香港名物とはいっても空港の土産物屋やデューティーフリーなどで売ってはいない。街角でガスボンベとコンロを仕込んだ車仔を押して焼きながら売っている安いスナック(小食)で、強いて言えば、たこ焼とか鯛焼きといったレベルの食べ物だ。値段は確か一枚で10ドルくらいではなかったろうか。
ただ、最近は取締りが厳しいのか、軒先だけのような小さな構えの店で他のスナックと一緒に売っている店が増えている。全般的に車仔を押して流しの商売をする小販は少なくなったような気がするが、どうだろうか。
鶏蛋仔の作り方を知っているわけではないが、材料は多分小麦粉に卵とミルクそれに砂糖を混ぜただけのものだと思う。その器具は鯛焼き器を思い出してもらえばいいだろう。
もちろん型は鯛の形ではなく鉄板にピンポン球を小ぶりにしたような型が、約20個弱あり、それを二つに開いて中に並んでいる半球形の穴に材料を薄く流し込む。そのあたりはたこ焼き器に似ている。だが、たこ焼などと違って、その穴の外にも材料が均等に流されてそれぞれをつなぎ一枚になるようになっている。全体的には薄いもので、その丸いピンポン球の穴の中も空洞だ。
まぁ、ペタンとした一枚の薄板にしたって味は同じことだろうが、誰が考えたのか、ぽこぽこ膨らんだピンポン球型の形が見ても楽しいし、買い手の購買意欲を誘うのだろう。
それからパタンと閉じて、ガスコンロの上で何度かひっくり返して両面を焼く。焼き上がれば器具を開いて取り出し、二つ折りにして袋に入れて渡してくれる。食べ物はたいていそうだが、鶏蛋仔も焼きたての熱々を食べるのが一番おいしい。
手が火傷しそうなほど熱いのを、あちあちっと言いながらちぎって口に入れると、パリッとした食感と程よい甘さが、小腹の空いた時には最高だ。
だから、作り置きをしておいてあるのを売っている場合は敬遠することをお勧めする。冷めて、しかも軟らかくなっていて食感も悪い。材料が安物だけに、一旦タイミングを外すと、途端に味が落ちてしまうのである。
売れ行きのいい店で並んででも買う方がおいしい鶏蛋仔に出会えるだろう。ただ、路上の許可証を持たない鶏蛋仔売りの場合、あまり売れ行きが良すぎるところも問題がある。
取り締まりも警戒しなければならないし、焼いては渡し、金を受け渡り、お釣りも渡さねばならない。またもうけのために一枚だって多く売りたい。そこで、急ぐあまり生焼けのものを渡してくることもある。その味はこれまた悲惨なものである。
鶏蛋仔はどこで食べられるのか。車仔を押して売り歩く流動型なら、必ずしも毎日同じ所にいるかどうかわからないので、私が憶えているところに限って言えば、時代広場(タイムズスクエアー)へ行く時、跑馬地行きトラムのある道から入っていく交差点の左にそんなスナックを売る店があり、そこでも売っていたはずだ。それから湾仔の地下鉄の人民入境事務所へ行く方角の出口に出たところの、涼茶の店との並びにもあったと思う。
老姑婆はこの鶏蛋仔が大のお気に入りである。なんといっても女の子が好きな食べ物だから、旺角の女人街あたりなら、多分どこかで売っているのではないかと思う。
しかし、香港では何しろ店賃が高い。だから、去年あった店が今年はなくなっているというのはごく当たり前のことなので、なくなっていても、私を責めてもらっちゃ困るのである。
ということで、今回は次回の前振りである。これを基礎知識として、次回の翻訳を読んでいただきたい。
それから、前回の訂正をしておきたい。ジョルダーノの接客について、「日本なら当たり前のことだ」と書いたが、後で考えるとちょっと違っているような気がしてきた。
先日、とある私ご愛顧の男性ブティックで服を買った。さて、買い終えて品物を受け取ろうと手を出したところ、若い男性店員は言った。
「いえ、出口までお送りしますので」
そしてうやうやしく袋を持ち、私についてきて出口の所でようやく品物を渡してくれて、最敬礼して、「いつもありがとうございます」
出口まで迷うほど大きな店ではない。そんな何十万もするものを買ったわけでもない。いくらなんでもこれはもう形式的過ぎて、やり過ぎである。私なんか、これだけで何だか恐縮してぐったり疲れが出るほどだ。
それに引き換え、ジョルダーノの接客スタイルはもっとからっとして、フレンドリーなものだ。彼らの笑顔は客に作り笑いという印象を与えないし、てきぱきと動き、溌剌とした感じを客に与える。
それはそれで、専門家を呼んで研究し、店員にも研修を受けさせたものだろうが、日本式のものとは質的に違うところがあるように思う。日本では当たり前のことだと言ったことは、ちょっと訂正しておく必要があるだろう。
ちなみに、黎智英がジョルダーノを離れてからもうずいぶんたつ。原因は1989年の天安門事件だった。何しろあの時、ジョルダーノの店に長方形の黒地に白い文字で中国共産党を批判したステッカーが山積みされてあり、ただで配っていた。そしてそれが街のあちこちに貼られていたのである。そんなことをすれば共産党ににらまれるのは当たり前で、おかげで大陸の店舗が閉鎖される憂き目にあった。
そのため彼はジョルダーノから身を引いて「蘋果日報」という新聞を立ち上げ、マスメディアに新たな道を求めた。当時ジョルダーノで買った「争取民主」(民主主義を勝ち取ろう)という大きなロゴが入ったTシャツは、今でも持っていて、夏の夜の寝間着代わりに使っている。
ただ、最近は取締りが厳しいのか、軒先だけのような小さな構えの店で他のスナックと一緒に売っている店が増えている。全般的に車仔を押して流しの商売をする小販は少なくなったような気がするが、どうだろうか。
鶏蛋仔の作り方を知っているわけではないが、材料は多分小麦粉に卵とミルクそれに砂糖を混ぜただけのものだと思う。その器具は鯛焼き器を思い出してもらえばいいだろう。
もちろん型は鯛の形ではなく鉄板にピンポン球を小ぶりにしたような型が、約20個弱あり、それを二つに開いて中に並んでいる半球形の穴に材料を薄く流し込む。そのあたりはたこ焼き器に似ている。だが、たこ焼などと違って、その穴の外にも材料が均等に流されてそれぞれをつなぎ一枚になるようになっている。全体的には薄いもので、その丸いピンポン球の穴の中も空洞だ。
まぁ、ペタンとした一枚の薄板にしたって味は同じことだろうが、誰が考えたのか、ぽこぽこ膨らんだピンポン球型の形が見ても楽しいし、買い手の購買意欲を誘うのだろう。
それからパタンと閉じて、ガスコンロの上で何度かひっくり返して両面を焼く。焼き上がれば器具を開いて取り出し、二つ折りにして袋に入れて渡してくれる。食べ物はたいていそうだが、鶏蛋仔も焼きたての熱々を食べるのが一番おいしい。
手が火傷しそうなほど熱いのを、あちあちっと言いながらちぎって口に入れると、パリッとした食感と程よい甘さが、小腹の空いた時には最高だ。
だから、作り置きをしておいてあるのを売っている場合は敬遠することをお勧めする。冷めて、しかも軟らかくなっていて食感も悪い。材料が安物だけに、一旦タイミングを外すと、途端に味が落ちてしまうのである。
売れ行きのいい店で並んででも買う方がおいしい鶏蛋仔に出会えるだろう。ただ、路上の許可証を持たない鶏蛋仔売りの場合、あまり売れ行きが良すぎるところも問題がある。
取り締まりも警戒しなければならないし、焼いては渡し、金を受け渡り、お釣りも渡さねばならない。またもうけのために一枚だって多く売りたい。そこで、急ぐあまり生焼けのものを渡してくることもある。その味はこれまた悲惨なものである。
鶏蛋仔はどこで食べられるのか。車仔を押して売り歩く流動型なら、必ずしも毎日同じ所にいるかどうかわからないので、私が憶えているところに限って言えば、時代広場(タイムズスクエアー)へ行く時、跑馬地行きトラムのある道から入っていく交差点の左にそんなスナックを売る店があり、そこでも売っていたはずだ。それから湾仔の地下鉄の人民入境事務所へ行く方角の出口に出たところの、涼茶の店との並びにもあったと思う。
老姑婆はこの鶏蛋仔が大のお気に入りである。なんといっても女の子が好きな食べ物だから、旺角の女人街あたりなら、多分どこかで売っているのではないかと思う。
しかし、香港では何しろ店賃が高い。だから、去年あった店が今年はなくなっているというのはごく当たり前のことなので、なくなっていても、私を責めてもらっちゃ困るのである。
ということで、今回は次回の前振りである。これを基礎知識として、次回の翻訳を読んでいただきたい。
それから、前回の訂正をしておきたい。ジョルダーノの接客について、「日本なら当たり前のことだ」と書いたが、後で考えるとちょっと違っているような気がしてきた。
先日、とある私ご愛顧の男性ブティックで服を買った。さて、買い終えて品物を受け取ろうと手を出したところ、若い男性店員は言った。
「いえ、出口までお送りしますので」
そしてうやうやしく袋を持ち、私についてきて出口の所でようやく品物を渡してくれて、最敬礼して、「いつもありがとうございます」
出口まで迷うほど大きな店ではない。そんな何十万もするものを買ったわけでもない。いくらなんでもこれはもう形式的過ぎて、やり過ぎである。私なんか、これだけで何だか恐縮してぐったり疲れが出るほどだ。
それに引き換え、ジョルダーノの接客スタイルはもっとからっとして、フレンドリーなものだ。彼らの笑顔は客に作り笑いという印象を与えないし、てきぱきと動き、溌剌とした感じを客に与える。
それはそれで、専門家を呼んで研究し、店員にも研修を受けさせたものだろうが、日本式のものとは質的に違うところがあるように思う。日本では当たり前のことだと言ったことは、ちょっと訂正しておく必要があるだろう。
ちなみに、黎智英がジョルダーノを離れてからもうずいぶんたつ。原因は1989年の天安門事件だった。何しろあの時、ジョルダーノの店に長方形の黒地に白い文字で中国共産党を批判したステッカーが山積みされてあり、ただで配っていた。そしてそれが街のあちこちに貼られていたのである。そんなことをすれば共産党ににらまれるのは当たり前で、おかげで大陸の店舗が閉鎖される憂き目にあった。
そのため彼はジョルダーノから身を引いて「蘋果日報」という新聞を立ち上げ、マスメディアに新たな道を求めた。当時ジョルダーノで買った「争取民主」(民主主義を勝ち取ろう)という大きなロゴが入ったTシャツは、今でも持っていて、夏の夜の寝間着代わりに使っている。