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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

赤白青袋外伝後記

2008-02-13 21:54:56 | Weblog
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書名:「舊時風光-香港往事回味」より『紅白藍袋外史』
著者:陳雲
出版:花千樹出版有限公司


赤白青袋外伝後記


赤白青色ビニール布は台湾では元の名を「草布」といい、台湾のメーカーが日本のビニール織りの技術を導入して製作したものだった。材料はポリエチレンとポリプロピレンで、ビニール材料を引き伸ばして薄い膜にした後、細長く切り、それから織機で縦横に交叉して織って作り上げた。元々は青色で、防水ズック布の代用として使われたが、台湾に入ってから、婚礼、葬儀の宴会で臨時のテントとして使われるようになった。縁起良くするため赤色を加え、また他の用途に使うのにも便利なようにしたのである。1975年に香港に入り、一番初めは青山道の家内工場で赤白青袋が作られ、帰郷者の使用に供給されていたが、その後政府が法律で工事現場では必ず外周りに防護網を設置することを義務付けた。そこで赤白青のビニール布がいたるところで見られるようになったのである。

三世代にわたる貧困

2008-02-07 22:11:19 | Weblog
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出版元:OXFORD
著 者:胡燕青
書 名: 「小板凳」より『三代貧窮』



「三世代にわたる貧困」



私たちの世代は人生を三つに分けられる。一つ目は父母に属し、私たちは上の世代と一緒に苦しい日々を送った。昼は学校に行き、夜は働き、一家総出で目が覚めているすべての時間を最低限の生活のために使い切った。それは正真正銘の貧困だった。

二つ目は自分に属している。大学をやっと卒業すると、すぐに専門家になって、橋や道路を作り、自分の医院を開き、大学の教壇に立った。あのおどおどして恥ずかしがりの一年生からそれぞれの大組織の青年エリートに変わるまでに三年しかかからなかった。板間仕切りの部屋から出てきた醜いアヒルの子がすっかり生まれ変わり、洋服やスーツを着込み、革靴をカッカッと数回響かせるだけで、上のクラスへの階段を上ることができた。父と母はそれまでどおり牛頭角の団地に住んでいるけれど、私たちはすでにオフィスの隣の、空と海が少しは見えるマンションを買っている。私たちはお金を借りて生活する条件にはこと欠かない。お金を借りて車を買い、お金を借りて家を買い、お金を借りて税金を払い、お金を借りて事業を始めるのだ。大理石で光る床、金をちりばめた水道の蛇口、茶托の下の模様入りの敷物などは私たちがすでに中産階級になっていることの証だ。だが、私たちには数え切れないほどの負債があり、突き詰めて言えば、下層階級の人々よりさらに貧しいのだ。

三つ目は子どもたちに属している。子どもは段々と成長し、有名校へ入り、ブランド品を着、学校の制服はフィリピン人の女中がアイロンをかけて畳んでくれ、街に出るにはバスの乗り方が分からないので、行きも帰りも父親か母親が車で送り迎えしてくれ、香港の大学に受からなければ留学させてもらえる。私たちは首を振ってため息をつき、自分が働きながら勉強していた頃を思い出し、さらに香港の大学卒業生の大半が仕事が見つからず、たとえ見つかったとしても、賃金は小遣い程度にしかならないことに思い至るのだ。私たちのお坊ちゃんやお嬢ちゃんたちは将来自活できるのだろうか。見たところ、次の世代はやはり「貧困」という字と関係が切れそうにない。

少年時代から中年時代まで、私たちは素寒貧の貧しい家庭から出てきて、カズラの花が咲くように束の間中産階級になり、今また坂を下っている。無一物の晩年に向かって。

美しさと寂しさと

2008-02-03 20:40:59 | Weblog
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出版元:OXFORD
書名:「小板凳」より『美與寂寞』
著者:胡燕青


「美しさと寂しさと」


張國栄の急逝は、私にすでにこの世を去った陳百強とテレサ・テンを思い起こさせた。

中学生の時、テレビの番組で演じているテレサ・テンを初めて見て、この世にこんなきれいな女の子がいることがどうにも信じられなかった。彼女のクリスタルのような声、瑞々しい肌を見るだけで感動してしまった。彼女のスタイルはそれ以上にほぼ完璧な美しさで、膝下も長くまっすぐしていて、ごく平凡な旗袍やミニスカートですら彼女が着ると極上品に見えてしまうのだ。あの年、彼女は17歳だった。

陳百強のデビューが私に与えた想いもとても深いものだった。私は高校からイギリス文学を専攻し始めていて、ずっとジェーン・オースティンが主演しているのが好きだったので、陳百強の正統派貴族的な学生の雰囲気は私の心の中の白馬の王子様にちょうどぴったりだった。だが、彼はもっと美しかった、なぜなら彼は中国人だったから。彼の美しさは、大きな青空の遠くの端っこにうっすらと浮いた絹糸に似た白い雲のように、若く、飄々とし、清潔で、善良で、限りない心地よさを感じさせてくれた。

張國栄の美しさは違う。彼は姿は男の子だが、一目見るだけで驚くほどのなまめかしさがあり、顔立ちは整っていて非の打ちどころがなく、少し厚めの上唇は不思議なほどセクシーで、尖った顎は見るものに親しみと愛らしさを感じさせた。張の憂いには彼特有のある種透明な基調があった。彼は落ち着いた時も憂いがあり、くだけた調子の時にも憂いがあった。彼は憂いそのものだった。40歳を過ぎ、彼の顔は段々とピントが合ってはっきりとしてきて、皺はあるようでいてまだなく、輪郭がくっきりとし始め、更にきれいになってどきどきするほどだった。

けれど、テレサは亡くなった時、顔全体が腫れ上がっていた。陳は長い間植物人間になってしまい、亡くなった時はおそらく身体中できものだらけだっただろう。張の身体は粉々に砕け、ひとかたまりの肉塊になってしまった。結局、アイドルの整った顔をもってしても自身を幸せにすることはできないのだ。

彼らはなぜ不幸だったのだろう。誰にもわからない。私たちにはただ自分が同じように悲しんでいるということがわかっているだけだ。彼らのために、自分のために、すべての人の心の中の克服しようのない寂しさのために、また彼らの残したより大きな寂しさのために。

束の間の中流生活

2008-01-27 22:14:33 | Weblog
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OXFORD UNIVERSITY PRESS出版
「小板凳」より『半生中產』
著者:胡嚥青



60年代に香港へやって来た時、ちょうど小学校の入学に間に合った。あの当時、陳宝珠の映画の中で、もし主役が不治の病を患ったら、必ずイギリスかアメリカへ治療に行ったものだったが、それは香港が二流の都市で、いい医者がおらず、いい病院はなく、いい医療というものどなおさらなかったからだ。

70年代、私たちは段々と国際的大都市になっていき、アジアの四小龍のうちでも最高の成果を成し遂げていた。香港の紡績、被服製造、時計及び玩具業は世界第一であり、さらに私たちはニューヨーク、ロンドンと合わせて世界の三大金融センターと呼ばれている、と教科書には書いてあった。香港の医学もとてもすごいものに変わり、香港大学の肺胸部科の研究や治療水準は世界一だった。香港は世界のトップで、私が勉強しているのもまた香港で最も有名な大学なのだから、将来の生活など心配する必要なんかない、と当時の私は考えていた。

初めて香港へ来た時、私たちはとても貧しかった。父は工事現場、工場、店先などあらゆる所で働き、最後は露天商をして私たちを育て上げた。同級生たちと話してみると、みんな板仕切りの部屋で間借り住まいをしたことがあり、街角の水道で順番に水を飲んで空き腹を満たしたことがあり、放課後は香港フラワーを作ったことがあり、お金持ちの子どもの家庭教師をしたり、夏休みには工場で働いたことがあったのだった。

その後、私たちはそれぞれ、エンジニアになったり、医者になったり、弁護士や教授や官僚になったりした。もっとも、赤ワインを飲む時、私たちは相変わらずグラスの違いが分からないし、暇があれば今でも鴨寮街をぶらついたりする。子どもにはテニスやピアノの練習をさせ、英語圏の学校へ留学させて、子どもに家事をさせたりしたことなどない。というのも家にはフィリピン人の女中がいるからだ。年老いた親を安心させるため、私たちは必要額をはるかに超えた生活費を渡している。私たちが銀行にいくら借りて税金を納めているか、数百スクエアのマンションのローンがいくらか、彼らは何も知らない。

私たちの肩がずしりと重かったのは、80年代と90年代だった。けれど、大きな負債を抱えてはいたが、その頃が私たちの最もいい時代だったのかも知れないということが、当時の私たちにはわからなかった。

次第に私たちはもう若くなくなってきてしまっている。銀行は言う、「あなたのマンションは担保の金額の半分しか値打ちがありませんよ」社長は言う、「大学生だって?たとえ博士でも掃いて捨てるほどいるぜ」上海人は言う、「香港?おれ達の敵じゃないさ」

私たちはまた貧しくすっからかんの60年代に戻ってしまった。だが、かつて私たちにアルバイトの声をかけてくれた工場や夜学や食堂はなくなり、私たちの闘争心と夢も消え去ってしまった。「銀の鎖はちぎれ、貯金箱は割れ、瓶は泉の傍で砕け、井戸のモーターはボロボロになった。土ぼこりは元通り地に帰した」私たちはまた60年代に帰ったけれど、「使い古した」過去を以って新たな未来と取り替えることはできない。

「舊時風光」と新界

2007-12-22 15:44:16 | Weblog
「舊時風光」の陳雲はペンネームで、この本の内容から判断すると、生まれも育ちも新界であり、呂大楽の「四代香港人」によると、1946年から1965年に生まれ育った「戦後ベビーブーム」に属する第二代香港人ということになる。

だから、この本で書かれている旧事とは60年代及び70年代の、まだ貧しい香港の、そのまた新界に対する著者の回顧である。翻訳した後でこんなことを書くのも何だが、その背景を考慮して文章の意味を理解していただきたい。

著者の家を私は「掘っ立て小屋」と訳したが、原文は「木屋」で、「バラック」と訳しても良かったかもしれない。この本の他の部分では、当時はまだ木材が安かったから、木屋とはいっても結構広かったと書いてある。

その頃の新界は、遅れた農村であり、尖沙咀や中環のような都市とは隔絶されたような世界だったようだ。だから子供が都心部へ行くことなど交通事情から考えてもありえないことだったようで、むしろ感覚的には大陸の農村に近い生活のようだ。

一方その分、牧歌的でもあり、古い因習や風俗も残っており、そうしたことも著者の懐かしい思い出として記されている。

しかし、香港はその後急速な発展を遂げる。今では新界といえども、マンション群が立ち並び、ショッピングセンターができ、みんな街へ稼ぎに出かける「打工仔」(サラリーマン)になってしまった。

農村の洟垂れ小僧だった著者もその後中文大学を卒業し、ドイツへ留学して1995年に哲学博士号を取得して、大学で教鞭をとっているとのことだ。そして今ではおそらくどこかのマンションを購入し、かつての木屋とは比べ物にならない「近代的」な生活をおくっているのだろう。

この著者の人生の軌跡がそのまま香港の歴史を象徴していると言っても過言ではないと思う。そうしたことは私の友人たちにも言えて、このブログでも何度か書いている。

だが、発展し、最高点まで上りつめれば、次には下りがやってくる。今後の香港については胡燕青が「小板凳 」というエッセーの中である種の憂慮を書いているので、また紹介してみたいと考えている。

さて、明日から恒例の香港行きである。10日ほどの滞在になるが、友人と会い、本を買い込み、街をぶらぶらして、つまりいつものように過ごす予定である。

このブログを律儀に覗いてくださる方が、わずかとはいえおられることには感謝の念を禁じえない。好き勝手に海賊版を作っているので、読む人も共犯者の快感を感じておられるのだろうか。

しかし、翻訳文にも根気よく付き合ってくださる方々は、やはりよほどディープな香港フリークなのだろうし、その意味では同志的連帯感を私も感じている。

さて、しばらくお休みとなるが、皆様方には本年最後のご挨拶を申し上げて、今年の区切りとしたい。

聖誕快楽 新年快楽 


赤白青袋外伝(4)

2007-12-20 21:06:43 | Weblog
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「頭は垂れても諦めはしない」

後期の赤白青袋は工場から大量生産され、値段が下がった。スーパーでも買えるようになり、材質はやや薄くなって、縫い目もちょっと粗くなった。後期の赤白青袋はおそらく大陸香港間の頻繁な往来に用いるのに都合がいいようになったのだろう。貨物取引の双方が必ずしもすぐに袋を「回収」する必要はなく、気が向いた時に持っていくことができるわけだ。

現在大陸で多くの模造品のコロ付の皮製キャリーバッグが生産されおり、値段も材質に比例して安くなったため、中年男性の中にはそれに物を入れて里帰りする人も出始めた。

庶民の生活水準の改善は往々にして生活の質の下降を伴うものだ。貧民に魚や肉を食べさせ、衣服を着させるには、彼らに大量生産された有毒なものを食べさせ、有害な繊維の服を着させるしかない。資本主義社会の富の公平さがよって立つものが正にこれなのだ。

しかし、赤白青袋は依然としてこれらの皮製のキャリーバッグに淘汰されてはいない。

英語のbag people とは、物をビニール袋に入れて街をさすらうホームレスの人を指す。羅湖で税関を通り抜ける赤白青袋は、ビクトリア湾の古い中国帆船のように香港人のさまよえる生活を表しており、また香港人の運命に逆らわない分をわきまえた生き方と同時に、運命に負けず奮闘努力する様を象徴している。

天秤棒が禁じられれば、布袋と手押し車を使い、禁令の下を頭を垂れて通りすぎていくが、自分の荷物は離さない。

赤白青袋外伝(3)

2007-12-19 21:26:57 | Weblog
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「風物調査」


伝えられるところによると、王家衛の映画がベルリン映画祭に出品されてから、映画の中の赤白青袋がヨーロッパの文化人の間で流行となり、それに荷物を入れて飛行機に乗ったりするようになったそうだ。

もし香港の民俗的名物を選ばねばならないとしたら、その他の二つが何か(鉄製のベッドかそれとも丸い折りたたみ椅子かだろうか)は知らないが、赤白青袋は「香港の三種の神器」のひとつに入れるはずだ。赤白青色袋には赤白青でないものもあるのだが、しかしすべてが赤白青袋と呼ばれることからみて、あの種の三色のナイロン生地の「威名」がどれほど轟きわたっているかがわかる。

私が資料をあたった訳ではないが、あれは軍隊などの、縁に銅製の輪がついていて、そこに綿の縄を通して口を締められるようになっているズック布の袋から派生してできたものに違いないと思う。

私も生地の専門家ではないが、想像してみるに、三色の布は街のズック布店が縫い合せる時に、「目測法」で幅を量るのに便利にできているのだろう。

赤白青袋は最も「愛国的」な現代的文化財なのだが、残念ながら今に至るも依然として誰もその歴史を研究しようとはしない。それは最低限の最も材料を節約したデザインだが、機能は多い。摩擦に強く、防水で、ファスナーで密閉でき、持ち手もついており、その上完全に平たく畳めるので、収納場所が少なくてすむ。

赤白青袋は香港の工業デザインの偉大なる成果なのだが、知的所有権はなく、誰が発明したのかも分からない、どうも集団的に創作されたもののようだ。

初期の赤白青袋は材質が厚くて、縫い目は太くて細かく、縁取りはきつく縫ってあり、上水のズック布店か雑貨店にしか売っておらず、手工業の生産物だった。

記憶では、あれは多分80年代初期に九廣鉄道と税関が大陸へ里帰りする老人たちが天秤棒で荷物を運ぶことを禁止したことに関係していると思う。帰省者たちは手に提げるカバンにしなければならなくなったのだが、税関は混雑し、帰省する人たちの多くは貧しい民衆で、貴重な皮製のバッグなど使えるはずがなかった。そこで、ナイロン生地の赤白青袋が、機運に応じて誕生し、さらに鉄パイプを組み合わせた、折りたたみ式の手押し車までできたのだ。

当時、私たちはまだ赤白青袋を「大陸袋」とか「帰省袋」とか呼んでいたが、それはずばりその名の由来を表していた。天秤棒の使用禁止がいつだったのか確定し(時)、国境の上水のズック布店(地)から調査を始めれば、赤白青袋の創始者(人)を探し当てることはさほど難しいことではないはずだ。


赤白青袋外伝(2)

2007-12-18 21:16:07 | Weblog
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「麻袋の日々」


子どもの頃、家は窪地にあり、木造の掘っ立て小屋には箪笥がなく、普段着る服は畳んで枕元に置き、あまり着ない服は麻袋で包んで、天井の梁につるしていた。そうすれば場所が広使えるし、湿気も防げる。

麻袋は元は米袋で、洗ってきれいにすれば、後は好きに使うことができたし、もしとっておいて自分で使うのでなければ、「くず屋さん」に売ればいくらかのお金になった。

梁に吊った包みは家財道具であり、一家離散の生涯を映し出すものでもあった。台風の季節になると、夜麻袋が石油ランプの下でゆらゆら揺れているのが見え、それが影に連れて見れば見るほど大きくなっていくのだった。

その後叔父が水夫になって海外へ出て行き、工場近くの部屋を引き払った際に、楠木の箪笥を我が家に運んできたため、麻袋の中の服を箪笥のそれぞれの引き出しにしまい込んだ。時にはどこに入れたか忘れてしまい、引き出し全部を探さなければならないこともあった。麻袋から箪笥に慣れるまでにはしばらく時間がかかった。

現在我が家のプラスチック製の衣装ケースは透明で、中が丸見えだから探すのが簡単だ。麻袋が赤白青袋に変わり、楠木の箪笥から新たにプラスチックの衣装ケースを使うようになり、新しい材料がみんなの生活を便利にした、というのが香港の豊かさなのだ。

安い赤白青袋から簡単に申請できるキャッシュカードやクレジットカードにいたるまで、現代社会の豊かな物質的生活はすべて有害なプラスチックによって維持されている。


赤白青袋外伝(1)

2007-12-17 22:23:04 | Weblog
この翻訳は著者の許諾を得ておりませんので、抗議等あり次第削除される可能性があります。

「舊時風光-香港往事回味」より『紅白藍袋外史』

作者:陳雲
発行:花千樹出版有限公司


「赤白青袋外伝」

部屋の中にぺちゃんこに畳まれた赤白青袋がごちゃごちゃと置かれているが、それは去年引越しの時残しておいたものだ。引越し、避難、収納、それと羅湖での往来の時に、赤白青袋ほど役に立つものはない。

赤白青袋は期せずして私にフランスの国旗を思い起こさせる。自由、平等、友愛。80年代初期に、朝早く母に連れられて里帰りする時、眼がぼうっとなって、ただ税関の地面いっぱいに赤白青袋がおびただしくうごめいているのが見えるだけだった。

郷里の貧しい親戚はただ単に赤白青袋の中の食料に目が釘付けになっているだけだったのだが、袋も一緒に残したことで、彼らがいつの日かこの色の意味に気がつくことがあるだろうか。

1989年に爆発した「天安門事件」の民主化運動は赤白青袋の流行に起因している、と私はずっと勝手に考えていた。もっとも、学術的訓練を受けたことのある人間がこんな考え方をすべきではないのだが。

だが、89年以後、大陸産の赤白青袋は簡単で明快な赤白青の三色を次第に使わなくなり、すべて雑多な色の袋か、外国アニメの登場人物を付け加えたものに変わってしまった。

赤白青、それは簡潔かつ清浄であり、またずしりと重い。



阿差

2007-12-15 01:37:34 | Weblog
「アチャ」とはヒンドゥー語で、「良い」とか「OK」とかいう意味だそうだ。

「隙間にご注意ください」でミシェル・チュガニは「摩囉差(もろちゃ)」がインド人の蔑称だと書いていたが、もうひとつ「阿差(あちゃ)」というのがあり、これはインド人やパキスタン人などへの一種の蔑称だ。まぁ、私たちが「日本仔(やっぷんちゃい)」と呼ばれるようなものである。

彼ら同士がヒンドゥー語で会話するときによく使う「アチャ」という言葉が中国人の耳に残り、彼らを「阿差」と呼び始めたという話だ。もちろん、インドには他にもウルドゥー語などたくさんの方言があるし、パキスタンはパキスタンでヒンドゥー語を使うのかどうか、これも私にはよくわからないが、要するに色の黒い彼らをひっくるめて「阿差」なのである。

呼ぶ側にとっては、インド人であろうとパキスタン人であろうとどうでもいいのだ。それは白人を称して「鬼佬(ぐわいろう)」と呼ぶのと同じだろう。アメリカ人でもフランス人でもスウェーデン人でも白人はすべて「鬼佬」なのである。

差別的心理というものは、実は結構大雑把なものであって、とりあえず相手より優位に立てればいいという感覚に裏打ちされている。相手を個としては見ず、総体としてしか見ないのだ。

この夏だったか、香港のテレビのある番組で、パキスタン人青年がゲストとして出演していて、キャスターからインタビューされていたのだが、彼はこんな趣旨の話をしていた。

「阿差」は蔑称だとは思うが、でも今ではさほど深刻なものとは考えていない。だから友人たちが面と向かって冗談半分に自分を阿差と呼ぶのは別にかまわない。しかし、見ず知らずの人が、すれ違いざまに自分を指して阿差という声が耳に入ったら、やはり反感を覚えるだろう。

そういう感覚は私もわかる。2年前だったか、スタンレーの肝いりでマカオへ日帰りの団体旅行に行ったことがあった。その時、各人のお土産の袋をまとめて置く際に、判りやすいように印か名前を書こうということになった。

みんなそれぞれ自分のあだ名などを書いていたが、私はどう書くと聞かれて、即座に、「写日本仔就得架」(やっぷんちゃいと買いとけばいいぜ)と言った。同行者たちは笑って「日本仔」と書いた。

だが、私も見ず知らずの中国人が背後でこそこそと私を日本仔と指差していたら、きっと気を悪くするだろう。

これはずっと前のことだが、スタンレーの親戚が広東省の中山県からやってきて、彼らとの食事会に誘われた。そのいとこだかはとこだかは結構事業で成功しているらしく、会社の部下たち数人と一緒に来ていたのだが、当然広東人らしく食事の合間はおしゃべりに夢中である。

こういう場合彼らは言葉のわからない外国人がいるからといってもおかまいなしで、自分のおしゃべりを制御しようとはしない。広東人に無言を強要するのは拷問として結構有効なのではないか、と常々私は思っているぐらいだ。

しかし、私のヒアリング能力はぜんぜんだし、そこへ持ってきて、中山県あたりの訛りの入った広東語だからなおさらわからない。私と老姑婆は蚊帳の外といった感じで、こっちも二人だけでしゃべりながら勝手にやっていたのだが、ふと「日本仔」という言葉が耳に入った。

孫文が日本へ行った時、日本人は彼を尊敬して土下座(叩頭という言葉を使っていた)したと言うのだが、その際「やっぷんちゃい」と言ったのである。

すると、スタンレーが慌てふためいて、「おいおい、こいつ広東語がわかるんだぞ」と制止したのである。私はさほど気にしてはいなかったが、スタンレーのその慌て振りに却ってこっちの方が驚いてしまった。

だがここでよくわかったのは、彼ら香港人自身が「日本仔」を差別言葉だとはっきり認識しているということだ。

そのことがあって、私はいたずら心を起こし、ある時スタンレーに電話し、受話器の向こうで「喂邊位?」(もしもしどなた?)という声が聞こえてから、「係日本仔嚟架」と言ってやった。すると、受話器からスタンレーのもう勘弁してよとでもいうような笑い声が漏れてきて、スタンレーの苦笑する顔が目に見えるようだった。

スタンレーのような善人相手にこんないたずらをする私も大分人が悪い。

短期滞在者の私たちにはミシェル・チュガニが書くような黒人差別を目にする機会は今までなかった。しかし、一方、とある香港好きの日本人が本の中で、国際都市の香港人は差別心を持っていない、と書いていたのを読んだことがあるが、それには安直過ぎると感じた。

ミシェル・チュガニが書くように、どんな種類のものかはさておき、私たちは誰しもが差別心を持っていることは認めておいた方が良さそうだ。