただ腹を膨らせるか、あるいは食べ癖をなだめるためだけに食べるのであって、それ以上何を望むだろうか。

公仔麺と出前一丁は、もし本物の公仔麺を食べるのなら、両者の麺の質には実はそれぞれ優劣はある。問題は、うまいかまずいかは往々にして麺を煮る人の腕にかかっているのであって、麺の質によって勝ち負けを決めるものではないことだ。

「福」字麺は最も簡単なように見えるが、麺を煮る人間が注意深くこの簡単な任務を全うしようとしないのはどうにもできない。注いだお湯はぬるく、ランチの肉をちょっと炒めることすらせず、せいぜい生暖かいお湯で麺を伸ばすだけで、その結果蝋を食べるような味になる。さらにひどいのになると、麺を盛る丸い碗に四角い麺の塊が収まりきらないため、店員はさっさと勝手に麺の塊を二つか三つに砕いてしまい、箸で麺を挟むのにも難儀してしまう。

公仔麺と出前一丁は熱湯で蒸したり、あるいは電子レンジで「チンッ」したりしても、良い結果は得られないだろう。茶餐廳や大牌[木當]でさえそこまでいいかげんなことはせず、とにもかくにもちょっとは煮てくれる。「カップ麺」は除くが。

煮る、というこの手順が誰にも知られていない安物のインスタントラーメンをごちそうに変身させることができ、また出前一丁を完全に台無しにしてしまうこともできるのだ。

私はまずいのを食べた経験が嫌というほどある。事前に麺をどっさり湯通しして下準備をしておき、それでもって客の「オーダー」があると、ちょろちょろっと煮ただけでテーブルに出し、時間と手間を省くという店が多すぎる。

しかし、たとえその身気高き出前一丁といえども、事前の湯通しという蹂躙を受ければ、湯通しの後再び煮るまでの長い歳月の間に、麺の身は情け無用の水分を吸って伸びきってぐずぐずになってしまい、こしのある特質は跡形もなくなり、いくら煮ても再起は不能である。

インスタントラーメンを一個煮るのに何の困難があろうか。お湯を沸かし、麺を三分間煮て、軟らかめがよければ鍋にふたをしてすぐに火を消し、一分間蒸すのだ。

だが、私はレストランのオーナーに怠け者を雇って煮させることを勧める。そうすれば、同様に時間を節約できてコンロを遊ばせずにすみ、逆に客にうまい麺を食べさせることができるのである。

怠け者はちょちょっと煮てそれで良しとする。もちろん彼がふたをしてちょっと蒸してくれるなど贅沢な期待はできないし、ことにインスタントラーメンの質感が時間と共に変わることなど知りもしない。

「怠け者麺」は最初はやや硬く、まだ軟らかくなっていないし、それどころか麺の塊が部分的にまだ白くて、黄色く光ってはいないが、しかし煮あがった麺は熱すぎて、大口で頬張ることはできないから、口に入れるまで待つうちにちょうど食べる頃合となるのである。

何をするにも適材適所で選ぶべきで、ご大層なことをする必要はなく、スタッフを適した持ち場に配置することが、彼にとっても会社にとってもよいことなのだ。ただ、怠け者は人を見る目を持ったオーナーが自分を出前一丁を煮る場に配置換えしてくれることは期待しないことだ。今は困難なご時勢なので、オーナーにも怠け者を余分に雇う力はないのだから。

失われしバターメロンパンを求めて

2007-10-15 21:03:12 | Weblog
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TOM(Cup Magazine)Publishing Limited 出版

梁家権著「尋找失落的菠蘿油」より『尋找失落的菠蘿油』

訳者注:菠蘿とはパイナップルであり、菠蘿包とは本来はパイナップルパンと訳すべきだろうが、形状が似ており、日本人にはわかりやすいと思い、強いてメロンパンと訳した。油とはバターのことであり、メロンパンを割って中に厚切りのバターを挟んだものである。香港人のくせに、わが友クリスティーヌは油っぽいから嫌いだ、と言った。コレステロールが気になる人にはお勧めできない。



「失われしバターメロンパンを求めて」


バターメロンパンはこれにて消え去ってしまうのであろう、と考えていたら、思わぬことに、近年マスコミが飲食の懐旧ブームを持ち上げ、加えて芸能人何人かがそれをちょっとおだてあげたことで、何とまた生き返ってしまい、有名な飲食店がそろってその店の看板メニューに祭り上げるようになった。惜しむらくは、ほとんどがいたずらに名前ばかりのもので、その真髄がまったくないのだが。

マーガリンでは味が薄く、太るのが嫌ならいっそのこと食べないことだ。塩を入れたのはまた味が強すぎるし、地元の茶餐廳では少しクリーム味のするオーストラリア産の安物を使っているが、逆にこれが驚くほどマッチしている。

舌がバターと酸味を同時に楽しむのは無理がある。こともあろうに、調理場でレモンを切った包丁を使うのが好きな店員がそれでバターを切ったり、パンに切込みを入れたりするものだから、口に入れるとろくでもない味になっていたりする。

昨今包丁でバターを切るところはもうなくなってしまい、バターメロンパンを割ってみると、その哀れなバターは出ている部分は厚いが中身は薄い、そうでなければでこぼこの不揃いかで、まったく体をなしていない。時には店員の包丁さばきが雑すぎて、ひどく厚い一塊を食べさせられ、口中が油だらけになってしまうことがあるが、いわゆる中身というものは、5mmではあまりにもあんまりで、3mmこそが正しくぴったりくるのである。

焼き上がりのパンがいちばんおいしいということは誰でも知っているが、しかし午後になってもまだパンを作る茶餐廳が何軒あるだろうか。大部分が朝のうちにたくさん作り置きして使っているため、新鮮なパンを食べたければ朝のうちに限るわけで、昼を過ぎれば食べないことだ。

釜から出たばかりのがいちばんいいのだろうか?もちろん違う。釜から出たばかりのタルトとカクテルパンは絶対食べてはならない。タルトの卵クリームとカクテルパンの砂糖をまぶした糸切りココナッツは、共に火山の溶岩のように熱く、舌を火傷させるのは請け合いで、二、三日は物を食べても味が分からなくなる。それに、溶けきってしまったバターには何の意味もないから、釜出しされたばかりで熱々のメロンパンには冷蔵されたバターを入れられない。

パンにまだ少し温かみが残っている頃合にバターを挟むのが、口に入れる最高のタイミングで、暖かさに冷たさ、また暖かさという複雑なうまさこそがバターメロンパンを「楽しむ」真の姿なのだ。

オーブンから出たパンは、まるで少女の肌のようで、柔らかく滑らかで、また弾力があるが、パンは美人と同じで、世間に老いをさらしてはならない。パンが長く放っておかれると、古いレンコンのようになってしまい、縮んで引き締まり、もう一度焼くと硬くぱさぱさになってしまうだろう。

しかし現在では朝だろうと夜だろうと、バターメロンパンを注文すると、いつも手がやけどするほど熱く、またまあまあしんなりしたものが出るが、それはすべて電子レンジのおかげである。ある時など、明らかにパンは焼き釜から出されてさほどたっておらず、ようやく冷めたばかりというところだったのに、店員は確信が持てなくて、「チンッ」と一回やってから客の前に出したものだ。

あにはからんや、科学技術の普及はいいことずくめではなく、電子レンジはすべてのパンを台無しにしてしまうのである。人間が年をとると、美容整形で羊の胎盤やボトックスなどを注射するが、それはただ人によく見せんがためであり、他人に食べさせるわけではなく、まぁそうしてはいけないわけでもないが、しかしパンはマイクロ波の衝撃を受けると、防腐剤を施した死体のように軟らかくなってしまい、湿って弾力のない(信じてほしい。私は押したことがある)まったく生気のないものになってしまう。このようなバターメロンパンを食べるよりは、大量にスターチをまぜたコーンスープを飲むほうがまだましだ。

おいしいバターメロンパンを作るには、さほどの知識がなくても、その簡単な手順をはっきりさせ、細かいところで手を抜きさえしなければ、実のところ誰でもが作れるものである。要は心をこめることであり、それには大した体力と忍耐を使う必要もなければ、すごいコストをかける必要もないのだ。

だが、頭を使うことをしないか、あるいはただ単に「手っ取り早く」ブームに乗りたくて、人がやるから自分もやっているだけという人が多すぎるのだ。もともと、飲食での見せ場を思いついたのはいい考えなのだが、その実行の過程で過ちを犯しているのであり、これこそ正に失敗に終わった数多くの商売の敗因なのだ。金もうけのアイデアを思いつくのは難しいし、実行する難度も軽視できない。しかし、企画と実行とは、実は理屈は同じであり、人間こそが最も重要な要素なのである。

やれやれ、実にあっぱれなのは、電子レンジバターメロンパンが依然として大手を振って歩いていて、客がそれを楽しんでいることだ。電子レンジが進歩したのではなく、世間には食ということが分からず、物の良し悪しも分からない人間が大多数を占めているというわけである。

宋姑娘のロックハートロード

2007-09-27 20:25:10 | Weblog
以下の文章は著者の許諾を得ず翻訳掲載していますので、著作権を侵害しており、抗議等あり次第削除する可能性があります。

原文:文学世社出版の「香港記憶」より『宋姑娘的洛克道』


宋姑娘のロックハートロード

著者:徐行

1、
深夜、建物全体が深い眠りについていた。突然、ひとしきり急き立てるように呼び鈴が鳴り、ドアを叩く音がして、人々の安らかな夢をぶち壊したが、しかし誰も驚かなかった。なぜなら何が起こったのかみんな知っていたからだ。やはり、門の外では酔っ払いの外国語がわめきたてられ、ある女性の名前を呼んでいるようだった。

毎回騒動は長い間続き、警察が駆けつけて、ようやく収まる。翌朝ドアを開けると、階段にはまだ酒臭さが充満していた。


2、
あれは50年代末のことだ。私は子どもで、田舎なまりがまだぬけず、大陸から移民してここに来たばかりで、この地区、湾仔に住み、この街に住んで、グロースターロード133号にある、階段がひとつで各階二部屋ずつあるこの4階建ての最上階に住んでいた。向かいにはひとりの女性が住んでいて、年は45にはならないが、40にはなっていただろう。むっちりしたスタイルで、とても細い腰をしていた。毎日黄昏になると、厚化粧をし、身体にぴったりした旗袍(チーパオ)を着て、足にはハイヒールを履き、胸とお尻を突き出して、かっかっと階段を下りていくのだった。

階段はあっという間に鼻を突く香水の匂いが満ち溢れ、長らく消えることがなかった。


3、
彼女は宋姑娘(そんくーりょん)と呼ばれていた。上海人だった。
(注:姑娘とは「お嬢さん」という意味)

後に本をたくさん読むようになり、白先勇の書いた本で尹雪艶や金大班を読むようになると、私はすぐに宋姑娘を思い出した。張愛玲の旗袍姿の写真を見れば、宋姑娘を思い出した。
(注:白先勇は台湾の外省人作家。張愛玲も作家で新中国成立後米国に在住。長命だったが1995年死去。長國栄が出演した「覇王別姫」の原作者でもある)

60年代のあるアメリカ映画のことを憶えているのだが、《スージー・ウォンの世界》といって、男性主人公がウィリアム・ホールディングで、女性主人公がアメリカ国籍の中国系女性スターのナンシー・クワンだった。ナンシー・クワンはバーのホステスで、「ワンチャイガール」と呼ばれていた。映画はよく流行り、そのため一時期「スージー・ウォン」が「バーのホステス」の代名詞になったほどだ。ナンシー・クワンの着た旗袍の優雅さは別格で、もちろん宋姑娘よりずっときれいだった。

あの頃、私は宋姑娘が少しもきれいだとは思わなかった。しかし、意外にも、このうば桜が何と無数のアメリカ兵をとりこにしていたのだった。バーでも、アパートでも、まだ欲求が治まらず、さらに家まで押しかけて楽しもうとするのだ。しかし、いつもいつも家の呼び鈴を押し間違え、別の家のドアを叩いたりするのだった。私は子どもの頃夢を見ることが特に多く、大半の夢がこんな風に目を覚まさせられたものだ。


4、
宋姑娘の大本営はロックハートロードにあった。当時のロックハートロードは、通りを二本過ぎると、もうビクトリア港だった。そこのある区域の埠頭は軍艦のボートの乗降専用に使われていた。あのロックハートロードの一角にバーが林立するのも当然のことだ。朝鮮戦争の時や、ベトナム戦争の時、軍艦が次々とやってきては無数の水兵たちを吐き出していた。彼らはまるで明日がないかのように、陸に上がるやいなや酔っ払って夢うつつに時を過ごすのだった。

バーは大繁盛だった。宋姑娘と彼女の仲間たちも大繁盛していた。彼女たちは、その多くが大陸の支配者が変わった後、上海から転戦してきた社交界のヒロインたちで、飢えきった兵隊に「母性愛」を施してやるのである。

ロックハートロードは、夜になったとたん、灯と女たちが一斉にあでやかさを競い始める。バーの中は喧嘩が絶えず、バーの外では空を揺るがすほどの大騒ぎがあり、数え切れないほど多くの兵隊たちが酔っ払い、嘔吐しまくって、大声で叫び、互いに追いかけあい、殴り合いまでしていた。秩序維持のため憲兵たちは走り回ってくたくただった。

年配者たちは、夜になったら外に出てはならないと、私たちに言いつけた。


5、
宋姑娘はあっという間に年をとった。
ある晩、味を占めたある兵隊が、数年たってから、軍艦がまた寄港してきたので、彼は大急ぎで取る物も取りあえず、家を探して来た。宋姑娘のあのまだ白粉を塗らず、整えていない顔を見るやいなや、ぎゃっと一声叫び、階段を走り降りていった。これ以後、階段にはもう香水の匂いは残らなくなり、さらに家の者が吐きそうになった酒臭さもなくなった。

宋姑妹は完全に引退し、住んでいた所も取り壊され、同じ街の金国ビルに引っ越して、同郷人の家の一間を借り、落ちぶれた日々を送った。

70年代、宋姑娘はすでに老いてしまっていたが、兵隊は老いてはおらず、また湾仔地区全体が逆に若返った。80年代になり、聞くところによると、宋姑娘は子供も跡取りもなく寂しく死んだそうだが、その後ロックハートロードのバーはひどく減ってしまい、ああいった「宋姑娘」もフィリピン女に取って代わられてしまった。

どうやらひとつの時代がここに終わりを告げたようである。

新井さんのエッセーを翻訳して

2007-09-22 23:09:48 | Weblog
前々回は新井さんの香港におけるあまりいいとはいえない経験を載せた。しかし、新井さんの香港での3年半の生活には当然楽しいことも多々あったわけであり、前回のエッセーは、そのほのぼのとした味わいがよく、その前のエッセーの雰囲気を補完するために翻訳した。
 
また、以前新井さんのことを書いた文章の中で前回のエッセーを元に、新井さんが、失意のうちに香港を去ったと書いたように記憶しているが、これは100%そうだとは言い切れない。というのも、他のエッセーで、新井さんは現在のご主人と香港で「運命的」に出会い、双方一目ぼれしたということを書いていて、結婚のために帰国したという側面もあるらしいからだ。

しかし、既婚の香港人家庭を訪れたことがある人なら経験があると思うが、日本人から見れば、こちらの顔が赤くなるようなポーズの、結婚衣装を身に着けた夫婦の大きな結婚記念写真が飾ってあったりする。例えば、二人でうっとりと仰角30度で遠くの星を見つめている、とかそんなやつである。

新井さん夫妻の出会いを書いたエッセーも、正にそんな風なベタにロマンチックな文章なので、それは避けることにした。

あれがもし日本語なら新井さんはああいった書き方をしただろうか、とふと私は疑問に思ったからだ。中国語だからこそああいった風に書けるのではないだろうか。もし、日本語だったら、照れてしまってもう少し控えめになりそうな気がする。

言葉は文化そのものだ。だから中国語で書くか日本語で書くかで文体が変わる可能性は高いだろう。つまり、中国語で書く時は中国人になっちゃってる、ともいえるし、またそれくらいでないと、上手な中国語は書けないと思う。

それから、原文は「上海理髪店」だったので、日本語では「理容室」とした。

これでは日本では主に男性の行く散髪屋さんを連想するので、「美容院」と訳そうかとも思ったが、中段ほどのところに中国語でセントラルの「美容院」というのが出てくる。つまり、著者である新井さんが「理髪店」と「美容院」を使い分けしていると思えるので、「理容室」とすることにしたわけだ。こればかりは著者に聞いてみないと分からないことだが、ひょっとしたらすべて「美容院」で統一した方が良かったのかもしれない、と考えているところだ。

新井さんの帰国が1997年だから、この「上海理髪店」は少なくとも10年以上前のことを書いたということになる。

私は香港在住者ではないから、あまり詳しいことがわからないのだが、この青年理容師は新移民なのだろうか。かつて国共内戦時に多くの上海人が香港へ逃れてきたというが、その親戚とかを頼って移民申請をし、認められたのかもしれない。そして故郷で嫁を取り、仕送りをしている。香港では大した稼ぎではなくてもレートの関係で、大陸では嫁がそこそこの暮らしをするには十分だろう。

そういえば、10年くらい前からレストランや小売店で普通話を話せるウェイターやウェイトレスが増えてきていた。一見農民や労働者らしくない雰囲気の人がそういった底辺の仕事をしているのを不思議に感じた時期もあった。

新移民の人たちは、大部分がまず底辺の仕事からスタートするという話を聞いたことがある。ウェイターやウェイトレスといっても、ただお盆に料理を載せて運ぶレベルの仕事だ。それを客のテーブルに置くのはまたワンランク上の黒服がする。

そして、運がよければ、人づてにかつて大陸でやっていた自分の技術や知識を生かせる仕事に就いていき、それからその会社で、そうでなければ転職でステップアップしていく。

この青年理容師は、新井さんが去った後の10年後の今どうしているのだろうか。お金をためて、自分で店を持っているのだろうか。それともまったく違う仕事に就いているのだろうか。またそれとも、香港に見切りをつけ、「上海」に帰ってしまっただろうか。

今は大陸からどんどん観光客がやってきて、街でも北京語があふれているし、何だか昔と違って大陸から来た人たちが肩で風を気って歩いているように思える。おかげでホテル代が上がり、貧乏な日本仔としては悲鳴を上げている始末だ。

それに香港の大学も優秀な学生を確保するために大陸で高校の卒業生に募集をかけている。また、大陸から外国へ留学した学生が卒業後香港の企業から誘いを受けて、香港で就職するという話も聞く。こうなると今後は香港人の大陸人に対する目もどんどん変っていくだろう。

今回、新井さんの「上海理髪店」を訳してみて、10年前と今との落差に目がくらむ思いがする。「上海理髪店」に感じた、ほのぼのとした、一種牧歌的とでもいえるような感傷はもう再び感じることはないような気がするのである。