そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

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『朝の岸(沖積舎版)』を読む

2008-09-04 10:30:26 | Weblog
桜のころだな 孤島みたいな朝の勃起

 男子諸君には朝勃ちの経験が誰しもあると思う。性的興奮に見舞われたわけでもないのに、朝起きたときに勃起が生じている、あの現象である。生理学的にはどのようなメカニズムで起こるのか知らないが、足の付け根に鬱勃とマグマがたまっているような閉塞した生理には、閉口するばかりである。それを「孤島」に譬えることで詩にした手柄もさることながら、ここではむしろ、「桜のころだな」という切り出し方に注目したい。

 この、明確な主語を持たない半端な文の切片に、もしも仮想的に「あれは」「これは」「それは」「どれは」のうちから一つを選んで主語を補うとしたら、どれが適しているだろうか。「どれは」は論外として、「あれは」だとしたら「桜のころだったな」という過去形でなければ据わりが悪い。「これは桜のころだな」というのもおかしな話だ。この場合、今、現在が「桜のころ」ということになるが、「だな」という言葉には、「今、何かを見て桜のころだと気づいた」という感じがある。しかし、それなら、「ころ」なんて曖昧なぼかした言い回しではなく、「桜」と言い切るはずではないか。「桜時」という季語は、「だな」という気付きを許容するようには思えない。

 と、するならば、この片言の主語にふさわしいのは「それは」である。何故に、こんな瑣末な言葉遊びみたいなことに言を尽くしているかというと、「それは」が主語になるような言い回しが俳句に入り込むこと自体、僕にはとても奇妙に思えるからだ。「あれ」が表す、自分がこれまでに潜り抜けた過去でもなく、「これ」が表す、自分が今置かれている状況でもなく、彼が言おうとしていることは、自分とはすこしよそよそしい距離を持った「それ」のことなのである。この、世界との奇妙な距離感は、まだ世界が自分に向かって開かれていないという感覚をてこにして、童貞的な世界観に似てくる。

日暮バラ道 孤独は父のペニス色
鳥達 目覚める 花びらほどの肉の舌
盗品目録 これだ 貴女とナイフと野の焚火

 「ペニス」や「舌」といった肉体が再三描かれるにも関わらず、ここにあるのは孤独な官能のみで、性愛の高みやそれゆえの疲労、愛することの苦悶も愛されることの憂愁も、まるで登場しない。時折、愛情の対象となるような女性が出てきたかと思えば「ナイフ」や「野の焚火」と同列に、「盗品目録」の中にその名があるのみ。彼を理解し、愛情を注ぎ、性愛のあれこれを教え込んでくれる女性は、彼が生まれる以前からすでに奪われているのだ。彼が大人になって発見するのは、奪われた女性の存在と、丸腰でしらけた自分。彼女を奪い返す気力すら持ち合わせない。

 そもそも、なぜ「孤独」は、自分のペニスではなく、「父のペニス」の色をしているのか。「父」は、童貞ではない。自分とは違って。女を知るという贅沢で美しい行為があって初めて、日暮のバラのように甘美な、孤独という背徳が得られる。彼は孤独をも知らない。しかし、不幸なことに、自分が孤独を知らないことだけは知っているのだ。だから「孤独は父のペニス色」と、孤独について書くことができる。そして、そのように書き表したとき、自分の女を奪ったのは父であることは、もはや彼の中では自明のことになっている。

枯野行く母の名「つる」は妙だなあ
髪梳く母 失明以後も海に坐り
日常そのまま鶏絞めている おはよう、母

 童貞である彼は、エディプスコンプレックスをももてあまし、「母」はどうしても戯画化されてしまう。事実として女を知っているかどうかではなく、自分の中から世界に向かって扉を開け放っていない状況を童貞と呼ぶのなら、この句集における彼ほど、俳句において童貞である者はいないのではないか。

泥棒来る樅一本に鳥を刺し
喉刺す桜たそがれの水ひび割れ
釘の一本乳くさい樹下を刺す
身籠りの庭の木が刺す北極星
ひまわりへ乗せて瞳に指を刺す

 なぜ彼がこんなにも「刺す」という行為にこだわるのか。これらは、明らかに女を刺し貫けない彼の代償行為であって、そのぶんだけ身を焦がす煩悶やあせりをどろどろとこちらに伝えてしまう(これらの句は実際の景には成り得ない以上、「刺す」という言葉を反復して使用してしまうところに性的な暗喩を読みとるしかなくなってしまう。そこに読みを集中させてしまうところが、これらの句の弱点であると、むしろぼくは考えてもいるのだが)。これらの句の中では、「喉刺す桜」に構築された言語世界に、魅力的な絶望感がある。どこまで行っても、世界は彼に閉ざされているのだ。

口あけて死者来る朝の犬ふぐり
芭蕉よ秋は天文台の目が亡ぶ
痰状の桜水っぽい首群れる

 死者の虚無的な口の中に飲み込まれてゆく、かわいらしい朝の犬ふぐり。天文台の目が滅びたら、宇宙の広がりを身をもって感じることはできなくなる。その閉塞感。そして、日本的な美の象徴である桜を見てさえ、生理的に嫌悪を呼び覚ます痰に譬えざるを得ない、暗い視線。冒頭の句の「桜のころだな」の「桜」が、このように認識されたものなのだとしたら、この呟きは、まるで呪詛そのものである。世界はこれほどまでに冷たかったのだ。もう絶望である。

 しかし、この絶望の「孤島」の中で唯一、しずかに笑う者がある。彼本人だ。絶望の深淵に待っているのは、それを受け入れ、露悪的に表現することによって自らをさらしものにすることである、と、彼は気づいたのだ。それこそが、

桃、桜、レンゲ咲いた お世辞を言いました

 こんな気弱い彼の、自分を守る最後の手段だったのである。童貞的な自分をさらけ出すことでひとつの安心を得ようという行為。その結果としての俳句。そして皮肉なことに、それ自体の幼さをもってして、彼の童貞性は完成を見るのである。

ふいに駈けて ある日 砂丘の大きな拒否

 おさめられた俳句そのものは、やや大味で、賞頑に足るものは少ないが、そのような童貞性の記録として、この書は貴重とも言えよう。

 作者は坪内稔典(1944-)
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