昨日ニュースで四川省の地震報道の第一報が入った時、死者の数はまだ3人程度しか報告されていなかった。
その段階では事態の深刻さはまだ知らされていなかったし、ニュース画面で見る限り、成都市内の建物には被害はなく、せいぜい頭から血を流している人がパトカーに乗せてもらっているぐらいだったから、私は老姑婆に、「危ないとこやった。もうちょっとで俺も怪我してたかもしれん」と笑っていたぐらいだ。
私は4月の11日から17日まで成都に滞在していた。だから成都を離れてからまだ一ヶ月たっていない。大自然の時間的観念というか、地震の起きる時間的周期では数十年ぐらいは我々の数日程度の感覚でしかないという話を聞いたことがある。
だから、地震予測で、ここ10年くらいのうちに、と言われると、それは明日起こっても不思議はないという風に考えなければならないらしい。となると、私の場合も人間の時間からすると、瞬きよりもっと短い時間で、つまり間一髪逃れたということになる。
これは運がよかったのか、それとも悪かったのか。もし成都で地震に出くわせば、その経験談を得意気に話せたのに惜しいことをしたな、などと不謹慎な話をしたものである。
ところが、被害状況が段々明らかになるとその深刻さは冗談ごとではなくなった。特に都江堰では中学校の校舎が倒壊して900人の生徒が生き埋めになったという。
都江堰は成都から約40キロのところにあり、地図で見ると震源地の汶川と成都のほぼ直線状の真中に当たる位置にある。だからその地震の衝撃は成都どころではないだろう。
私は4月の14日に都江堰に行った。一人旅だから間違って路線バスに乗ってしまい、えらく難儀をして都江堰に辿りついたのだが、それはそれでいい経験だった。
ホテルでもらったパンフレットによると都江堰は世界遺産に登録された風光明媚な場所だということだった。二千年も前に、度重なる洪水を防ぐため河の水利工事を行い、それが今に至るも残され使われていることが有名で、その堰一帯が観光地となっている。
そこへ行ったことは成都旅行の一環としてまたブログに書こうと考えていたのだが、その前にこんな大災害が起きてしまった。
都江堰で私が最も印象深かったのは、都江堰そのものではなく、観光地の外となる、都江堰市のど真ん中をまるでダムからの放水のようにごうごうと流れる河の水流の勢いだった。
街の真中をこんな洪水のような河が流れていいのか。もし雨が続いたら一体どうなるんだろう、と思ったものである。もちろん、そのために堰が作られたわけだから、水量が増えれば調整するのだろうが。
また、市内には河が幾筋も流れているが、どれも水が満々と流れ、しかもある河はほとんど最上部まで苔がついていた。ということはしょっちゅうそのあたりは水が溢れ出ているということだろう。堰や土手が壊れて増水し、街が水に浸かるといったことはなかったのだろうか、と心配になったが、ニュース画面ではただ建物の倒壊しか映されていなかったからわからない。
成都市内のビルなどは新しいものも多いが、中国では田舎へ行けば行くほど、貧困の度合いが増し、家も古く改修されないままのものも多い。そういった家は阪神大震災の時のように、ひとたまりもなく崩れ落ちてしまうのではないか。
都江堰の観光区(中国語なら旅遊区となるが)の入場料は90元というバカ高いものだったが、来たからには入らないわけには行かない。私は元を取るべく、中の森なども歩き回り、十分堪能してから外へ出た。
それからバスターミナルには歩いていってみようと、出口の案内所兼土産物屋で都江堰市の地図はないか、と売り子の中年のおばさんに聞いてみたら、素っ気なく、「没有」と一言だけ返された。どうにも愛想のないことおびただしい。そんな中国人気質には慣れているとはいうものの、やはり気分のいいものではない。
だから、大陸で中国人から少し親切にされると、この上なくありがたく感じてしまう。普通の親切が倍に評価されるのだから、これってある面得だなぁと思う。
さて、タクシーに乗ってぼられるのも嫌だしどうしたものかと、ぶらぶら歩いていて、ふと左手の路地を見ると、突き当りに「市人民政府」と大きな看板がかかっていて、その路地を入ったすぐ右手に、古びた、日本語でいうならしもた屋風のしょぼいとしかいいようのない本屋があった。
子供向けの本が主体で、冊数も多くはなく、それどころか本が数冊しか並んでいないすかすかの書棚もある。観光案内所にないぐらいだから、もともと市内地図などないのだろうし、あったとしてもこんなしけた店には置いていないだろう、と全く期待を持たずに、新聞を読んでいた店番の老人に声をかけてみた。
「都江堰市の地図ありますか?」
老人は多分70歳半ばくらいだと思うが、きちんと整髪した白髪の頭を新聞から持ち上げ、ゆっくりと老眼鏡をはずして私を見て言った、「ありますよ」
老人の指さしたところ、老人のすぐ傍の書棚の横に広げた状態で都江堰市の地図が掛かっていた。
値段は3.5元だった。
私はついでにバスターミナルにはどう行けばいいのか、と老人に尋ねた。
老人はまた老眼鏡をかけなおし、地図を見てちょっと考えていた。都江堰市は田舎町である、地図などなくても街の中心地区のことはすべて頭に入っているだろうから、日頃地図など見ることはないのだろう。却って戸惑っているようだった。
私たちは二人して地図を覗き込み、現在位置をそこだのここだの言い合いして、地図を指で辿った。その結果老人は路地の外の幸福路をずっと下って、観景路との交差点で右折し、そして迎賓大道に当たって左折して少し行けば「市客運中心」がある、と教えてくれた。
その老人は若い頃例えば教師をやっていたような雰囲気をしていた。少なくとも肉体労働的な仕事をしていた人のようではなかった。ただ丁寧に教えてくれるその姿は先ほど書いたように、一般によくある店の無愛想さとの落差が大きく、私に何がしかの安堵を与えてくれた。
私は代金を払い、「ありがとう」と言って、背後に「慢走(気をつけて)」という老人の声を聞きながら外へ出た。
それから地図を見ながらバスターミナル、つまり「市客運中心」を目指したのだが、そこで私の悪い癖が出た。
地図を見ると幸福路を下るより、ずっと手前で建設路を右折すればすぐに太平街と交わる。この道を下れば後は目的地まで一本道だ。太平街は観景路と交わってから迎賓大道と名前が変るだけだ、ということを発見した。
こっちの方が早いじゃないか。私は老人の指示を採用せず、自分の判断に従うことにした。
ところがこれが裏目に出た、どう歩いても太平街が見当たらないのだ、うろうろ探し回り、結局地図上では太平街を通り過ぎて天乙街に入ってしまったが、そのまま歩くと最終的には相当遠回りになってしまう。おかげでまた市内をあちこち見ることもできたが、時間はどんどん遅くなってくる。成都に帰り着いても、バスターミナルでまた市内中心部行きのバスに乗り換えるという仕事も待っている。何事も初めてだから暗くなる前に成都に帰り着きたかった。
このままだとまたこの先で迷ってしまったらえらいことになる、と焦ってきた私は結局途中からまた幸福大道へ向けて歩き、ようやく老人の指示通りにバスターミナルに到着した。年寄りの言うことは聞くもんである。
私の旅は行き当たりばったりが信条だが、それだからこそ新たな発見もあり、結果的に面白いことにも出くわすことができる。しかし、おかげで徒労や危険と隣り合わせということもままあるのである。良い子のみなさんは真似しないでくださいね、ととりあえず言っておきたい。
成都への帰りは高速バスで40分ほどで着いた。往きの路線バスでは予定の倍以上の2時間半ほどもかかった。それはそれで面白かったのだが、その体験は1回でたくさんだった。
日は暮れていたが、まだ明るく私のホテルがある総府路を通る4路バスはすぐに見つかった。始発だから好きなところへ坐れる。発車して、窓の外を眺めながら、疲れたがなかなか収穫のあった一日だったと思った。
さて、大地震の話に戻る。
テレビでは全世界の悲惨な出来事を毎日放送していて、私たちはそれを夕食のテーブルでご飯を食べながら見ている。イラクの戦争、つい先日のミャンマーでの台風被害、そして今回は四川省の大地震だ。
だが、それらを見ながらご飯が喉を通らないという人はほとんどいないだろう。所詮それらは他人事なのである。そう感じることも人間としてのある種の防衛本能なのではないだろうか。
世界は悲惨に満ちていて、いちいちそれを真剣に気に病んでいては、それこそこちらの神経が参ってしまい生きていけなくなる。まず自分が生きることが先決なのだ。その次が家族であり、親戚友人であり、同じ国の人となっていく。
だから、四川省の大地震も私にとっては他人事であって、ニュースを見ても私の食欲には何ら影響はなかった。
だが、ただひとつあの都江堰の本屋の老人の安否だけは気に掛かる。古びた家だったから、激震で崩れ落ちるということは容易に想像できるのだが、老人は無事に逃げ出せただろうか。
あの老人は親戚でもなければ友人でもない。しかし、私が気に掛かるのは、通りすがりのひとりぼっちの旅行者として、あの日本から見れば世界の果てともいえる都江堰で、唯一私とコミュニケーションを取ってくれた人物があの老人であり、私が具体的に認識できるひとりの人間だからである。
老人の顔をしっかりと憶えているわけでもないし、出会ってもわからないだろう。それでも、テレビに映る幾多の人々は映像の風景のようなものに過ぎず現実感がない。だが、顔も憶えていない、自分の記憶の中にだけしかないあの老人はひとりの人間としての存在感を持ち続け、私に安否を懸念させるのである。
その段階では事態の深刻さはまだ知らされていなかったし、ニュース画面で見る限り、成都市内の建物には被害はなく、せいぜい頭から血を流している人がパトカーに乗せてもらっているぐらいだったから、私は老姑婆に、「危ないとこやった。もうちょっとで俺も怪我してたかもしれん」と笑っていたぐらいだ。
私は4月の11日から17日まで成都に滞在していた。だから成都を離れてからまだ一ヶ月たっていない。大自然の時間的観念というか、地震の起きる時間的周期では数十年ぐらいは我々の数日程度の感覚でしかないという話を聞いたことがある。
だから、地震予測で、ここ10年くらいのうちに、と言われると、それは明日起こっても不思議はないという風に考えなければならないらしい。となると、私の場合も人間の時間からすると、瞬きよりもっと短い時間で、つまり間一髪逃れたということになる。
これは運がよかったのか、それとも悪かったのか。もし成都で地震に出くわせば、その経験談を得意気に話せたのに惜しいことをしたな、などと不謹慎な話をしたものである。
ところが、被害状況が段々明らかになるとその深刻さは冗談ごとではなくなった。特に都江堰では中学校の校舎が倒壊して900人の生徒が生き埋めになったという。
都江堰は成都から約40キロのところにあり、地図で見ると震源地の汶川と成都のほぼ直線状の真中に当たる位置にある。だからその地震の衝撃は成都どころではないだろう。
私は4月の14日に都江堰に行った。一人旅だから間違って路線バスに乗ってしまい、えらく難儀をして都江堰に辿りついたのだが、それはそれでいい経験だった。
ホテルでもらったパンフレットによると都江堰は世界遺産に登録された風光明媚な場所だということだった。二千年も前に、度重なる洪水を防ぐため河の水利工事を行い、それが今に至るも残され使われていることが有名で、その堰一帯が観光地となっている。
そこへ行ったことは成都旅行の一環としてまたブログに書こうと考えていたのだが、その前にこんな大災害が起きてしまった。
都江堰で私が最も印象深かったのは、都江堰そのものではなく、観光地の外となる、都江堰市のど真ん中をまるでダムからの放水のようにごうごうと流れる河の水流の勢いだった。
街の真中をこんな洪水のような河が流れていいのか。もし雨が続いたら一体どうなるんだろう、と思ったものである。もちろん、そのために堰が作られたわけだから、水量が増えれば調整するのだろうが。
また、市内には河が幾筋も流れているが、どれも水が満々と流れ、しかもある河はほとんど最上部まで苔がついていた。ということはしょっちゅうそのあたりは水が溢れ出ているということだろう。堰や土手が壊れて増水し、街が水に浸かるといったことはなかったのだろうか、と心配になったが、ニュース画面ではただ建物の倒壊しか映されていなかったからわからない。
成都市内のビルなどは新しいものも多いが、中国では田舎へ行けば行くほど、貧困の度合いが増し、家も古く改修されないままのものも多い。そういった家は阪神大震災の時のように、ひとたまりもなく崩れ落ちてしまうのではないか。
都江堰の観光区(中国語なら旅遊区となるが)の入場料は90元というバカ高いものだったが、来たからには入らないわけには行かない。私は元を取るべく、中の森なども歩き回り、十分堪能してから外へ出た。
それからバスターミナルには歩いていってみようと、出口の案内所兼土産物屋で都江堰市の地図はないか、と売り子の中年のおばさんに聞いてみたら、素っ気なく、「没有」と一言だけ返された。どうにも愛想のないことおびただしい。そんな中国人気質には慣れているとはいうものの、やはり気分のいいものではない。
だから、大陸で中国人から少し親切にされると、この上なくありがたく感じてしまう。普通の親切が倍に評価されるのだから、これってある面得だなぁと思う。
さて、タクシーに乗ってぼられるのも嫌だしどうしたものかと、ぶらぶら歩いていて、ふと左手の路地を見ると、突き当りに「市人民政府」と大きな看板がかかっていて、その路地を入ったすぐ右手に、古びた、日本語でいうならしもた屋風のしょぼいとしかいいようのない本屋があった。
子供向けの本が主体で、冊数も多くはなく、それどころか本が数冊しか並んでいないすかすかの書棚もある。観光案内所にないぐらいだから、もともと市内地図などないのだろうし、あったとしてもこんなしけた店には置いていないだろう、と全く期待を持たずに、新聞を読んでいた店番の老人に声をかけてみた。
「都江堰市の地図ありますか?」
老人は多分70歳半ばくらいだと思うが、きちんと整髪した白髪の頭を新聞から持ち上げ、ゆっくりと老眼鏡をはずして私を見て言った、「ありますよ」
老人の指さしたところ、老人のすぐ傍の書棚の横に広げた状態で都江堰市の地図が掛かっていた。
値段は3.5元だった。
私はついでにバスターミナルにはどう行けばいいのか、と老人に尋ねた。
老人はまた老眼鏡をかけなおし、地図を見てちょっと考えていた。都江堰市は田舎町である、地図などなくても街の中心地区のことはすべて頭に入っているだろうから、日頃地図など見ることはないのだろう。却って戸惑っているようだった。
私たちは二人して地図を覗き込み、現在位置をそこだのここだの言い合いして、地図を指で辿った。その結果老人は路地の外の幸福路をずっと下って、観景路との交差点で右折し、そして迎賓大道に当たって左折して少し行けば「市客運中心」がある、と教えてくれた。
その老人は若い頃例えば教師をやっていたような雰囲気をしていた。少なくとも肉体労働的な仕事をしていた人のようではなかった。ただ丁寧に教えてくれるその姿は先ほど書いたように、一般によくある店の無愛想さとの落差が大きく、私に何がしかの安堵を与えてくれた。
私は代金を払い、「ありがとう」と言って、背後に「慢走(気をつけて)」という老人の声を聞きながら外へ出た。
それから地図を見ながらバスターミナル、つまり「市客運中心」を目指したのだが、そこで私の悪い癖が出た。
地図を見ると幸福路を下るより、ずっと手前で建設路を右折すればすぐに太平街と交わる。この道を下れば後は目的地まで一本道だ。太平街は観景路と交わってから迎賓大道と名前が変るだけだ、ということを発見した。
こっちの方が早いじゃないか。私は老人の指示を採用せず、自分の判断に従うことにした。
ところがこれが裏目に出た、どう歩いても太平街が見当たらないのだ、うろうろ探し回り、結局地図上では太平街を通り過ぎて天乙街に入ってしまったが、そのまま歩くと最終的には相当遠回りになってしまう。おかげでまた市内をあちこち見ることもできたが、時間はどんどん遅くなってくる。成都に帰り着いても、バスターミナルでまた市内中心部行きのバスに乗り換えるという仕事も待っている。何事も初めてだから暗くなる前に成都に帰り着きたかった。
このままだとまたこの先で迷ってしまったらえらいことになる、と焦ってきた私は結局途中からまた幸福大道へ向けて歩き、ようやく老人の指示通りにバスターミナルに到着した。年寄りの言うことは聞くもんである。
私の旅は行き当たりばったりが信条だが、それだからこそ新たな発見もあり、結果的に面白いことにも出くわすことができる。しかし、おかげで徒労や危険と隣り合わせということもままあるのである。良い子のみなさんは真似しないでくださいね、ととりあえず言っておきたい。
成都への帰りは高速バスで40分ほどで着いた。往きの路線バスでは予定の倍以上の2時間半ほどもかかった。それはそれで面白かったのだが、その体験は1回でたくさんだった。
日は暮れていたが、まだ明るく私のホテルがある総府路を通る4路バスはすぐに見つかった。始発だから好きなところへ坐れる。発車して、窓の外を眺めながら、疲れたがなかなか収穫のあった一日だったと思った。
さて、大地震の話に戻る。
テレビでは全世界の悲惨な出来事を毎日放送していて、私たちはそれを夕食のテーブルでご飯を食べながら見ている。イラクの戦争、つい先日のミャンマーでの台風被害、そして今回は四川省の大地震だ。
だが、それらを見ながらご飯が喉を通らないという人はほとんどいないだろう。所詮それらは他人事なのである。そう感じることも人間としてのある種の防衛本能なのではないだろうか。
世界は悲惨に満ちていて、いちいちそれを真剣に気に病んでいては、それこそこちらの神経が参ってしまい生きていけなくなる。まず自分が生きることが先決なのだ。その次が家族であり、親戚友人であり、同じ国の人となっていく。
だから、四川省の大地震も私にとっては他人事であって、ニュースを見ても私の食欲には何ら影響はなかった。
だが、ただひとつあの都江堰の本屋の老人の安否だけは気に掛かる。古びた家だったから、激震で崩れ落ちるということは容易に想像できるのだが、老人は無事に逃げ出せただろうか。
あの老人は親戚でもなければ友人でもない。しかし、私が気に掛かるのは、通りすがりのひとりぼっちの旅行者として、あの日本から見れば世界の果てともいえる都江堰で、唯一私とコミュニケーションを取ってくれた人物があの老人であり、私が具体的に認識できるひとりの人間だからである。
老人の顔をしっかりと憶えているわけでもないし、出会ってもわからないだろう。それでも、テレビに映る幾多の人々は映像の風景のようなものに過ぎず現実感がない。だが、顔も憶えていない、自分の記憶の中にだけしかないあの老人はひとりの人間としての存在感を持ち続け、私に安否を懸念させるのである。