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「頸部食道がん」闘病記 (鬼嫁yappiの日記)

夫が「頸部食道癌」になって8年。
苦しい時こそ明るく笑って!・・・奇跡の8
年間を綴っていきたいと思います。

はじめに・・・

夫が「頸部食道癌」と診断され8年。この間に20回にわたる手術・放射線治療・抗がん剤治療とフルコースの治療を行ってきました。残念ながら今の医療で出来ることはここまで。 これを機に今までの歩みを記憶が鮮明なうちに全て残しておこうと思い、このblogを立ち上げました。 また、新たなチャレンジの第一歩として、2010年年明け、「治験」を試みましたが、敢え無く失敗に終わり・・・・。 今は食事も摂れず、胃ろうから栄養剤の注入の毎日です。 そんな私達でも逞しく生きています。 私たちの経験や毎日の生活が、同じように頑張っておられる皆様の参考に、そして少しでも希望と励みになれば幸いです。 その日の日記は「リアル日記」として、また今までの軌跡については「回顧」として綴って行きたいと思います。  ご質問やご意見はお気軽にどうぞ。

1回目の術後・・・・

2010-11-12 22:46:03 | 回顧
2003年11月7日 
人生で初の手術体験。
13時間の大手術。
3日間のICU入り。



激動の数日間が経過、ようやく病棟に戻ってきた旦那。
病棟といってもまだ、ナースステーションの脇。
まだまだ、要注意人物です

意識が戻った旦那は、自分の体が思うように動かない事に、戸惑いと焦りを感じていたみたい。

まずは、喉に孔が空いているので、喋ろうとしても声が出ない・・・

まだ、尿管も入っているので動けない・・・

痰が絡んでも、喉に孔が空いているので、自分ではまだ出せない
(そのうちコツをつかめば、自分で出せるようになるんですが・・・・)
特にこの痰の吸引がつらいみたい。
痰を出したくなったら、ナースコールをして、看護師さんにカテーテルを使って吸引してもらいます。
喉の穴からカテーテルを挿入して吸引。
この時は、体を反り返して我慢してます。


喫煙者は痰がひどく出て、やっぱり苦しむ人が多いのだそう。看護師さんが教えてくれました。
旦那は若い頃から、病気になるまで約20年くらい喫煙していました。
(ちょっと年数が合いませんが・・・)
仕事のストレスもあってか、結構ヘビースモーカーだったような・・・・。
それも祟っているんでしょう・・・


おまけに咳したらまだまだ体中の傷口が痛い・・・。
意識がはっきりしてから、しばらく苦しんでました。

私も始めてのことで、どうしたらよいのかわからず、オロオロしてたような気がします。

初回手術/7年前の今日・・・・。

2010-11-07 23:02:01 | 回顧
2003年11月7日

7年前の今日は旦那の初の手術日です。
久々に《回顧》です。

9月末に病気が発覚。
K立がんセンターを紹介してもらってから、診察・即入院手続きを行って、約1ヶ月待ちようやく入院。
その後いろんな検査をして、やっとたどりついた手術でした。

旦那は、病気も入院も・・・ましてや手術も、全く初めての経験。
私も横浜からC県K市の病院の近くにレオパレスのアパートを借りて、2歳になったばかりの娘と共にしばらく生活する事としました。
娘の一時預かりをしてくれる保育園も探して、私も付き添いの準備完了です。


さて、手術は・・・というと、これがまたかなりの大手術です。
所要時間13時間。
朝、7時からオペ室へ入り、先生からの説明を聞いたのが夜の9時・・・。
長い1日でした。

この頃はまだ「甲状腺がん」と言われていた旦那。
私は見ることは出来ませんでしたが、腫瘍はかなり大きかったようです。

・甲状腺の亜全摘(2/3)
・気管壁の1部切除
・頸部食道~胸部上部食道の切除
・遊離空腸(小腸)移植
・左反回神経切除
・頸部リンパ節郭清
・気管開窓(気管孔設置)

これだけの手術を終えた旦那はICUに3日間入っていました。
術後初のICUでの面会では、顔面蒼白、生きているのかどうか?すら、見ただけではわからない。
血圧心拍モニター・心電図モニター、点滴、尿管、喉や鼻、いろんな所からたくさんの管が出ていて、私もかなりショック。
そんな状態から果たしてどれだけ回復するのか、かなり不安をに感じたのを覚えています。


旦那の手術の内容詳細です。

まず、旦那の腫瘍は頸部に存在。
食道がんでよく聞く、胸部食道の腫瘍ではないため、食道を切って胃とつないで胃を吊り上げる・・・という物ではありません。
その代わりに、頸部の食道を切除した部分に、開腹して小腸を切り食道へ移植する、という方法で手術は行われました。
ちょうど喉仏辺りから鎖骨のしたあたりまで約6~8センチほどでしょうか・・・。
首の周りを切り刻まれ、おまけにお腹も切られ・・・かなり大変なことに・・・。
そして、この小腸移植が大変らしく・・・。
小腸を移植した後、首の周りの血管を縫い合わせないといけない。これが顕微鏡を使って行う繊細な作業。そして、この血管が上手く縫合できなければ、血流不全がおこり、この小腸は壊死してしまうので再手術の必要がある・・・ということ。これはやってみないとわからない。

次に、反回神経といって、声を出す神経を片側切ってしまったので、声がれは必須。
でも声帯ごと取って声が出せなくなってしまうよりまだマシ。

極めつけは、気管壁を切除したため、喉に(ちょうど鎖骨の真ん中あたり)に孔を開けて気管と直結。
しばらくはここが空気の通り道となる。
そのため、この孔を塞ぐまでは空気が漏れてしまうので声にならない。
話すにはこの孔を指で押さえて話さねばならない・・・。
咳をしても痰はこの穴から出す。
そして、この孔は気管と直結しているので、水に浸かるとおぼれる・・・・。
肺に水が入ってしまうので、大変な事になるので、風呂も肩まで浸かれないということ・・・・。
乾燥させると肺炎に・・・。

術後に先生から話を聞き、じっくりわかると驚きの連続です。

が、13時間の大手術のお陰で、この時は手術は成功。
旦那の回復を待てば万々歳!!

ここから、何年も闘いが続くとは露知らず・・・・。
ホッとしたのでした。



がん告知から入院まで

2010-02-28 06:59:31 | 回顧
'93.10月から、私たちの生活は一変した。

旦那は、いつ入院の連絡が来てもいいように、会社ではある程度の引継ぎを行ったり、あまり責任のない仕事をおこなうことにした。これまで、娘が寝た頃帰ってきていた旦那は、お陰でずいぶん早い時間に帰宅するようになった。
フリーランスで働いている私の仕事は半年間担当を変更してもらい、どうしてもやらないといけない仕事のみ行う。

お陰で平日も家族3人で団欒の時間を持つことが可能に・・・。

時間に余裕が出来たので、ネットで病気についてそれはもうたくさん調べた。そのころは、blogもそんなになかったから、病院の病気についての説明を見たり、誰かのHPやその書き込みを見ながら勉強していった。

まずは、当時は甲状腺がんだと言われていたので、甲状腺がんについて、調べる。

と・・・“胃がんが殺人だとしたら、甲状腺がんは万引きのようなもの”
比較的、進行は遅く治りやすい、予後も良好。・・・というようなこと。

「そっかぁ、甲状腺がんは、進行も遅く、そこまで早く早く!!って焦らなくてもいいのか。」
旦那にも早速伝え、少し安堵した気持ちで過ごした。


また、自分の身の振り方も考えないと・・・。
2歳の娘を連れて病院をウロウロはできない。
博多の母達に来てもらうにしても入院の目処が立たないとお願いできないし、来てもらったとしてもずっと娘と二人で自宅においておくわけにも行かないから、やっぱり私は行き来することになる・・・。
でも首都高を使ってスイスイで1時間半、混んでると3時間の道のりを毎日通うわけにもいかない。(鬼嫁自分の体が大切

近くのホテルを探してみたり、家具付き家電付きアパート(レオパレス)を探してみたりした。
娘の一時預かりをしてくれそうな施設も探し、連絡もしてリストアップしたりした。

病院に付き添い者用の施設があったら・・・本当に助かるんだけどなぁ。

入院の連絡が来て入院してから、いつ手術になるのか?その後の回復期間がどのくらいなのか?全く目処が立たないし、予想もつかないから動きようがない。

その辺も改善できるととても介護者は助かる・・・。


とにかくこの頃は、情報収集しながら今か今かと入院連絡を待っていた頃です。

がんセンター受診 ('03.10月)

2010-01-10 23:06:29 | 回顧
2003年10月2日(木)

Y市民病院のT先生に書いていただいた紹介状と大きな写真類を持って、C県のK市へ。

長い時間待ってようやく診察室へ。

日焼けした健康的な顔色で、ちょっとカエル顔のH先生。声は優しそう。

「この先生が、T先生が言っていたH先生ね。今、油が乗っていてバリバリの先生かぁ・・・。この先生に旦那の命を預けるんだ・・・」などといろいろな思いが頭をよぎる。

先生が画像を見ながら触診。
「先生なら声は残せると言うことで、T先生から紹介していただきました。どうでしょう?」と言う私たち。

「間違いなく、腫瘍ですね。これは甲状腺がんでしょう。いくつか検査をして、またここに来てください。」
と言われ、確か、血液検査、CT検査、etc・・・を行い、また診察待合室へ。

その間、「すごいね。Y市民病院では別の日に検査なのに、今日のうちに今からすぐ検査できるんやねぇ~。それだけ設備がすごいんやろうね?」などと変な所に感心して気持ちを紛らわす。

診察室に呼ばれると、すでにパソコンで検査結果のデータが送られているらしく、検査結果を見ながら
「ここですね、手術で切除しましょう。入院してまたいくつか検査をして手術に入ります。正式には手術で腫瘍を切除した後、その組織を検査して見ないと確実なことは言えませんが、甲状腺がんでしょう。かなり大きいようですから、ひょっとしたら大きな手術になるかもしれません。声帯は残せます!

続いて、大きな手術になる場合の説明を受けたものの、その時は、先生が言われていることの意味が把握できていなかったのが事実。なんせ初めての経験。どういう手術があるのか?また専門用語の意味もさっぱり・??? ぽかんとしてて、先生が言われている言葉がなんとなく耳に残ったと言う感じ。

喉に穴が開くとか、しばらくは話せないとか・・・言ってたな。でも声帯は取らないって言われたし、なのに話せないってどういうこと

腫瘍が大きいという事、訳のわからない大きな手術への不安と、声は残せるという安心とが入り混じり、とても複雑な気持ちになる。でも、先生がはっきりと声帯は残せると言ってくれた事と、自分たちが戦う敵が判明したことで少し胸のつかえが取れたような気もした。

しかし、その安堵もつかの間・・・。
入院手続きに行くと、予定では入院は大体1ヶ月半くらい先だということ・・・・。

「なんでぇ??? T先生から早く切除したほうがいいと言われ、大慌てで来たのに、1ヵ月半も待つなんて、どういうこと?どんどん進行していって、待っている間にどうしようもなくなってしまったどうすればいいのぉ?」

担当の看護師さんに、何かの間違いでは?と伝えると、
「ここは皆さん同じ病気で入院される方ばかりなんです。順番に入院していただいてるんです。誰かを先にという事はやっていないんですよ。よほど、呼吸困難など緊急事態になってしまったら別ですが・・・。」
と落ち着いて言われ、

「なるほど。そうでした・・。旦那の癌だけが進行しているわけではない。みんな同じように進行しているんだ。待つしかない。これも運命ってやつか・・・。」と妙に納得してしまった。

これから先は、病院から連絡が来るのを今か今かと待ちながら、落ち着かない日々が始まるのであった・・・。

ガン告知('03.9月)

2010-01-04 01:19:39 | 回顧
2003年9月30日(火)

その日、病院での検査が終わり、帰宅した旦那は、頭痛がひどいと言って寝こんでいた。

私は「次はまた木曜日に休みもらわないとなぁ・・」と思いながら夕飯の準備をしていた。
その時、電話がなった。

Y市民病院のT先生からだった。

「今日の検査結果が出ました。早いほうがいいと思い、連絡を入れています。」

「ご主人の腫瘍は悪性でした。甲状腺のガンのようです。出来るだけ早く腫瘍を切除する手術が必要です。ただ、私が手術するとなると声帯ごと取る技術しか持っていません。そうなると声を出すことが出来なくなります。」

「まだ、ご主人はお若く仕事にも支障があるでしょうから、声がなくなるというのは避けたいと思います。声を残して、この腫瘍を取れる技術を持っている医師がC県のK市にいます。遠いですが、そちらに行かれますか?」

電話で、いきなりそう言われ・・・。

「えっと・・・、主人の腫瘍は悪性のガンで急いで手術をしないといけないってことですか?声が出なくなるって、喋れなくなるってことですよね・・・?」

私は先生が伝えてくださったことを反復して確認しながら、立っていられなくなり床にぺたっと座り込んでしまった。

T先生はさらに

「KがんセンターのH病院に、私の後輩で、この手術では日本の中でも片手に入るくらいの腕を持った信頼できる医者がいます。彼なら声を残せる技術を持っています。」

「彼の外来はちょうど明後日の木曜日です。明日紹介状を取りに来て明後日彼の診察を受けられるといいと思うのですが・・・。どうされますか?」

私の頭の中には「ガン・・」「声がなくなる・・・」という言葉がぐるぐる回っていると同時に心臓が激しく打ち、脈がかなり早くなっているのがわかった。何も考えることはできない・・・でも、「声は残さなくっちゃ!」と強く思い、

「K市に行ってみます。よろしくお願いいたします。」

と、旦那に伝える前に勝手に決めてしまっていた。

先生との電話を切った後、会話の記憶をたどりながら、今の電話は夢??と何回も思ってみた。

夢でないことが確認できると、「どういうこと?!」「何で旦那が?」「毎日真面目に仕事して、家族想いの人が何でそんな目に会わないといけないの?」・・・・
自分の頭の中で納得できず、受け入れられずにしばらく呆然としていた。まだ2才になったばかりの娘もいる。ボロボロと涙が出てくる。

時間が経ち、少しずつ落ち着いてきて、「さて、私は旦那に何て伝えればいいのか・・・?」今度はそれをしばらく考える。
でも、どうせ隠し事は出来ない。そのままを少しずつ伝えることにしよう。

寝ている旦那の部屋に行き、
「今、T先生から電話があったよ。C県のK市って所にある病院に行ってもう1回診てもらう事になった。」という私に、

「結果が出たって?悪かったっちゃろ?」と旦那。

「うん、早く手術して取った方がいいって。その手術が出来るのがK市の病院の先生で、今度木曜にその先生が外来の診察されるって。木曜に行くことにしたよ。」

そっか、ガンか・・・・。」

「T先生は何で手術できんと?」

「T先生は喉ごと取る技術しか持ってないって。そしたら喋れんくなるけん、仕事とか大変やろうって。声帯を残せる技術を持っとう先生をT先生が紹介してくれるって。やけん、そこに行くことにしたよ。いいやろぅ?」

・・・・という感じで淡々とさっきの会話の内容を伝えていく。

周りにもガンを患っている知り合いがいない。
この頃はまだ「ガン」=「死」というイメージが強く、私はどうしてもそのイメージが頭が離れず、1人になるとどうしても涙が出てきた。聞いたことはないけど、旦那もそうだったんじゃないかな?・・・とにかく私達のショックは大きかった・・・。



でも、今は声を大にして皆さんに伝えたい。
ガンでは死なない!死んでたまるか!

だから泣き続けないで。
ひとしきり泣いたら、ガンと闘う道を一生懸命探しましょう。そして、1日1日に感謝して充実した日々を過ごしましょう。