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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

香港名物鶏蛋仔

2007-11-07 22:22:50 | Weblog
香港名物とはいっても空港の土産物屋やデューティーフリーなどで売ってはいない。街角でガスボンベとコンロを仕込んだ車仔を押して焼きながら売っている安いスナック(小食)で、強いて言えば、たこ焼とか鯛焼きといったレベルの食べ物だ。値段は確か一枚で10ドルくらいではなかったろうか。

ただ、最近は取締りが厳しいのか、軒先だけのような小さな構えの店で他のスナックと一緒に売っている店が増えている。全般的に車仔を押して流しの商売をする小販は少なくなったような気がするが、どうだろうか。

鶏蛋仔の作り方を知っているわけではないが、材料は多分小麦粉に卵とミルクそれに砂糖を混ぜただけのものだと思う。その器具は鯛焼き器を思い出してもらえばいいだろう。

もちろん型は鯛の形ではなく鉄板にピンポン球を小ぶりにしたような型が、約20個弱あり、それを二つに開いて中に並んでいる半球形の穴に材料を薄く流し込む。そのあたりはたこ焼き器に似ている。だが、たこ焼などと違って、その穴の外にも材料が均等に流されてそれぞれをつなぎ一枚になるようになっている。全体的には薄いもので、その丸いピンポン球の穴の中も空洞だ。

まぁ、ペタンとした一枚の薄板にしたって味は同じことだろうが、誰が考えたのか、ぽこぽこ膨らんだピンポン球型の形が見ても楽しいし、買い手の購買意欲を誘うのだろう。

それからパタンと閉じて、ガスコンロの上で何度かひっくり返して両面を焼く。焼き上がれば器具を開いて取り出し、二つ折りにして袋に入れて渡してくれる。食べ物はたいていそうだが、鶏蛋仔も焼きたての熱々を食べるのが一番おいしい。

手が火傷しそうなほど熱いのを、あちあちっと言いながらちぎって口に入れると、パリッとした食感と程よい甘さが、小腹の空いた時には最高だ。

だから、作り置きをしておいてあるのを売っている場合は敬遠することをお勧めする。冷めて、しかも軟らかくなっていて食感も悪い。材料が安物だけに、一旦タイミングを外すと、途端に味が落ちてしまうのである。

売れ行きのいい店で並んででも買う方がおいしい鶏蛋仔に出会えるだろう。ただ、路上の許可証を持たない鶏蛋仔売りの場合、あまり売れ行きが良すぎるところも問題がある。

取り締まりも警戒しなければならないし、焼いては渡し、金を受け渡り、お釣りも渡さねばならない。またもうけのために一枚だって多く売りたい。そこで、急ぐあまり生焼けのものを渡してくることもある。その味はこれまた悲惨なものである。

鶏蛋仔はどこで食べられるのか。車仔を押して売り歩く流動型なら、必ずしも毎日同じ所にいるかどうかわからないので、私が憶えているところに限って言えば、時代広場(タイムズスクエアー)へ行く時、跑馬地行きトラムのある道から入っていく交差点の左にそんなスナックを売る店があり、そこでも売っていたはずだ。それから湾仔の地下鉄の人民入境事務所へ行く方角の出口に出たところの、涼茶の店との並びにもあったと思う。

老姑婆はこの鶏蛋仔が大のお気に入りである。なんといっても女の子が好きな食べ物だから、旺角の女人街あたりなら、多分どこかで売っているのではないかと思う。

しかし、香港では何しろ店賃が高い。だから、去年あった店が今年はなくなっているというのはごく当たり前のことなので、なくなっていても、私を責めてもらっちゃ困るのである。

ということで、今回は次回の前振りである。これを基礎知識として、次回の翻訳を読んでいただきたい。

それから、前回の訂正をしておきたい。ジョルダーノの接客について、「日本なら当たり前のことだ」と書いたが、後で考えるとちょっと違っているような気がしてきた。

先日、とある私ご愛顧の男性ブティックで服を買った。さて、買い終えて品物を受け取ろうと手を出したところ、若い男性店員は言った。

「いえ、出口までお送りしますので」

そしてうやうやしく袋を持ち、私についてきて出口の所でようやく品物を渡してくれて、最敬礼して、「いつもありがとうございます」

出口まで迷うほど大きな店ではない。そんな何十万もするものを買ったわけでもない。いくらなんでもこれはもう形式的過ぎて、やり過ぎである。私なんか、これだけで何だか恐縮してぐったり疲れが出るほどだ。

それに引き換え、ジョルダーノの接客スタイルはもっとからっとして、フレンドリーなものだ。彼らの笑顔は客に作り笑いという印象を与えないし、てきぱきと動き、溌剌とした感じを客に与える。

それはそれで、専門家を呼んで研究し、店員にも研修を受けさせたものだろうが、日本式のものとは質的に違うところがあるように思う。日本では当たり前のことだと言ったことは、ちょっと訂正しておく必要があるだろう。

ちなみに、黎智英がジョルダーノを離れてからもうずいぶんたつ。原因は1989年の天安門事件だった。何しろあの時、ジョルダーノの店に長方形の黒地に白い文字で中国共産党を批判したステッカーが山積みされてあり、ただで配っていた。そしてそれが街のあちこちに貼られていたのである。そんなことをすれば共産党ににらまれるのは当たり前で、おかげで大陸の店舗が閉鎖される憂き目にあった。

そのため彼はジョルダーノから身を引いて「蘋果日報」という新聞を立ち上げ、マスメディアに新たな道を求めた。当時ジョルダーノで買った「争取民主」(民主主義を勝ち取ろう)という大きなロゴが入ったTシャツは、今でも持っていて、夏の夜の寝間着代わりに使っている。


「最愛」について

2007-11-05 22:16:58 | Weblog
「最愛」といえば、陳慧敏の「最愛」を思い出す。

もう十数年以上前に佐敦道近くのジョルダーノに入ってポロシャツを見ていた時に店内にいい曲が流れていた。思わず聞き惚れて、その曲のCDを買いたくなり、店員の女の子に聞いた。

「この曲なんていうの?」

私はメモ帳も同時に取り出した。

ジョルダーノの店員は接客態度がいいのが売りだから、その女の子は愛想よく『最愛 陳慧敏』と書いてくれた。

ただ、店を出てからも、記憶の方が、どこかで聞いたことあるんじゃないか、という信号を途切れなく送ってくる。そして、ふいに思い出した。なんだ、中島みゆきが作って榊原郁恵が歌って大ヒットしたあの曲じゃないか。

日本の曲でも広東語で歌われると雰囲気ががらりと変わり、原曲がさっと出てこないことも多いのだ。

香港のポップスは日本のカバー曲が多い。だからレスリー・張の『哥哥的前半生』という2枚組のアルバムにもかなり多くの日本のカバー曲がある。だが、その中には「最愛」はなかった。

陳慧敏のCDを探し出して見ると、歌詞は李克勤となっているし、その歌詞はこのエッセーに書かれているものとは違っている。だから、レスリーの「最愛」が果たして中島みゆきのそれと同じかどうか、次回香港に行ったら調べてみるつもりだ。

余談になるが、前述したようにジョルダーノの店員の接客態度には感心する。店に足を踏み入れると、必ず誰かが笑顔で「ハロー」と声をかけるし、出るときも「バイバイ」と客を送り出す。

そういった接客態度は20年近く前まではどこにもなかった。せいぜい、気だるそうに「随便睇下」(ちょいびんたいはー)、つまり「好きに見てくださいネエ」と寄ってくるのが関の山で、店員のやる気のなさが余すところなく表現されていて、それもまぁ異文化経験としては面白くないこともない。

しかし、ジョルダーノは違った。まずその笑顔である。香港でも店員の笑顔は店員同士の会話の時ぐらいしか目にしたことがなかったから、ジョルダーノで初めてすがすがしい笑顔で「ハロー」と言われた時にはわが目を疑ったぐらいである。

このことについて、ジョルダーノの創始者である黎智英が「我是黎智英」(私が黎智英だ)の中でこう書いている。

「私は顧客が買いたいのは商品だけではなく、それ以上にいいフィーリングを買いたいのだと考えている。ある気に入った商品を買った顧客と、もうひとりの気に入った商品以外にショッピングという経験を楽しんだ顧客とでは、どちらがリピーターになってくれるだろうか。当然後者だろう。なぜなら後者の満足度は前者よりはるかに大きいからだ」P130

「喜ばしいショッピングも一種の商品なのだ。小売業として、ジョルダーノは服を売るだけでなく、さらにサービスも売らなければならない。そうだ、服以外にさらに一種のサービスと呼ばれる商品を売らなければならないのだ」P131

それまで、店員の定着率を高めるために待遇を改善するなどの方策をとったが、それでもまだ十分な効果が得られなかったために、この考え方にたどり着き、そうして売り上げが飛躍的に伸びたのだ、と黎智英は書いている。

でも、そんなの日本じゃ当たり前のことですぜ、と言いたいところだが、ここは中華文化圏であって日本ではない。とはいうものの、そうしたサービス改善が売り上げの向上に繋がったとすれば、やはり中国人だって人の子、愛想いいサービスを受ければ嬉しいのだということの証明になるだろう。文化は違っても、やはり人間の気持ちというものにそう大した違いはないわけである。

最愛

2007-11-03 18:01:58 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を受けておらず著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除する可能性があります。


博益出版有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『最愛』


最愛


城門貯水池でバーベキューをやった後、ウィルソンレインの上の城門河ダムの方へ向かって歩き、中間まで行くと、八角形の水タンクが見えるはずだ。タンクの青色の鉄橋はやりかえられたばかりで、それは政府の保護文化財だ。鉄橋の反対側は峡谷だけれど、多分以前ダムから放水していた場所なのだろう。峡谷の坂道には小さな手すりの列があり、最初の列を登ってから階段を数十段下りると、向かいに見えるのは九龍側の谷だ。滴るような緑に包まれた谷に身を置いていると、何の建築物も見えなかった。一段下の階段の前に石があり、そこに座って遥か遠くのライオンロックの後ろ側を見なければ、自分が香港側にいるとは思えない。

地形の関係で峡谷にはとても強い風が吹くので、そこに座ってさえいれば、たとえ日差しがどんなんに強くても、汗も出ない。ダムの前には石碑があり、このダムは1932年に造られたと書いてある。僕がここは日本軍が九龍へ進攻した時の通り道だったのではないかと思い、がんばって日本軍の弾痕を探していたその時、僕のiPodがちょうど張国栄の《最愛》を流していた。もし、映画を撮っていなければ僕は石の上に座って、山の斜面の木々が揺れ動くのを見、微風を感じる機会は絶対なかっただろう。

この角度からライオンロックを見ると、それはまるでもう一方の山の斜面の坂道に横たわっていているようで、本当にライオンによく似ている。哥哥の歌声を久しぶりに聞いていた。「もし君が永遠にこの愛のために 愛したために、もう止めたくないと願うなら この人生でこの夢だけしかないことを望むよ 一生ただ君の愛を求めたい・・・・」この石にはまだもうひとり座れるんだけどなあ。




彭浩翔:1973年香港生まれ。作家及び映画監督
ウィルソンレイン:第27代香港総督ウィルソン卿の発案でつくられた全行程78kmのハイキング用コース。私と老姑婆もその一部の香港島の陽明山荘のところからスタンレーマーケットまでを歩いたことがある。コンクリートで整備はされているが、細い道で、片側が絶壁のように落ち込んでいるところが多々あり、老姑婆は恐がって半べそをかいていた。




哥哥茶餐廳

2007-11-01 21:38:12 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ておらず著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

博益出版集団有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『哥哥茶餐廳』


哥哥茶餐廳

記憶とは、いとも簡単に断片によってお互いに結びつきあうものだ。

湾仔のヘネシーロードにある一軒の茶餐廳は、料理が特にうまいというわけでもなく、座ってもとりたてて居心地がいいわけでもない。けれど、僕と友人はそこでおしゃべりをするのが好きでよく行く。というのも、友人の会社がその近くにあって、一旦会う約束をするものの、場所の名前を言おうとしても、僕らはいつもそのあたりのレストランの場所や名前を思い出せないからだ。時には一方が思い出しても、もう一方はそこがどこの通りの何番地かを知らなかったりする。そこで、僕たちは二人とも惰性であの茶餐廳で会うことを約束するのだが、なぜかというと、その茶餐廳には僕と彼との共通の想い出があるからだ。

2003年4月1日の黄昏時に、僕たちはそこで張国栄がこの世を去ったというニュースを聞いた。その茶餐廳は僕らが哥哥を懐かしむ想い出の場所に変わったのだった。僕はそこの番地を思い出せず、そこの名前も憶えられずにいて、料理にも何の印象もなく、サービスについてもどうでもよく、ただ僕たちがそこで信じ難い訃報を聞いたことを憶えているだけだ。それはちょうど、僕が土瓜湾で観塘行きのミニバスの中にいて、友人が電話で僕に家駒が亡くなったと知らせてくれたのを聞いた時と同じだ。だからこの路線のミニバスに乗る度に、僕はすぐにBeyond の《情人》を思い出す。

僕と友人はその茶餐廳の料理の質やサービス態度を大目に見てやり、毎回機嫌よく相手に向かって言う。「じゃ、哥哥のあの茶餐廳で会おうや」

「哥哥」は僕たちのあの茶餐廳での共有の歴史となった。

時は飛ぶように過ぎ去ってしまう。金鐘を通ると、いつも改装したマンダリンホテルが目に入るが、多分あそこのバイキング料理は依然としてうまいんだろう。ただ、改装したマンダリンがやはり昔哥哥が人生の最後に立ったあのマンダリンなのだろうか、とだけは思う。僕には分からない。だが、僕は今でも、あの茶餐廳があの時のままであり続けてくれることを心から願っている。

「哥哥」と「家駒」

2007-10-31 20:38:49 | Weblog
「哥哥」と「家駒」

広東語で「哥哥(こーこー)」とは「お兄さん」という意味だ。香港のやくざ映画でも「大哥(だいこー)」というせりふをよく聞く。この場合は「大兄貴」とでも訳すしかないだろう。何しろ私はやくざには知り合いがいないからその方面は詳しくないのである。

だが、これは兄貴分でもかなり格が上の場合で、ちょい上の兄貴分なら、その名前の一文字を取り「成哥(せんこー)」とか「偉哥(わいこー)」
とか呼んだりする。「成兄い」、「偉兄い」とでも訳せばいいだろうか。
 
もっとも、これは別にやくざ社会特有の言葉でもないらしい。芸能界ではジャッキー・チェンは「成龍大哥」とよばれているし、「哥哥」とはレスリー・張のことになる。それは彼らに対する親しみとそのキャリアに対する尊称という意味があるのだろうと思う。

また、一般社会でも普通に使われるようである。例えば、部下が親しい上司に対して、上司の名前の一字に「哥」をつけて呼ぶこともあり、私の知人なども部下の人から「政哥(じぇんこー)」と呼ばれていた。

夕方帰り際に、ある中年の女性社員が事務所で私の知人にこう声をかけていた。

「政哥走先啦」(じぇんこー じゃうしんらー)

つまり「お先に失礼しまーす」と言ったわけだが、もちろん若い社員ならそんな言い方はできないだろう。「お前なめとんのか、その呼び方は10年早いわい」となるに違いない。

「家駒」とは香港のロックバンドBeyond のリーダーであり、リードボーカルとギターを担当し、作曲もしていた「黄家駒」のことである。Beyondが日本進出を図り、来日した際に、あるテレビ局のバラエティ番組に出演したのだが、その時黄家駒が高いセットの上から転落して死亡した。1993年6月30日のことである。

セットの安全性に問題があったらしいが、それよりも問題なのは、日本のテレビ局側のBeyond に対する扱いなのではないか。

彼らはあくまでもミュージシャンなのであり、高いセットに上がるようなコントをさせる必要があっただろうか。そこには香港というか、アジアからの芸能人を一段低く見る姿勢があったような気がする。日本で売れたいんなら、これぐらいやってよ、てな具合だったのだろう。

だが、Beyond はすでに香港では実力派としてかなりの評価を受けていたし、たとえ海賊版であるにしても、その時代ならすでに大陸にも多くのファンがいただろうから、それなりの遇し方もあったはずである。彼らにバラエティ番組で「搞笑」(笑いを取る)させる必要はなかったのではないか。

テレビではいわゆる芸人を熱湯に入らせたり、危険なことにトライさせるなど、芸ではなく、とにかくうけさえすればいいという風潮が強すぎる。芸人も自分の芸よりも恥をさらしてでも、いじってもらえれば顔が売れるからいい、とそれを歓迎する。

しかし、芸人であろうと、芸は売っても、身体は売るもんじゃないだろう、と私は考えている。

最近はあまり見かけないが、小梅太夫が出てきた時はびっくりした。そしてひどく面白くて腹を抱えて笑った。低俗かどうかは見解の分かれるところだろうが、少なくとも小梅太夫は自らの芸を売って観衆を沸かせたのであって、お尻に花火を突っ込んだりといった、芸でも何でもない行為で観客の目を引いたわけではない。たとえ一発屋の線香花火であったとしても、である。

ましてや、Beyond は芸人ではない。彼らに芸をさせて注目させようとする方こそ低俗の謗りを免れないだろう。

リーダーだったがゆえに、黄家駒の死はBeyond 自体にとってもほとんど致命的な打撃だったはずだが、Beyond はその後も解散することなく活動を続けている。

「日本人として」という言い方は普段は嫌いなのだが、この場合はあえて「日本人として」黄家駒の死によってBeyond が解散されなかったことに安堵を覚えると言っておきたい。