水割り3杯の雑談

毎日、夕方6時を過ぎる頃、台所のテーブルで書いていたエッセイをブログに。足元にはエサをねだる愛猫が。私は68歳。

ぼんやり

2008-03-09 22:05:08 | Weblog
目が覚めると8時だった。11時間の睡眠は何年ぶりかのことだ。日曜の朝は5時45分からのNHKテレビ『名曲アルバム』を観るのだが、そのころは競馬の夢でも見ていたのだろう。 『名曲~』は、クラシック音楽を5分間だけ流すのだが、同時に映るヨーッロッパの風景がいい。自然の景色もいいが、私が好きなのは建造物だ。建物が映ると「いま、この窓の中にはどんな人が生活しているのだろう」と思ってしまう。 作曲家の生家が保存されていて、その一室に古いピアノが残っていたりする。とにかく、私は5分間、床の中で「ぼんやり」とする。 「ぼんやり」にはいくつかの種類(たとえば、何か別の事に気をとられ、肝腎のことを忘れてしまうといったこと)があると思うが、この場合の「ぼんやり」は系列で言えば「うっとり」である。 先日、アンコールワットへ旅行してきた妹のFAXに、「その美しさと巨きさに感動した」とあったが、これもまた「うっとり系のぼんやり」であるだろう。  「勝てば世の中ナンボか明るくなるぞ」と応援していた高橋尚子は敗れたが、完走に拍手したい。 中京競馬で700万馬券が出たそうだが、そういうのを当てて「ぼんやり」してみたい。 『春宵一刻価千金』というのも、「ぼんやり」を讃える語かと思うが、違うかな? 明朝は、せめて6時には目覚めよう。

メタボ健診

2008-03-09 21:58:26 | Weblog
3月7日付の日経新聞夕刊の『波音』の欄に、「メタボ健診の義務化は、国家の仕事か。ウエストの寸法が、男性は85センチ以上、女性は90センチ以上なんて数字はどこからきたのか。まさに愚挙である」という文があるが、その通りだと思う。 人間の体格(骨組み)、体型(丸いか細長いかなど)は百人百様であり、「自分のソレに満足しているかどうか」も、すべては個人の問題である筈だ。 具体的に言うと、次の健診で、医師から「メタボですね」と注意されても、私は聞き流すだろうし、ドクターもまたそれ以上のことは言わないだろう。つまりは、85センチ云々のことは(よほど神経質な医師にかからない限り)、笑って通りすぎるレベルでしなないのだから、愚挙と言われても当然であろう。  女性は90センチ以上 の方は、問題がありそうだ。つまり、「アタシは92センチで恥ずかしいから、今年は健診やめておこう」というケースが増えるのではないか。そのことで、やや太めな娘さんの他の病気が見逃されたりすることも、おおいに予想できる。 世は「痩せ願望時代」なのだろうか。 私は、森公美子さんのファンなので、彼女に痩せられると困ってしまう。そしてもう1ツ、頭の良い方に教わりたいのだが、「ナントカダイエット法」で体重が80キロから60キロに減ったとき、その差の20キロはどこへ消えたのかということだ。 まさか啄木の歌にあるような『空に吸はれる』のではないと思うけれど。

カジノ 再び

2008-03-09 21:51:23 | Weblog
近々、国会議員の有志が集まって、カジノ議連(どうすれば日本で開設できるかを考える)を作るそうだ。 カジノに関しては、数年前に、石原都知事が提唱し、やがて「難しそうだ」という判断となったようだが、そのとき、「東京がダメなら、熱海ではどうか」という意見があって、もちろん、その方がいいだろう。第一に、山を背負い、前面には海が広がるという地形が歓楽街的であり、第二に既存のホテルを改造・増築すれば大娯楽場に変わるものも少なくない筈だ。それに何よりも街の空気が、昔から、「客を迎えることに馴れている」ことが大きいと思う。  1晩100万円の部屋に泊まり、一夜に何千万をゲームで失っても、どうということもない世界の金持ち(ハマコー先生の5億円を思い出す)が、そこで遊んでくれるのである。 日本国は公金(おかみ)しかギャンブルが許されていないし、しかも、そのテラ銭(天引き)は2割5分だから、カジオンの収入も社会福祉に役立つだろう。 それよりも、ここのところ、世の中、停滞気味ではないか。 福田首相も小沢代表も、景気上昇策にアイデアがないのか、メッセージのメの字も出ない。 こういう時に声を出すのが政治家ではないのか、とボヤイても仕方がない。 カジノとは比較にならぬが、せめて、貧者の1打として、国営ギャンブルである競馬に参加しよう。

酒と食事

2008-03-09 21:44:55 | Weblog
サングラスの常用。ミュージカルが嫌い(どこが面白いのかわからない)。グラスやカップなどを持つときに小指をたてる女性を見ると殴りたくなる・・・。タモリ氏と私は意見が合うことが多いが、「酒と食事は別」というのも同じ考えであり、「時として食事は酒の邪魔、酒は食事の邪魔」(タモリ氏の言)にも賛成だ。 たとえば、酒の卓に鰻重があったとする。私は鰻の白焼き(もちろんワサビ醤油)で呑むのが大好きだが、まぁ蒲焼でもいい。しかし、その下のごはんは不必要(邪魔)なのだ。だから、鰻屋で重箱を注文することはないが、困るのはどこかの家に招かれて、それがでてきたときで、二度の思い出がある。まさか鰻だけ食べて土台を残すわけにはいかないから、結局は、なんとか理由をつけて手をつけず、その家の奥様に(おみやげ用に)包んでいただいたりした(このことは握り鮨の例も何度かあった)。とにかく私は、アルコールと飯粒が同時に胃の中へ入っていくのが嫌いなのだ。 「チーズとフランスパンをかじりながらワインを呑むのが最高」という、4ツ年上の先輩がいるが、人生いろいろ酒食もいろいろのようだ。  「酒と食事は別」の典型は、呑んだ後のラーメンだろう。 もちろん60を過ぎてからは無理で、若き日の思い出でしかないが、あの「酔った後の食事」はなんとも旨かった。 もちろん中華店ではなく屋台のものに限る。