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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

香港旅遊札記-今回買った本

2006-02-12 17:30:30 | Weblog
今回買った本をざっと書いてみようと思う。大学の先生などの専門家と較べると少なすぎて赤面しなければならないところだが、こちらはアマチュアだからこれだけでも読み終えるのに時間がかかる。年のせいか馬力もなくなり、普段の日仕事を終えて帰宅してからはとてもじゃないがなかなか読む時間がないのだ。

それはさておき、購入したのは合計17冊で、書名等は以下の通りである。題名を勝手に日本語訳してみるが、ただ直訳なので日本語にすると変かも知れない。

(台湾)と(香港)はどこで出版されたかという意味である。


1、新井一二三著「東京上流」大田出版(台湾)楽文書店で67ドル

この題名は訳しようがない。読み終えても何が「上流」なのかよくわからなかったが、内容は東京文学散歩とでもいえるエッセーだ。ただし、最近の文学ではなくて、太宰治とか樋口一葉とか夏目漱石とかあたりが主になっている。つまり、東京の成り立ちあたりを主眼に書いているので、現在を下流とすれば、その上流という意味か。こういう本が売れるというのはやはりある程度ディープな日本好きの市場があるということになる。


2、章詒和著「最後的貴族」牛津大学出版社(香港)銅鑼湾書店で89ドル

「最後の貴族」と、まぁこれは訳すまでもないか。1年前に買った「往事並不如煙」の完全版。銅鑼湾書店でこれと「往事並不如煙」はどう違うんですか、と訊ねたら、こっちがノーカット版だとのことだったので購入した。革命後の中国で弾圧された民主派人士達の運命を描いたもの。
  


3、章詒和著「一陣風、留下了千古絶唱」牛津大学出版社(香港)銅鑼湾書店で77ドル
  
「一陣の風、永遠の絶唱を残す」 中国古典劇、つまり京劇とかの役者の解放後の運命を描いたもの。章詒和自身が中国古典劇の研究家なので、新中国でのこうした人々の境遇に詳しく、前作「往事並不如煙」で民主派人士のことを描いたのに続く作品。

   

4、焦國標著「討伐中宣部」夏菲爾国際出版公司(香港)銅鑼湾書店で71ドル
  
「中央宣伝部を討伐せよ」 中央宣伝部とは中国における言論を統制する機関のこと、と言っていいだろう。著者は北京大学の助教授で、一党独裁が様々な社会的な矛盾を引き起こしているという立場から、その中心的役割機関としての中央宣伝部を批判する。夏菲爾国際出版というのが本当に香港の会社かどうかはよくわからない。香港のアドレスとしては郵便局の私書箱があった。



5、林奕華著「等待香港-娯楽篇」牛津大学出版社(香港)楽文書店60ドル

「香港を待ちながら-娯楽篇」 著者は劇作家というか脚本家というかそういう仕事をしている人らしく、大学でも教えているということだ。
裏表紙の抜粋文の中にこういうのがあった。

初めて張國栄を見た時、彼はある仏教系のハイスクールの制服を着ていた。初めて張國栄を見た私が着ていたのも同じ制服だった。初めて張國栄を見たのはレスリー時代がやってくるまだしばらく前のことだったが、彼はもうすでに人に見られることに慣れているあの「張國栄」だった。 
 
 香港のエンターテインメント業界にまつわる話のエッセーのようだ。


6、張慧真、孔強生編「従十一萬到三千」牛津大学出版社(香港)三聯書店85ドル

  「11万から3千に」 ここでは、裏表紙の説明を翻訳するのが手っ取り早いのでそうしておこう。

3年8ヶ月の被占領期間は香港の歴史においてもっとも凄惨で暗い1ページである。当時の香港の人口は急激に下降し、あらゆる業種が衰退し、人々は苦しみにまみれ、いたるところに難民が溢れていた。香港の教育もひどく破壊され、小中学校の学生数は1941年の11万2千人あまりから1945年の約3千人へと急減し、大部分の学生は退学をやむなくされた。彼らは日本軍の残忍な弾圧の下、戦火の硝煙の中、止むに止まれず奮起して立ち上がり反抗した者もあれば、はるか彼方まで転々と流浪した者もあり、死、飢餓、病気、爆撃や拷問などの脅威に常に直面していた。本書は口述の方法で、個人の教育における体験を主に18名にインタビューして被占領期間における苦難の歳月を記録したものだが、抗日戦の歴史により多くの証言を残せればと思う。


7、湯禎兆著「AV現場」CUP出版(香港)開益書店で75ドル

男性が助平なのは、まぁこれは古今東西を問わないが、それは香港の男性もそうである。アジアに冠たるアダルトビデオ王国日本の作品が廟街などで5、6枚100ドルのVCDとして売られている光景は始まってもう10年どころではないだろう。2、3年前に日本のAV女優が香港に招かれ、1部男性ファンから熱狂的な歓迎を受けたニュースは日本のテレビなどでも紹介された。そこで、香港のジャーナリストがその日本のAV業界を突撃取材した渾身のルポルタージュ。香港人からは日本のあの業界がどう見えるのか、いやもう読むのが楽しみである。


8、李季紋著「北京男孩。女孩。」木馬文化事業有限公司(台湾)開益書店で54ドル
  
台湾人の著者は北京に留学し、そのまま演劇の指導者としての仕事に就いた。日々の生活を通して見た北京の姿と著者の思いをつづったいわば観察記的エッセー。


9、朱少麟著「傷心珈琲店之歌」九歌出版社有限公司(台湾)楡林書店69.6ドル(会員は7掛けの60.9ドル)

「傷心カフェの歌」 どうも題名の訳が陳腐だが、でも原文のそれもかなり感傷的というか少女趣味的な感じがする。1966年生まれの著者が1996年に出版してベストセラー小説になり、これまでに20万部出版されたとのこと。台湾マーケットの規模からいうと確かにすごい売れ行きではないだろうか。台湾の「誠品好読」という雑誌に紹介があったので買ってみたが、最近あまり小説を読まないので面白いと思うかどうかわからない。


10、張宏艶著「再見女主播」天窗出版(香港)楽文書店で79.2ドル

「さよなら女性キャスター」 北京生まれで5歳の時に香港へ来て家庭では北京語を話していた著者が中文大学卒業後テレビの報道アナウンサーとなり、その後日本へ留学し、香港へ帰ってからはニュースキャスターとなった自分の体験をつづったもの。


11、梁家権著「尋找失落的菠蘿油」CUP出版(香港)楽文書店で31.5ドル 
楽文では100ドルを越えるごとに10ドルの割引券を1枚くれる。

「失われしバターメロンパンを求めて」 「壱週刊」、「東週刊」などマスコミで仕事をしている著者による香港の食にまつわるエッセー。香港のB級グルメ本か。


12、練乙錚著「浮桴記」天地図書有限公司(香港)楽文書店で54ドル

「いかだ流しの記」 2004年7月に香港特別行政区政府中央製作グループ常務顧問の職を解かれるまで6年間に渡り特区政府でスタッフとして働いた著者の回想録。


13、聖艾修伯里原著「小王子」晨星出版(台湾)銅鑼湾書店で50ドルCD付

サンテグジュペリの「星の王子様」  銅鑼湾書店で癒し系の音楽が流れていて、そのCDがレジのカウンターに飾ってあった。そのCDください、と言うと、この本についているので本ごと買ってもらわないと、と言われたので買った。


14、金安平著「合肥四姉妹」時報出版(台湾)楽文書店で107ドル

「合肥の4姉妹」  題名は訳すほどのこともないが、裏表紙には本のキャッチコピーとしてこう書いてある。
   
彼女たちの物語は時代の才華を語りつくしている。名門張家の子女たちは真の没落貴族であり、20世紀中国文化の精鋭たちの100年間に渡る苦難と流転の生涯を身をもって表したのである。
  
また、去年は「往事並不如煙」だったが、今年は「合肥四姉妹」だ、というコピーもどこかにあった。


15、黄仁逵著「放風」素葉出版社(香港)楽文書店70ドル
  
放風とは、中国語では「風を入れる」という意味になるが、もうひとつ刑務所などで運動時間に囚人を外に出して運動させる時にも使われる。著者は画家で映画の美術などの仕事もし、またコラムなども書いている。そのコラム集のようだ。


16、関琬潼著「徘徊在幸福餐卓」経済日報出版社香港 三聯書店で88ドル

「幸せなテーブルをめぐって」  私はグルメではないのだが、なぜかテレビなどで料理番組を見るのが大好きだし、本も料理を扱ったものを読むのが好きだ。ただ、細かな味がどうこうなどはわからない。だから中華料理もいいものはうまいのはわかるが、その先のどううまいかとかになるとさっぱりなのである。ある一定以上のレベルになるともう違いがわからないのだ。まぁ、正直なところ、一番好きなものといえば炊き立てのご飯に焼きたての塩さばです、というのが本音なのでとてもグルメにはなれない。しかし、意地が汚いから食べ物の話が好きなので買ったのと、レシピもあるので料理関係の中国語の勉強にもなるかな、という下心もある。


17、林憶蓮著「上海回味」TIMES EDITIONS (香港)銅鑼湾書店158ドル
  
 「上海の思い出の味」 歌手の林憶蓮の親は上海出身で、家ではその母の味付けで育った彼女が上海を訪れて名物料理のレストランや有名料理人にインタビューしたエッセー及びレシピと、上海のレストランや料理の写真もたくさん載っている。そのためちょっと高かった。それにしても写真にある舞台化粧ではないスッピンに近い顔を見て、林憶蓮って目がちっちゃいなぁと再認識した。


これらは、私が個人として買った本であり、その意味では単に私の趣味である。しかし、こうした本が香港の本屋にあるということは、香港にその需要があるということだ。つまり香港にこうした本を読む人たちがいるということであり、その意味では香港人のとある一面を表しているといえるだろう。

香港旅遊札記-蛇羹(2)

2006-02-06 22:29:28 | Weblog
蛇料理といえば、私は譚玉明のことを思い出す。

譚玉明も日本語を勉強していたが、ベリンダたちとは別のクラスだった。そのクラスの学生たちを紹介してくれたのも私の広東語の師匠の林さんだったが、そのクラスのメンバーの雰囲気はベリンダたちとはかなり違った。

どちらかというと譚玉明たちは真面目なタイプが多く、ベリンダのクラスのようにふざけたり羽目をはずしたりするような雰囲気はなかった。

二つのクラスの相性は悪く、このため会う時は別々だった。香港人にもいろんなタイプがあるのである。

譚玉明は中環にあるドイツ系の銀行に勤めていて、日本語とは何の関係もなかったが、動機はちょっとした興味本位といったところだったらしい。そして、その譚玉明を誘ったのが知行社(ちーほんせー)のメンバーだった。

広東語で「社(せー)」というのはどうも日本語の「クラブ」といった程度の意味のようだ。知行社はいわば青年カルチャーグループとでもいうべきクラブで、何やかやと行事を立案して遊んだり勉強したりというのがその活動内容だった。

私たちも夏に西貢へ海水浴へ行ったり、クリスマス休暇に長洲島に泊りがけで行ったりといった行事につきあったことがある。

そのメンバー同士で譚玉明たちはよく海外旅行に出ていた。日本に来て我が家に泊まったこともあるし、ヨーロッパやアメリカへもリュックを背負っては出かけていた。

譚玉明の家は屋邨住まいだったから、裕福ではなかった。だが、そういった階層のものでも海外旅行へ出かけられる、あるいは出かけようとするというのはちょうど日本における70年代前半の私たちのようで、それだけ香港が経済的に発展し、社会が少しずつ成熟の方へ向かっていることの表れだろうと私は考えた。

譚玉明たちと私たちがかなり親しくなれたのは、そのグループが北京語を話したからだ。私の当時の広東語はとても使用に耐えなかったが、北京語のほうはまだ何とかなったのである。

しかし、1980年代前半からすでに普通話(北京語)を勉強していたというのは、ベリンダたちとは確かに肌合いが違う。ベリンダたちは今でも普通話は私よりも相当下手だ。

そんなこともあって、この知行社というグループの性格はどうも中国志向が強いように私は感じ、かつて1974年に初めて香港に来た時に、ベトナム帰りのアメリカ人J・オニールと油麻地でビットリオ・デ・シーカの「鉄道員」の上映会に行ったことを思い出した。

ああいった行事はおそらく親中国派の活動の一貫として行われていたのだろうし、知行社のようなグループも表面的には青年カルチャーセンターの形をとりながら、実際のところは大陸中国の宣伝活動の一環として行われていたのではないかと思う。

もちろん、私もそんなことを突っ込んで聞いたわけでもないから、推測に過ぎないし、ちょっと深読みし過ぎという懸念もないではないが。

ただ、私にしてもその知行社が政治的活動をしていたのだと言いたいわけではない。しかし、中国に対して好印象を持ってもらうとか親しみを持ってもらうとかいう程度のことでも国の地道な宣伝活動としては重要なことなのである。

だから、そうしたカルチャー的な活動を通してメンバーである香港人に中国に対する心理的な抵抗感をなくしてもらい、ひいては精神的に中国の政策を支持し受け入れる下地を作ってもらうようにするための活動という意味合いがあったのではないかと思うのである。

非政治的な活動が回り道のように見えて、実は政治的に結構有効な手段なのだということはあったりするのだ。

と、まぁ堅い話はここまでにして、なぜ譚玉明を思い出したかに話を戻さなければならない。

というのも実はある時、私たちは知行社の宴会に誘われたのである。

「蛇料理のディナーなんですよ。料理が全部蛇を使ってるの」

譚玉明はちょっと笑いを含んだ私たちの反応を覗うような表情で言った。

一瞬たじろいだが、表向きはっはっと私たちは笑った。まだ若かったから何事にも前向きであり、特に香港のものなら、これは敵に後ろを見せるわけにはいかない。それにもう蛇羹は食べたことがあったのだ。毒を食らわば皿までの心境である。

九龍の太子にある酒楼(レストラン)に上がると、知行社及びそのメンバーの関係者で盛況だった。

香港の場合、この関係者というのが親兄弟から友だちまで幅広く、日本でいうなら関係ない人までたくさん来ていたりする。ま、何かと理由をつけて食べる機会を逃さないというのが香港スタイルなのだろう。

しかし、ふと張り紙を見ると「蛇宴」と大書してある。

「へびのうたげ、かぁ・・・」

まさか蛇の尾頭付きが出てきて、皿の上でとぐろを巻いてぐっとこっちをにらんでいたりするんじゃなかろうな、と私と老姑婆は少しひるんでお互いの顔を見た。

だが、並べられた料理はすべて見たところ普通の中国料理ばかりだった。

「外見はみんな普通の料理だねえ」

「でも、使ってる肉は全部蛇肉ですよ」

譚玉明はせっせと料理を口に運びながらそう言った。

蛇のフルコースか、これで自分の香港経験にまたひとつ箔がついたな。私は料理の味よりも内心密かにそんな計算をしながら、一口一口料理を噛みしめたが、歯には心なしかやや力がこもらなかったように記憶している。

その時、知行社の「社長」つまり会長が小さなグラスを持ってやってきた。会長は30過ぎの青年でどこかのサラリーマンをしていたが、すでに顔見知りだった。

酔って顔をてらてらとひからせながら、私にグラスを突きつけた。

「朋友、乾杯!」(友よ、かんぱいしょう!)

と北京語で言うその目は、酔いのせいか不可思議な光でぎらついていて、私はちょっと怖くなってしまった。素面の時は穏やかな人なのだが。

グラスの中には赤黒い液体が入っている。

「蛇の血が入ってるんですよ」

譚玉明が私にささやいた。

うえっ、と思った。そういえばテレビで見たことがある。胴体を割って取り出した蛇の肝か何かをしぼって血をグラスに落としていたが、あれのことなのか。

しかし、会長のたっての厚意である。会長も香港人ばかりの会に外国人が顔を見せてくれて鼻が高いのよ、と譚玉明はそう言っていた。これを断っては会長の面子を傷つけることになるまいか。

ましてや、その日の会長は蛇酒のせいか性格も一変した様子で少なからず獰猛な目の輝きをしている。断って暴れられても困るのである。

私は意を決してグラスを受け取り、息を止めてぐいっと呑みこんだ。度の強い酒がかっと喉を燃やしながら胃の中めがけて駆け抜けていった。

どんな味がしたのか憶えていない。憶えているのは周りの拍手と会長の満足げな笑顔だけである。強い酒のせいで全身が熱くほてり、しばらく肩で息をしなければならなかった。

私は普段寝つきが悪いのだが、その夜はホテルに帰るなりシャワーも浴びずにベッドに直行した。老姑婆によれば、深夜何かにうなされて何度も寝返りを打っていたそうである。

ひょっとして、蛇の血が全身を駆け巡っていたのではないだろうか。

譚玉明たちとはその内次第に疎遠になり、そしてつきあいがなくなった。今ではもう40はゆうに越しているだろう。もし、譚玉明が香港にいれば、いや多分香港にはそのままいるに違いないが、すでに結婚して子供がいてもおかしくない。

それともまだ結婚もせずにいつまでもお金を貯めては旅行に精を出しているのだろうか。

知行社のメンバーたちと旅行ばかり出かけている譚玉明に私はこう言ってやったことがある。

「知行社(ちーほんせー)じゃなくて旅行社(ろいはんせー)に名前を変えたら?」

香港旅遊札記-蛇羹(1)

2006-02-05 09:58:53 | Weblog
「風邪をひいてる時に蛇羹を食べちゃだめよ」

そう教えてくれたのは阿ポンだった。

蛇の肉は冬に身体を温めるために食べるのだが、熱をこもらせてしまうのだという。風邪をひいている時は発汗させて体内の熱を発散させる必要がある。このため蛇肉を食べると風邪が治らなくなる、というのが阿ポンの言い分だった。

今回も蛇羹を食べようと思いながらもなかなか忙しくてその時間がとれなかった。そこへもってきて年明けから風邪をひいてしまったのである。

このままでは蛇羹が食べられないと焦ったが、何とか風邪を押さえ込むことに成功し、1月4日の夜、私たちははれて蛇羹を食べに出撃したのであった。

私たちがいつも蛇羹を食べるのは銅鑼湾の「蛇王二」という店である。

ベリンダの親父さんにいわせると銅鑼湾には「蛇王林」という有名な老舗があり、そこが一番おいしいのだというのだが、私たちは行き慣れた「蛇王二」に行くことにした。「蛇王二」は駱克道と波富街の交差点近くにある。場所的には繁華街の裏あたりという感じだ。

レストランというより地元の大衆食堂という雰囲気だが、蛇料理の店はみんなそんなものだ。以前は店の前に蛇の入った金網のカゴが積んであったりしたものだが、SARS騒ぎのおかげでそういった風景はなくなってしまった。今は隣に「許留山」というチェーン店のデザート屋さんがある。

前日の新聞にも、広東省からの蛇の輸入が禁止されているために蛇料理の値段が三割ほど上がっているという記事があった。SARSの影響はまだまだ香港に強く残っているらしい。

表の入口の上に大きな字で「蛇王二」と書かれた赤い看板がどんとかかっている。入口に調理場とレジがあるのも地元の普通の食堂と同じ造りだ。さほど大きくない店内にテーブルが詰め込んであり、混んでいる場合は相席をさせられるが、まぁ30人弱は何とか入れるだろうか。

壁には蛇肉の効能書きなどを書いた紙なんかが貼ってあるし、とぐろを巻いた蛇の入った蛇酒の瓶なども並べてある。生きた蛇の姿は見られなくなったが、蛇屋さんの雰囲気はまずまずある。

店の前の立て看板にも、店の中のお品書きにも蛇羹が50ドル、蛇羹セットが72ドルと書いてあった。以前蛇羹は40ドルだったが、やはり新聞記事の通りSARS以来の値上がりだ。

しかし、それでも店は満員の盛況だった。9時前だというのに中は空席がない。香港人にとって何があっても冬の蛇肉はかかせないようだ。

のぞきこんでいる私たちに中から白い上っ張りを着た店員がおいでおいでをした。ちょうどそこから客が二人立ち上がるところだった。

若いカップルの向いに私たちは座らされた。こんなところでデートとはねぇ、と私は妙な感心をした。見たところ、男性客が大半を占めていた。

蛇羹セットは蛇羹と臘腸(中国ソーセージ)を載せたご飯、それにゆがいたレタスにオイスターソースをかけたものだ。私はセットを注文し、老姑婆は蛇羹だけを頼んだ。

蛇羹は小ぶりのどんぶりに入っている。羹というのはとろみのあるスープで、蛇肉は細切りにして入っているから、見た目は鶏肉の細切りと変わりはないし、味も淡白なものだ。木耳やしいたけなども細く切ってあるから、見た目もどうということはない。むしろ上にかけられたレモンの葉の香が強くて、私にとってそれが蛇羹の香ということになっている。胡椒をかける人も多いが、私はそのままで食べることにしている。

最初食べた時は、蛇を食べるのだ、という心理的な壁があって、やはり肩に力が入ったが,慣れてしまうとどうということもない。どんぶりに満々と溢れるほど盛られて目の前に置かれると、見ただけで身体が温まるのである。

だが、臘腸飯は見た目が悪い。ご飯の上にウインナー程度の大きさの、真っ黒なソーセージが3本載せてあり、たれが少しかけてある。これは香港で蝋腸を買えば、日本でも簡単にできる。たれは鰻丼のたれをかければそれで結構似たような味ができあがる。

しかし、このソーセージがどうにも路上の犬の糞を連想させるのである。だから老姑婆はセットは注文しない。

だが、2日ほど風邪のため麺とお粥ばかりで過ごしていた私にとって久しぶりの硬いご飯は思いのほか進んだ。中国ソーセージは老酒に漬け込まれているから、噛みしめるとその香が鼻孔にむわっと広がる。甘味のある肉汁と酒の香が、口の中でご飯とまざりあい、ちょうどいい加減の味になる。

そこでれんげで熱い蛇羹をすくい、一口すすると、これがソーセージの油っぽさを口の中からぬぐって喉の中に滑り落としてくれるのだ。

とろみのついたスープはいつまでも熱さが保たれる。ふはっ、ふはっとすするうちに、身体は芯から温まり、店内の熱気とあいまって汗が滲んでくる。

これだけ体が温まるのに、本当に風邪に悪いのだろうか。蛇羹を食べるたびに、阿ポンの意見にそれこそ蛇が鎌首をもたげるように疑問が立ち上がってくるのだった。

店内には香港人特有のあたりかまわぬ大声の会話が満ち満ちているが、蛇肉を食べているせいか、心持ボルテージが普段より高いように思える。ま、これは考えすぎかもしれないけれど。

香港旅遊札記-メリーアン(2)

2006-01-23 23:09:21 | Weblog
12月30日の夜7時半に私たちは旺角で落ち合って一緒に食事をすることになった。メリーアンのボーイフレンドはTシャツにジャンバーを着て、迷彩柄のズボンをはいていた。ハンサムとはとてもいえないが、ややたれ目で人の良さそうな顔である。

「ふぁいごー」

とメリーアンは紹介した。

「それってイングリッシュネーム?」

そう聞くと、そうだ、と答え「FAIGO」とつづりを言った。しかし、そんな英語名は初めてである。どっちかいうとスペイン語的な名前ではなかろうか。いや、それよりも例えば「輝哥(ふぁいこー)」とか呼ばれていて、本当はそのことじゃないのだろうか。まぁ、どっちでもいいのだけれど。

仕事は荃湾の倉庫でフォークリフトを運転しているのだそうだ。体つきはずんぐりしてはいるが、肉体労働者らしくがっちりとして喧嘩も強そうで、歩き方ものっしのっしという感じだ。旺角あたりを一緒に歩くには頼りがいがあっていい。

「家はどこ?」

そう聞くと、

「長沙湾で家族と一緒に屋邨に住んでる」

そう答えた。二人とも屋邨階級なのである。

海鮮料理を食べようとメリーアンは言ったが、そんな時間ではとても予約なしでテーブルは取れないし、「お粥か何かでいいじゃないか」と私たちは提案した。老姑婆はお粥大好き人間なのである。

「それならいい店がある」

そう言って、ファイゴーは先に立って亜皆老道を東へ歩いて左に折れて少し入ったところの食堂へ案内してくれた。

「ここはもう30年くらいやってるんだ」

店は超満員で、私たちは外で少し待たされた。人気店らしく、隣の店舗まで客席をしつらえて店員が忙しそうに料理を運んでいた。入口に調理場があり、茶褐色に光るアヒルの丸焼きが尾頭付きで何羽も吊り下げられている。

中で二人の調理人が半そでシャツ姿で汗を流しながら包丁や鍋を振り回していて、調理の音や注文取りの叫び声で活気はいやが上にも高まり、湯気や喧騒が店中にわんわんと充満している。

香港はこれでなくちゃなぁ、と私は初心に帰った思いである。

私たちは4人がけの狭い席に、身体をくっつけるように座り、お粥と油菜と魚のから揚げなどを注文し、ビールも1本頼んだ。

さて、香港のレストランでは高級なところでない限り、客が茶碗や箸をお茶で熱湯消毒する。私たちの感覚ではそんな嫌味なことをしては申し訳ないとひるむところだが、こちらではそれが常識である。店の人たちもそれを見ても気にする風でもない。

だから、今でも粥麺専家などの大衆食堂では出されたお茶を飲むべきかどうか悩んでしまう。箸を洗うために出されたのか、飲むために出されたのかわからなくなるのである。

まぁ、確かに結構汚れた皿や茶碗が出てくることもあるのだが、かといって消毒といってもあんな程度でばい菌が死滅するとはとても思えないし、単なる気休めにしかならないのではないだろうか。

さて、この店ではご丁寧なことに、サービスが徹底しているというか何というか、プラスチックの洗面器に箸やお椀を入れて出してくれる。客はそれに熱いお湯を注ぎ、心ゆくまで自分で洗うことができる。

ファイゴーは「好熱好熱」(あちちっ)と言いながら、洗面器の中でお碗を何度も転がして慎重に洗ってくれた。香港人も我々から見ると結構汚いのが平気くせに妙なところで潔癖なのである。

ファイゴーは37で、もう近々結婚するつもりだと二人は言った。しかし、ファイゴーはできたら新界の田舎のようなところで住みたいと考えているが、メリーアンはもっと便利なところがいいと言う。

「家賃はどれくらいするの?」

「5、6千ドルくらいかなぁ」

住宅バブルがはじけても、家賃の値段はなかなか下がらないようだ。その相場ではおそらくメリーアンの給料の大半が消えてしまうのではないだろうか。

「公営住宅申し込んだら?」

「そんなのダメよお、当たるわけないじゃない」

香港人にとっての住宅難はまだまだ続くようだが、二人はどう見てもあんまりお金をためていそうにない。しかしその辺は二人でがんばって乗り切っていくしかないだろう。とりあえず伴侶を見つけられたのはいいことだ。一人よりか二人の方が生き易いと私は思っている。

私たちは食事を終えてから、老姑婆の希望で通菜街の女人街を歩いた。老姑婆は安物を見るのが大好きで、女人街は毎回はずせないコースである。今回旺角でメリーアンたちと会えたのは都合が良かった。

一通り冷やかしてから、甘いものを食べようということになった。ファイゴーは少し考えてから言った。

「ちょっと歩くけどいいかなぁ」

それから奶路臣街に入りまた東の方へ歩き始めた。そしてビルとビルの間の大排[木當]を横目に見ながら通り過ぎた時、メリーアンがファイゴーの袖を引っ張った。

「呼んでおいでよ」

とか何とか小さな声で言った。

「等一陣」(ちょっと待ってて)

そういうと、後戻りしてその店の中に入って行き、同じ年頃の男を引っ張ってきた。

「この人ファイゴーの友達なのよ」

と、メリーアンが紹介すると、ファイゴーがその青年に言った。

「この人たち日本から来た彼女の友達なんだ」

「どうして知り合ったんだ?」

メリーアンに聞きながら、その青年は顔を赤くして私たちに手を差し出した。そして二言三言話してまた店のほうへ戻っていった。

「あの店はあいつの親父さんがやってるんだ。俺は子供の時油麻地に住んでたからあいつとは幼馴染なんだよ」

その店は女人街のすぐ傍だから、私たちもこれまで何度もその前は通ったことがある。

「なんだ、だったらあそこで食べたらよかったのに」

「でも、あそこはお粥はやってないんだよ」

ファイゴーもバカ正直な奴である。雲呑麺や魚蛋粉だってよかったのに。私たちも年のせいか最近はあまり御馳走に食欲がわかなくなってきているのだ。

ファイゴーが連れて行ってくれたのは黒布街にある「石磨坊」という甜品屋だった。造りもきれいではなく小さい店だった。

「ここは今すごく有名なんだ」

とファイゴーは言ったが、なるほど10時近いし、少し離れたところなのに店の外の路上にまでテーブルを出し、若い人で満員だった。店の中はテーブルがいっぱいに押し込んであり、座ると隣との境がなくなるぐらいである。

幸いウェイティングはなく、私たちは店の中の隅っこのテーブルに周りを押し分けるように座った。

私は芝麻糊緑豆沙を頼んだ。ゴマペーストと緑豆のぜんざいを混ぜたやつで16ドルだったが、お椀になみなみと注がれ熱く、れんげですくって口に入れると火傷をしそうだった。とろりとほどよい甘さで、ペーストが舌にからみするりと溶けて喉に落ちる感触がなかなかよかった。

香港の店にはよくあるが、雑誌に紹介されましたという切抜きがべたべたと張ってある。このあたりの自己主張には臆面というものがない。しかし、香港人たちにはおいしいとなると少々不便だろうが汚かろうがそのあたりは問題にはならない。

香港人の友人を持って便利なことはこういった店に連れて行ってもらえるところだ。香港在住者にとっては別段珍しくもないことだろうが、私たちのように年一で行く旅行者にはなかなかこうした情報は得られない。

甜品を食べ終えて、私たちは旺角から地下鉄で帰ることにした。

「送らないでいいよ」

と私たちは言った。翌日は土曜日でメリーアンは半日出勤だが、ファイゴーは一日働くのだという。

「えっ、土曜日でも一日出るのか?」

「係呀」(そうなのよ)

メリーアンは恨めし気な顔をした。

それなら早く帰って休まなければと私たちは強く主張したが、このあたりは香港人は律儀で聞かないのである。その後メリーアンは上水へ帰り、ファイゴーは長沙湾へ帰るのだが、ファイゴーは一応送っていくのだろう、それから自分の家に帰るのだから、相当遅くなるはずだ。気の毒なことである。

しかし、まだまだそうやって一緒にいるだけで嬉しい時期なのではあるだろう。いい年をして嬉しそうに手をつないで歩く二人の後姿を見ながら私はそう思った。

交差点のところで信号を待つ時に、メリーアンはファイゴーの背中に額をくっつけてもたれかかった。

をいをい、いい年をしてそんなに甘えるんじゃない、と保守的な私は注意しようかと思った。が、メリーアンは幸せなのである。今回は大目に見ることにしたのであった。

香港旅遊札記-メリーアン(1)

2006-01-22 11:39:13 | Weblog
メリーアンと会うのは確か3年ぶりだった。何となく縁が切れそうな気がしていたのだが、今回出発前に「ぜひ会いたい」とのメールが来て、なおかつ電話がかかってきた。

彼女は家にパソコンがなく、会社とか友達の家でフリーメールを使ってメールのやり取りをしていたから不便この上ない。そんなわけでちょっと疎遠になってしまっていた。

「今度はボーフレンド紹介するからね」

「おっ、とうとう見つけたかあ」

「へへへ」

とメリーアンは電話の向こうで照れ笑いをした。そりゃそうだろう、もう35になるのである。

メリーアンと知り合ったのは10年くらい前のことだ。知人の紹介で会ったのだが,初めそのアルファベットのつづりを見て「マリアン」かと思ったら、「メリーアン」と呼べと言う。

というのも、彼女は日本のアルフィーの熱狂的なファンで、アルフィーの歌の「メリーアン」からとったのだという。アルフィーのファンが香港にもいるとは驚きだったが、かくのごとく香港のイングリッシュネームはかなりいい加減なのである。

ところが、アルフィーのコンサートには行ったことがない。今度の夏に日本に旅行しに行く予定にしているが、何とかチケットが手に入らないだろうか、と頼まれた。

そこで、あの手この手を使ってどうにかこうにかチケットをとってやった。コンサートのチケットを手に入れるというのは大変なことなのだとつくづく思い知らされたが,アルフィーがあんなに人気があるとは思いもしなかった。しかし、何とか面目が立ってほっとしたものである。

そのコンサートの会場で他のアルフィーファンたちと知り合い、その後はファンクラブ経由でチケットを手に入れるようになって私たちがチケットの心配をする必要はなくなったのだが、メリーアンは毎年アルフィーのコンサートにやってくるようになった。

コンサートでステージから「今日外国から来てくれた人」と呼ばれて、威勢よく手を上げて立ち上がり満場の拍手を浴びたというし、ある時はメンバーの坂崎幸之助の実家にまで行ったとのことで、もうりっぱすぎるほどりっぱな追っかけである。

メリーアンは一家7人で中国との国境(今では国境ではないが)の香港側である羅湖の一つ手前の上水駅から歩いてすぐの屋邨に住んでいる。いわゆる1Kの公営アパートだ。

そんな家なので経済的には裕福ではなく、自分も単なるOLでキャリアがあるわけでもないから給料はそう多くはない。そのくせ時には休暇が取れないため仕事を辞めてまで日本に来て追っかけをするのだから、金が貯まる前に使っているような状態だ。困った娘である。

30を越してまで追っかけをしているのだから、親にしてもさぞかし心配だったろう。ボーイフレンドが見つかってよかったと私たちも他人事ながらほっとした。

香港旅遊札記-麦當労のミルクティー

2006-01-16 23:46:18 | Weblog
金鐘のUAで「ハリーポッター」を見終えて、小腹が空いているからととなりの太古廣場(パシフィックプレイス)のマクドナルドで何かつまもうということになった。

「買ってくるから、何がいい」

マクドナルドのコーヒーのことをかつて冗談好きのデービー・連が「師姑尿(しーくーりゅう)」と言ったことがある。「尼さんのおしっこ」とは下品この上ないが、それほど薄いという意味なのだそうだ。

「尼さんのおしっこ」が薄いかどうかはさだかではないが、確かに日本でもマクドナルドを始めとして外食産業のコーヒーは薄いような気がする。

コーヒーは濃い目が好きなので、薄いのはちょっと勘弁してもらいたい。映画館で冷え切っていたこともあって、私は身体を温めるためにミルクティーを頼んだ。

スタンレーがお盆に載せて持ってきた紙コップのミルクティーを受け取り、ふたを開いてみた。

「こ、これは・・・」

そこにはミルクティーというよりまるでココアのように濃い液体が入っていた。まさか、と私は口をつけてみた。

やはり、それはまぎれもなくあのまったりと濃い茶餐廳の[女乃]茶だった。

香港ではマクドナルドのミルクティーまでもが、あの茶餐廳のいわゆるホンコンスタイルミルクティー、つまり港式[女乃]茶なのであった。

長らく香港通いをしていながら、今の今まで知らなかった不明を恥じねばならないが(だって、普通マクドナルドで頼むのはコーラじゃありませんか)、マクドナルドですら採用されているということは、これこそ香港人にとってあるべき正しいミルクティーの味だという証明になるだろう。

港式[女乃]茶は香港においてかくも揺るぎない地位を獲得しているのである。港式[女乃]茶恐るべし。



香港旅遊札記ー二哥(いーこー)

2006-01-15 21:40:33 | Weblog
スタンレーは阿サムを「二哥」と呼んでいる。意味的には「二番目のお兄さん」ということになるが、実は本当の兄弟ではない。阿サムは契爺(かいいえ)の息子なのだ。

契爺とは中国語の辞書を引くと「義父」と書いてあったりするが,日本語の義父とは違う。赤の他人同士が親子の契りを結び、親子同然か或いはそれ以上とでもいえる関係を結ぶという伝統的な風習で、これは中国南方特有なのではないかと思うが、それとも北方北京あたりにも普通にあるのだろうか。

阿サムは今はニューヨーク在住で、名前を聞けば世界中誰でも知っているような超有名企業のエグゼクティブだ。東京に駐在していた時は六本木に7年間住んでいて、そのため日本語が結構話せる。もっとも今では大分忘れてしまったらしいが。

東京の後は香港に駐在してアジア方面の責任者として働いていたということで、大阪弁で言えば、偉いさんなのである。

ずっと前、まだ阿サムが香港駐在だった頃、スタンレーにつきあって阿サムのマンションに行ったことがある。場所は中環の上あたりの半山区だったが、あれは何というのかダイニングが一段高い造りになっていて、リビングからダイニングには階段を上るのである。

つまり、2階建てではないがマンションの中に階段があるわけで、こちらは貧乏人だから雑誌やテレビで見たことはあるが、そんなに広く天井の高いマンションに実際に入ったのは初めてだったから驚いた。

外人やタレントなどが入る家賃が100万以上する賃貸マンションが東京にはあるらしいが、なるほどそれがこれかぁ、と感心したものである。私たち二人の月給を合わせてもその家賃にはるかに及ばない。

しかもそこには賓妹(フィリピン人メイド)が二人もいるのだ。香港の日系企業駐在員も賓妹付きのマンションに暮らしているという話を聞いたが、阿サムのところは倍の二人である。ここらにも日米の力量の差が如実に表れている。戦争に負けるはずである、いやほんとに。

その後ニューヨークに転勤になってからは、そういった海外派遣の優遇措置がなくなってしまい、阿サムの奥さんであるテレサがメイドなしの生活は不便でしょうがない、とよくこぼしているそうだ。

阿サムとスタンレーは本当に仲がいい。むしろ実の兄弟よりも仲がいいのではないだろうか。毎年クリスマスには香港に帰ってくるが、その間はしょっちゅうつるんで遊んでいるし、5月ごろには休暇を取って一緒に海外旅行をしている。去年はトルコに行き、その前は東ヨーロッパに、そしてその前はスペインに行っていた。

阿サムが東京にいる頃、スタンレーはよく東京に遊びに行っていたようだ。だからデービーと私たちが知り合った時、スタンレーが私たちを紹介しろとせっついたのは自分が日本に何度も行った経験があったからなのだ。

阿サムはもちろん香港生まれだ。アメリカに留学し、卒業後にそこで就職してグリーンカードを取り、市民権を取得した。そして努力し一歩一歩ステップアップしていったのである。

だから阿サムは今はアメリカ人であり、二人の息子エディーとケニーも親は二人とも中国人なのだが、純粋にアメリカ生まれのアメリカ人ということになる。

12月27日に私たちはスタンレーが音頭とりをした20人ばかりの海外里帰りグループに参加してマカオにいったのだが、参加者全員が見た目は中国人でも、身分はみな外国人なので出入国に際しては私たちと同じブースに並ぶのである。「香港居民」の列に並んだのはスタンレー夫妻だけだった。

エディーとケニーはもう大学を卒業して働いているが、ふたりは広東語は聞くのはわかるが話せない。親との会話は英語が主で、親が広東語でしゃべり子供は英語で答えるといったこともある。いわゆる香蕉仔というやつである。

兄のエディーとはその阿サムのマンションでマージャンをしたことがあるが、その時日本人とアメリカ人のハーフの女の子が一緒にいた。二人は東京のアメリカンスクールで知り合ったのだという。

すらりとしたびっくりするほどきれいな子で、あれは混血児特有なものだと思うが、白人と日本人の両者のいいとこばかりをとっているといったタイプである。

家にも泊まりに来るぐらいだし、結婚でもするのかと思って2、3年前にスタンレーに聞いたら、もう別れたと答えた。

「あの子らは考え方はアメリカ人だから簡単に分かれちゃうんだ。あっさりしたもんだよ」

それを聞いて(うーん、もったいない・・・)と私は心の中で唸った。

それにしても阿サムやテレサはよくこまめに香港に帰ってくる。マカオツアーに行った時阿サムがいないのでどうしたのかとテレサに聞くと、出張でアイルランドに行っているとのことだった。そして28日にニューヨークへ帰り、1月1日にはもう香港に来ていた。

これまたスタンレーの世話でマイクロバスで西貢に行ったのが1月2日のことである。老姑婆が時差もあるのに疲れませんか、と聞いたら、

「チョット 眠イデス」

と別段疲れた様子もなく日本語で答えた。

彼らはまるで日本人が盆暮れに故郷へ帰省するかのようにクリスマス休暇には香港にやってくる。それは他の海外へ移民した香港人たちも同様なようだ。移民はしても根っこは抜きがたく香港にあるように見える。

ある人は親戚のところに、ある人は友人のところに、そしてある人は置いたままにしてある自分の家に泊まるのである。

しかし、その二代目のエディーやケニーたちはどうだろうか。彼らを見たのはもう何年ぶりかのことになる。今年はたまたま親に付き合って帰ってきたのだろう。だから、もし結婚でもすれば、エディーもケニーも香港へは来ないのではないだろうか。香港は彼らにとっては故郷ではないのではないかと私には思える。

「リタイアはいつ?」

そう阿サムが私に聞いてきた。

「60ですね。アメリカは?」

「アメリカには年齢制限はないんですよ。でも年金は65からでね。日本は?」

「日本も65からですよ。でも僕の年代は60から一部支給ってのがあるんですよ」

「いいねぇ」

阿サムはちょっと羨ましそうに言った。

阿サムとテレサは老後はどこに住むのか、それはまだ聞いたことがない。アメリカ市民である以上アメリカに住むのか、それとも自分の本当の意味での故郷である香港に住むのか。

おそらく、実現するかどうかはさておいて、今のところはリタイアして気ままに暮らせる身分になったら香港で暮らしてみたいと思っているのではないか、と私はにらんでいる。

香港旅遊札記

2006-01-09 17:24:33 | Weblog
6日に香港から帰ってきた。いつもは10日ほどだから、今回は14日間と少し長めだった。

で、行く前は今回は長いからかなり色々できるな、と思っていたが、長いとそれなりに友人たちも気を使い、休みの日にはせっせとお誘いをしてくれるので、結局何やかやと忙しい日々を過ごしてしまった。こんなことを言うと罰が当たるが、時には放っておいてくれんかなぁ、と思うことがある。

もちろん、向こうが来た時はこっちも気を使い、もう連れて行くとこなどないことに悲鳴をあげながら連れ回し、どうでもいい所に連れて行ってしまっては後悔することが多いので、まあお互いさまではあるのだが。

そして、そんなことを考えてしまって本当に罰が当たり風邪を引いてしまった。確か1月の2日の夜のことだ。

私の風邪はまず喉のひりひりから始まる。あちゃっ、と思った。どうも原因はその日金鍾のUAで「ハリーポッター」を観た時の寒さのようだ。

その日はスタンレーの手配で、会社のマイクロバスに乗り、スタンレーの親戚関係と合計8人でバードストリートからフラワーストリート、黄大仙、もうひとつダイヤモンドヒルの大きなお寺、そして西貢に行って昼食をした。

なんでまた香港人が黄大仙やバードストリートなんだ、という疑問が出てくるだろうが、この親戚関係がみな外国へ移民している連中で年に一回里帰りしてくる、という状況のため、久しぶりに行ってみるかということになったわけだ。

その日、つまり1月2日は天気は快晴、気温21度と日差しの下ではやや暑いぐらいではあった。しかし、普通21度くらいで日本じゃクーラーはつけないだろう。もっとも、ホテルの廊下では滞在中ずっとクーラーが効いていたが。

昼食後、さて香港サイドに帰ってショッピングでもするかと思っていたら、スタンレーが「ハリーポッター」を見に行かないかという。何でも友人が切符を取ってくれるから一緒にどうだというのだ。貧乏人根性丸出しで他人の奢りならいいか、と乗ったのが間違いである。

行ったのはニューヨークに住んでいる阿サムとその弟でハワイ在住のサムソン、それに私たちとスタンレーで、みんなに切符を買ってくれたのは香港人で蘭桂坊近くに住んでいるケンだった。値段は確か一人45ドルだったような気がするが、自分が払っていないのでわからない。とにかく日本の半値以下だろう。

ところが、映画館の中は強烈に冷やしてある。座ってしばらくしたら腿の辺りがぴりぴりと痛くなってきた。上はしっかり着込んでいたが、下は厚手とはいえコットンパンツ一枚だった。腿が凍えるほど冷やされてたまらないが、かけるものもない。そのまま2時間半が過ぎてようやく外に出た時には、腿の筋肉が硬直しているような気がした。

しかし、である。阿サムは上は半袖のTシャツ一枚だし、サムソンの方は上は長袖のシャツだが、下は半ズボンなのだ。さすがにアメリカで肉ばかり食っているだけのことはある。

おかげで軟弱な日本仔はとたんに風邪を引いてしまったが、これじゃ戦争に負けるわけである。日米両国の体力差には筆舌に尽くしがたいものがある。

とはいうものの、まだ帰国まで数日あるし、ベッドで寝ているのはあまりにももったいない。そこで、私は対策をとることにした。

まず、屈臣氏でうがい薬と屈臣氏の蒸留水のペットボトルを買った。このペットボトルのふたは日本酒のお猪口を大きくしたようになっていて、一口サイズのコップにもなる。そしてこれがまた鼻洗浄にうってつけなのだ。徹底的にうがいをし、ペットボトルのふたに水を入れて、鼻にもってきてずずっと吸い込んで洗浄をする。

さらに、鼻の入口にメンソレータムを塗り、使い捨ての立体型マスクをして寝る。マスクは風邪を防ぐのではなく、呼吸の際吐いた息を拡散させずまた吸い込むことで鼻腔内の湿度と温度を上げる効果がある。

そしてさらに、とどめは感冒茶だ。これは街の涼茶鋪で飲むわけだが、涼茶の倍近い12ドルから13ドルもする。だが、この際仕方がない。力技で風邪を押さえ込むのだ。

感冒茶の味は涼茶とよく似ているが、心なしかややこくがあるような気がする。だが、これが感冒茶ですと涼茶を出されてもわからないかもしれないと少し不安もあったりするのだ。

私はこの感冒茶を日に2回から3回飲んだ。

努力の甲斐があって、風邪はひどくならず、4日の午後には治ったようだった。やれやれである。

そんなことがあったものの、今回の香港は幸い気温はずっと20度ぐらいで、雨も1日ほどぱらついただけですんだ。前回のあのひどい寒さを思うと、暖かいだけでもありがたいことだった。

さて、明日から嫌ではあるがまた社会復帰しなければならない。今回の香港行きをあれこれ思い出しながら、乗り切っていくことにしよう。



デービー・連(2)

2005-12-19 23:07:14 | Weblog
デービーは落とし前をつけるためにみんなに一席設けて食事を奢るはめになったが、実はデービーがみんなに奢るのは珍しいことではなかった。

食事や飲茶の埋単(勘定)をする時に香港人たちが「俺が俺が」ともめているのをよく見かけるが、これにはある種の目に見えないルールのようなものがあるらしく、じきに落としどころが見つかるのである。

相手の収入や地位や年齢、それからこれまで何回奢ってもらっているとか、様々な情報がインプットされていて、じゃ今回はこの人が、というあたりに落ち着くのだ。

だから、あれは做戯(演技)だという人もいる。大声で払わせろとわめき、背広の内ポケットに手を突っ込み、今にも財布を取り出そうとしているが、実は財布は尻のポケットに入っていたりする。

香港人にとって同じ釜の飯を食うというか、同じテーブルを囲んで飯を食うというのは重要な交際手段だ。したがってそこでの埋単もまたお互いの貸し借りという絆を作り、それでもって関係を継続するという要素があるようだ。

だから、いつもかつも他人に払わせていたりなんかすると、今度は人間性を疑われるようになり、付き合ってもらえなくなる。

しかし、デービーの場合は、そういった計算とか打算とかはまったくない。ただひたすら奢りまくるのだ。日本語クラスの学生たちはその当時みんな若かったから、ベリンダを除くほとんどのものの財布はひたすら軽く、まだまだデービーに奢り返せる力はなかった。

そのことではデービーは同棲相手の阿ポンからいつも教育的指導を受けていたが、口ではわかったわかったと言うものの、やはりまた懲りずに奢ろうとする。あまり気前がいいのも、商売人としては抜け目がありすぎるんじゃなかろうかと心配になったものだが、要するに人がいいのだろう。

その頃デービーは中環の山手側の裏通りにあるオフィスビルの中に小さな事務所を構えて貿易の仕事をしていた。事務員は阿ポンだけで、テレックスと電話を駆使して仕事をしていたようだが、あれだけ気前がいいのだからそこそこ儲かっていたのではないかと思う。

私にとってデービーはありがたい存在だった。

というのも、広東語を始めたばかりの私は会話というものもろくにはできなかった。それに日本語の学生とはいっても街の会話学校で週一回の授業だから、ベリンダたちの日本語もたかが知れているのである。だからコミュニケーションをとるのには骨が折れた。

ところがデービーだけは北京語が話せたのである。私も北京語のほうはそこそこ話せたので、デービーとはうまくコミュニケーションがとれた。それにデービーはいわば社長だから、時間の方もかなり融通が利き、平日の昼間でも都合がつけばつきあってくれるのだ。

初めて海洋公園に連れて行ってくれたのもデービーである。とにかく私たちが滞在している間、何くれとなく世話を焼いてくれ、またみんなで集まって食事をしていて、飛び交う広東語に呆然としている私に、時々話の内容を北京語で通訳してくれたりもした。

ベトナム華僑のデービーは裏町の隠れ家的なベトナム料理屋に私を連れて行ってくれたりもした。そんな時、初めて食べるベトナム料理に首をかしげる私を嬉しそうに目を細めて眺めていた笑顔を今でも思い出す。

私たちの香港通いの初期段階を支えてくれたのはデービーだったと言っても差し支えない。デービーは私たちにとっては恩人のひとりなのである。

そしてハイスクール時代のクラスメートのスタンレーを私に紹介してくれたのもデービーだ。もっともこれは、面白い日本人がいるというのを聞いて、スタンレーが紹介しろとうるさくせっついたからだが、それでも今なお私たちの香港通いを支えてくれるひとりがスタンレーである。

実はこのクリスマスから正月過ぎにかけて香港へ行くのだが、空港からのリムジンバスを手配したからそれに乗ってホテルへ行け、というメールがスタンレーから届いた。それから、大陸への旅行も手配したから遊びに行こうではないかとも言ってきている。

「大陸ねぇ・・・」

と私と老姑婆はあまり気乗りがしないのだが、ここはせっかくのお誘いである。しかもアゴアシつきということだからお断りするのも悪いので行くことにした。もっとも1泊2日というのはさすがに勘弁してもらって日帰りにしてもらったのだが。

まぁそんな具合にスタンレーにはお世話になりっぱなしなのだが、それを紹介してくれたのがデービーなのだから、ある意味では私たちは未だにデービーのお世話になっているともいえるのではないかと思う。




デービー・連(1)

2005-12-11 20:45:13 | Weblog
デービー・連は私たちの香港での最初の友人の一人だった。つまりわが広東語の師匠林さんの日本語の学生でありベリンダたちの同級生というわけだ。

デービーは香港生まれではない。ベトナム華僑で、親父さんは旧サイゴン、つまり今のホーチミン市で缶詰工場を経営していたが、ベトナム戦争で徴兵されるのを避けるため10歳頃に香港の親戚を頼って密入国して来たのである。

ただ、デービーの場合は密入国とはいっても泳いできたりしたのではなく(もっともベトナムから泳いでくるのはいくらなんでも無理だろうが)、お金を使って船で渡ってきたようだ。

このあたりは香港では1983年以前は、密入国してきても自分で出頭すれば居住権を認められるというかなりアバウトな制度があったから、とにかく入ってしまえばこっちのもん、つまりやったもん勝ち、という面があって密入国にはやりやすい環境があったのだ。

だから、デービーは香港では素性の知れない人ということになる。

ある時、身分証明書を見せてもらった。その当時つまり1984、5年のことだったが、身分証明書に「記載事項に誤りはないと誓うか」とかいう意味の文があり、それに「YES」と本人の宣誓がしてあるのが普通だった。しかし、デービーのには「NO」と書いてあった。

それを見て、私は吹き出してしまった。「NO」って、自分の証明事項に責任持ちませんよ、と本人が公然と言っているのに、政府もよく身分証明書を発行するもんである。

「何なんだぁ、これは」

「だってしょうがないだろ。俺には何も証明するものがないんだから」

そういわれれば、そうである。密入国者が公的な証明書を持ってくるわけはない。自分がどこの誰かなんて、むしろ知られる方が困るのだ。

「いいんだよ、これで。とりあえず俺が俺だってことが登録できれば、政府も俺もお互い都合がいいってことだよ」

そんなものかねぇ、と整然とした秩序の国日本からやってきた日本仔は感心するしかなかった。それにしても世界は広い。そんないい加減な制度でもそれなりに何とかやっていけることを私は初めて知った。

知り合った頃、デービーは30ちょっと前だったが、すでに額はおろか頭のてっ辺近くまで禿げ上がっていた。その他の頭髪もかなり細く柔らかで、みんなからは陰で「光頭」とよばれていたが、眉毛も薄く、大きなトンボ眼鏡のような近視の眼鏡をかけたその顔は、それはそれで結構愛嬌があった。

冗談好きでいたずら好き、常にみんなを笑わせてはその場を和やかに盛り上げる能力には天性のものがあった。あの林さんのクラスがいつも仲良くまとまることができたのにはデービーの貢献が少なからず寄与していたと私は確信している。

これはいわばその日本語クラスに伝説として残っている話なのだが、それも仕掛け人はデービーだった。

ある時、授業前にデービーが仕込んできたとある日本語の下ネタを男の級友たちに伝授していた。ま、そんな話が好きなのは古今東西を問わず男の業というものである。

そこへベリンダが入ってきた。

するといたずら心を起こしたデービーは、級友たちに目配せをすると、ひとつ咳払いをし、改まった口調でベリンダに話しかけた。

「李さん(と名前だけは日本語で呼ぶのである)日本語の○○○○ってどんな意味か知ってる?」

女性の性器の別名である日本本国においても卑猥とされている四文字を、ごく真面目な顔で口にした。

「えっ?何?」

「○○○○」

「○○○○?さぁ、知らないわねぇ」

阿ジョーを始めとして周囲の男たちは笑いをこらえるために死ぬ思いをしているが、デービーは役者である。すました顔で続けた。

「だったら授業で先生に聞いてくれよ」

「うん、いいよ。○○○○ね」

ベリンダは姉御肌だし、普段から積極的に質問したりしていわば学級委員長的な存在だから、こうした提案は別に変でもなんでもない。ベリンダもすんなりと承諾した。

さて、林さんが入ってきて授業が始まった。

すかさず、ベリンダが手を上げて質問した。

「先生、質問があります」

「何ですか」

そしてベリンダはその非常に卑猥とされる四文字言葉を極めてはっきりと大きな声で発した。

「○○○○ってどういう意味ですか?」

林さんは不意打ちを受け、顔は瞬時に真っ赤になり、正しく雷に打たれたように硬直してしまった。直後に教室中に男たちの大爆笑が炸裂した。

もちろんその後デービーが鬼の形相になったベリンダからとことんとっちめられたのは言うまでもない。その落とし前はデービーの払いでみんなに一席設けることでつけられたという話である。