又も天のあかずの扉に稲びかり
端的に言って、「写生」という言葉は俳句をつまらなくしているのではないか、と感じることがある。あるいは、もっと正確には、「写生」という言葉を使うところで思考停止することが、俳句批評あるいは俳句鑑賞をつまらなくしている、と言った方が良いか。
作句上の方法的理念としての「写生」に相当程度の実効性を認めることは、僕とてもやぶさかではない。「ものをよく見る」というのは、何か言葉を立ち上げてゆく第一段階としては、最も自然な営為のひとつのようにも感じられる。しかし、そうして出来上がった俳句について「写生の目が効いている」とか「これは写生を越えたところに存在している幻想的な世界の魅力を備えた句だ」とか言ってみても仕方がないのではないか。「ものをよく見る」ことと「よく見たものを言葉に置き換える」ことはまるで異なる操作であり、既にして「言葉に置き換えられた」結果として出てきている俳句作品を前にして、それが「ものをよく見る」ことによって作られたかどうかを判断することは容易ではないし、また、それを判断することに意味があるとも思えない(ものをよく見なくても秀句を得られることはあるだろうし)。
なのに、俳人は、よく「写生」ということを云々する。なぜ、写生によって作られた句、と、そうでない句、という弁別を(それが合っているにしろ間違っているにしろ)各々が判断を下せているのか。それは、俳句の中に使われている言葉から、詠まれている内容があり得ることかどうかということに「常識的判断」を下しているからではないか。
身の中のまつ暗がりの蛍狩
外套やこころの鳥は撃たれしまま
昼干潟天より垂れゐる手も暗し
滝は其の内部で火の粉消しながら
これらの句を写生句であると考える人は、あまり居ないであろう。「身の中の」「蛍狩」、「こころの鳥」、「天より垂れゐる手」、「滝」の内部の「火の粉」といったものが、常識的には存在しないものだから、それを見たと言い張ることができないのだ。
しかし、小川軽舟の言うように「俳句は抒情詩である」という考え方を認めるならば、俳人だって詩人である。言葉によって構築された世界に対して常識的判断を持ち込み、これは写生だとか幻想だとか無粋にも勝手な決め付けをして回ることが、詩人のやることであろうか?この自分たちが生きている世界というもののありようを言いとめるのにどんな言葉をもってすればいいのか。問題なのはその一点である。「写生」という本来は無邪気な方法論を表していたはずの言葉を、お題目のように大仰に批評の言葉に持ち込むこと自体、奇妙な話なのだ。
彼の俳句は、写生からは遠く隔たったところで成立しているように見える。しかし、だからと言って「彼の俳句は写生ではない、そしてその写生を越えたところに強みがあるのだ」などと鑑賞者が勝手に判断してしまうことは、彼の句の魅力を著しく損なうのではないか。「彼にはそのように見えているのだ」そう考えることが、僕には一番面白い。もちろん、それだって本当はどうだかわかりはしない。しかし、どうせそんなことは誰にも分からないのだ。だったら、一番面白い読み方をするのが鑑賞者として誠実な態度と言えるだろう。
「彼にはそのように見えているのだ」と思える(と言うより、そう思いたい)のは、彼の句に、一貫してながれる彼の視力を感じるからだ。つまり、底流にある価値観や感受性、思いの方向というものが共通している。一言で言えば、それは、おののき、ではないか。
身の中の蛍を狩ってしまったらあとに残るのは手に負えない自分の闇だけであろう。撃たれたままのこころの鳥は生臭く羽を広げて死んでゆき、何かをこの干潟という不安定な場所にもたらすために天から垂れてきた手は彼にしか見えていない。滝は内部の火の粉を「消しながら」何をやっているのだろう?彼の生きる彼の中の真実は、彼をおののかせてやまない。
秋かぜや耳を覆へば耳の声
夏草を抽けば穴よりけむりかな
夢にまた寒暮の土のひと握り
かへりみれば虚無は菫に未だ跼む
我在りていづこも暗き春の昼
「耳を覆へば耳の声」という言い回しには気障なものを感じて、最初に見たときには面白みを感じなかったが、もう一度見て「秋かぜ」か、と納得がいく。身を切られるような切ない風しか見えない世界に、彼はいるのだ。「穴よりけむりかな」の不穏さ、寒暮の土を握る夢の遠い切なさ。かと思えば、未練がましそうに菫に屈んだままの「虚無」が居たり、春の昼を「いづこも暗き」と思ってしまうのみならず、それは「我在りて」だからだ、と言ってしまわざるを得なかったり。彼の生きているこの地上の、これが彼に見えているものなのだ。
道よりも天は淋しき鳰
霞草けふは日輪北に病む
瞑ればまた泛かぶ星死ぬべきか
眼を天に上げてみても、身にしみるのは生きている寂しさ。「天は淋しき」という措辞そのものではなく、「道よりも」という比較が彼の定めなさを思わせる。北に病む日輪というのもすごいが、「瞑れば」の句には舌を巻く。目をつむってそこに星が浮かんでくる、というだけなら、ただロマンチックなだけだ。ここで注目すべきは「また」であろう。また泛かぶ星、というのは、目をつむればいつでもそこに存在している、自分の脳裏に焼き付いて離れない星なのだ。自分を統べるような、あるいは、自分を追い詰めるような、美しい星。そこから「死ぬべきか」というつぶやきはあまりに自然過ぎて、どきっとさせられる。
冒頭に挙げた句も、視線は天を見上げている。彼には見えるのだ、天の「あかずの扉」が。「又も」という言葉がいみじくも指し示す通り、その扉はこれまで一度も開いたことがなく、彼の頭上に言い知れぬ圧迫感を与えている。それを改めて見せてしまうから、稲びかりは恐ろしいのだ。
しかし、その扉がもしも開いてしまったなら、そこに彼は何を見るであろうか。
何もなく死は夕焼に諸手つく
何を見るか?冗談!そこには何もないのだ。彼が慣れ親しんだ、虚無すらも。
作者は河原枇杷男(1930-)
端的に言って、「写生」という言葉は俳句をつまらなくしているのではないか、と感じることがある。あるいは、もっと正確には、「写生」という言葉を使うところで思考停止することが、俳句批評あるいは俳句鑑賞をつまらなくしている、と言った方が良いか。
作句上の方法的理念としての「写生」に相当程度の実効性を認めることは、僕とてもやぶさかではない。「ものをよく見る」というのは、何か言葉を立ち上げてゆく第一段階としては、最も自然な営為のひとつのようにも感じられる。しかし、そうして出来上がった俳句について「写生の目が効いている」とか「これは写生を越えたところに存在している幻想的な世界の魅力を備えた句だ」とか言ってみても仕方がないのではないか。「ものをよく見る」ことと「よく見たものを言葉に置き換える」ことはまるで異なる操作であり、既にして「言葉に置き換えられた」結果として出てきている俳句作品を前にして、それが「ものをよく見る」ことによって作られたかどうかを判断することは容易ではないし、また、それを判断することに意味があるとも思えない(ものをよく見なくても秀句を得られることはあるだろうし)。
なのに、俳人は、よく「写生」ということを云々する。なぜ、写生によって作られた句、と、そうでない句、という弁別を(それが合っているにしろ間違っているにしろ)各々が判断を下せているのか。それは、俳句の中に使われている言葉から、詠まれている内容があり得ることかどうかということに「常識的判断」を下しているからではないか。
身の中のまつ暗がりの蛍狩
外套やこころの鳥は撃たれしまま
昼干潟天より垂れゐる手も暗し
滝は其の内部で火の粉消しながら
これらの句を写生句であると考える人は、あまり居ないであろう。「身の中の」「蛍狩」、「こころの鳥」、「天より垂れゐる手」、「滝」の内部の「火の粉」といったものが、常識的には存在しないものだから、それを見たと言い張ることができないのだ。
しかし、小川軽舟の言うように「俳句は抒情詩である」という考え方を認めるならば、俳人だって詩人である。言葉によって構築された世界に対して常識的判断を持ち込み、これは写生だとか幻想だとか無粋にも勝手な決め付けをして回ることが、詩人のやることであろうか?この自分たちが生きている世界というもののありようを言いとめるのにどんな言葉をもってすればいいのか。問題なのはその一点である。「写生」という本来は無邪気な方法論を表していたはずの言葉を、お題目のように大仰に批評の言葉に持ち込むこと自体、奇妙な話なのだ。
彼の俳句は、写生からは遠く隔たったところで成立しているように見える。しかし、だからと言って「彼の俳句は写生ではない、そしてその写生を越えたところに強みがあるのだ」などと鑑賞者が勝手に判断してしまうことは、彼の句の魅力を著しく損なうのではないか。「彼にはそのように見えているのだ」そう考えることが、僕には一番面白い。もちろん、それだって本当はどうだかわかりはしない。しかし、どうせそんなことは誰にも分からないのだ。だったら、一番面白い読み方をするのが鑑賞者として誠実な態度と言えるだろう。
「彼にはそのように見えているのだ」と思える(と言うより、そう思いたい)のは、彼の句に、一貫してながれる彼の視力を感じるからだ。つまり、底流にある価値観や感受性、思いの方向というものが共通している。一言で言えば、それは、おののき、ではないか。
身の中の蛍を狩ってしまったらあとに残るのは手に負えない自分の闇だけであろう。撃たれたままのこころの鳥は生臭く羽を広げて死んでゆき、何かをこの干潟という不安定な場所にもたらすために天から垂れてきた手は彼にしか見えていない。滝は内部の火の粉を「消しながら」何をやっているのだろう?彼の生きる彼の中の真実は、彼をおののかせてやまない。
秋かぜや耳を覆へば耳の声
夏草を抽けば穴よりけむりかな
夢にまた寒暮の土のひと握り
かへりみれば虚無は菫に未だ跼む
我在りていづこも暗き春の昼
「耳を覆へば耳の声」という言い回しには気障なものを感じて、最初に見たときには面白みを感じなかったが、もう一度見て「秋かぜ」か、と納得がいく。身を切られるような切ない風しか見えない世界に、彼はいるのだ。「穴よりけむりかな」の不穏さ、寒暮の土を握る夢の遠い切なさ。かと思えば、未練がましそうに菫に屈んだままの「虚無」が居たり、春の昼を「いづこも暗き」と思ってしまうのみならず、それは「我在りて」だからだ、と言ってしまわざるを得なかったり。彼の生きているこの地上の、これが彼に見えているものなのだ。
道よりも天は淋しき鳰
霞草けふは日輪北に病む
瞑ればまた泛かぶ星死ぬべきか
眼を天に上げてみても、身にしみるのは生きている寂しさ。「天は淋しき」という措辞そのものではなく、「道よりも」という比較が彼の定めなさを思わせる。北に病む日輪というのもすごいが、「瞑れば」の句には舌を巻く。目をつむってそこに星が浮かんでくる、というだけなら、ただロマンチックなだけだ。ここで注目すべきは「また」であろう。また泛かぶ星、というのは、目をつむればいつでもそこに存在している、自分の脳裏に焼き付いて離れない星なのだ。自分を統べるような、あるいは、自分を追い詰めるような、美しい星。そこから「死ぬべきか」というつぶやきはあまりに自然過ぎて、どきっとさせられる。
冒頭に挙げた句も、視線は天を見上げている。彼には見えるのだ、天の「あかずの扉」が。「又も」という言葉がいみじくも指し示す通り、その扉はこれまで一度も開いたことがなく、彼の頭上に言い知れぬ圧迫感を与えている。それを改めて見せてしまうから、稲びかりは恐ろしいのだ。
しかし、その扉がもしも開いてしまったなら、そこに彼は何を見るであろうか。
何もなく死は夕焼に諸手つく
何を見るか?冗談!そこには何もないのだ。彼が慣れ親しんだ、虚無すらも。
作者は河原枇杷男(1930-)