私は運命論者というわけではないのだが、時々人生のめぐり合わせというものは不思議なものだとつくづく思うことがある。
今回李怡氏に出会ったこともそのひとつだ。
私たちはいつもはクリスマスから新年にかけて香港に来るのだが、実は前年の12月に遊んでいて骨折してしまい、そのクリスマスには来られなかった。そこで3月末に3泊4日で急遽来たわけである。
もし、あの時よる年波も考えずに動いて骨折しなかったら、私たちは例年どおりクリスマスに来ていただろうし、そうなれば『九十年代』のオフィスを訪ねたとしてもそれまで同様李怡氏には会えなかったような気がする。
また、その日ももし徒歩ではなく地下鉄かトラムに乗って行ったのだったら、もう少し早く着いて李怡氏とは入れ違いになっていただろう。さらに、最初は茶餐庁で朝食をとるつもりはなく、購読料の手続きを済ませてから飲茶でもしようかという話をしていたので、茶餐庁に入っていなければこれまた李怡氏とは会わなかっただろう。
あるいはさらに、もしもっと遅く着いていたら、オフィスに入って手続きをしたとしても、編集長室にいる李怡氏には気がつかなくてサインなどもらわなかったことも考えられる。
そんなことを言い出せばきりがないのだが、私としてはどうにも偶然ではすまされない縁のようなものを感じてしまうのである。まるで誰かが書いた筋書きのようにことが進んでしまったかのようだ。
神様というものがあるなら、これは長年しこしことしぶとく中国語を続けてきた私への神様からのささやかなごほうびではないだろうか。
何を大げさなと笑う声が聞こえてきそうだが、まぁそれでいいのだ。そう思ったところで誰に迷惑をかけるわけでもなし。
李怡氏に出会えたことで、私は何か踏ん切りがついたような気がした。私にとって『九十年代』との別れということでは、考えてみれば最良の儀式が行われたと言っていいだろう。
私はある種満ち足りた気持でビルを出た。『九十年代』は後1回5月号を以って終わる。それは確かに残念なことではあるが、これも歴史のひとつの流れではあり、仕方のないことだ。
何事にも始まりがあれば終わりがある。私も『九十年代』のない中国語生活を新たに考えるしかないだろうし、そこにはまた何か新しいものが見つかる可能性もあるのだ。また、もしないとすれば自分で作り出せばいいわけである。
そしてこのことは私にとって、雑誌『九十年代』だけでなく、97年香港返還という歴史の転換に対する区切りだともいえると思った。
1997年7月1日を以って香港は中国へ回帰したわけだが、実のところ日本に住む私にとって実感というものはなかった。その翌年の3月に無理をして来たのも、前年の返還以後の変化というものがあるかどうかこの目で確かめたかったからだが、実際街を歩き、友人と会ってもとりたてて変化を肌で感じることはなく、少し拍子抜けがしていた。
もちろん、これは当たり前のことだ。香港返還は平和裏に行われた手続きだし、第一、革命などという物騒なものでもないから、劇的な社会変動は起りようがないのである。
香港返還の区切りの時は人によってそれぞれ異なるだろう。返還前に移民として香港を去った人にとっては空港で飛行機に乗り込んだ時がそうだったかも知れないし、聞いてみたわけではないが、ベリンダにとっては返還後だいぶたってから広東省の東莞にオフィスを移転した時だったかも知れない。
映画の「無間道」で返還を期していっせいに警察の徽章を取り替えるシーンがある。警察や官庁では確かに返還日を境にがらりと変わったものがあるだろうから、公務員にとっては返還日そのものが区切りとしては実感が伴うものだろう。
ベリンダの弟もその当時現役の警察官だったが、返還を期に退職した。ベリンダからそれを聞いた時、私は少々驚いた。
「どうして?せっかくだからそのまま続ければいいのに」
子供だってまだまだ学校があり、これからもっとお金がかかるはずである。警官も公務員なのだから、その安定した職業を捨てて大丈夫なのだろうか。
「仕事の内容が特殊だから、続けられないのよ」
とベリンダは言った。
ということは公安関係か何かなのだろうと私は想像した。女王陛下のために中国共産党系の政治活動に対する監視や情報収集などの諜報活動をしていたとしたら、それはまぁ確かに返還後の警察に居場所はないだろう。
「で、警察辞めた後はどうするの?」
「大丈夫よ、年金がもらえるからね」
「ええっ!?まだ40になってないのに年金があるの?」
「だから、仕事が特殊で辞めるしかないんだからぁ、くれるのよ」
「それって、いいなぁ」
年金暮らしは私の理想とする生活なのである。
その弟は警察を退職後警備会社に勤めている。かつての仕事については守秘義務とかの縛りはあるだろうが、年金がいくらかは知らないけれど、警備会社の給料との二本立てだから経済的には楽にやっていけるものなのではないだろうか。
この弟の場合、やはり返還の日には少なからぬ感慨があっただろう。しかしごくたまに見るその顔には屈託のない笑顔があるばかりで、その裏側までは見えてこない。
97年6月30日の夜、私はベリンダに電話を入れてみた。
「返還式典やってるのに見に行かないのか?」
「テレビでやってるもん。外は大雨よ。阿ジョーも家でテレビ見てるってよ。第一、すごい人だから行ったって疲れるだけよ」
そういえば、ベリンダは大晦日などでも外に出たりはせず、家でおとなしくしている方だ。それに香港人がいくらお祭り好きだとはいってもやはり大多数の人は家にいるのである。
もちろん、にぎやかな事が好きなスタンレーなどは率先して参加してはいるだろうが。それに、スタンレーは実業界の末席を汚しているから、どこかからお呼びがかかってパーティかなんかに出かけていることもありうる。
正しく人それぞれなのである。
この返還による転換は、大多数の香港人にとって個人的レベルにおいては統一された劇的なものではなかったのではないかと私は思っている。
返還による変化というのは、ボクシングでいえば、目を見張るような強烈なノックアウトパンチではなく、しつこく繰り出されるボディーブローのようなものなのではないか。
知らない内にじわじわと効いてきて、足が止まり、止めを刺される。本当はどのパンチが効いたのか本人にすらはっきりとはわからない。止めのパンチは実は試合終了のための象徴的なものに過ぎないのだ。
だから各個人にとっての区切りはそれぞれに違うということになるだろう。そしてある時、「ああ、時代が変わったんだなぁ」と思い当たるのだ。その時がその人間にとっての区切りであり、それが止めのパンチなのである。
そして私は勝手に想像するのだが、李怡氏にとっての止めのパンチは、実はこの『九十年代』の停刊を決定した時のことではないだろうか。1997年の7月1日よりも、むしろこの時の方が李怡氏にとっては本当の意味での区切りになったのではないだろうか。
私にとってもこの停刊のニュースが大きな区切りとなったのである。まったく偶然にその時香港に来合わせ、さらに李怡氏にも会い、直に停刊の話を聞いた。だが、そこにはめぐり合わせ以上の何かがあったと思わずにはいられない。私にとっては鮮やか過ぎるほどの止めのノックアウトパンチだった。
『九十年代』のオフィスを出て、明るい陽光の下、相も変わらない香港の喧騒の中を歩きながら、私の心は妙に静かだった。
「これで『九十年代』とはさよならか」
と口に出さずに心の中でつぶやいた。
それは雑誌『九十年代』との別れであると同時に、まだもう1年を残すとはいえ、歴史としての90年代という時代そのものとの別れであるような気もした。
その時李怡氏にサインしてもらった『九十年代』4月号はもちろん今も手元にある。私にとってそれは大事なものとして一生傍においておくつもりだ。
ただ、残念なことがひとつだけある。李怡氏はサインをする際、私の名前の敬称に「様」と書いてくれた。これは私が日本人だから李怡氏としても気を使ってくれたのだろうと思う。
だが、ここはやはり中国語風に「先生」として欲しかった。私はそのサインを見るたびにいつも少しだけ苦笑する。もちろんそれは苦い味のするものではないのだけれど。
今回李怡氏に出会ったこともそのひとつだ。
私たちはいつもはクリスマスから新年にかけて香港に来るのだが、実は前年の12月に遊んでいて骨折してしまい、そのクリスマスには来られなかった。そこで3月末に3泊4日で急遽来たわけである。
もし、あの時よる年波も考えずに動いて骨折しなかったら、私たちは例年どおりクリスマスに来ていただろうし、そうなれば『九十年代』のオフィスを訪ねたとしてもそれまで同様李怡氏には会えなかったような気がする。
また、その日ももし徒歩ではなく地下鉄かトラムに乗って行ったのだったら、もう少し早く着いて李怡氏とは入れ違いになっていただろう。さらに、最初は茶餐庁で朝食をとるつもりはなく、購読料の手続きを済ませてから飲茶でもしようかという話をしていたので、茶餐庁に入っていなければこれまた李怡氏とは会わなかっただろう。
あるいはさらに、もしもっと遅く着いていたら、オフィスに入って手続きをしたとしても、編集長室にいる李怡氏には気がつかなくてサインなどもらわなかったことも考えられる。
そんなことを言い出せばきりがないのだが、私としてはどうにも偶然ではすまされない縁のようなものを感じてしまうのである。まるで誰かが書いた筋書きのようにことが進んでしまったかのようだ。
神様というものがあるなら、これは長年しこしことしぶとく中国語を続けてきた私への神様からのささやかなごほうびではないだろうか。
何を大げさなと笑う声が聞こえてきそうだが、まぁそれでいいのだ。そう思ったところで誰に迷惑をかけるわけでもなし。
李怡氏に出会えたことで、私は何か踏ん切りがついたような気がした。私にとって『九十年代』との別れということでは、考えてみれば最良の儀式が行われたと言っていいだろう。
私はある種満ち足りた気持でビルを出た。『九十年代』は後1回5月号を以って終わる。それは確かに残念なことではあるが、これも歴史のひとつの流れではあり、仕方のないことだ。
何事にも始まりがあれば終わりがある。私も『九十年代』のない中国語生活を新たに考えるしかないだろうし、そこにはまた何か新しいものが見つかる可能性もあるのだ。また、もしないとすれば自分で作り出せばいいわけである。
そしてこのことは私にとって、雑誌『九十年代』だけでなく、97年香港返還という歴史の転換に対する区切りだともいえると思った。
1997年7月1日を以って香港は中国へ回帰したわけだが、実のところ日本に住む私にとって実感というものはなかった。その翌年の3月に無理をして来たのも、前年の返還以後の変化というものがあるかどうかこの目で確かめたかったからだが、実際街を歩き、友人と会ってもとりたてて変化を肌で感じることはなく、少し拍子抜けがしていた。
もちろん、これは当たり前のことだ。香港返還は平和裏に行われた手続きだし、第一、革命などという物騒なものでもないから、劇的な社会変動は起りようがないのである。
香港返還の区切りの時は人によってそれぞれ異なるだろう。返還前に移民として香港を去った人にとっては空港で飛行機に乗り込んだ時がそうだったかも知れないし、聞いてみたわけではないが、ベリンダにとっては返還後だいぶたってから広東省の東莞にオフィスを移転した時だったかも知れない。
映画の「無間道」で返還を期していっせいに警察の徽章を取り替えるシーンがある。警察や官庁では確かに返還日を境にがらりと変わったものがあるだろうから、公務員にとっては返還日そのものが区切りとしては実感が伴うものだろう。
ベリンダの弟もその当時現役の警察官だったが、返還を期に退職した。ベリンダからそれを聞いた時、私は少々驚いた。
「どうして?せっかくだからそのまま続ければいいのに」
子供だってまだまだ学校があり、これからもっとお金がかかるはずである。警官も公務員なのだから、その安定した職業を捨てて大丈夫なのだろうか。
「仕事の内容が特殊だから、続けられないのよ」
とベリンダは言った。
ということは公安関係か何かなのだろうと私は想像した。女王陛下のために中国共産党系の政治活動に対する監視や情報収集などの諜報活動をしていたとしたら、それはまぁ確かに返還後の警察に居場所はないだろう。
「で、警察辞めた後はどうするの?」
「大丈夫よ、年金がもらえるからね」
「ええっ!?まだ40になってないのに年金があるの?」
「だから、仕事が特殊で辞めるしかないんだからぁ、くれるのよ」
「それって、いいなぁ」
年金暮らしは私の理想とする生活なのである。
その弟は警察を退職後警備会社に勤めている。かつての仕事については守秘義務とかの縛りはあるだろうが、年金がいくらかは知らないけれど、警備会社の給料との二本立てだから経済的には楽にやっていけるものなのではないだろうか。
この弟の場合、やはり返還の日には少なからぬ感慨があっただろう。しかしごくたまに見るその顔には屈託のない笑顔があるばかりで、その裏側までは見えてこない。
97年6月30日の夜、私はベリンダに電話を入れてみた。
「返還式典やってるのに見に行かないのか?」
「テレビでやってるもん。外は大雨よ。阿ジョーも家でテレビ見てるってよ。第一、すごい人だから行ったって疲れるだけよ」
そういえば、ベリンダは大晦日などでも外に出たりはせず、家でおとなしくしている方だ。それに香港人がいくらお祭り好きだとはいってもやはり大多数の人は家にいるのである。
もちろん、にぎやかな事が好きなスタンレーなどは率先して参加してはいるだろうが。それに、スタンレーは実業界の末席を汚しているから、どこかからお呼びがかかってパーティかなんかに出かけていることもありうる。
正しく人それぞれなのである。
この返還による転換は、大多数の香港人にとって個人的レベルにおいては統一された劇的なものではなかったのではないかと私は思っている。
返還による変化というのは、ボクシングでいえば、目を見張るような強烈なノックアウトパンチではなく、しつこく繰り出されるボディーブローのようなものなのではないか。
知らない内にじわじわと効いてきて、足が止まり、止めを刺される。本当はどのパンチが効いたのか本人にすらはっきりとはわからない。止めのパンチは実は試合終了のための象徴的なものに過ぎないのだ。
だから各個人にとっての区切りはそれぞれに違うということになるだろう。そしてある時、「ああ、時代が変わったんだなぁ」と思い当たるのだ。その時がその人間にとっての区切りであり、それが止めのパンチなのである。
そして私は勝手に想像するのだが、李怡氏にとっての止めのパンチは、実はこの『九十年代』の停刊を決定した時のことではないだろうか。1997年の7月1日よりも、むしろこの時の方が李怡氏にとっては本当の意味での区切りになったのではないだろうか。
私にとってもこの停刊のニュースが大きな区切りとなったのである。まったく偶然にその時香港に来合わせ、さらに李怡氏にも会い、直に停刊の話を聞いた。だが、そこにはめぐり合わせ以上の何かがあったと思わずにはいられない。私にとっては鮮やか過ぎるほどの止めのノックアウトパンチだった。
『九十年代』のオフィスを出て、明るい陽光の下、相も変わらない香港の喧騒の中を歩きながら、私の心は妙に静かだった。
「これで『九十年代』とはさよならか」
と口に出さずに心の中でつぶやいた。
それは雑誌『九十年代』との別れであると同時に、まだもう1年を残すとはいえ、歴史としての90年代という時代そのものとの別れであるような気もした。
その時李怡氏にサインしてもらった『九十年代』4月号はもちろん今も手元にある。私にとってそれは大事なものとして一生傍においておくつもりだ。
ただ、残念なことがひとつだけある。李怡氏はサインをする際、私の名前の敬称に「様」と書いてくれた。これは私が日本人だから李怡氏としても気を使ってくれたのだろうと思う。
だが、ここはやはり中国語風に「先生」として欲しかった。私はそのサインを見るたびにいつも少しだけ苦笑する。もちろんそれは苦い味のするものではないのだけれど。