goo blog サービス終了のお知らせ 

香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

メーリングリスト今何処

2007-12-11 21:27:10 | Weblog
インターネットは日進月歩で、今ミクシーというのが流行っているそうだが、メーリングリストはどうなってしまったのだろうか。とんと噂を聞かなくなったが、今でもやっている人はいるのだろうか。

私も昔香港好きの集まるメーリングリストに参加していたことがある。パソコンなど大の苦手の私がそのメーリングリストに参加したきっかけはもう忘れてしまったが。

だが、香港狂いの人たちとのメーリングリストでの情報交換や交流は面白かったし、若い人たちからインターネットのことについて教えてもらったのは本当にありがたかった。

私が今もメールソフトのBecky!を使い続けているのは、そのメーリングリストの影響であり、思い入れでもある。

そのメーリングリストは、インターネットがまださほど普及していなかったために相互扶助的な雰囲気があった牧歌的なネット時代と、爆発的に普及し始める時期との狭間にあったと思う。エチケットとネットを組み合わせた「ネチケット」などという言葉がまだ生真面目に語られていた頃だ。

しかし、現在問題になっている匿名性を利用した悪意ある言動や攻撃の氾濫の兆し、あるいはプライバシーの保護の重要性の問題もそこで実体験した。

書き言葉というものは、実際にしゃべるよりはるかに強いインパクトを持つ。だから、気をつけないと、ほんの些細な言い回しが原因で相手がこちらの意図を誤解して、非難、ひいては攻撃されていると受け取ってしまうことがしばしば起こってしまう。今盛んに使われている絵文字はその緩衝材の役目をしているのではないかと私は考えている。

メーリングリスト上でわずかな意見の違いから、罵詈雑言、誹謗中傷が飛び交うのを目の当たりにしてあ然としてしまったことは何度もあった。ちょっとした反論を非難ととらえ、怒りの文章を返す、すると返された相手も、さらに強い調子で反駁し、論戦はエスカレートしてどちらかが怒って脱退するまで続く、といった具合だ。

若い女の子が「てめえ、頭のネジが2、3本ぶっ飛んでんのじゃねえのかあ!」などと書いたメールを配信したりする。

おそらく、その女の子も面と向かって話をするなら、こんな言葉はさすがに使わないだろう。相手の顔が見えない、ハンドルネームを使った匿名性の世界だからこそ、そこまで突き進んでしまう。そして、それは今のネット上で日常的に起こっていることだ。

私自身オフ会の連絡をしようと慌ててしまい、ある人の携帯番号をメールで全員に発信してしまうという大失態を演じてしまい、お目玉を食らったこともある。

オフ会で実際に会ってみると、メールではあれほど多弁でユーモラスな人が、実際はひどく無口ではにかみやだという正反対の顔をした人だったりしたことも珍しいことではなかった。

けれど、オフ会でそれまで顔を知らなかった者同士が、同じ趣味という共通項でつながり、盛り上がるのは実に楽しい経験だった。

そのメーリングリストはある会員が会則に違反した内容のメールを繰り返し発信したために大論争なり、ついに管理人が閉鎖を宣言して終わりとなった。

大げさに聞こえるかもしれないが、私はそこでかなり早い段階でインターネットの光と影を体験することができた、と言っていいと思っている。

それもこれもずっと時間がたった今となっては懐かしい思い出だけれども。

をっと、(この「を」の使い方もそれこそそこで勉強したひとつだ)話が大幅にそれてしまった。

実は今回「紅白藍袋外史」というエッセーを訳そうと思うのだが、この「紅白藍袋」とは、あの安物だが極めて丈夫な赤と青と白の縞模様をしたビニール袋のことだ。

大陸の人がパンパンに膨れたそのビニール袋をいくつも抱えて羅湖の税関を通って香港へやってきたり、逆に一目見て大陸の人らしいと分かる風体の人たちが、香港で買った物をいっぱい詰め込んだその袋を羅湖へ向かうKCRの車内の床にいくつも置いて、放心したような目で車外を眺めている、といったイメージが私たち夫婦にはあり、そこでその袋を「チャイナの袋」と呼んでいた。

だが、例のメーリングリストでは、香港駐在者などは「アマさんの袋」と呼んでいたのである。「アマ」とは多分「阿媽」と書くのだろうが、おそらく香港在住者の家にいるお手伝いさんの意味だろう。

私は最近このエッセーを読んで初めてそのビニール袋の「正式名称」を知ったというわけで、これはいっちょう訳さねばなるまい、と思い立った次第だ。実は、まぁ要するにそれだけの話である。

とある知人が、このブログは話がくどくど長い、と言っていたが、今回もだらだらと長くなってしまった。

隙間にお気をつけください(2)

2007-12-10 21:49:42 | Weblog
「隙間にお気をつけください(2)」


彼女やその他の香港人移民たちが、彼らを受け入れた欧米国家での彼らに対する蔑視に不満を訴えるのに、しかしその彼らが香港においてはあからさまに自分たちの偏見を露わにするのはなぜなのだろうか。

最近地下鉄に乗っていて、あるきちんとした身なりのアフリカ人男性が、満員の車内で座席一列をひとりで占領しているのを見て、私はあの女性を思い出したのだった。

自分の状況に明らかに居心地が悪かったらしく、彼はとうとう座るより立つことを選択した。するとその座席はあっという間に満席になってしまったのである。もし私が彼に香港人たちに対してどう思うかと訊ね、そしてもし彼が本心を語ったとしたら、彼はきっとこう言っただろう。「あの人たちは僕の肌の色が嫌いなのさ。僕だって彼らの肌の色は嫌いだよ」彼は人種差別主義者ということになるだろうか。もちろんそうである。

アメリカの人種差別に焦点を当てたアカデミー賞受賞作「クラッシュ」のような映画には香港人たちは興味がない、と映画配給会社が言うのはなぜなのだろうか。そして香港人たちはなぜ、自分たちが侮辱的に描かれると、常に非道だと叫びたてるのに、香港の広告宣伝会社がお約束事のようにインド人をドアマンとして登場させ、白人と中国人だけをお金持ちのお客様として描くのを見て嬉しがるのだろうか。一方香港には非常に多くの裕福なインド人がいるというのにである。

香港政庁の官僚や立法議会議員たちは香港に人種差別が存在することを長らく認めておらず、依然として法律の制定を引き伸ばしている。それは官僚たちが偏狭であるが故に、人種差別は些細な問題なのだから、新しく法律を作るのは慎重にすべきだ、という偏見に耳を傾けることになってしまっているのではないのか、との疑念を抱かざるを得ない。

しかし、たとえ法律が最終的に制定されたとしても、私たちの社会の本質はほとんど変わらないだろう、と私は確信している。それは正しくすでにもっと厳しい法律があるところでさえ偏見を抑えこむことができていないように。そしてその偏見は私たち誰もが持っているのである。



お断り:(1)では原文の「the locals」を「現地の人たち」と訳しましたが、ここでは「香港人たち」と訳す方がわかりやすいと考え、(1)も含め「香港人たち」に書き直すことにしました。

隙間にお気をつけください(1)

2007-12-09 15:54:23 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ておりませんので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

「不中不英・Double Talk」より『Please mind the gap・請小心空隙』
出版:徳記書報有限公司
著者:褚簡寧(Michael Chugani) 



「隙間にお気をつけください(1)」


私たちはみんな人種差別主義者である。根っからの人種差別主義者というものはいないと主張する人がいるなら、誰であれ、その人間は嘘つきだ。皮膚の色の違いに根ざした侮蔑的な言葉や排斥から-双方ともに香港でよく見かけられるものだが-その他の場所で見かけられる憎悪による犯罪まで、人種差別は多方面に及んでいる。

香港に人種差別がはびこっていることを確認するのに十分な量の、移民局、公共交通機関、求職や部屋探しなどでの不幸な体験を列挙した手紙が本紙に届いている。最近、白人のヨーロッパ人と自称する読者からの一通の手紙に私はショックを受けた。香港人たちが地下鉄で彼の傍に座ろうとしないという彼の訴えはよくあるものだが、しかしそれは皮膚の色の濃い人たちに限られたことだった。高い金を払って鼻や目や胸の手術をして、ヨーロッパ人に似せようと懸命に努力する中国人が、なぜ地下鉄で本物の白人を避けようとするのか、私にはよくわからない。

ひとりのインド人として、私も香港人たちから避けられた経験があるが、私を避けて彼らは別のもっと混んだ座席に身体をねじ込むように座りたがるのである。だが、こういうことが起こるたびに、侮蔑されたことよりむしろゆったり座れることをありがたく感じる。もし、彼らが飛行機や映画館で私を避けるだけなら、それも同様だ。あなたが飛行機の座席の一列全部をひとりで独占していることや、映画館であなたの近くに誰もおらず、おしゃべりや嫌な音を立てられる心配がないことを想像してみて欲しい。

それが例えおふざけであっても、こんなことを言えば、私は人種差別主義者になるのだろうか。もちろんそうである。私がそんな考えを持っているだけでそうなのだ。大陸の人たちが押し寄せる祝祭日に、香港人たちがディズニーランドに行かないのはなぜなのか、と私は中国人の同僚に訊ねた。その答えとはこうである。「大陸の人は痰は吐くわ、押し合いへしあいはするわ、列に割り込むわ、でね」このことで私の同僚を人種差別主義者といえるのだろうか。もちろんそうだ。

私がアメリカで記者として人種差別を研究していた時、アジア人に対する蔑視に反対するキャンペーンをしていたある中国人女性と話をしたことがある。彼女が広東語で私に、如何に中国系アメリカ人がしばしばチンクと呼ばれ、高い地位の仕事につかせてもらえないかと話すのだが、彼女はアフリカ系アメリカ人を称して「黒鬼(はっぐあい)」という言葉をいとも気楽に使うのだ。そうして私は、この女性が彼女や彼女の子どもに対する人種差別的な対応については非常に苦しみながらも、人が背後で私を「摩囉差(もろちゃー)」(インド人の蔑称)と呼ぶことには何も感じないのだろう、ということを悟ったのである。




英語を訳す

2007-12-06 23:10:16 | Weblog
Please stand clear out of the doors, Please mind the platform gap,請小心車門,請小心月台空隙。これは香港の地下鉄、気取って横文字で言うならMTR(廣九鉄路はKCRだ)の車内アナウンスである。

日本のアナウンスの意味で訳すなら「ドアにご注意ください。プラットホームとの隙間にご注意ください」ということになるだろう。

そして、中国語の部分はいつからだったろうか、広東語と北京語の両方でアナウンスされるようになった。つまり三ヶ国語でやるようなものだ。ちなみに広東語の発音だと「ちぇんしゅうさむちぇーむん」で、北京語のは「ちんしゃおしんちょーめん」のように聞こえる。

今回「不中不英 Double Talk」という本の中の『Please mind the gap・請小心空隙』を訳してみるつもりだが、この題名は上記のMTRのアナウンスにひっかけてあり、それを知っている人間なら、にやっとするという仕掛けになっているわけだ。

日本でもこういった体裁の学習参考書的なものがあるが、この本の左ページが英語の原文で、右ページがその対訳の中国語となっている。

私は英語はいまいちどころか、いま二、いま三ぐらいなのだが、それにしても翻訳とは難しいものだと思う。

英語と中国語を対照してみると、それはあまりにも意訳にすぎないかと疑問に思う部分が多々ある。意味としては、まぁそうなんだろうけど、こんな訳し方でいいの?と思ってしまい、また我が身を振り返って見て、まぁ仕方ないかな、自分もずいぶんな意訳をしてるからな、と黙り込まざるを得なくなる。

最近ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出て、文庫本5冊一セットで50万部売り上げが出たそうだ。その他にも、「ロリコン」の語源となったウラジミール・ナボコフの「ロリータ」が新訳されるなど、特に古典の新訳本が続々出て話題になっている。

ちなみに、私は「ロリータ」を高校生の時、故郷の市立図書館で上巻を借りて読み、下巻を借りようとしたら、それは当時は18禁なので貸してもらえなかった。どうも上巻を借りられたのも何かの手違いだったようなのである。

「ロリータ」が18禁とは、田舎のこととはいえ今から思えば笑ってしまうほどお堅い時代だったわけだが、しかし、年をとったせいか、振り返ってみると、現在の世相と比べてむしろ微笑ましく感じられてしまう。

新聞ではこの「カラマーゾフの兄弟」にしても、訳者によってどれだけ違いがあるか、という例を、同じ段落の文章の旧訳と新訳を載せて比較して見せていたが、文体の違いが一目瞭然で、訳す人間によってこうも違うかと唸らされる。

結局のところ、完璧な翻訳というものは不可能だと思う。訳文は否応なく翻訳者というそれぞれ異なったフィルターを通ってから読者に届けられるから、フィルターでろ過された後の文章は訳者の色に染まらざるをえない。そこにはある種訳者の創作の要素が入ってくると言っても過言ではないだろう。

その上、言葉は文化そのものだから、バックグラウンドの違う文化のものが、まったくひとつに重なり合うことなど土台無理な話だ。どうやっても、原文の味わいをそのまま他の言語に置き換えられるものではない。

本というものは、書き手の息づかいまで体感したければ、原文を読まなければどうにもならない。今回つくづくそう思い知らされた次第である。

で、私の英語力もいまひとつなのだが、この文章については、あくまでも英語の原文を翻訳し、分からないところでだけ中国語訳を参考にすることにする。

そすると、途端に題名の「Please mind the gap」で出だしからつまずいた。「gap」を中国語では「空隙」と訳しているが、これはつまり隙間とか間隔という意味だ。もちろんプラットホームではその意味になる。ただ、ここの英語の「gap」は「ジェネレーションギャップ」の場合などの「ギャップ」で、それをプラットホームの「ギャップ」にかけて一種の言葉遊びをしているわけだ。

だが、日本の電車でなら、「電車とプラットホームの隙間にご注意ください」と言うだろうか。

私が聞く限りでは「電車とプラットホームの間が広く空いておりますのでお降りの際はご注意ください」と言っているようで、「隙間」とは言わないような気がする。しかし、これも会社によっては「隙間」と放送しているところがあるかもしれない。

考えれば考えるほどわからなくなり、こんがらがってきたので、ここの「gap」は、香港の地下鉄のアナウンスにこだわった方がいいと思い、あえて「隙間」と訳すことにした。正確に言うなら「ずれ」とでも訳す方がより近いだろうが、それでは面白みがない。

さて、著者はミシェル・チュガニといい、中国語では褚簡寧と書く。父母がインド北部からやってきた、香港生まれで香港育ちのインド人で流暢な広東語を話すとのことだ。

この「不中不英」は最近「サウスチャイナモーニングポスト」に連載されたコラムを集めたものだが、ワシントンで7年間政治記者をやった経験もあり、香港でもさまざまな新聞の記者や編集長、並びにテレビのニュースキャスターなどを歴任したベテランジャーナリストだと紹介されている。

この本は今年7月に香港の湾仔にあるコンベンションセンターで開催された書展(ブックフェア)で、たまたま著者が来て買ったらサインしてくれるというので、これも何かの縁だろと、買ってサインしてもらったものだが、読んでみて結構面白いと思い、訳してみることにした次第だ。


マフィアのアイスクリーム補足

2007-11-21 21:18:03 | Weblog
香港人は薬膳にうるさい。食べ物を熱と寒の二種類に分ける。例えば、肉とか油で揚げたものとかは熱気(いっへい)があるといい、果物などは寒涼(ほんりょん)で身体を冷やすという。

私なんかは普段あまり肉類を食べない方だが、香港に来れば、もう動物性タンパク質と油のオンパレードである。そこで、熱気を取り除くために、毎日涼茶(りょんちゃ。ただし廿四味ともいう)を飲む。ところが、老姑婆もそれを飲んでいると言ったら、身体が冷えるのに女が飲むもんじゃないと友人たちからブーイングを浴びた。女性の冷え性は日本人も中国人も同じようである。

ここで書かれている蛇羹(せーかん)とは蛇スープだが、蛇の肉は身体を温めるからというので、特に冬好んで食べられる。しかし、果物は身体を冷やす。だからここでは、ドリアンは寒涼で、食べたら身体が冷えるから、パーシバルストリートを渡った向かいの蛇王二へ行き蛇羹を食べて身体を温めればいいと言っているわけだ。

以前書いたことがあるが、蛇王二は私たちの行きつけの店だ。クリスマス時期に香港へ行くと必ずここで食べる。そして、2年前だったか、蛇羹を食べて汗だくになった後、偶然その向かいにあるアイスクリームショップで、アイスクリームを買って食べた。

そして、その店がGust Gelatoという名前だということはこのエッセーを呼んで初めて知った。この店では、各種アイスクリームの試食をさせてくれる。しかし、値段は忘れたが結構高かった。それでも店は繁盛していて、女の子たちでかなり混みあっていた。

それにしても偶然とはいえ、私たちは著者の考えどおりのことを実践していたことになる。

いくら香港人でもこの二軒の店を梯子する人はほとんどいないと思う。何しろ蛇王二の客の大半は親父連中だから、蛇肝の血の入った酒を飲み、蛇料理を食べ、その後で若いおしゃれな女の子が群がるアイスクリームショップへは行かないだろう。

また、その逆に、おしゃれなアイスクリームを楽しむ女の子が、親父たちと相席をして肩をぶつけ合いながら蛇羹を食べることも、まずありえない。

だが、私たちはやったのである。もうこうなったら、胸を張って、香港人を超えた、と言っていいような気がしてきた。

マフィアのアイスクリーム

2007-11-19 21:04:30 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ていませんので、著作権を侵害しているため、抗議等あり次第削除される可能性があります。

博益出版集團有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『雪糕Mafia』


マフィアのアイスクリーム


子供の頃アイスクリームを食べるのに、いちばん好きな銘柄は甄沾記のだった。けれども、少し大きくなってからはクラスメイトから味音痴だと馬鹿にされてしまった。食べるんなら、もちろん牛乳公司の三色アイスクリームでなくちゃ、とみんなが言った。スプーンでひとすくいすると三種類の違った味が味わえて、食べ終わったら、四角いプラスチックの箱が、今度はおもちゃ入れに使える。これは僕が小学生の時の最も贅沢な楽しみだった。

中学に上がり、成長すると西洋かぶれになってしまった。Dreyer’s の出現は僕を狂喜乱舞させたけれど、Ben & Jerry’s と同じように、この種類のアイスクリームはミルクの味がとても重たくて、食べると少し味がくどい。そうして、だんだんDreyer’s からHaagen-Dazs になびいていった。Haagen-Dazs は英語じゃないから、どこかヨーロッパ貴族の味がした。ただ、後になって実際にヨーロッパに行って、特にイタリアでHaagen-Dazs を食べると言ったら、おたくはアイスクリームというものがどういうものか全くわかっとらんね、という顔をされてしまった。イタリア人の友人は僕に、こういったブランドのアイスクリームは、正統なイタリアの伝統あるアイスクリームとは全然比べ物にならない、と言った。

イタリアのアイスクリームは僕らが普通食べ慣れた硬いアイスクリームとはかなり違う。それはアイスクリームとミルクシェイクの間ぐらいのもので、口に入れるとちょっと軟らかく、フルーツの味がやや濃い。イタリアでは、いつもブルーベリーの大袋入りを買う外に、アイスクリームショップを通りがかると、コーヒーショップと店構えが同じだから、必ず腰を下ろして食べながらおしゃべりすることになる。

銅鑼湾広場第2棟の角に、中にテーブルが3、4台あるだけの小さなイタリアアイスクリームショップのGusto Gelato がある。オーナーは正真正銘のイタリア人で、そこのアイスクリームは僕が食べたうちでいちばんイタリアの味を保っているものだけど、中でもドリアンアイスクリームが最もイタリアの味を思い起こさせてくれた。ドリアンじゃ冷え性に悪いって?なら向かいの蛇王二に行けば蛇羹を食べられるよ。

前を通る時、いつも好奇心が抑えられない。イタリア人がなんでまた銅鑼湾に来て小さな店を開いたりしたんだろう。その裏には昔何か渡世の事情があったように思えてくる。まるで故郷を離れたイタリア人みんなが足を洗ったマフィアみたいに。

果物屋

2007-11-16 21:57:16 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ていませんので、著作権を侵害しているため、抗議等あり次第削除される可能性があります。

博益出版集團有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『生果檔』


果物屋

果物屋がますまず少なくなってきた。

印象にあるのは、新鮮な果物を買うとしたら、子どもの頃はいつもあの士多(注①)のやってる果物屋に行ってたことだ。どの店でも必ず果物屋の入口に山の棚田みたいに果物を積み上げて並べていた。

各段にひとつの種類の果物だけ置き、上には赤いビニールの覆いをつけた電球があって、まるで果物も卵みたいに電球で照らして品定めするようだった。(注②)環境には優しくないけれど、やっぱり果物を買う時は伝統的な赤いビニール袋に入れてこそ、しっくりくると思う。オレンジを買う時は、おまじないみたいな訳のわからないことが書いてある赤紙が上に貼ってある紙袋を使ってもらわなくちゃいけないことは別として。

もちろん、それからあの、その場で絞ってくれるホットさとうきびジュースと竹篭に山と盛られたさとうきびカスがある。僕はやっぱりさとうきびジュースの方が好きだ。だって、オレンジジュースを注文したら、あの冷蔵ケースに入れられた縁を切ったオレンジは、もう何日間そうやって置かれたままなのか分からないからだ。

きっと新鮮じゃないと思って、しばらくはスーパーマーケットに果物を買いに行くのに抵抗があった。なぜなら、果物屋では人の流れがとても多くて、品物がはけるのが早いから、店主はいつも卸屋から補充していて、どうやらスーパーマーケットの中で積んで置かれている果物よりずっと新鮮なようだと、伝統的に記憶していたからだ。ただ、この頃は市内の気温は高止まりのままだから、新鮮な果物を道端の果物屋に置いていたら、砂埃はもうもうだし、むっとした湿気が果物を熱く蒸してしまう。そのおかげで、朝はまだ仕入れだちで新鮮だったものが、黄昏時にはもう蒸し上げられてふにゃふにゃになってしまって、手にとってみると、まるで一週間置いてたみたいだ。ということは、やっぱりあの低温の陳列棚に置かれているスーパーマーケットの果物の方がもっと衛生的なんだろう。

経済の変化のために果物屋が全体に勢いを無くしてるけれど、地球温暖化がこんな伝統的な店が徹底的に淘汰されてることの主な原因だ。


注①:英語のストアーのこと。街角などにある小さな店。主に雑貨店を指す。
注②:街市(市場)で卵のばら売りをしている場合、一個一個電球で中身を透かして見て、新鮮さを確かめる。





正しい字を正確に

2007-11-13 20:50:05 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ていませんので、著作権を侵害しているため、抗議等あり次第削除される可能性があります。

博益出版集團有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『正字正確』


正しい字を正確に

最近香港人の中国内地との往来が頻繁になっていて、いつも内地のお役人と接触しなければならないが、そこでぜひ気にとめておく必要のある事柄がある。それは香港人としては慣れっこになっている言葉が、実は内地の人にしてみると、結構耳障りな場合があるということだ。例をあげて読者にもっと気をつけてもらうことにしたい。

例1:「張社長、私ここんとこ香港の方の仕事がちょっと忙しくて、国内にあまり来られないんですよ」

香港人は1997年以前には深圳河以北をずっと「国内」と呼んでいたけれど、実のところこれはイデオロギー的な国土分裂だった。97年の返還以後香港は中華人民共和国の一部になったんだから、深圳河以北は「国内」じゃない。なぜなら、それを「国内」と呼ぶなら、我香港は「国外」を意味することになるからで、香港から北上するなら、「内地」へ行くと言うべきだろう。

例2:「ここ数年いつも上海に行って商談してるもんで、私の国語が大分進歩しましてねぇ」

基本的に僕らが今言っている「国語」とは、昔中華民国時代だったころ、中華民国政府による投票で北京官話を全国の標準語に選定したものだ。ついでに言っておくと、あの当時広東語は一票の差だけで国語になることができた。もし、もう一票多かったら、今ごろは多くの香港人がずいぶん気楽な思いをしてるだろうし、有線テレビの娯楽チャンネルも香港のタレントをいじめずにすんでいたろう。だから、「国語」とは国民党時代の言い方だ。中華人民共和国が成立したら、僕らがしゃべるのは「普通話」に変わってしまった。

植民地教育が民族国家意識のないこの年代の人間をたくさん作り出したおかげで、不適切な用語を使ったため、途端に「筆禍事件」に落ち込んでしまい、そのうえ自分ではそのことに気がつかないでいたりする。

考え込む

2007-11-11 12:54:32 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ておらず著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。


博益出版集團有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『拉扯』



考え込む


釜山の街をぶらぶらしていたら、ずいぶん歩いてもゴミ箱がないのに気がついた。さらに不思議なことに、たとえゴミ箱がなくても、街はとても清潔で、街角にもゴミの山はない。これは現地の清掃員が特に仕事に精を出しているためじゃなく、彼らの一般的な民族性なんだろう。人々はみんな飲み終えたペットボトルや、食べ終えた物の包装紙は持っておいて、ゴミ箱のある所へ来てはじめてそれを捨てるわけで、こんなことは香港ではちょっと想像し難い。

香港のすべての街角、はたまた1ブロックに少なくとも2個ゴミ箱がある。なぜかというと、もしこうした施設がないと、市民は何のためらいもなくゴミをあたりかまわず捨ててしまい、その上胸を張って、それは公共施設の不備のためで、「お上のせいだ」と主張するだろう。

わが民族の自己抑制力は強くない。もちろん、いい風に考えれば、また僕たちの自己抑制力が弱いから、膨大な数の清掃員が清掃作業を行う必要があるわけで、逆に下層階級のためにかなりの就業機会を創出していることになる。ちょうど空港で荷物用カートを元の場所に戻すのに人手を雇う必要があるのと同じだ。

外国のファーストフード店やスターバックスやハーゲンダッツなどの露天レストランでは、食べたり飲んだりした後は、みんな自分でゴミをゴミ箱に捨てていて、こうやってかなりの清掃員を減らしている。
 
けれども、もし香港のマクドナルドのお客さんが全部こんなことをしたら、大量の中年女性の就業機会を奪ってしまうだろう。いったい僕たちは韓国人に学ぶべきなんだろうか、それとも中年の人にチャンスを与えるべきなんだろうか。いつもこんな風な思考上の問題で考えこんでしまい、最後はやっぱりお持ち帰りを注文することに決めて、この煩わしい問題から逃げてしまう。ボランティアで僕のカウンセリングをしてくれる、このコラムを読んでいる精神科のお医者さんはいないかな。

鶏蛋仔(がーいだんちゃい)

2007-11-08 21:59:25 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を受けておらず著作権を侵害していますので、抗議等あり次第削除される可能性があります。


博益出版集団有限公司出版
彭浩翔著「一種風流」より『雞蛋仔』



雞蛋仔
湾仔のロックハートロードの人民入境事務所の方へ行く横断歩道橋の下にえらくうまい鶏蛋仔を売る店がある。同僚が買ってくる度にみんな喜んで食べている。最後にはみんなで取り合いになってしまうので、毎回誰かが鶏蛋仔を買いに行くと提案すると、取り合いにならないように、いつも一人一枚ずつ注文することにしている。

けれど、どうしてあそこの鶏蛋仔が特にうまいのだろうか。実のところ、鶏蛋仔には別に何か特別な調理技術があるわけじゃない。その後ようやく分かったのが、もともとその秘訣というのが、鶏蛋仔自体にあるんじゃなくて、鶏蛋仔を入れる紙袋にあるということだった。

鶏蛋仔のうまさは、そのぱりぱりとした食感にある。ただ、焼きたての熱くぱりぱりした鶏蛋仔を、もし紙袋に入れてお持ち帰りにしたら、会社に着くまでに少なくとも5分以上かかる。本来のパリッとした鶏蛋仔と鶏蛋仔をつなぐふちはすぐにしなしなと軟らかくなり、もともとのあの食感がなくなってしまう。熱気が紙袋の中にこもり、逃げ場がないから、しまいには湿気となって鶏蛋仔が軟らかくなってしまうのだ。

その温度を保つのは当然重要だけれど、しかしまたそれで軟らかくなるのも防がなければならない。それはまるで、僕らがマクドナルドに行ってフライドポテトを買って帰り、長い間放っておいたら、フライドポテトも蒸されて軟らかくなるのと同じだ。

そこでマクドナルドでのお持ち帰りに長けた人は、きっと食べ物を受け取ったら、フライドポテトの紙袋を開けて、むしろその熱気を早めに逃がしてでも、しなしなにするよりはましだと考えるだろう。このためこの店の鶏蛋仔の特色はコーヒー色の紙袋にあり、数十個の小さな穴があけてあって、こうすれば鶏蛋仔の新鮮さとぱりぱり感を保てるというわけだ。

鶏蛋仔売りはたくさんいるが、この店はちょっとした気配りをするだけで食品の質を上げることができた。成功するか失敗するかは、時としてこんな小さな努力にかかっていることがある。