この映画・本、よかったす-旅行記も!

最近上映されて良かった映画、以前見て心に残った映画、感銘をうけた本の自分流感想を。たまには旅行・山行記や愚痴も。

『キューバ訪問記』(その3)-ハバナ市内観光(後半)ー『革命博物館』(旧大統領府)を訪ね、革命の足跡を追う

2018-06-11 11:44:33 | 海外旅行
 
      【 2018年3月22日(木) 】 後半
         15:00レストランから市内へ-15:40革命博物館前-(革命博物館見学)-17:30一旦、ホテルに戻る
         -(軽く夕食)-20:30「トロピカーナ」ショーへ-24:30ホテルに戻る


 午前中は革命広場からヘミングウェイ博物館を回ったが、遅め昼食をとった後、いよいよ「革命博物館」に行く。

 ここは、1959年の革命の総仕上げの場所だ。ここいらで「キューバ革命」の話をしておかないと先に進めないだろう。

 初めにも書いたように、今回の旅行を思いたった最新の動機は映画『エルネスト』だった。ゲバラの名前はもうはるか昔から知っていた。そう、大学に入学したてのキャンパスで、その名前を聞いた。当時の大学キャンパスは「大管法闘争」で燃えていた。
 大学受験を控えた1968年に医学部改革を掲げた「東大紛争」が勃発し、その火が全国に波及して各地の大学で学園紛争が起こり、東大をはじめとした主要な大学の多くが、その年の入学試験を取りやめた。その煽りを受け、一浪して入学した私を待ち受けていた大学のキャンパスでは「全共闘」を名乗る学生をはじめ、様々なセクトの旗を掲げる学生が入り乱れていた。その中には大学の民主化を掲げるものや、かたや「大学解体」を叫ぶ者もいた。紛争が長引く中で、「暴力革命」を標榜する一団のなかに、自らの立場を権威づける象徴的な存在として「ゲバラ」の肖像をかかげその名前を叫ぶ者がいた。「ゲバラ」という名前の響きやその顔の表情からして、ゲバ棒を持つ彼らと合わせて《近寄ってはいけない》危ない存在として映っていた。

 学園紛争も下火になり、大学を卒業した後はそんな事があった事も忘れていた。何十年か過ぎ、ある日『モーターサイクル・ダイヤリー』という映画を見た。南米の医師を目指す青年が、その友人と南米をバイクで旅し、自己を発見していく映画だった。すぐには、《昔の記憶にあるゲバラ》とは結び付かなかった。
 その「ゲバラ」が、カストロと共に「キューバ革命」を起こした『チェ・ゲバラ』であると知ったのは、その後だった。

 「キューバ革命」が起こったのはまだ中学生にもなっていない時だったから、記憶の中には無い。世界の出来事にも物心がつき始めた頃、ケネディーとフルッショフが登場して「キューバ危機」というのがあったというのは、今思うような緊迫感もなしに憶えている。ほんとに世の中を振るい上がらせた《恐ろしい出来事》だったと知るのも、大分後になってからだ。


 カストロとゲバラが初めて出会ったのは、2度目の南米旅行を終えて医師の免許を取ってから、独裁者ペロンを避けて母国アルゼンチンを去りメキシコに渡った時だ。そのときカストロも、革命の狼煙を最初にあげた1953年の「モンカダ兵舎襲撃」が失敗して収監されたが、運よく特赦で解放された後、メキシコに亡命していた。フィデルの弟のラウルらによって引き合わされた二人は意気投合し、キューバに向かうことになる。
 
                               
                                        【 カミーロとゲバラ 】

 1956年、「グランマ号」でキューバに上陸したのは、島の東方で、上陸するや否や、政府軍に襲われ81人のメンバーの大半が失われ、残ったのはフィデルや弟のラウル・カストロとゲバラを含むたった12人だったという。険しい山の中でゲリラ活動をしつつ農民を味方につけ徐々に勢力を拡大していく。転機は1958年に来た。勢力を拡大しながら西に進み、12月末にはサンタクララを攻略する。もうハバナは目と鼻の先だ。

               
                       【 3人の銅像  】

 そうした状況の下、バティスタ大統領がいよいよ追い詰められて1959年の元旦、最後に逃げ出した場所がここ大統領府だ。アメリカもいち早くバティスタを見限って、別の傀儡候補を立てる企てをしたが間に合わなかったようだ。

    

 《大統領キューバ脱出》の瞬間の街の混乱の様子を映したのが「ゴッドファーザーPartⅡ」の映像だ。ハバナに利権をはびこらすマフィアのボスのハイマン・ロスにマイケル・コルリオーネが近づくシーンだ。当時のアメリカの富裕層がここを楽園のように思い、そこから甘い蜜を吸い上げていたかが想像できる。

 しかし、今訪れている革命博物館の周辺にはそんな様子は全くない。戦車や戦闘機と共に「グランマ号」も展示されているが、のどかなものだ。

                             

 館内に入る。最初に目に入ったのは「ホセ・マルティ」の肖像だ。午前中に革命広場で見た、あのホセ・マルティだ。恥ずかしながら、キューバに来るまでその名前を知らなかった。カストロ兄弟とゲバラ以外は、カミーロ・シンフエゴスもアレイダも知る由はなかった。

                              
                                     【 ホセ・マルティ 】

 カストロは、このホセ・マルティを敬愛していたという。どこの国の革命や国の変革にしても、その土台というか歴史的土壌がないと成功するものではない。キューバにもこうした先人がいたのだと、ここを訪れて納得した。

    
         【 晩年のカストロ議長 】

 館内では、バティスタが間一髪で逃げ出したという「隠し階段」の入り口も見た。国民から奪った3億ドルもの財産をもってマフィアと共に軍用機でドミニカに逃れたという事だ。

 建物を出て裏庭に入ると、そこには1957年の大統領府襲撃に使ったというゲリラ兵士を乗せたバスが展示してあった。建物の外壁にも銃弾のあとが残り、山中のゲリラ戦とも呼応して、学生を含む都市ゲリラも戦っていたことを想起させる。(この襲撃は、山間ゲリラとの連携が取れずに失敗し、都市の革命組織に大きな犠牲が出たという事だ。

                   
                                    【 1957年の大統領府襲撃の際のバスの弾痕 】

                             
                                      【 大統領府の建物の弾痕 】        

 もっとゆっくり見たかったが、閉館時間が迫り、追い出されるように革命博物館を後にする

                                     
                                             【 大統領府から外を望む 】

 ホテルにいったん戻り、夕食をとった後は、がらりと趣を変えて「トロピカーナ」のショーに出かける。解放前は、フロリダからやってくるアメリカの富裕層をもてなす歓楽街の象徴だったが、今はキューバの経済を支える大事な《外貨の稼ぎ手》である。何しろ国民の8割が国家公務員で、国営の「トロピカーナ」の従業員・踊り手も当然、国家公務員であるのだ。そんな野暮な考えは置いといて、ショーを楽しむことに。

   
                               

 8時半から始まり、「ハバナクラブ」のボトルを半分空けて、派手やかなショーが終わりホテルに戻ったのは午前1時前だった。キューバに居ると誰もがエネルギッシュになる。




    『キューバ訪問記(その2)』-マイブログに戻る

    『キューバ訪問記(その4)』-のマイブログ記事に進む





    
  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ウィスキーと2人の花嫁』-... | トップ | 『ローズの秘密の頁』-アイ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

海外旅行」カテゴリの最新記事