原文は台湾の大田出版から出版された新井一二三著「櫻的寓言」収録の「上海理髪店」です。著者及び出版社の許諾を得ておらず、知的所有権を侵害した上での翻訳ですので、抗議等あり次第削除する可能性があります。
「上海理容室」
ニューヨークから帰って、まずやらなければならないことは上海理容室へ行くことだ。
私が行く店はノースポイントのフェリー乗り場の近くにある。ある上海の男の子が毎月私の髪をカットしてくれる。私のヘアースタイルはもう20年間基本的に変化がなく、普通の日本の赤ちゃん頭、つまりおかっぱだ。ただ、流行に沿って、時にはやや長めにし、時には短めにカットするというだけのことだ。こういったヘアースタイルは、一見簡単そうに見えるけれど、いざカットする段になると、かなり技術を要する。
私の母が結婚前理容師をしていた関係で、私が小さい頃、家では母が子供たちみんなの髪を切っていた。中学へ上がって、ようやく私は理容室へ行き始めた。その後何ヶ国の何軒の理容室で、何人の理容師にカットしてもらったかわからない。
北京へ留学していた頃、最もモダンな理容室は燈市口の「四聯」だった。ある中年の男性理容師がカットしてくれた前髪はとてもきれいだった。私はその場で写真を撮り、後になって私の初めての本に載せた。あの日わたしの写真を取ってくれた友人が、今ロックのスターになっている、唐朝バンドのボーカルの丁武だった。
その後カナダに行き、私がぶつかった難題というのが、アジア人の髪をうまくカットできない理容師がいるということだった。これは多分私たちの髪の毛が硬くて多く、柔らかい上に少なめな西洋人の髪の毛とはちょっと違うからだろう。
トロントには日本人理容師は少なく、なかなか見つけられなかったし、その上値段がかなり高かった。そこで私はチャイナタウンで香港人移民がやっている、「基本髪」という名前の理容室へ通い始めた。そこは技術が確かな上に値段もリーズナブルだったし、さらに香港から送られてきた新聞や雑誌を読むことができるので、私はとても気に入っていた。
私が香港へやってきたばかりの時、セントラルにある一見斬新な美容院に行った。美容師はかなりな芸術家的意気込みで、私の頭を素材にひとつの作品をクリエイトしようとした。残念ながら、結果は今ひとつだった。というのも、私が家でシャンプーした後で、自分でドライヤーをかけると、彼のその作品を再現しようがなかったからだ。
その時ある人が私に香港には別の種類の理容室があって、それは上海理容室だ、と教えてくれた。ノースポイントにも何軒もあり、外から見ると、古びた印象だけれど、彼らの技術水準はかなりのものだ。そこで私は勇気を奮い起こして階段を上り、一言言った、「カットしたいの」
正直なところ、初めはあまり信用していなかった。店の従業員の方が客より多く、理容師の着ている制服はミルクコーヒー色をしている。元々その色だったのか、それとも後で変色したのかは知らないけれど。見回すと、客の大部分が中年以上の女性で、年は私の母と変わらないぐらいだった。彼女たちはここへ来てカットし、パーマをかけ、さらに髪を染めるのだが、全体的な雰囲気は客と設備同様古めかしかった。
私を担当したのは唯一の青年で、見たところ27、8歳らしく、その上普通話(注:北京語のこと)が話せた。彼は上海から来たと言ったが、しかし彼の言う「上海」が「上海市」を指すのではなくて、上海近くの(私もどれだけ近いのか知らない)浙江省の小さな村だということを後になって知った。
彼は私とおしゃべりしながら私の髪を上手にカットしてくれた。鏡を見て、私はなかなかいいと思った。けれど、私が本当に彼の腕前の良さを知ったのは、翌日の朝シャンプーした後のことだった。ドライヤーをささっとかけると、私の髪はすごく聞き分けがよかったのだ。上手にカットされた髪は手入れがとても簡単なのだった。
そのため、私は毎月その上海理容室に行く。若い理容師は私の髪の質や私の好みにますます詳しくなってきた。私は彼に二言三言話すと、すぐに新聞を読み始める。15分後、彼の仕事はすでに完了している。値段は安くて、去年はたった65香港ドルで、最近70余りに値上がりした。そうそう、旧正月前夜にカットに行った時、その青年は私に言った、「すみません、今は休暇の特別料金なんですよ」私は後で香港の上海理容室が「旧正月期間2倍料金」という伝統があるのを初めて知り、一瞬ちょっと驚いたが、それからまあいいかと思った。いずれにせよ、私は彼の腕前にとても満足しているのだし、一年に一度彼にこんな形で「ボーナス」をあげるのは当然のことだろう。
この前カットに行った時、彼はいなかった。別の理容師が彼は上海に帰ったと私に言った。別の人がやってくれた髪型も決して悪くはなかったが、私はやはり少し寂しさを感じた。私はあの上海青年と本当の知り合いといえるほどの間柄ではないし、彼も私がどこに住み、何をしているのかは知らない。だが、毎月彼と一度会うことはすでに私の習慣になっていて、彼がいないことで私は小さな失望を感じた。
今回、やはり彼はいた。「申し訳ないです。休暇を取って家に帰ってまして」と彼は言った。そうして私は彼が実は家庭持ちであり、「上海」の奥さんが赤ちゃんを産んだのだということを知った。「おめでとう」、と二言三言話してから、私はすぐに新聞を読み始めた。ここへ来ると、私は余計なことを言う必要がない。なぜなら私は彼をすごく信頼しているのだから。翌日の朝シャンプーすると、私の髪は聞き分けがよかった。いつも行く理容室があるということは、私が香港に「生活」を持ち始めるようになったということを意味する。それは何もすごい事などではないけれど、私はとても嬉しかった。
「上海理容室」
ニューヨークから帰って、まずやらなければならないことは上海理容室へ行くことだ。
私が行く店はノースポイントのフェリー乗り場の近くにある。ある上海の男の子が毎月私の髪をカットしてくれる。私のヘアースタイルはもう20年間基本的に変化がなく、普通の日本の赤ちゃん頭、つまりおかっぱだ。ただ、流行に沿って、時にはやや長めにし、時には短めにカットするというだけのことだ。こういったヘアースタイルは、一見簡単そうに見えるけれど、いざカットする段になると、かなり技術を要する。
私の母が結婚前理容師をしていた関係で、私が小さい頃、家では母が子供たちみんなの髪を切っていた。中学へ上がって、ようやく私は理容室へ行き始めた。その後何ヶ国の何軒の理容室で、何人の理容師にカットしてもらったかわからない。
北京へ留学していた頃、最もモダンな理容室は燈市口の「四聯」だった。ある中年の男性理容師がカットしてくれた前髪はとてもきれいだった。私はその場で写真を撮り、後になって私の初めての本に載せた。あの日わたしの写真を取ってくれた友人が、今ロックのスターになっている、唐朝バンドのボーカルの丁武だった。
その後カナダに行き、私がぶつかった難題というのが、アジア人の髪をうまくカットできない理容師がいるということだった。これは多分私たちの髪の毛が硬くて多く、柔らかい上に少なめな西洋人の髪の毛とはちょっと違うからだろう。
トロントには日本人理容師は少なく、なかなか見つけられなかったし、その上値段がかなり高かった。そこで私はチャイナタウンで香港人移民がやっている、「基本髪」という名前の理容室へ通い始めた。そこは技術が確かな上に値段もリーズナブルだったし、さらに香港から送られてきた新聞や雑誌を読むことができるので、私はとても気に入っていた。
私が香港へやってきたばかりの時、セントラルにある一見斬新な美容院に行った。美容師はかなりな芸術家的意気込みで、私の頭を素材にひとつの作品をクリエイトしようとした。残念ながら、結果は今ひとつだった。というのも、私が家でシャンプーした後で、自分でドライヤーをかけると、彼のその作品を再現しようがなかったからだ。
その時ある人が私に香港には別の種類の理容室があって、それは上海理容室だ、と教えてくれた。ノースポイントにも何軒もあり、外から見ると、古びた印象だけれど、彼らの技術水準はかなりのものだ。そこで私は勇気を奮い起こして階段を上り、一言言った、「カットしたいの」
正直なところ、初めはあまり信用していなかった。店の従業員の方が客より多く、理容師の着ている制服はミルクコーヒー色をしている。元々その色だったのか、それとも後で変色したのかは知らないけれど。見回すと、客の大部分が中年以上の女性で、年は私の母と変わらないぐらいだった。彼女たちはここへ来てカットし、パーマをかけ、さらに髪を染めるのだが、全体的な雰囲気は客と設備同様古めかしかった。
私を担当したのは唯一の青年で、見たところ27、8歳らしく、その上普通話(注:北京語のこと)が話せた。彼は上海から来たと言ったが、しかし彼の言う「上海」が「上海市」を指すのではなくて、上海近くの(私もどれだけ近いのか知らない)浙江省の小さな村だということを後になって知った。
彼は私とおしゃべりしながら私の髪を上手にカットしてくれた。鏡を見て、私はなかなかいいと思った。けれど、私が本当に彼の腕前の良さを知ったのは、翌日の朝シャンプーした後のことだった。ドライヤーをささっとかけると、私の髪はすごく聞き分けがよかったのだ。上手にカットされた髪は手入れがとても簡単なのだった。
そのため、私は毎月その上海理容室に行く。若い理容師は私の髪の質や私の好みにますます詳しくなってきた。私は彼に二言三言話すと、すぐに新聞を読み始める。15分後、彼の仕事はすでに完了している。値段は安くて、去年はたった65香港ドルで、最近70余りに値上がりした。そうそう、旧正月前夜にカットに行った時、その青年は私に言った、「すみません、今は休暇の特別料金なんですよ」私は後で香港の上海理容室が「旧正月期間2倍料金」という伝統があるのを初めて知り、一瞬ちょっと驚いたが、それからまあいいかと思った。いずれにせよ、私は彼の腕前にとても満足しているのだし、一年に一度彼にこんな形で「ボーナス」をあげるのは当然のことだろう。
この前カットに行った時、彼はいなかった。別の理容師が彼は上海に帰ったと私に言った。別の人がやってくれた髪型も決して悪くはなかったが、私はやはり少し寂しさを感じた。私はあの上海青年と本当の知り合いといえるほどの間柄ではないし、彼も私がどこに住み、何をしているのかは知らない。だが、毎月彼と一度会うことはすでに私の習慣になっていて、彼がいないことで私は小さな失望を感じた。
今回、やはり彼はいた。「申し訳ないです。休暇を取って家に帰ってまして」と彼は言った。そうして私は彼が実は家庭持ちであり、「上海」の奥さんが赤ちゃんを産んだのだということを知った。「おめでとう」、と二言三言話してから、私はすぐに新聞を読み始めた。ここへ来ると、私は余計なことを言う必要がない。なぜなら私は彼をすごく信頼しているのだから。翌日の朝シャンプーすると、私の髪は聞き分けがよかった。いつも行く理容室があるということは、私が香港に「生活」を持ち始めるようになったということを意味する。それは何もすごい事などではないけれど、私はとても嬉しかった。