水割り3杯の雑談

毎日、夕方6時を過ぎる頃、台所のテーブルで書いていたエッセイをブログに。足元にはエサをねだる愛猫が。私は68歳。

マッサージ

2008-12-31 08:11:37 | Weblog
新丸子に住んでいた頃は、銭湯で流し(兼5分ほどの肩もみ)を頼んでいた。 駅の近くにあったマッサージ院へ行くのは年に二度ほどで、半盲の怪力青年に揉まれると、必ず翌日に、もみ返しが来た。つまり、私は20歳代の頃から肩こり体質であったわけだ。 暮れの30日は、大船の部長邸で徹夜麻雀を打った。夏休みやゴールデンウィーク、正月休みの部長荘での徹マンは年中行事だった。大晦日の朝に団地(バスで10分の距離にあった)の家に帰り、少し眠って、斜め向かいの棟に住む40歳代の女性にマッサージを頼んだ。暖地や新聞の広告で家人がみつけたのだが、上手な人で、しかし女性であるからか、力が弱かった。  「このごろは子供達が肩を叩いてくれるようになりましてね」と、友人が言った。お互いの子供が小学校の低学年であった頃だった。友人の喜びは充分にわかるし、私も子供達には嬉しい時間をもらっていた。ただし、その形態は少し違っていた。2人の子供に、背中、後脚部を、ちょうど麦踏みをするように踏ませた。肩を踏む方法はないかと考えていたが、家人が「肩車をしてあげればいいのよ」と言った。 20年ほど前になろうか、家人が、友人から、藤沢市大鋸の有川治療院を紹介されて、以後、お世話になっている。50歳台の半盲の男性であるが、技術は抜群、人柄も明るい。料金も60分3,300円であって、このごろ流行の10分1,200円、15分1,500円といったインスタントものではなく、ホンモノを期待される方にオススメする。その有川師に、「この快さは肩こり人間の特権で、“酔い覚めの水の旨さや下戸知らず” ですね」と話したら、「いや、やっぱりどこも凝らない方がいいですよ」と笑われた。

うどん と そば

2008-12-29 21:02:49 | Weblog
3年ほど目に我が家の担当だったM証券のA君は愛媛の出身で、高校時代は野球分で3番を打っていたそうだ。「練習の後のかき揚げうどんが旨いんです」と言っていた。私は、学生時代、学校帰りに何かを食べるとすればラーメンと決まっていたから、うどんに四国という土地柄を感じた。 新婚時代には、かき揚げうどんを休日によく食べた。貝柱と三つ葉の贅沢は出来ず、イカと豚コマとネギのワイルドなものだったが旨かった。ソバは上品に作り、うどんは大雑把に作るのが正しいのではないか。 年越しのソバは、エビ天は1尾だけ、おともにほうれん草を少々と、カマボコ1切れ、ゆずの香り付けといったあたりで、ソバもひとくちかヒタクチが除夜の鐘に合うだろう。 「正月に旨いのはカレーうどん」と、前に書いたが、ぜひお試しいただきたい。時間は、箱根駅伝が二宮・大磯間を走る頃とも書いたが、これは1月3日の午前10時過ぎになる。 呑み疲れ、おせち料理の飽き、朝寝坊・・・そういった条件が揃ったときこそ、カレーうどんの出番なのだ。 細かいことを言うようだが、やや厚みのある豚バラ肉と下仁田ネギがいい。  ○○亭の鍋焼きといったような高級店のうどん、ソバは記憶になく、私のうどん、ソバはすべて家庭の味だ。一度だけ有名店とやらのワンコそばを、友人に御馳走になったことがあるが、うっかり、「これ、どこが旨いの?」と訊きそうになった。

12月28日

2008-12-28 20:16:17 | Weblog
ペインクリニックの痛み止め(麻酔注射)の効果は(その時々で異なるが)だいたい60時間もつ。 それが過ぎると段々に「次の注射まであと何時間」と、時計を見ながら勘定するようになる。そのことを院長(カモカのおっちゃん)に「高校生のデートと同じ」と話したら、大笑いして、「お役に立てて何よりです」と応えたが、このクリニックの患者さん達には私と同じ思いの人が多いのではないか。その注射も30日の朝9時が最終回で、次は1月5日まで時間が空くから、ちょっとキビシいことになるだろう。 競馬は有馬記念で、昨年儲けさせてもらった『祭典画家(マツリダゴッホ)』と『大和緋色(ダイワスカーレット)』が1,2番人気だが、そうはなるまいと見て、ダイワから『名将寒村(メイショウサムソン)』と『銀幕英雄(スクリーンヒーロー)』を中心に、あとは10万馬券をコイン買いで3点。結果はまさかの形になったが、1年をトータルしてみれば、回収率100%を維持できたので、ありがとうと言いたい。 反対に、ありがとうでないのが、株だった。サブプライムもリーマンの破綻もあるが、この(特に9月以降)バーゲン相場の短期売買(マネーゲーム)に乗る元気が出なかった。少しは頭の刺激にと思って、川崎汽船を400円で仕込んでいるが、どうだろうか。 アラフォーとか、なんとか、今年の流行語には、私のような老人には理解不能のモノもあったし、今年の一文字も『変』だった。景気、元気、活気が戻ってくるまでに、どのぐらいの時間がかかるのか。それでも、私は来年の『変』に期待している。オバマ大統領だけではなく、日本政界にも『変』が起こるだろう。何年か後に、「あのときの、渡辺喜美氏の行動が“ヨシミの変”」となるときが来るか?

不況

2008-12-26 23:31:10 | Weblog
「A社に金型や材料を支給していませんか?」と、B社の担当者から電話が来る。「うん、あそこは溶接だけだから、支給材はない」と答え、「A社はヤバイの?」と訊くと「バッタをやっていますから、明日あたり夜逃げでしょう」となって、今度は私が、A社の倒産で迷惑がかかりそうな他の協力工場に電話する。この種の悪いニュースは100%近く的中する。片や夜逃げで儲ける連中もいた。A社はとにかく現金が欲しいから、金目のモノはすべてバッタ(投げ)売りする。親会社から無料支給されている鉄板も、その中に含まれる。後になって、バッタで買った人間と債権者の間にモンダイは起こるだろうが、そのときはドサクサ紛れである。 年末近くになると、倉庫の棚卸しが行われた。すべて目と手で数える現品主義だから、近所のオバサン達にバイトに来てもらう。ある日、仕事が終わって、オバサンの1人が私に「ウチのダンナも雇ってもらえないかしら?」と真面目な顔で言った。オバサンは40歳代の中ごろに見えるから、亭主もその辺の年齢だろうと想像して、「そういう話だったら、総務部に訊くといい」と教えたら、「長い間、小さなホテルの番頭みたいなことをやっていて、何の技術もないから、こういう(倉庫の手伝い)作業なら出来るのではないか」と、シンミリした声になった。私は、この棚卸し作業は年に2度、それもバイトに来てもらうのは、せいぜいが1週間である(つまり、正式に雇用されるのは難しい)と説明するのが辛かった。 テレビも新聞も不況のニュースばかりで、私は前述の昭和40年代の初め頃を思い出す。それでも、テレビが拾った街の声のヒトツにいいのがあった。たしか兵庫県の鎖(ネックレス用ではなく、船の錨に使うような)を製造する会社の社長さんで、「不況はイヤですねんけど、不況の話をするのは、もっとイヤなんですわ」。 その通りである、すみません。

ネクタイとマフラー

2008-12-26 23:23:31 | Weblog
キャバレーの福引でネクタイが当たった。朱色の無地で、自分には似合いそうもなく、会社の同僚の誰かにプレゼントしようと、コートのポケットに入れておいたら、「これ、バーか料理屋さんのオマケでしょ?」と、数日経って家人が(コートにブラシでもかけているときにみつけたのか)福引タイを持ってきた。なるほど、と私は感心した。家人はもちろん私の好みを知っているから、そういうネクタイは買わないのがわかる。そして私が、女性から(個人的に)ネクタイを贈られることのない人間であることもわかっている(盗む、拾うというのもない)。 そうやって計算してみて、酒場のオマケ(このオマケ、というのがい)という答えが導き出されたわけだ。 専業主婦時代の家人は、公団住宅の洋裁・編み物のサークルに入っていて、あるとき私は(自分でデザインして)マフラーを頼んだ。細い毛糸で地は黒色、片方(コートの衿から見える位置)に黄色の線、もう一方に赤色の線を2本ずつ入れるというもので、狙いはラグビージャージ的なスポーツルックだったが、これが当たって、何人もの男女に「それ、どこで買ったんですか?」と訊かれるほどだた。ある酒場でも私のマフラーが話題になった。若いホステスが「それ、輸入品ですか?」と言うと、50歳ぐらいのママさんが「違うわよ、これは奥さんの手編み。じゃなくて、器械編みよ。でも、こういう柄って流行るかもしれないわよ」と言った。女の目って凄いね、何でも見えちゃうんだ。家人製のマフラーは2年後、石津謙介作の赤と黒のマフラーに変わって、私の冬の愛用品となる。