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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

さよなら『九十年代』(4)

2005-11-22 22:59:27 | Weblog
私は運命論者というわけではないのだが、時々人生のめぐり合わせというものは不思議なものだとつくづく思うことがある。

今回李怡氏に出会ったこともそのひとつだ。

私たちはいつもはクリスマスから新年にかけて香港に来るのだが、実は前年の12月に遊んでいて骨折してしまい、そのクリスマスには来られなかった。そこで3月末に3泊4日で急遽来たわけである。

もし、あの時よる年波も考えずに動いて骨折しなかったら、私たちは例年どおりクリスマスに来ていただろうし、そうなれば『九十年代』のオフィスを訪ねたとしてもそれまで同様李怡氏には会えなかったような気がする。

また、その日ももし徒歩ではなく地下鉄かトラムに乗って行ったのだったら、もう少し早く着いて李怡氏とは入れ違いになっていただろう。さらに、最初は茶餐庁で朝食をとるつもりはなく、購読料の手続きを済ませてから飲茶でもしようかという話をしていたので、茶餐庁に入っていなければこれまた李怡氏とは会わなかっただろう。

あるいはさらに、もしもっと遅く着いていたら、オフィスに入って手続きをしたとしても、編集長室にいる李怡氏には気がつかなくてサインなどもらわなかったことも考えられる。

そんなことを言い出せばきりがないのだが、私としてはどうにも偶然ではすまされない縁のようなものを感じてしまうのである。まるで誰かが書いた筋書きのようにことが進んでしまったかのようだ。

神様というものがあるなら、これは長年しこしことしぶとく中国語を続けてきた私への神様からのささやかなごほうびではないだろうか。

何を大げさなと笑う声が聞こえてきそうだが、まぁそれでいいのだ。そう思ったところで誰に迷惑をかけるわけでもなし。

李怡氏に出会えたことで、私は何か踏ん切りがついたような気がした。私にとって『九十年代』との別れということでは、考えてみれば最良の儀式が行われたと言っていいだろう。

私はある種満ち足りた気持でビルを出た。『九十年代』は後1回5月号を以って終わる。それは確かに残念なことではあるが、これも歴史のひとつの流れではあり、仕方のないことだ。

何事にも始まりがあれば終わりがある。私も『九十年代』のない中国語生活を新たに考えるしかないだろうし、そこにはまた何か新しいものが見つかる可能性もあるのだ。また、もしないとすれば自分で作り出せばいいわけである。

そしてこのことは私にとって、雑誌『九十年代』だけでなく、97年香港返還という歴史の転換に対する区切りだともいえると思った。

1997年7月1日を以って香港は中国へ回帰したわけだが、実のところ日本に住む私にとって実感というものはなかった。その翌年の3月に無理をして来たのも、前年の返還以後の変化というものがあるかどうかこの目で確かめたかったからだが、実際街を歩き、友人と会ってもとりたてて変化を肌で感じることはなく、少し拍子抜けがしていた。

もちろん、これは当たり前のことだ。香港返還は平和裏に行われた手続きだし、第一、革命などという物騒なものでもないから、劇的な社会変動は起りようがないのである。

香港返還の区切りの時は人によってそれぞれ異なるだろう。返還前に移民として香港を去った人にとっては空港で飛行機に乗り込んだ時がそうだったかも知れないし、聞いてみたわけではないが、ベリンダにとっては返還後だいぶたってから広東省の東莞にオフィスを移転した時だったかも知れない。

映画の「無間道」で返還を期していっせいに警察の徽章を取り替えるシーンがある。警察や官庁では確かに返還日を境にがらりと変わったものがあるだろうから、公務員にとっては返還日そのものが区切りとしては実感が伴うものだろう。

ベリンダの弟もその当時現役の警察官だったが、返還を期に退職した。ベリンダからそれを聞いた時、私は少々驚いた。

「どうして?せっかくだからそのまま続ければいいのに」

子供だってまだまだ学校があり、これからもっとお金がかかるはずである。警官も公務員なのだから、その安定した職業を捨てて大丈夫なのだろうか。

「仕事の内容が特殊だから、続けられないのよ」

とベリンダは言った。

ということは公安関係か何かなのだろうと私は想像した。女王陛下のために中国共産党系の政治活動に対する監視や情報収集などの諜報活動をしていたとしたら、それはまぁ確かに返還後の警察に居場所はないだろう。

「で、警察辞めた後はどうするの?」

「大丈夫よ、年金がもらえるからね」

「ええっ!?まだ40になってないのに年金があるの?」

「だから、仕事が特殊で辞めるしかないんだからぁ、くれるのよ」

「それって、いいなぁ」

年金暮らしは私の理想とする生活なのである。

その弟は警察を退職後警備会社に勤めている。かつての仕事については守秘義務とかの縛りはあるだろうが、年金がいくらかは知らないけれど、警備会社の給料との二本立てだから経済的には楽にやっていけるものなのではないだろうか。

この弟の場合、やはり返還の日には少なからぬ感慨があっただろう。しかしごくたまに見るその顔には屈託のない笑顔があるばかりで、その裏側までは見えてこない。

97年6月30日の夜、私はベリンダに電話を入れてみた。

「返還式典やってるのに見に行かないのか?」

「テレビでやってるもん。外は大雨よ。阿ジョーも家でテレビ見てるってよ。第一、すごい人だから行ったって疲れるだけよ」

そういえば、ベリンダは大晦日などでも外に出たりはせず、家でおとなしくしている方だ。それに香港人がいくらお祭り好きだとはいってもやはり大多数の人は家にいるのである。

もちろん、にぎやかな事が好きなスタンレーなどは率先して参加してはいるだろうが。それに、スタンレーは実業界の末席を汚しているから、どこかからお呼びがかかってパーティかなんかに出かけていることもありうる。

正しく人それぞれなのである。

この返還による転換は、大多数の香港人にとって個人的レベルにおいては統一された劇的なものではなかったのではないかと私は思っている。

返還による変化というのは、ボクシングでいえば、目を見張るような強烈なノックアウトパンチではなく、しつこく繰り出されるボディーブローのようなものなのではないか。

知らない内にじわじわと効いてきて、足が止まり、止めを刺される。本当はどのパンチが効いたのか本人にすらはっきりとはわからない。止めのパンチは実は試合終了のための象徴的なものに過ぎないのだ。

だから各個人にとっての区切りはそれぞれに違うということになるだろう。そしてある時、「ああ、時代が変わったんだなぁ」と思い当たるのだ。その時がその人間にとっての区切りであり、それが止めのパンチなのである。

そして私は勝手に想像するのだが、李怡氏にとっての止めのパンチは、実はこの『九十年代』の停刊を決定した時のことではないだろうか。1997年の7月1日よりも、むしろこの時の方が李怡氏にとっては本当の意味での区切りになったのではないだろうか。

私にとってもこの停刊のニュースが大きな区切りとなったのである。まったく偶然にその時香港に来合わせ、さらに李怡氏にも会い、直に停刊の話を聞いた。だが、そこにはめぐり合わせ以上の何かがあったと思わずにはいられない。私にとっては鮮やか過ぎるほどの止めのノックアウトパンチだった。

『九十年代』のオフィスを出て、明るい陽光の下、相も変わらない香港の喧騒の中を歩きながら、私の心は妙に静かだった。

「これで『九十年代』とはさよならか」

と口に出さずに心の中でつぶやいた。

それは雑誌『九十年代』との別れであると同時に、まだもう1年を残すとはいえ、歴史としての90年代という時代そのものとの別れであるような気もした。

その時李怡氏にサインしてもらった『九十年代』4月号はもちろん今も手元にある。私にとってそれは大事なものとして一生傍においておくつもりだ。

ただ、残念なことがひとつだけある。李怡氏はサインをする際、私の名前の敬称に「様」と書いてくれた。これは私が日本人だから李怡氏としても気を使ってくれたのだろうと思う。

だが、ここはやはり中国語風に「先生」として欲しかった。私はそのサインを見るたびにいつも少しだけ苦笑する。もちろんそれは苦い味のするものではないのだけれど。


さよなら『九十年代』(3)

2005-11-13 14:59:38 | Weblog
その日はいい天気だった。私たちは朝食後銅鑼湾を通り、ビクトリア公園を抜けて地下鉄の天后の駅に向けて歩いた。

ビクトリア公園では、平日だが運動したり、のんびり散歩している人が結構たくさんいた。太極拳のような動作を黙々とやっている老人や、汗を光らせながらジョギングをする人、派手な扇子を持って踊りを練習しているグループなど、いつもどおりののどかな風景だった。

天后につくと、地図を広げて英皇道33號の場所を確認した。そこは前の琉璃街のオフィスの向かいと言っていいぐらい近いところだった。

ビルのドアはこれまた頑丈な鉄の塊のようなドアだった。入口から2、3歩離れたところに一人のお爺さんがぽつんねんと椅子に座っていた。それが門番なのか、あるいは単に日向ぼっこをしているのかよくわからないので、私たちは無視してオートロックのボタンを押してみることにした。

しかし、ボタンを押しても応答がない。どうもボタンの押し方が間違っているようだが、よくわからないのである。何度か挑戦してみたがうまくいかない。しかし、せっかくここまで来たのにすごすご撤退するのももったいない。

仕方ないので、私たちはお爺さんに助けを求めることにした。

「唔該」

近づいて声をかけると、お爺さんは眠そうな顔で私を見上げた。

「ボタンを押しても通じないんですよ。やり方教えてもらえませんかねぇ」

お爺さんは耳が遠いのか、はぁっと私に耳を突き出すようにした。

「あのドアのね、開け方わからないんですよ」

私が少し大きめな声で言うと、お爺さんは入口のドアの方に目を向けると、そっちを指差して言った。

「ああ、あの人について入ればいい。ほら、あの人」

振り向くと、黒っぽいスーツ姿の人がちょうどドアを開けようとしていた。

私と老姑婆は顔を見合わせた。そんなことしていいんだろうか。

しかし、お爺さんは私たちをせかすように、しっしっと手を振った。

こうなれば毒を食らわば何とやらである。私たちは急いでその人に続いて開いたドアからすべり込んだ。そのスーツにネクタイという香港人としてはややきちんとした身なりの人はちょっと怪訝な顔で私たちを見たが、そのままエレベーターの方へ歩いて行き、私たちも後に従った。

その人の背後でエレベーターを待ちながら、私はうーんと考え込んだ。どうも見たことのある人なのである。その人もまた変な中年カップルの出現に少し戸惑った雰囲気を背中に漂わせていた。

エレベーターに入ると、その人は18階を押した。それは私たちの目的地でもあった。その人は私たちが目的の階を押さないので、またも怪訝な顔で私たちを見た。

「一様(やっよん)」(同じです)

私が言うと、その人は安心したように頷いた。

その顔を見て、私は確信した。驚いたことに、その人はそれまで何度も雑誌の写真で見たあの『九十年代』編集長の李怡氏だったのである。いや、ほんとにびっくりした。

何という偶然だろうか、まったくできすぎといえるほど絵に描いたような偶然だった。私たちは『九十年代』を訪ね、その編集長にドアを開けてもらったのだ。

少し躊躇したが、私は意を決して声をかけた。どうせ行くところは同じなのだ。

「『九十年代』の李怡さんですか?」

「そうですが・・・」

李怡氏は訝しげな面持ちのまま私を見返した。

「私は『九十年代』の読者で、日本から来ました。購読料を払いに来たんですが」

李怡氏は納得したように頷き、言った。

「そうですか。けれど『九十年代』は停刊することになったんですよ」

「ええ、ラジオで聞きました。残念です」

ほんのわずかだが間を置いて、李怡氏は答えた。

「・・・本当に残念です」

李怡氏は視線をやや上げてどこか遠くを見るように答えたが、その言葉に微かにため息が混じっているように私には聞こえた。それから私に尋ねた。

「讀中文?」(中国語を勉強しているんですか)

「はい。ずいぶん長く勉強しています」

李怡氏の顔に少し嬉しそうな笑顔が浮かんだ。

李怡氏に案内されてオフィスに入ると、中には若い女の子ともう一人初老の小柄な男性スタッフが『九十年代』の袋詰の作業をしていた。スタッフはその二人しかいなかった。机の上には山のように『九十年代』の入った封筒が積まれていた。

毎月送られてくる『九十年代』は印刷所からオフィスに送られ、こうやって手作業で袋詰にされて全世界に発送されているのだ、と私は初めて知った。それまで何となくもっと機械的に処理されているように想像していて、こんな風な家内制手工業的な雰囲気だとは思わなかったのである。

その時、『九十年代』という雑誌の発行が、実はこつこつと地道に続けられてきたのだということを、その光景が象徴しているかのように私には感じられたのだった。

しかし、オフィスの雰囲気は前の2回の訪問の時とは違って見えた。しんと静かで閑散とした空気が部屋全体を覆っているように思えたのだ。

もちろん、前回も前前回も、オフィスの中で大声が飛び交いにぎやかだったわけではない。それでも、空気としては活気のようなものが満ちていて、ああこれが雑誌の編集室というものかと思わされたものである。

それとも私がそう感じたのは私に停刊という先入観があったせいだろうか。

私はかつてしたようにスタッフの女の子に購読料の申込書をひらひらと振って見せた。5月号の停刊が決まっていたので、女の子は電卓で金額を計算しなおしてくれた。

そうしてちょうど袋詰されていた4月号をその場でもらった。その時、ふいに李怡氏にサインをもらおうと思いついた。それまでのオフィス訪問で李怡氏を見かけたことはなかった。これも何かの縁だろうし、せっかくの機会だと思ったのだ。

編集長室にはドアはなく、私はずかずかと入り込んで、もらったばかりの『九十年代』4月号を差し出した。

「李先生可唔可以簽名?」(李さんサインしてもらえますか)

「いいですよ」

李怡氏は快く承諾してくれ、机の上に4月号を置いてちょっと考えてから表紙をめくった。そして私に名前を書いてくれとペンと紙を渡した。私が書いて返すと、表紙をめくった1ページ目の「巻頭語」といういわば『九十年代』の社説のような李怡氏のコラムの枠の上に私の名前とサインを書いてくれた。

「多謝」

私は両手で受け取って礼を言った。李怡氏はにこっと笑った。

私と老姑婆がオフィスを出ようとすると、李怡氏が追いかけるように出てきて、私たちのためにドアを開けてくれた。出がけに私が手を差し出すと、李怡氏は握手に応じてくれた。知識人ではあるが、思いのほか大きな手のような気がした。

さよなら『九十年代』(2)

2005-11-07 21:49:59 | Weblog
今度の住所は英皇道33號18字楼となっていた。地図で見ると前の琉璃街のオフィスとそう離れてはいない。同じく地下鉄の天后駅の近くで今度は英皇道(キングズロード)という大きな道路に面していた。

私と老姑婆は地下鉄にもトラムにも乗らず湾仔のワーニーホテルから歩いて天后に行くことにした。地下鉄の駅にして二駅である。

香港は交通網が発達しているから香港人はあまり歩きたがらない。タクシー、小巴、大巴士、地下鉄に加え、香港サイドではトラムまであるため交通手段にはことかかないからだ。

しかし、私と老姑婆は香港ではできるだけ歩くことにしている。何といっても別にやることもないから時間だけはたっぷりとあるのである。そこでせいぜい歩きながら街の雰囲気にどっぷりつかることを楽しみ、かつ日頃の運動不足を補うこともできるわけで、二人の脚にとってはこの上ない強化合宿となる。

地下鉄の駅で二駅といっても、ホテルから銅鑼湾までは歩いて10分ちょっとだし、銅鑼湾からはビクトリア公園を抜ければ、そこはもう天后の駅である。大した距離ではないのだ。

途中の新聞売りスタンドで「東方日報」を買い、私たちはとりあえず茶餐廳で遅めの朝食をとることにして、銅鑼湾の手前のとある「的士佬」(タクシー運転手)たちの溜まり場らしいうらびれた茶餐廳を見つけて入った。

茶餐廳のことを老姑婆は「ホモホモ喫茶」と呼ぶ。これは客が男ばかりだという意味で、なぜか私たちの印象では茶餐廳には女性客が極めて少ない。

というか、以前油麻地に常宿をとっていた頃、油麻地や佐敦道のあたりの店では地域的なこともあるのだろうが女性客が皆無で、客は男性ばかりという雰囲気がこちらにとっては異様に思えたからだ。それで老姑婆は茶餐廳を男性専用の店とみなし、「ホモホモ喫茶」と命名したわけである。

まぁこれは香港人の外食好きと、特に独身男性などは外で食事をするしかない、というあたりに原因があるのだろうし、女性や家族連れの客がいることも決して珍しいわけではないが、すり込みというか最初の記憶が偏見を形成しているわけである。

そしてこの茶餐廳も老姑婆の命名に違わず的士佬っぽい男客ばかりだった。

メニューを見て、私は「牛油三文治」(バターサンドイッチ)と「熱珈琲」(ホットコーヒー)を注文し、老姑婆は「西多士」(フレンチトース)を注文した。茶餐廳の西多士はまるで油漬けしたかのように油っぽいから私はどうも苦手なのである。

東方日報を広げてみると、そこにも『九十年代』の停刊のニュースが「《九十年代》五月後停刊」と題して載っていた。やはり、停刊は確定しているようだ。 

だが、それが新聞やラジオのニュースになるということは『九十年代』の存在が香港においてそれだけ大きなものだったということを証明しているのだろう。

「うーん、やっぱりなぁ」

私はため息をついた。

そこへ注文したものがやってきた。

コーヒーは例のごとく肉厚のカップに並々と注がれており、コンデンスミルクが大量に注入されてコーヒーというより見た目は子供用のココア飲料のようだ。

西多士はこれまた例のごとく褐色の表面はたっぷりすぎるほどのバターで煮込まれたみたいに油でぶよぶよしている。私は牛油三文治にして良かったと思った。

しかし、サンドイッチには緑色がない、レタスぐらい挟んでいるのを期待していたが、甘かった。香港人は野菜よりも動物性タンパク質が命なのだ。私もいつまでたっても学習できない奴である。

チーズサンドのように白いものが挟まれたサンドイッチにがぶりと噛みつくと、ぐじゃっと口いっぱいにバターが溢れた。うえっ、挟まれていたのは3ミリほどの厚さに切られたバターの塊なのだった。

私は慌てて口の中のバターの塊というか、もう溶けてぐちゃぐちゃになって油に変化したものを皿に吐き出した。

そう、それは確かにバターのサンドイッチなのだった。正真正銘、嘘いつわりなくバターをサンドしていた。そこには1パーセントの嘘もなかった。

し、しかし、である。私はせいぜいバターを厚く塗ったものを予想していたのだが、まさかパンと同じ面積で厚さ3ミリもあるバターを挟んでくるとは思いもしなかった。

それにしても中国人は油が好きで、油がなければ夜も日も明けない。赤ちゃんの離乳食のお粥ですら炊く前に油をたらし、尚且つ出来上がった段階でもう一回油をたらすのである。だからこれぐらいのバターは何ということはないのだろう。

この牛油多士にしたって、バターが厚さ1ミリぐらいしかなければ、きっと客の的士佬たちからブーイングが起るのに違いない。

「まいった。これは食えんわ」

私は降参した。

「パンだけ剥いで食べたらええやん」

老姑婆の提案にしたがってパンだけを食べたが、それでもパンには十二分にバターの味が染み付いていた。

そういえば、台湾の李喬という作家に「寒夜三部曲」という長編小説があるが、三部作最後の「孤燈」の中に、戦争中日本の占領下で物資が不足して油が手に入らなくなり、油の摂取が不足したため激しいげっぷを伴う発作が起こるという場面があった。

これは油が欠乏することからくる症状だということで、その時は落花生を食べさせるととりあえず治るのである。つまり落花生の油分を摂取することで身体に油を補給するわけだ。

それぐらい中国人の身体は油を必要としているらしい。これはやっぱり中国4千年の歴史で培われた中国人の体質なのだろう。

彼らはほんとうに我々日本人とは身体のできからして違う、日本の怪談に化け猫が行灯の油をなめるというのがあるが、中国人なら油が不足すると瓶入りのてんぷら油をラッパ飲みしそうである。

と、えらく話がそれてしまったが、この李喬の小説も実は『九十年代』の書評で知り、台湾まで出かけて買ったのだった。ひょっとすると日本人でこの小説を読んだ人間は私ぐらいかもしれないと思う。

そんな風に『九十年代』を読むことで知った本は多々あった。私にとって中国語関係の情報源の大きな部分を『九十年代』が占めていた。というより、仕事でも個人的な面でも中国とは何の接点もない私にとって『九十年代』は長らく中国語に向けて開かれた窓の役割をしてくれたのである。

大陸中国の出版物で何も読むに値するものがなかった時代に、毎月定期的に届く『九十年代』を読むことで私は中国語の勉強を継続でき、そのおかげで着実に語学の面でも進歩することができた。

もし『九十年代』がなかったら、私は中国語を続けていたかどうかわからない、と言っても大げさではないだろう。そしてもしそうなっていたら、こうして香港に来るようなことにもならなかった可能性だってある。

そう考えると、『九十年代』の私の人生への影響というのは計り知れないものがあると思えた。

その『九十年代』が停刊するという。茶餐廳のテーブルの上の東方日報の記事を見つめながら、私の心には感慨というよりもむしろ感傷が広がっていった。

さよなら『九十年代』(1)

2005-11-03 17:38:31 | Weblog
1998年3月30日の朝、雑誌『九十年代』が停刊するという私にとっては衝撃的なニュースをホテルの部屋で聞いた。

その日は『九十年代』のオフィスに行き定期購読料を払うつもりにしていたのだが、停刊となると購読料を払っても意味がないような気がした。しかし何はともあれとりあえずオフィスに行ってみようと思った。そうすればすべてがはっきりするだろう。

雑誌『九十年代』は当初『七十年代』という名前だった。その頃は大阪のある中国書籍専門書店で購読の手続を代行してもらっていたのだが、80年代半ばから香港の友人に購読料の支払いを手伝ってもらっていた。だが、二度ばかり自分で直接オフィスを訪ねて支払ったことがあり、その時もそうするつもりだったのだ。

一度目は湾仔の汕頭街にあるオフィスだった。住所は汕頭街11-21號仁美大廈1Aである。汕頭街は荘士敦道と皇后大道東を横に繋ぐ通りだ。

汕頭街は板金加工の町工場がある一帯ということだった。行ってみると確かに路上に鉄板や鉄の棒が積み重ねてあったり、板金を叩く音が、ドンガンドンガンと響いてきたり、機械油に汚れた服の工員たちが成型した鉄板をトラックに積み込んだりしていて、雑誌社のオフィスというちょっと知的なイメージを裏切る雰囲気だった。

考えてみれば香港は街全体がそういった雑駁な雰囲気で、それこそがまた魅力という街だから、別にそう驚くことでもない。香港の街自体がひとつの雑居ビルのようなものだ。

仁美大廈はすぐに見つかった。入口は頑丈な大きなドアで、泥棒が破ろうにもなかなか骨が折れそうな造りだった。

インターホンのボタンを押すと、何やら声が聞こえてきたが、その当時広東語を習い始めて間もなかった私には全然聞き取れない。『七十年代』(ちゃっさっぷれんとい)ですか、ととりあえず広東語を言ってみたら、何も言わずにガチャンッとロックが外れた。

大した確認もせずにドアを開けるところをみると、頑丈さに反比例していたってオープンなセキュリティなのであった。

オフィスは広くはなく、机でいっぱいで、机の上には書類や本が山積みになり、雰囲気的には活気があったように記憶している。スタッフが何人ぐらいいたのかおぼえていないが、それでもざっと5、6人はいたのではないだろうか。

私は一番入口に近い女の子に購読料の申込書をひらひらさせて見せた。女の子はふんふんと頷いて申込書とお金を受け取り、領収書を書いてくれた。

ふと見ると隣の席に高く積まれているのが編集長の李怡氏の新作「従認同到重新認識中国」だった。『七十年代』の広告を見て読んでみたいと思っていた私は、それを手にとって女の子に聞いた。

「幾多銭?(げいとーちん)」(いくら?)

女の子は答えた。

「さっぷいー」

「11ドルやて」

私はお金を出してもらおうと老姑婆に言った。

すると女の子が大きな声で言った。

「ジュニ」

えっ?一瞬何事が起ったかときょとんとしてしまった。

女の子は「十二」と日本語で私を訂正したのである。つまりその本は12ドルだったのだ。まさかこんなところで日本語を聞くとは思いもしなかった。

広東語で「一、二、三」を数えると「やっ、いー、さーむ」という発音になる。これが北京語だとマージャンなどでお馴染みの「いー、ある、さん」である。

で、当時広東語が駆け出しだった私は、まだまだ北京語の影響が圧倒的に強く、「い」という音で北京語の「一(いー)」を連想してしまい、広東語の「二(いー)」には結びつかなかったのだ。そうして「12」を「11」と取り違えてしまったわけである。

思いがけない突っ込みでとんだ恥をかいてしまい、私は頭を掻いた。だが、赤面するような経験があったものの、『七十年代』のオフィスに足を踏み入れたことで、私は十分満足したのだった。

二度目にオフィスを訪ねたのはすでに名称を『九十年代』と変えてからで、場所は銅鑼湾琉璃街3號向南楼1楼A座及B座に移っていた。銅鑼湾とはいっても、ビクトリア公園を越えた地下鉄の天后駅のほうだ。

そのあたり一帯は下町の雰囲気でオフィス街やショッピング街という感じではなかった。もっとも香港の大抵の所は下町ばかりなのではあるが。

私はそれまで銅鑼湾(コーズウェイベイ)とはビクトリア公園のこちら側の地域とばかり思っていたので、公園の向こう側も銅鑼湾に入るというのは新しい発見だった。発見なんていうとちょっと大げさ過ぎるか。

二度目の雑誌社訪問にはもう目新しいものはなかった。A座及B座というのはA号室とB号室の二部屋を借りてオフィスにしていたようで、中の雰囲気としては汕頭街の時のオフィスと変わりはなく、雑然とした雑誌編集室という様子もそのままだった。私は前回同様購読継続の申込書を差し出し、お金を払い、領収書を受け取って外へ出た。

それでも直接長年購読している雑誌社のオフィスを訪ねることは、私たちにとって恒例の、であるが故に変わり映えのしない香港訪問にささやかなアクセントを与えてくれ、少しばかりの新鮮さを味わえるのだった。

そして三回目のオフィス訪問の日に停刊のニュースが飛び込んできたのである。

ある香港人への質問状

2005-10-27 21:52:20 | Weblog
私が初めて香港に行ったのは1974年だが、本格的に香港通いを始めたのは1983年からだ。初めの10年間ぐらいは毎年夏冬それぞれ10日以上滞在していたが、その後は冬に一回行くというのが基本になっている。

このため80年代以後の香港についてはある程度わかるのだが、70年代についてはあんまりよくわからない。そこで、とある70年代にすでに大人になっていた香港人と話をする機会があり、思い切ってインタビューさせてもらうことにした。

何しろ初めてのことなので、もうひとつ要領よく聞けなかったこともあってインタビューとしては成功とはいえないが、私個人としては結構面白かった。

私が興味を持っているのは普通の人の生活なのである。学問的なことは苦手だし、あまり関心がない。それに芸能にもそれほど熱心でもない。

香港の普通の人が、どんなところに住み、何を考え、どんな生活をしているかに涎が出そうなほど興味が沸く。ま、いわゆるトリビアルなことに惹かれてしまうのだ。

つまり、樹木でいうなら枝葉末葉のことを知りたいわけで、幹の方はどうでもいいのである。森を見るより樹を見たいし、樹よりもその枝や葉っぱの皺の数を数えることに無上の喜びを感じるわけである。

そんなわけで、60年代、70年代の香港人がどうだったのかを知るためにお話を伺うことになり、以下に問答形式で書いてみることにした。相手は中年の香港人女性である。


問:何年生まれですか?

答:1957年。

問:家族構成は?

答:両親と兄弟姉妹が合計8人、私も入れてね。両親は1950年に広州から移ってきたんですよ。私は香港で生まれたんだけど。

問:(この年代はほんとに子沢山で兄弟が多いよな)当時はどこに住んでたんですか?

答:旺角。

問:旺角のどのあたり?

答:彌敦道に面してて、茘枝角道と交差してる辺りの近く。

問:地図で見ると、太子にも近いですね。どんな家でした?

答:9階建ての唐楼の3階で、「三房一廳(さんふぉんやってん)」だったですね。(注:つまり3LDKのこと)唐楼って知ってます?

問:知ってますよ。旧式のビルでエレベーターがないやつでしょ?

答:そうそう、階段を挟んで両側に部屋のある形ですね。よく知ってますね。

問:まぁね。(やや不敵な笑顔を浮かべる)朝ごはんってどうしました?

答:私の母はお嬢さん育ちで家事が苦手な人なんですよ。朝起きてくれないから、朝ごはんは外でパンを買って学校へ行きながら食べてました。

問:香港の人って外で食べることが多いですよね。

答:ほんと、ほんと。結構みんな朝ごはんも外で食べますよね。

問:攤販(たんふぁん:道端で手押し車などで食べ物などを売っている移動式販売)なんかで買い食いとかしましたか?

答:めったになかったですね。子供の頃はお小遣なんか少ししかなかったから、親に買ってもらったものを食べてたしね。たまに街に出て親に  せがんで買ってもらうことがあったかな。

問:学校へは何で通ってたんですか?

答:バスで。

問:大巴士(だいばーしー)?それとも小巴(しゅうぱー)?

答:大きいバス。

問:時間はどれくらい乗りました?

答:30分くらいかな。

問:結構遠いんですね。

答:小学校は家の近くだったけど、ハイスクールは遠かったですね。小学校は午前中の学校で7時半に登校してました。(注:香港では学校不足で午前と午後の半日の学校が多い。今は減ってきているらしいが)

問:ハイスクールは何ていう学校ですか?

答:Maryknull Fatehr‘s Schoolでした。
  (注:漢字では瑪利諾神父学校と書くらしい)

問:休みの日は何してました?

答:妹と行街(はんがーい)してましたね。旺角や尖沙咀とか銅鑼湾とかね。
  (注:行街とは街をぶらつくこと。デパートでウィンドーショッピングするなら「行公司」となる。デパートは「百貨公司」)

問:ハイスクールの昼ご飯はどうしてたんですか?

答:母が遅くまで寝てるので、自分で弁当を作って、保温式のランチボックスに入れて持って行ってましたね。

問:飯盒(ふぁんはっ)ですか?

答:いえ、飯盒っていうのは、あのお弁当屋さんの白いプラスチック(注:ウレタンのことか)に入ってる分でね、あの頃はまだなかったんですよ。

問:当時のあなたのアイドルは?

答:サミュエル・ホイ(許冠傑)

問:「半斤八両」とか?

答:見たことあるんですか?

問:ありますよお。あの主題歌も大好きだし、VCDも持ってますからね。私が広東語を勉強しようと思ったのはあの映画がきっかけですから。

答:喜劇で可笑しいんだけど、その裏にはまじめな問題を取り上げてますからね。だからとても面白いし、好きなんですよ。それから日本の歌手の西城秀樹も好きだったですね。

問:好きな映画を憶えてますか?

答:西片(洋画)では「Sound Of Music」と「Gone With The Wind」かなぁ。

問:学校は英語学校でしたか?

答:そうです。

問:英語学校では科目全部を英語で教えるんですか?

答:歴史と国語は中国語で、その他は英語ですね。

問:先生の英語のレベルはどうでした?

答:外国人の先生がたくさんいたから、英語は問題なかったですよ。

問:中国人の先生の英語のレベルは?

答:うーん、自分たちの英語もあまり大したことがなかったから、先生のレベルのことはよくわからなかったですけど、中には教科書は英語だけど授業でしゃべるのは広東語という先生もいましたね。

問:中国語の学校があるそうですけど、どれくらいあると思いますか?

答:10パーセントぐらいじゃないですか。

問:中国語の学校のことはどう思いますか?

答:卒業しても英語があまりできないから就職には不利だったみたいですね。だけど、その分一生懸命勉強させて、優秀な学生が多かったみたいですよ。

問:どうして中国語の学校へ通ってたんでしょうねぇ?

答:親の考えで行かせるんでしょ。中国人としての民族とか伝統とかを重視したい人の場合とかね。

問:思想的なこととかも?

答:それもありますね。

問:大陸に親戚はいますか。

答:もちろんいます。

問:つきあいもありました?

答:もちろんですよ。昔はしょっちゅう母親が郵便で物を送ってたし、年に一回ぐらいは自分で行ってましたからね。

問:当時大陸のことはどう思ってましたか?

答:すごく貧しいけれど、考え方は高潔だと思いましたねぇ。

問:でも、あの当時大陸では思想的に自由がないし、みんな苦しかったんじゃないでしょうか?

答:そうですねぇ。でもその現実を知らなかったですからね。私の普通話って発音がとてもいいでしょ?(うーん、そうです・・・ね)あのころ勉強したんですよ。(注:普通話とは北京語を基礎にした大陸の標準語)

問:へぇー、そうなんですか。80年代の後半には街のあちこちに普通話の塾なんかができてて、普通話の学習熱がさかんになってましたけど、70年代は普通話というか国語(注:北京語のこと)を話せる人はあまり多くなかったみたいでしたけど。

答:そう、あの頃は少なかったですよ。私は政治思想的に惹かれて普通話を習い始めて、普通話の先生になるために教授法の勉強もしたんですよ。みんなに普通話を広めたいって思って。だから愛国運動にも傾斜してましたね。

問:保釣(注:尖閣列島防衛運動のこと)とか?

答:そう。いろんなこと知ってますねぇ。

問:ははっ、まぁね。(相当自慢げな顔をする)

答:あの頃は表面的なことしか知らされてなくて、よくわかってなかったですからねぇ。中国の現実を何も知らなかったから。

問:大陸から密入国してくる人が多いですけど、そういう人についてどう感じていましたか?

答:特にどうとも思ってなかったですよ。子供だったから興味もなかったし。

問:当時友人とか同級生とかに大陸から移民してきたばかりの人はいましたか?

答:いませんでしたね。

問:イギリスに留学したそうですが、それは親の勧め?それとも自分の希望で?

答:自分が行きたくて。ボーイフレンドと別れちゃって、それが直接の動機。

問:費用はどうしたんですか?

答:ハイスクール卒業後は働いてたから、自分で貯めたお金で行きましたよ。

問:どんな会社で働いてたんですか?

答:いろいろですねぇ。仕事は事務員で、おもちゃの会社とかにも勤めましたよ。

問:ところで屋邨(おっちゅん)って何でしょうか?

答:日本でいうなら団地ですね。政府の建てたもので家賃がとても安いんです。

問:廉租屋(りんじょーおっ)と屋邨って同じものですか?

答:とも言えないんじゃないかなぁ。廉租屋って家賃の安い家ってことだから、確かに屋邨は安いですけどねぇ。

問:屋邨に遊びに行ったことあります?

答:ありますよ。友だちにも住んでる人がたくさんいたし。

問:あれでしょ、一間だけで二段ベッドがたくさん入ってて・・・。

答:そうそう、家族が多いと狭いですよね。だからやっぱりちょっと貧しいという感じはするかなぁ・・・。

問:最近はみんな自分の家を持つようになったから、これは昔とずいぶん変わりましたねぇ。

答:みんなが自分の家を持つって、どうかなぁ・・・。

問:いや、もちろんなかなか持てないけど、みんな持ちたいと思うようになったし、持ってる人も多くなったでしょ?

答:それはそうですね。

問:あっ、時間になりましたね。では、こんなところで。


と、まぁ中途半端なところで終わってしまったし、突っ込みの足りないところばかりだったが、一応このインタビューは終了した。

内容についてはあくまでも個人の意見なのでこれが香港を代表する見方だとか、あるいはすべてが正しいというものではないだろう。この人の考え違いというところもあるはずである。香港人だからといって何から何まで知っているというわけでもない。

しかし、ひとりの生身の香港人を通して香港を見てみると、なかなか面白い。これで別の人に聞けば、また違った角度から香港を見るということになり、別の香港の姿が浮かび上がってくることになる。百人いれば百通りの香港像ができるわけだ。

そういうことを実感できたという意味においてはこのインタビューは成功だったといえる。できることなら、今後できるだけ多くの人にこういったインタビューをしてみたいものである。

海ちゃん(6)

2005-10-04 22:13:26 | Weblog
移民後、肥婆鄺たちはとりあえずバンクーバーの友達の家に間借りして住んだ。家を買うのは落ち着いてからということだった。

バンクーバーは特に香港からの移民が多い。そのためVancouver(バンクーバー)じゃなくHongcouver(ホンクーバー)じゃないか、という冗談までできたくらいだ。中国語でいうなら、「温哥華」ではなく「香哥華」だというわけである。

移民をするということはそう簡単でもない。様々な努力を経て、晴れて移民として生まれた国を離れ異国の地に行くわけだが、ことはそれでおしまいではないのだ。

いや、むしろそれからが大変である。異国の地ではほとんどの人が0からのスタートとなる。まずどうやって生計を立てるかという問題をクリアしなければならない。

特殊な技能を持っていれば、とりあえずその業界で仕事を探すことになるから、まずましだろうが、ホワイトカラー、経済移民、それと血縁関係での移民など、条件が職業とは無関係の移民の場合は仕事を見つけるのはもっと困難だ。

カナダで新しい仕事を探すとなると、とりあえずツーランクもスリーランクも落とさなければ簡単には見つからないのが現状のようだ。故国のキャリアはまず無視されると思わなければならないし、給料も香港時代と較べると格段に下がってしまう。人によっては、香港では管理職をしていたのに、カナダでは肉体労働の仕事しか見つからないということもあったと聞く。

そこで、香港からの移民には妻子を移民先の国に残して亭主は単身赴任で香港へ帰るということを選択する人が多くなる。香港でならそれまでと同じ給料を得られるからそれで妻子を養うわけである。

こうした男性たちを太空人(たいほんやん)と呼ぶ。この言葉は有名なので今更という気もするが、ここで一応説明しておこう。

「太空人」とは中国語で「宇宙人」という意味である。で、妻子を移民先において香港で単身赴任をしている男性は奥さんがいない。つまり太太がいない、太太が空きになっているわけで、それにひっかけて「太空人」という呼び方ができた。

もちろんそうなると男性は寂しいながらも自由を謳歌するという面も出てくるから、やれ不倫だの浮気だのという騒動が起きるのも、まぁ当然といえば当然だ。私は直接聞いたことはないが、噂では結構たくさんあるらしい。

しかし、香港人の奥さん相手にこうした問題が起きた場合の修羅場というのは、想像するだけで背すじに戦慄が走る。

そして海ちゃんもまた太空人となった。

海ちゃんは自分の実家に住み中環の会社へ出勤する。肥婆鄺たちは夏休に香港へ帰ってきて、1ヶ月ほど家族水入らず、いやその時は海ちゃんの実家に泊まることになるから水は入るかもしれないが、とにかく家族一緒の生活をする。それから冬にはクリスマスに海ちゃんが休暇を取ってバンクーバーに行き一緒に過ごすのである。

おそらくこれは太空人の家庭としてはごく平均的な生活パターンではないだろうか。

肥婆鄺たちは毎年夏休には帰ってくるが、ベリンダたちかつてのクラスメートとはあまり会っていないという。みんなそれぞれの生活で忙しいし、肥婆鄺は二人目の子供も生れ、その世話でなかなか出られないということだった。

それに海ちゃんは元々私たちの直接の友人ではなかったから、ベリンダたちとはまったく会うことはなくなっていた。

そういう風に、移民した後、海ちゃん一家は私たちの視界から次第にフェイドアウトしていくのだった。

ところが、去年のクリスマスにベリンダたちと食事をしていた時、その年の夏に本当に久しぶりに肥婆鄺と一緒に食事をしたという話が出た。子供たちもそこそこ大きくなり、少し手がかからなくなったので肥婆鄺が誘いに応じることができるようになったのだ。

その時肥婆鄺は、今後のことについて話し、海ちゃんはそろそろ香港を引き払ってカナダに移ろうかと考えていると言っていたそうだ。

子供が大きくなり、子育てが肥婆鄺ひとりの手に余るようになったらしい。子供には父親が必要だと肥婆鄺は言った。

海ちゃん一家の長男ももうハイスクールだ。反抗期もあるだろうし、第一いくら国際電話が安くなり、インターネットのICQがあるとはいっても直接顔を合わせてコミュニケーションをとらなければ親子間の感情も育たないだろう。

香蕉仔(ひょんじゅーちゃい)という言葉がある。訳すと「バナナっ子」ということになる。

香港で、ティーンエージャーの子供が見た目はどう見ても黄色人種なのだが、しゃべっているのは完璧なアメリカンイングリッシュだったり、親子の間でも英語で会話していて広東語をしゃべれなかったりするのを見かけることもある。

バナナは皮が黄色だが皮を剥くと中身は白い。親は中国人で黄色人種だが、移民先で生まれ育った子供たちは考え方も生き方ももう中国人ではなくなっていて、中身は白人のようになっているということだ。

そういう子供が夏休やクリスマスなどに親に連れられて里帰りしてくるが、それを揶揄して香蕉仔とよぶわけである。そこには少しばかりだがやっかみの響きが感じられなくもないけれど。

そんな子供と親との関係は一緒に住んでいても難しいだろうに、離れていれば尚更溝は深まるばかりではないだろうか。

「遠くの親戚より近くの他人っていうことわざが日本にもあるからな」

私は口をはさんだ。海ちゃんがカナダに行って親子で一緒にくらすのはいいことなのだ。

「そういや、この前中環で阿海に会ったぜ」

阿ジョーがふと思い出して言った。

「挨拶とかした?」

ベリンダが聞くと、阿ジョーは首を振った。

「いや、目は合ったんだけどな・・・。ちょっと痩せてたなぁ」

海ちゃんはガタイのいい男だった。スポーツマンで、知り合った時は引き締まった体つきをしていたのだが、結婚してから少しずつ太り始め、最後の頃は肥婆鄺と釣り合いのとれた身体になってしまった。

阿ジョーの話では、少し元気なく見えたそうだが、単身赴任の生活が長く続き、海ちゃんはちょっと疲れてしまったのかもしれない。

しかし海ちゃんのことだ、カナダに移るにはそれなりの目算もあるのに違いない。再度エネルギーを充填して新天地で新たな目標に突き進むだろうと、私は信じて疑わないのだ。

ところで、私もいつか一度カナダには行ってみたいと思っている。モンゴメリーの「赤毛のアン」という物語が子供の頃好きでよく読んだので、中学生の頃はカナダへの移民を夢見ていたこともあるのである。

もしそれが実現したら、その際にはバンクーバーの海ちゃん宅も訪ねてみるつもりだ。

肥婆鄺がカナダに移民してからは私たちも2度ばかり電話で話をしたが、住所は家を買ってから連絡するということだった。しかし、その後肥婆鄺からは音沙汰がない。薄情なやつである。

しかし、ここらあたりはあまりこだわることもないと考えている。私たち日本人はこまめに連絡をとりあわないとすぐに疎遠になったような気になってしまうが、中国人はそうでもないようだ。

このことについて、新井一二三さんが「中国語はおもしろい」(講談社現代新書)の中で、こんな風に書いている。


「友だちなら会う必要がない」とは、ちょっと冷たく感じられる表現だが、逆に言うと、会わなくても友人関係は続いているということ。彼らからすると、しばらく会わないと友人でなくなるかのような日本人の方が冷たいことになる。


新井さんのこの本の内容は合点の行かないところがたくさんあるが、この意見には同意したいと思う。

確かにスタンレーなんかも年に1回しか会わず、普段はメールもろくにやり取りしないのに、行く度にほんとうによくしてくれる。横のつながりを重視する中国人は友人関係を大切にするのだ。

だから、いつかバンクーバーで肥婆鄺に会えば、きっとまるで昨日まで一緒に遊んでいたかのように親しく盛り上がって話すことができるだろう。そして精いっぱい歓待してくれるのに違いないのである。多分。

海ちゃん(5)

2005-10-01 21:32:16 | Weblog
「仕事辞めて家にいるのに、どうして濱妹雇うの?」

と肥婆鄺に聞いてみた。そう大した家事もないだろうに無駄な話ではないか。

「BBの英語の勉強にもなるしね」

肥婆鄺はそう答えた。そして次に日本語でこう続けた。

「海チャン ワァ 移民シタイデスネ。濱妹 ワ 英語 ダカラ BBト私 ノ 練習 ニ ナリマス」

げっ、何と海ちゃんは一家を上げてカナダへ移民する計画を立てていたのである。

香港人の家庭でメイドとして雇われているフィリピン女性、いわゆる濱妹は雇用主である香港人家族たちとは英語で話をする。もちろんすごく上手というわけではないが、雇用主との意思疎通には事欠かない程度のレベル以上ではあるだろうし、そのあたりは派遣される前の選考段階で確認されているようだ。

で、BBとはベビー、つまり赤ちゃんのことである。香港人は赤ちゃんのことをよくそう呼ぶ。それが高じたからか、大きくなってからも阿Bと呼ばれているのもいたりする。

カナダに移民する準備として、海ちゃんは長男と肥婆鄺の英語学習のために濱妹を雇ったのだという。海ちゃんはそこまで緻密に計算しているのだった。だが、移民のことまでもくろんでいるとは予想もしなかった。

私たちにとって移民と肥婆鄺とはまったく結びつかなかったが、海ちゃんは肥婆鄺とは違う人種だった。私たちはそれまで肥婆鄺を通してだけ海ちゃんを見ていたが、海ちゃんの住んでいる世界には肥婆鄺とはまた異質のものもあったのであり、それは私たちには見えていなかったのである。

香港では97年の返還前後に移民熱が過熱し、移民をサポートするコンサルタント会社もたくさんできた。海ちゃん一家がどんな方法で移民の手続きをやっていったのか詳しいことは知らないが、ある時親子三人でイタリア旅行をした際の写真を見せてもらったことがある。

「イタリアでインタビューがあったんで、旅行を兼ねて行ったんだ」

海ちゃんはそこで撮った写真を見せてくれながら、わざわざイタリアへ行って移民のための面接をしたことを披露した。それは移民手続きの一環なのだった。

なぜカナダへの移民でイタリアまで行く必要があったのか、そのあたりはコンサルタント会社によるあの手この手を使っての移民しやすくするための手段だったようだが、詳しいことは聞かなかった。

もちろん突っ込んで聞けばいくらでも答えてくれただろうが、ベリンダや阿ジョーたちはさして興味も示さず、どちらかというとそっけない態度だったから、みんなでいる時には何となくその話題を出すのがためらわれた。

これは私たちが気を回しすぎたという可能性もある。去る人は去るし、のこる人は残る、と香港人たちはあっさりと割り切っていたのかもしれない。が、みんなが集まっていた時に移民の話で盛り上ることがなかったのは事実である。

「気ぃ使い性」の日本仔(やっぷんちゃい)としては雰囲気を壊さないことを第一にしてしまうのだったが、このことはもっとよく聞いておけばよかったと今になって後悔している。

カナダに移民するには様々な条件ががあるそうだ。それぞれの条件にポイントがつけられ、その合計がある一定を超えると移民の条件を満たしているとして移民申請ができる。

例えば、配偶者がいれば何点、親がいれば何点、兄弟で何点。それにカナダが必要としている職業があり、それに合致すれば何点。さらに経済移民というのがあって、幾ら以上のお金を持っていれば移民として認めてあげようというのもある。地獄の沙汰も金次第。移民になるのも金次第だ。

職業別の場合では、医者なんかとても良さそうに思えるが、ところが医者はもう必要なくて、看護婦やレントゲン技師が歓迎されていた。

それと警察官もあった。中国系移民が増えるに従い、それにともなう犯罪捜査のためには中国語ができ、その文化や生活習慣を知っている中国系の警察官の方が中国系社会の捜査活動がやりやすいことから警察官が必要になったのだろう。

そうして、海ちゃん一家はマンション転がしで大きくしたマンションを高値で売り抜け、それを資本に移民した。97年の返還後、アジア金融危機が引鉄となり香港の不動産バブルが破裂する直前のことだった。

海ちゃん、さすがである。

肥婆鄺はマダムに成り上がり、ついにカナダへの移民まで実現してしまった。これもすべて海ちゃんのおかげだ。海ちゃんとの結婚は肥婆鄺にとって、野球でいうなら九回二死代打逆転満塁サヨナラホームランではなかったろうか。


海ちゃん(4)

2005-09-29 17:31:24 | Weblog
海ちゃんは香港サイドの現在SOHOと呼ばれている一帯の近くでマージャン牌や象牙の細工物を売る商売をしている実家に住んでいたが、結婚後は香港仔の公営住宅に住んだ。

これはもともと海ちゃんのお父さんに所有権があったものだ。誰も使っていなかったが、住居不足の香港のことで、手放すのはもったいなくそのまま確保していたのを息子の新居にしたわけである。本当は政府に返さなくてはならないが、誰もそんなお人好しなことはしない。このあたりは日本の公営住宅でも同じことがあるだろう。

もちろん広さは1Kで、ベランダにトイレ兼シャワー室がある。トイレは洋式ではなく、和式と同じしゃがみ方式で、いわゆる「金かくし」がついていないやつだ。

で、余談だが、どうもこの「金かくし」というのは日本式にだけあるようで、他の国のにはついてない。スターフェリーのトイレを見たことがあればわかると思うが、これが一般に伝統的なアジア式トイレではないだろうか。私もマレーシアやタイなどのあちこちの安宿で経験した。日本式に慣れていると、あの金かくしのないぺたんと平面的な便器はどうも限りなく落ち着かない。

しかし、このあたりは二人は恵まれていたといえるだろう。安い家賃で、1Kとはいえ、二人だけで住めるのだ。しかも、小さいながらもベランダがあり、トイレも自分用である。

肥婆鄺の実家は1Kに11人が住み、その上トイレもその階のみんなが使う共同トイレなのであり、さらにベランダもない。1K式の公営住宅も、聞いてみると結構いろいろなランクがあり、古いものほど条件が悪いようだった。

現在でもまだまだ多くの人が1Kの公営アパートに住んではいるが、おそらく最近では1K式はもう建てられてはいないだろう。香港も経済発展のおかげで公営住宅もグレードアップしているのである。

結婚して、肥婆鄺は実家の悪条件から抜け出して二人きりで住める場所で甘い新婚生活を楽しめるようになったが、驚いたことに1年もたたないうちに今度は同じ香港仔に小さいながらも2LDKのマンションを買ってそこへ移ったのである。

私たちも呼ばれてその新築のマンションに行った。新しいだけに何もかもがきれいで、家具もすべて新品だった。窓から香港仔の海に浮かぶ珍寶(ジャンボ)レストランの派手なネオンサインの夜景が見えた。

香港は日本以上に部屋が狭いから、家具はコンパクトになるものが多い。テーブルも椅子も折りたたみ式である。あるいはえらく大きなアルミの円形の板などもあったりして、普段はどこかの隙間に押し込んであるが、大人数の食事の時はこれを転がしてきて、普段使う折たたみテーブルの上に置く。するとこれが立派な大型テーブルに変身するのだ。もっとも、これはレストランなんかでもボーイがころころ転がしているのを目にすることがよくあるが。

海ちゃんの新居のは伸縮自在型というか、伸ばすと倍くらいに広がるテーブルで、真中の切れ目をかくんとはずして広げ、上を一枚のビニール布で覆った。肥婆鄺は料理が得意ではないので、その日は打邊炉(だーぴんろー)、つまり鍋物だった。

食事中は食べかすや蝦や蟹の殻などはそのままテーブルの上に吐き出しておく、食べ終わったら食器やコンロ、鍋をどけると、使い終えた紙皿や紙コップなどもすべてそのままにし、ビニール布の四隅をえいやっとまとめて結びつけて終わりである。ビニール布は今度はゴミ袋に早変わりするのだ。

実に合理的というか、簡単というか、しかしあんまり環境のこととかは考えないのが香港式なのである。

「鄺さんも出世したんやねぇ」

老姑婆はしみじみと言った。

「この前のアパートおぼえてる?」

老姑婆がいうのは家のことだけではなかった。前の公営アパートに行った時、料理した野菜の細かいかすなどは、ベランダのトイレにざっと流したりしたものだった。

日本人は異様にきれい好きだといわれるが、あれにはまいった。確かにゴミくずだし、流してしまえば同じことなのだが、ゴミとはいえ口に入れる種類のものをトイレに流すというのはどうにも感覚的に抵抗がある。

あれに較べると、今度は生活方式でも格段に清潔で上品になっている。肥婆鄺は海ちゃんと結婚してから着実に生活面でもステップアップしているのだった。

しかも、である。その後すぐに長男が生まれ、またまた驚いたことにそこを買ってから2年も経たないうちにもう一度引越しをしたのだ。今度は香港仔の向かいにある鴨[月利]洲(あっぷれいちゃう)に3LDKのそれまでの倍近くの広さのマンションを買った。

当時、97年の香港返還を前に中国からも盛んに資本投資が行われており、それが不動産の方へどんどん流れ込んでいたが、そこへ香港庶民も加わり争ってマンション取得に動いていたため、不動産バブルが起り、値段もどんどんつりあがっていた。このため香港のいたるところが開発に継ぐ開発をしていた。

肥婆鄺の弟が不動産屋をしてはいたが、これはやはり海ちゃんの選択と決断だったと思う。海ちゃんはバブルの流れに乗って「マンションころがし」に打って出たのである。

しかし、いくら値段が倍倍ゲームで上がっているといっても、買い換えには資金が必要だろう。自分のマンションがどんなに高く売れても、次に大きなのを買えばそこはもっと高いのだ。そのあたりの負担は大丈夫なのか、と私たちは友人としてかなり心配になった。というのも、肥婆鄺は長男の誕生を機に仕事をやめたのでその収入がなくなってしまうからだ。

ところが、である。あろうことか、今度は濱妹(ぱんむい)、つまりフィリピン人のメイドまで雇ってしまった。

私たちがそのマンションに招待された時、その濱妹は肥婆鄺のことをこう呼ぶのだった。

「マダム」

それを聞いて、私たちはうへっとのけぞってしまった。肥婆鄺はとうとうマダムにまで上り詰めてしまったのだ。

そのマンションは前のものより広いばかりかもっと豪華だった。マンションの入口を入ったところのエレベーターホールなどもまるでホテルか何かのように豪華絢爛な装飾が施されており、それを見た時私は逆に少し不安を感じた。その華美さは正しくバブルの象徴以外の何物でもないように私の目には映った。

鴨[月利]洲のような所で宅地開発をして売り出すには、たとえそれが張りぼてのように上っ面の化粧に過ぎないとしても、高級感を前面にして顧客を引き付けるという戦略が必要だったのだろう。そうすれば値段も吊り上げることができる。

だが、香港人は名より実を取る人種だったはずだ。それがバスに乗り遅れまいと、家を買うことに血眼になって、現実が見えなくなっているかのようだった。それは97年の香港返還を前に社会全体が浮き足立っていたこととも少しは関係があるともいえるだろうか。

いったい海ちゃんはどこからそんな金をひねり出しているのだろうか。株屋としての実力でどんどん稼ぎが膨らんでいるのかもしれないが、しかし、まさかインサイダー取引などやばい橋を渡ってるのではないだろうな、と心配は増すばかりである。

大丈夫なのか、海ちゃん。

しかし、私たちの心配をよそに海ちゃん一家はがんがん前進していくのだった。

海ちゃん(3)

2005-09-26 10:18:27 | Weblog
「彼ハ阿海(ア・ホイ)ト言イマスネ。日本語ハ何デスカ」

海ちゃんの名前を聞いた時、肥婆鄺はそう聞いてきた。

「うーん、海(ホイ)はうみだからねぇ・・・。阿は、ちゃん、かなぁ・・・。うみちゃん、か。日本語に訳すならね」

肥婆鄺は満足げににっこり笑った。「うみちゃん」という語感がいたく気に入った様子である。

「ウミチャン・・・、ウミチャン デスネエ」

それから、私たち三人の間では「海ちゃん」と呼ぶようになったのである。

しかし、考えてみれば、これでよかったのである。肥婆鄺は日本に留学するより、伴侶を見つけて結婚する方がいいにきまっている。肥婆鄺はベリンダとは違い、仕事一途に生きるタイプの人間ではないからだ。

ベリンダは男など眼中になく、ただひたすら仕事にはげみ、キャリアアップこそが人生といった生き方だ。会社では部下を叱咤し、時には上司とぶつかり、外人のバイヤーとは丁々発止でやりあい、そこに生きがいと喜びを見出しているが、それはとても肥婆鄺の柄ではない。

悪い意味ではなくて、人には分相応というものがある。こんなことを言うと年寄りじみて聞こえるが、自分の身の丈にあった生活をするのが一番ではあるだろう。

どうだまくらかしたのか、ということはさておいて、肥婆鄺が海ちゃんを獲得したのは肥婆鄺にとっては最良の選択だった。待てば海路の日和あり、天は肥婆鄺を見放さなかったのである。

海ちゃんは気立てのいい男だった。それによく気がつく、翌年新婚旅行で大阪に来たのだが、彼らが去った後老姑婆の母親はつくづく言ったものである。

「あんないい人が、なんで鄺さんなんかと結婚したんやろか」

そんな風に言うと、まるで肥婆鄺が人でなしみたいに聞こえるが、もちろん肥婆鄺とて決して悪い人間ではない。ここは友人として声を大にして言っておかねばならない。

それもこれも海ちゃんがあまりにも若い上にできた人間であるため相対的に肥婆鄺の評価が下がってしまうのである。つれあいの選択に関しては肥婆鄺はかなり分不相応なのだった。

海ちゃんは、あれは株のトレーダーというのだろうか、証券会社に勤めて毎日株の売り買いをするのが仕事だった。だから、極めて物知りで何でもよく知っていた。株というのは社会の動きを敏感に反映するから情報が命といったところがある。

香港は今では日本人は3ヶ月間ならビザなしで滞在できるが、ずっと以前は8日間だった。それを越える場合一旦国外へ出るか、移民局(イミグレーション)でビザを申請するかどちらかをしなければならなかった。

このため、日帰りで深圳へ行ったりしたこともあったが、それも結構面倒くさいし、第一私たちは何度も行くほど大陸に興味は持っていない。

それである日の夜、一緒に食事をしていた時、私がふと明日あたり移民局へ行ってビザを申請するか、と言った。すると、海ちゃんが間髪を入れず言った。

「えっ?日本人はこの10月くらいから3ヶ月間ならビザは要らなくなったはずだよ」

「えーっ!!ほんとう?」

調べてみると、やはりそうなっていた。あの時海ちゃんが教えてくれなければ、翌日あたりのこのこと湾仔の移民局へ出かけていたところだ。海ちゃんは日本人以上に日本人関係の情報に詳しいのである。

株屋としての海ちゃんの能力がどうなのか、私は具体的には知らないが、結構腕のいい方ではないかと考えている。

その根拠としてだが、実はこんなことがあった。

ある日あれは柴湾にある阿ジョーの家にお呼ばれで行った時のことだ。

その頃海ちゃんと肥婆鄺はもう長男が生れていて、そのため海ちゃんたちは自家用車を買い、車を運転して来ていた。

食事が終わっての帰り、マンションの下に下りてみると、駐車している海ちゃんの車の前に蓋をするように車が停めてあり、海ちゃんの車のナンバープレートが蹴られたらしく歪んでいた。

そこでは花壇をバックに横一列に車が並んでいて、左右両隣も車、前にも車で、完全に囲まれている。前の車をどかさないと出て行けないのだ。

これはいたずらではなく、海ちゃんが他人の家の車位(ちぇーわい)、つまり駐車スペースに停めたからだ。というのも阿ジョーが、そこはかなり遅くならないと帰ってこないのでそこに停めれば、と言ったのだ。

そして持ち主が帰ってみると誰か他人の車が入っていて自分の車が停められない。で、怒ってこんなことをしたらしい。

いったいどうしよう。どこの家の車位かわからないし、仮にわかったとしてもその家を訪ねればひと悶着あるだろう。私たちは青くなった。

ところが、海ちゃんといえば、慌てず騒がず腕組みをしてしばらくあたりを見回していた。それからひとりで頷くと、落ち着いた声で言った。

「みんな車に乗って」

「えっ?どうすんの?」

赤ちゃんを抱いた肥婆鄺が怪訝な声で聞いた。

「いいから、乗って乗って」

私たちは合点がいかないまま車に乗り込んだ。赤ちゃんを抱いた肥婆鄺が助手席に座り、私と老姑婆は後部座席に乗った。

海ちゃんはエンジンをかけると、振り向いて助手席の後ろに手をかけ、がっと車をバックさせ、急ハンドルを切った。車は後ろの花壇に左側半分を乗り上げ、車体を斜めにしたまま、猛スピードで花壇の潅木をバキバキっとなぎ倒しながらバックで突進した。車体の振動に私たちは必死に車にしがみついていた。

車はあっという間に花壇と車列を抜けマンションの通路に出た。海ちゃんは即座にギアを入れ替え、ハンドルを切り、今度は前に向かってアクセルを吹かした。タイヤのきしむ音だけを残して、私たちの車は瞬時に街灯の明かりを抜け、闇の中に遁走した。

あっぱれ、である。ことに挑むに海ちゃんは勇猛果敢だった。

株の売り買いなどは、突き詰めたところギャンブルだという。理屈だけで割り切れる世界ではないし、もしそうなら誰でも金持ちになれるだろう。

そこで必要なのは、読み、勘、決断なのだ。海ちゃんはその三者を兼ね備えていると私は知った。

周囲の状況を読み、抜群の勘でその中の最良の選択をし、瞬間的に決断して実行する。あの駐車場事件で私は海ちゃんの素質を見たのだった。

海ちゃん(2)

2005-09-23 14:59:35 | Weblog
そうして、肥婆鄺も三十路を越え、自分の行く末を考えるようになると段々と不安になってきたらしい。この調子だと結婚の見通しも立たない。かといってお金もないし、ひとりで生きていけるような特殊な技能や資格があるわけでもない。先を考えればひたすら暗くなるのは無理もない。

そんなある時、突然長い手紙がきた。実はいろいろ考えた末、日本に留学して日本語を極めたいと思う。ついては語学学校のこととか留学の件でサポートしてはもらえまいか、ということである。

その年のゴールデンウィークに肥婆鄺はひとりで大阪に遊びに来て、我が家に一週間ばかり泊まっていった。私たちとしても借りを返す番であり、あちこちとつれ回って過ごしたが、それはそれで楽しい日々だった。

それは肥婆鄺にとってもそうだったのだろう。だから、彼女も自分が精神的に袋小路に入って煮詰まっていた時に、私たちのことを思い出し、そこに活路を見出そうとしたのに違いない。

義を見てせざるは勇無きなり、という。私と老姑婆はこの際長年の友情のためにひと肌脱ぐ決心をした。

すでに何年も付き合いがあり、気心も知れているから保証人になるのに何の抵抗もない。こっちに来た当座は慣れるまでしばらく我が家に住めばいいだろう。もしそれでお互い支障がなければずっと住んでいたってかまわないとまで考えた。

私は、まっかせなさい、大船に乗った気持で安心してよろしい、と返信の手紙を書き、ついては委細面談、この冬香港に行った時に善後策を詳しく相談しようではないか、と付け加えた。

クリスマスになる2ヶ月ほど前のことだった。

肥婆鄺からの便りはそれ以後なかったが、私と老姑婆はあちこち問い合わせたりして、語学留学の準備に備えた。

そこへ「海ちゃん」が登場したのである。

「へへへ、私の友達」

照れ笑いを浮かべながら肥婆鄺は握った手を離そうともせずにぬけぬけとそう言った。

友達ったって、その様子はどう見ても普通のお友達のそれではない。恋人同士のそれである。つまりラブラブなのだ。

海ちゃんは骨格のがっしりした若者だった。そう、若者なのである。肥婆鄺より八つも若いのだ。しかも顔だって美形ではないが、まず普通である。いったいどうしてこんなことが・・・。

「ありえねぇぇええー!!」

と私と老姑婆が衝撃を受けたのは、留学するって言うてたんとちゃうん、というだけでなく、どうやってだましたのか、若くしかも醜男でもない海ちゃんと手をつないでいたからだ。世の中とはほんとうに予測不可能なことが起るものである。

肥婆鄺の話によると、海ちゃんとは友達の集まりで偶然知り合ったとのことである。だからといって海ちゃんが肥婆鄺のどこをなぜ気に入ったのかはやはり謎だが、とにかく二人のお付き合いが始まり、二人は即恋人同士となった。

日本留学の件について、肥婆鄺はもう何も言わなかった。まるでそんなことはなかったかのようにきれいさっぱり忘れているようだったから、私たちもその話は蒸し返さなかった。

「しかしなぁ、何か一言あってしかるべきではないだろーか。日本人やったら、ごめんね、かくかくしかじかで・・・とか言うで」

ちょっと不満げな私に老姑婆はあっさりと言った。

「まぁ、悪気はないんやし。中国人らしいやん」

そこで私はある小話を思い出した。それはこういう話である。

「日本人は本音を言わないから、何を考えているのかわからなくて困る。その点中国人は常に本音で話をする。ただ、困るのはその本音がころころ変わることだ」

いや、実際あの時は肥婆鄺も本気だったのである。ただ、海ちゃんが現れて状況がころっと変わってしまうと、まるで上書きされた録音テープのように過去はきれいさっぱりと消去されてしまったのだ。

そういうことは都度都度経験した。この前言っていたことが、今度会うとひっくり返っている。で、そこを突くと、相手はびっくりするのである。

びっくりするとはいっても、それは後ろめたさとかではない。何を言ってるのか理解できないという風なびっくりなのだ。

あの時はそう思っていたからそう言った。でも、今はこう思ってるんだから当然これが正しいのだ、である。何でそれが問題になるのかわからん、ということなのである。

堂々と胸を張ってそう言われると、こちらとしても返す言葉がなくなるのである。人間開き直った方が強い。これは日本人も学ばなければならないと思う。

香港人は中国人だが、イギリス植民地であっただけにある面かなり英国式になっている。

例えばレディーファーストもそうだ。エレベーターやドアのところでは女性を先に通したりする。しかし、私は日本人でそんなことには無頓着だから、ドアが開くと、女性がいても自分がドアに近ければ先にさっさと入る。ひどい時には友人がドアを開けて待っていても、よっご苦労、とばかりにつれあいの老姑婆を差し置いて通ってしまい、

「大男人主義(だいらむやんちゅーいー)」(亭主関白)

と顰蹙を買ってしまうのだ。

当時はさだまさしの「関白宣言」が香港でも流行していて、日本人男性の亭主関白が喧伝されていたが、それを私は日本男児の代表として実践し証明してしまったわけである。

そんな訳で、自分の恋人ができると香港人は常に一緒に行動し、自分の友人関係の場所にも必ず連れて来る。さらに公衆の面前で結構べたべたする。このあたりの文化も西欧式のパターンだと思う。

そこで海ちゃんも肥婆鄺といつも一緒ということになり、自然と私たちの友達の輪の中に入ってしまったのだが、食事会をしている時も肥婆鄺とぴったりよりそうように座り、はたまた肩に手をかけたりする。そこへもってきて、肥婆鄺のことを、

「She is so beautiful」

などと臆面もなく言うのである。このあたりもまったくもって西欧式のやり方だ。また、肥婆鄺もそれを聞いて恥ずかしがるでもなく平然としているのはアジアの謙譲の美徳というものが香港から淘汰されつつあるという憂うべき現象を表している。

だって、肥婆鄺はもう32、3歳なのだ。いい年して浮かれるんじゃない、と喉元まで出かけた言葉を私たちはかろうじて飲み込むのだった。