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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

香港式ミルクティーあれこれ(4)

2007-08-20 21:21:40 | Weblog
以下の文章は許可を得ずして翻訳及び掲載しているため著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

原文:文學世社出版「香港記憶」中の『港式奶茶瑣語』
著者:小航(編集者・香港資深文學工作者)


香港式ミルクティーあれこれ(4)

香港の労働者階級にはもともと午後3時15分に午後のお茶を飲む慣例があり、長い時間こき使われれば、いかに薄情な社長といえども使用人に一休みさせ、外へ出てほっと一息するのを許さないわけにはいかない。労働者は普通大牌[木當]か茶餐廳で一杯のミルクティーを楽しみ、トーストを一枚食べ、元気を取り戻して、また残りの長く辛い仕事をやり過ごすのである。

イギリス人もお茶を飲むのが好きなことが知られているが、彼の国の国情に詳しい学者の説によると、イギリス国民は無論お茶を愛するが、しかし風習は各々異なり、紳士が飲むのは紅茶そのものであり、中には何も加えない。そして砂糖やミルクをたっぷり入れるのは、鉱夫や沖仲士の類の労働者だと相場が決まっている。

これは簡単な話で、ミルクや砂糖はカロリーが高く、労働者の体力の回復を大いに助けるが、高貴な紳士方の贅沢で安逸な生活ではお茶を飲むのはその芳香を品定めすることにあるのであり、砂糖やミルクを入れてしまえば、紅茶本来の味をたしなむことはできなくなってしまう。

だから、高貴な場でお茶を飲む際に、もしせっせと砂糖とミルクを入れたりしてしまえば、まったくお里が知れてしまうことになる。香港は元はイギリスの植民地だったので、お茶を飲むことにおいては結構「宗主国」のスタイルを受け継いでいるのである。

 香港式ミルクティーの飲み方は少しばかり独裁的だと言ったが、しかし自由も自分で勝ち取ることができるものなのだ。客が店員にミルクティーを注文し、もし別に何も言わなければ、調理場の調理師はもちろん自分の口に合ったものを客に調合するだろう。

客がもし他人任せにしたくなければ、店員に自分の要求を出すこともできる。お茶が甘すぎるのが嫌なら、「茶少甜」と言えばよく、調理師は当たり前のこととして砂糖を少なめにしてくれるだろう。「多奶少甜」と言うこともできるが、それはつまりミルクを増やして、砂糖を減らすということであり、逆に「少奶多甜」と言うことも当然ありである。(注:奶とはミルクのこと)

ここでちょっとミルクティーに使うのがいったいどんなミルクなのか言っておかねばならない。高級レストランで使うのは大抵牛乳か紅茶とコーヒー用の味を調えるためのミルク製品なのだが、茶餐廳で使うのはその多くがコンデンスミルクであって、この種のミルクはやや濃縮されており、紅茶に入れると紅茶の滑らかさを強めてくれる。当然のことながら、ミルクが多ければ多いほど、紅茶の苦味は抑えられ、口当たりがよくなるのだが、しかし紅茶の香と濃さはそれにつれて減じてしまうのである。

もし客がただミルク入りの紅茶を飲みたいだけで、砂糖を入れたくなければ、「茶走糖」と言えばいいことにならないか。だめ、である。それでは意味はちょうど逆になってしまう。砂糖を入れなければ、調理師は代って練乳を入れてしまうだろうが、練乳は濃く甘い再生ミルクであり、特別なミルクの香りと甘みがあって、だから紅茶の中に練乳を入れるのが好きな人は、一言「茶走糖」と言えば、その客が何を欲しているのか調理師はすぐにわかるのである。

南洋の華人は紅茶とコーヒーを飲むのが好きだが、入れるのはすべて練乳である。ちょっとした甘みも要らないならば、「茶走甜」と言うべきで、また「茶稀奶」と言ってもいい。稀とは淡(注:あっさりした)という意味である。

「飛砂走奶」に至ってはまたどんな飲み方なのだろうか。聡明な方はひょっとしたらもう察しがついているかもしれないが、「飛砂」とは砂糖を入れないことであり、「走奶」とは即ちミルクを入れないことだから、この場合は何も入れないただの紅茶一杯ということになる。

香港式ミルクティーあれこれ(3)

2007-08-18 22:37:05 | Weblog
下級レベルの洋食レストランにいたっては、私たちは茶餐廳と呼ぶ。茶餐廳については、話せば実に長いことになる。

五、六十年代、香港はまだ貧しく、あるいは質素だったといってもいい。市民に朝昼晩の三食を供する食堂は、その多くが道端に店を構え、木でやぐらを組み、トタン板を載せていたが、これがすなわち屋台飯屋であり、政府の衛生部門が免許を発行する。それは大牌と呼ばれ、このためこうした食堂のまたの名を大牌[木當]と呼ぶのである。(注:木當の字が日本語にないため[ ]で括った)

大牌[木當]で売られる食べ物にはありとあらゆるものがある。粥や麺があれば、潮州風「郷土料理」もあるが、更に多いのが洋風のミルクティーやコーヒー、トーストの類で、そこには山海の珍味などはあるはずもないけれど、値段が安いため、労働者大衆が腹を満たすという問題を解決する第一の選択肢となるのである。

ただひとつだけ特有なものがあるのだが、それはこの種の大牌[木當]で紅茶や珈琲を沸かすのに独特の方法があることだ。つまり、きめの細かい網袋を使い、茶葉或いはコーヒーを入れて、それから背の高いやかんの中に漬けてとろ火で煮つめる。

こうして煮つめられたコーヒーや紅茶、特に紅茶は口に入るときめ細かく香り深く、大ホテルの洋風紅茶でもあの滋味は出ない。人によってはこれを称してストッキングミルクティーと称するが、それはお茶を沸かす網の生地がつるつるとして目の細い、まるで女性たちがはくストッキングのようだからである。

大牌[木當]の主人の中には結構儲けたために、路上の店を室内に移したものもいて、それが茶餐廳となったのだが、お茶の煮出し方は古いやり方を踏襲した。

ここ十数年来、香港の生産ラインは絶え間なく北上し、輸出できる純粋な現地製品はすでになくなっているが、たったふたつだけ、大陸、台湾、そして海外の華人地区にいたるまで、今に至るもすたれることのない香港という看板を揚げた産物がある。ひとつが香港式焼臘であり、もうひとつが香港式ミルクティーである。
(注:焼臘とは豚肉、アヒル、鴨などをあめ色に焼いてつるしてあるあれである。臘とは臘腸で、中の肉に酒をしみこませた中国式ソーセージのことで、これを切って白米の上に乗せてたれをかけると臘腸飯いっちょうあがりということになる)
 
この香港式ミルクティーというのは茶餐廳のミルクティーのことで、あの高級ホテルとレストランでの上品で味わいのある西洋式紅茶ではない。その特別なところは、煮出し方法の他に、その濃さや薄さがすべてそれぞれの調理場の調理師の腕にかかっていることにもある。

高級レストランでミルクティーを注文したとすると、その紅茶とミルクは別々にポットと小さなミルクピッチャーで恭しく運ばれてきて、砂糖は別にひと匙加えることになるが、このため紅茶にどれだけミルクと砂糖を入れるかは、すべてご自由にということで、極めて民主的である。

ところが茶餐廳のミルクティーはひどく独裁的で、紅茶が客の目の前に持ってこられた時には、ミルクと砂糖はすでにお茶の中に入れてあり、もしお客様が甘すぎる或いは濃すぎるとお感じになられても抗議は許されず、次は二度とおいでにならなければすむことである。砂糖は客に自分で入れるにまかせる茶餐廳もあるが、しかしミルクということになると別に出されること絶対にない。

香港式ミルクティーあれこれ(2)

2007-08-17 20:55:02 | Weblog
香港の洋食レストランは高級、中級、低級の三階級に分けられる。高級店とは一般的には大ホテルの中にあり、またの名を「ステーキハウス」と呼び、そこでステーキを一枚食べれば、ややもすると百数十ドルとられ、その上オードブルだの、スープだの、飲み物や何やかやで一人300ドルは下らないことになってしまう。

中級レストランとは洋食レストランのことで、その多くがビジネス街か、或いは中高級住宅地に位置している。こうしたレストランは室内の雰囲気は薄暗く、テーブルには小さな花瓶に挿された花が置かれ、小さなロウソクが灯されている。シートは主として背もたれの高いソファーで、「ロマンスシート」と称される。ステーキは一人分で八、九十ドルだろうが、さらにスープと飲み物をつけたのを「コース料理」という。

中、高級レストランでステーキを食べると、ウェイターは一言聞くはずである。

「焼き具合は?」

生肉を食べられる人は、4分か5分の焼き具合にすべきだろう。半生のステーキは切るとまだ鮮やかな赤色をしており、肉汁はたっぷり、肉質は滑らかで柔らかく、多めにお金を払うに値するものである。

豚肉や羊肉の中には寄生虫が多いから、「焼き具合は」と聞く人はいないはずだ。血の滴る肉を食べるのに慣れていない人は、せいぜい7分の焼き具合をということになるだろうが、もし100パーセント焼いてくれと頼むと、ウェイターは身体の向きを変えて去りながら、客の背後でちょっと小馬鹿にした調子で一言うだろう。

「炭食うってか!」

中級洋食レストランはまた日本からいわゆる「鉄板焼」を導入した。鉄板を真っ赤に焼き、その上にステーキをのせて客の目の前に届け、それから上にたれをかけるのだが、たれが鉄板の上に流れ落ちると「ジャーッ」と音がし、水分が高温のため大きな白い霧の塊となって鉄板から立ち昇り、香料の香りと混じり合い、正しく色といい味といい、申し分ない。

しかし、ウェイターがたれをかける前に、客はまず予め渡されたナプキンを持ち上げるのだが、これは鼻を覆うのでもなければ、またお客様のブランド物の服を保護してさしあげるためのもでもなく、鉄板の前面を隔てる衝立にするのであり、こうしてこそ、水煙とともに四方に飛び散るたれがテーブルやお客様のお身体を汚さないですむというわけである。もし客がこのような儀式がわからなければ、香港のウェイターはひどく見下した目つきをする。

かのウェイター氏は荒っぽい手つきでナプキンを取り上げ、鉄板の前に立て、目で客に持つように命令するだろう。このような鉄板焼という代物は大ホテルの「ステーキハウス」にはないが、それは西欧の伝統にこの種のやり方がないからである。

王小二の年越し

2007-08-16 20:05:16 | Weblog
香港式ミルクティー(1)に「王小二の年越しのように・・・」という文章があるが、これは日本人には何の意味か見当もつなないだろうから、脚注を入れなかったのは私のミスだった。

この中国語の原文は「王小二過年、一年不如一年」という中国人なら誰もが知っている諺だが、実は私も知らなかったからインターネットで調べたのである。

昔、清の乾隆帝が巡視の途中、杭州で山遊びをして大雨に遭い、山中のある家に雨宿りをして、お腹が空いたので食事を頼んだが、家の主は貧乏だし、何の準備もないため、仕方なく残り物の魚の頭と豆腐を鍋に入れて、時間をかけてぐつぐつ煮込んで、乾隆帝に差し上げた。これが宮中にもないうまさで、皇帝はいたく気に入った。そして主に名前を聞くと「王小二」と答えたということである。

乾隆帝は首都に帰ってからもこの味が忘れられず、幾度も厨房に作らせてみたが、どれもが王小二の作った味には及ばなかった。

その後乾隆帝がまた杭州を訪れた時、以前雨に遭った日の王小二の料理を思い出し、彼に会いに行った。この時王小二は生活に困っており、皇帝に聞かれて、「一年不如一年」つまり「一年ごとに悪くなる一方です」と答えた。

このため、皇帝はこの一食の恩義に報いるため多額の金銀を与えて彼に「魚頭豆腐」を専門に作る店を開かせたという。これがこの諺の元となる話なのだそうである。

で、その店が杭州市にある「王潤興飯館」というレストランだということだが、私は行ったことがないので、その店が今もあるかどうか知らない。

外国語をやることで何が難しいかといえば、こういった類の諺だ。実生活の中で伝えられるものなので別に学問のない人でも普通に知っているのだが、辞書にも載ってないことの方が多いから、外国人にとっては難しい単語より、こういった言葉や諺の方が始末に困るのである。

それは、日本語でも同じで、例えば男二人の旅行を「これじゃとんだ弥次喜多道中だなぁ」と軽口を叩くと、意味はすっと通じるものだし、倒産しそうな会社に見切りをつける時、「忠臣蔵じゃあるまいし、会社と心中する気なんかねえよ」と言えば、これまた何のことかわかるだろう。

しかし、日本語を勉強している外国人からすると、これほど難解な言葉はないだろうと思う。外国語を勉強するということはその国の文化を知ることだというのが身に沁みてわかるのはこういう時である。

さて、王小二はその後研鑽を重ね、その料理の味を高めたため、他の店も競ってその料理を作るようになり、そのためこの「魚頭豆腐」が杭州料理の名物のひとつとなったそうだ。杭州に行かれる機会のある方は、一度当地で確かめてもらいたいものである。

そういえば、香港人も魚の頭が好きだ。家庭でもあの中華なべを使って石斑などの魚を丸ごと一匹蒸して出したりする。たれは醤油と油、それに生姜と葱をのせた簡単なものだが、まるまる一匹というのが豪華に見えるし、味もあっさりしているから日本人の口にも合う。

片方の側の身を食べると、二人がかりで頭と尻尾を持って、同時にえいやっと裏返してから反対側の身を食べる。そして最後が頭である。しかし、みんなが狙うのは目の周りと、口の周りのあのとろりとした部分だ。

香港人はどうもああいったぬるっとした食感のものに目がないようだが、おしゃべりな連中だからあれが彼らの舌の潤滑油になるのかもしれない。

香港式ミルクティーあれこれ(1)

2007-08-15 14:01:29 | Weblog
以下の文章は許可を得ずして翻訳及び掲載しているため著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

原文:文學世社出版「香港記憶」中の『港式奶茶瑣語』
著者:小航(編集者・香港資深文學工作者)



香港式ミルクティーあれこれ(1)


近年香港経済は不景気で、失業率は高止まりのままであり、各業種は空前の厳しい局面に直面しているのだが、消費業界はその最先端にある。小平氏は、香港は50年間変わらない、競馬馬はこれまでどおり走り、ダンスはこれまでどおり踊れる、と言った。香港特別行政区の成立から5年たったばかりだから、50年変らずにいられるかどうかは依然として未知数である。

競馬馬は確かに走っているが、競馬の賭け金額は、王小二の年越しのように年々減るばかりだ。ダンスも確かに踊られてはいるものの、しかし踊る人はますます少なくなり、最近、とある数十年の歴史を持つダンスホールが店を閉じた。

競馬は香港人の命で、成人四人につき一人が金を賭けている。ダンスにいたっては、実のところ、その目的は踊りにあるのではなくて、実業界の商売の多くがダンスホールで話し合われて決定されるのであり、特に日本人との商談にダンスホールは不可欠だ。今では商売が減り、ダンスを踊る必要も大幅に減ってしまった。競馬とダンスの状況がこうなのだから、その他の業種の状態は推して知るべしである。

金がなくて苦しい場合、普通の人は「食事を削り、用いるものを減らす」とか、「着るものを節約して、食事を減らす」ことをせねばと言いうのだが、そのどちらも食を削るということからは逃れられないので、当然飲食業の商売も決して楽なものではない。

たくさんの大レストランが最近相次いで店を閉め、グループ経営のレストランもめでたく廃業と相成り、それにつれて失業した従業員は往々にして一、二千人を越えている。誰もが飲食業は不況下の最大被害地域だと言っている。

ところが、飲食業の中にひとつだけ抜きん出ているものがある、つまり普通の人々の言うところの茶餐廳である。