河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史30 明治――川面の渡し②

2022年12月15日 | 歴史

【補筆として】

明治22年、川面の浜の上流に河南橋の元となる仮の橋が架けられた。同時に新道や河南橋東詰めから太子街道につながる道が開通する。
仮の橋は幅1.8m、長さ200mで、途中に車のすれ違い用として幅3.6mの待避所が設けられていた。
このことで川面の渡しは250年の歴史の幕を閉じることになる。
渡し舟の運営は次のようなものだった。
・舟の新設および修繕は川面住民の負担とし、喜志全村より多少の補助をする。
・舟の使用および保管は、川面住民より、一定の期限を決め、舟仲間と称する四、五人に請け負わせる。
・舟賃は舟仲間が、近隣各村の一戸につき「船米」と称して五合もしくは一升の米を徴収し、その中から舟仲間の受け負い料として一か年一石六斗を川面に納め、請負料とし、残りおよび臨時収入は舟仲間の所得とする。ただし喜志村から船米は徴収しない。
・川面は舟仲間より納められた船米を売り払い、新設費にしてよい。

その後、河南橋は、10年後の明治32年には幅3mの橋に架け替えられ、昭和4年に幅6m、長さ250mの鉄筋コンクリートの橋が完成した。工費は8万円、工期は2年かかった。
渡り初め式には、大阪府の役人、村長、警察署長をはじめ多くの村人が開通を祝福したという。
河南橋の下を流れる西浦用水路は洗濯場になっていた。石鹸は使わず米糠か椰子油を使っていたので水質汚染の心配はなかった。
洗濯場は世間話に花が咲き、川面の女性たちにとってのコミュニティーの場でもあったという。
昭和47年に今の鉄の欄干となり、照明灯が付けられた。橋げたもコンクリートで補強された。

一方、1898年(明治31年)4月14日 に河陽鉄道の古市 - 富田林間が開通して喜志駅が開業。
1899年(明治32年)5月11日 に河陽鉄道の路線を河南鉄道が継承。
1919年(大正8年)1月1日 に喜志駅は太子口駅に改称。
1月25日には、太子口喜志駅に改称。
3月8日には社名変更により大阪鉄道の駅になる。
1933年(昭和8年)4月1日に再び喜志駅に改称された。
粟が池の近くに旭が丘駅が出来たのもこの頃である。


※スケッチは鶴島さんのもの

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歴史30 明治――川面の渡し①

2022年12月14日 | 歴史

瓦当ての事件があってから三日ほど経った日。
学校からの帰りに春やんの家の前を通ると、春やんが自転車のパンクを直していた。
大工はもちろん機械や電気なども自分で修理する器用な人だった。
「パンクしたんかいな」と言うと、
「可難こっちゃ、ほれ見てみ! こんな釘が入とった」
3センチほどの曲がり釘だった。修理は終わっていたのか、空気入れを押しながら、
「ほんで、みな仲ようやってるか?」
「そらそや、僕ら川面のわたしなんやから」
「わたし(私)? 私と違うて舟で川を渡る渡しやで!」
「わかってるがな、戦艦大和ほどある船やろ!」
「解ってるやないかい。可難奴っちゃなぁ」
「そやそや、聞こ聞こ思てたんやけど、河南町にあったら河南橋でええねんけど、喜志にあるのに何んで河南橋というねん?」
「そんなん、簡単なこっちゃ。ちょっと待っときや」と言って春やんは奥に入って行った。
しばらくするとなみなみと酒を入れたコップと一枚の地図を持って、そろりそろりとやって来た。コップの冷酒を一口飲んで春やんが話し出した。

――この地図はなあ明治30年頃の喜志の地図や。明治いうてもわからんやろうから、今は昭和の39年やさかい、大正の15年と、明治の45から30を引いた・・・、〈39+15+15〉やさかいに69年前や。
ほれ、地図を見てみい。69年前にはすでに河南橋があるやろ。
ええか、河南町ができたのは8年前の昭和31年や。石川村・白木村・河内村・中村が合併した時に「河南」という名前を付けたんや。
そやから、河南町より河南橋の方が60年ほど先(前)というわけや!
ほな、何んで河南橋という名前にしたかというと、地図のここ見てみい。電車が走っとる。今の近鉄電車や。
そやが、当時は「河南鉄道」という名前あった。河南鉄道の喜志駅あったんや。
ほやから、喜志の者は橋を渡らんでも駅に行けるけど、太子や他の村々は河南橋を渡らんと河南鉄道の喜志駅には行かれへん。
ほんで、河南鉄道につながる橋やというんで「河南橋」という名前を付けたんや!
ところがや、河南橋が出来たことで川面はえらいことになったんや! ええ? 解るか?――
そう言って、春やんはまた奥に入って行った。しばらくすると、一升瓶と色鉛筆を持ってきた。
「わかった! 渡し舟が必要なくなるんやろ!」と私が言うと、
「そやそや、①が逃げれば、③がまくって④が差す、というやっちゃ」と言って、コップに酒をつぎ、春やんが話をつづけた。

「明治22年(1890)に木の河南橋が造られるんや。それに合わせて出来たんがこの道や」
春やんはぐびりと酒を飲んで、赤の色鉛筆で地図に矢印を書いた。
「お前らが学校行く時に通ってる道や。新し出来た道やさかいに新道と皆言うてる道や。川面を抜けて新道に入る所にタンス屋がある。ちょっと行ったら下駄屋のうどん屋、それから自転車屋や。お前らはここを右に曲がって学校へ行くけど、曲がらんと上って行くと左手に郵便局、隣に正いったんとこの寿司屋や。高野街道とぶち当たるとこに火の見櫓があって、向かいに駐在所、隣がおたふくのパン屋や。ほれ、ここ、良う見てみ!」
また、ぐびりと酒を飲んで、小学校の近くに黄色の鉛筆で丸を書いた。
「小学校を出た前にある木戸山に下りる道が無いやろ! 当時は大深(おおけ)の墓の南側を通って木戸山に行ってたんや。ほれ、こっちも見てみ!」
またまた、ぐびりと酒を飲んで、駅の近くに黄色の丸を書いた。
「喜志デパート(現在のサンプラ辺り)の横の細い道が新家に抜けるメーンロードあったんや。今のような大きな道が出来るのは鉄道のおかげや」
ぐびりと酒を飲んで、コップに酒を注いだ。表面張力で盛り上がっている。
「明治30年(1897)に河陽鉄道という会社が柏原から道明寺、古市の間に鉄道を開通させよった。その頃は蒸気機関車や。次の年の明治31年には、古市から富田林まで線路が延ばされて喜志駅ができるんや。次の年の明治32年に河南鉄道と名前が替わるさかいに、この地図はその頃の地図や」
春やんは、コップに口を迎えにやって、表面張力の酒をすすり、ふーっと息を吐いてゴクリと一口飲んだ。
「鉄道のおかげで河南橋や新道、大きな道が出来たのはええんやが、そのために川面の渡し場は無くなりよった」
春やんは、ごくりと飲んで、ふーっと息を吐いて、ぐびりと酒を飲んだ。
「それどころか、鉄道で物を運ぶようになって、川面の船着き場も必要なくなり、みやてでんも宿屋ものうなってしまいよった・・・」

春やんがうつむいたまま何も言わなくなった。
何か寂しいのだろうかと、下から顔を覗き込んだ。
眠っていた。
遠くで汽笛の音がした。
ポー、がたーんごとごと、がたーんごとごと・・・。

②につづく(補筆)
※スケッチは鶴島さんのもの

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歴史29 明治――川面の浜②

2022年12月13日 | 歴史

この船溜まりに止まっていた舟というのは、長さ20m、幅2mほどの刀みたいに細長い舟あったから「剣先舟」というてた。その剣先船が20台ほどここに止まってた。
この辺りはなあ「川面の浜」というて船着き場あったんや。
太子(町)や大ヶ塚・森屋などの河南町。千早赤阪村。石川の上流の富田林・甲田・錦織などで採れた米・木綿・酒・油・材木なんかがこの川面の浜に集まってくる。
それを剣先舟に積んで石川を下り、大和川に入って大阪の難波まで運んでた。
帰りは、塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆(千早の高野豆腐製造用)なんかを積んで石川を上って川面の浜で下ろされたんや。

ほれ、そこ(北側)に工場があるやろ。あの辺りには「みやでん(宮殿)」と呼ばれた、国会議事堂ほどもある問屋さんがあったんや。
(そらウソやろと思ったが、誰も何も言わない)
道を挟んだ向こう側には宿屋が二軒あった。♪有馬兵衛の向陽閣へ♪ほどもあるごっつい旅館や!
(それもウソやろ・・・)
その旅館の向こうには「みやでん」の大きな水車小屋があった。玉手山の遊園地の観覧車ほどもある水車や!
(ええかげんにしときや・・・)
そこ(東側)の堤防の向こう側はすぐに川で、「川面の渡し」という渡し舟もあった。戦艦大和ほどもある渡し舟や。
(・・・)
そやから、そこの細い道には人や大八車がうじゃうじゃ集まって来とったんや!
(そらほんまかも)
そーらもう賑やかで、八朔(大ケ塚である縁日)か東京オリンピックの入場行進ほどや。
(そらウソやろ!)

♪喜志の川面小在所なれど 浦にどんどと舟がつく♪ と唄われたほどや。
霧の都がロンドンならば、花の都はフランスのパリ。水の都は喜志の川面ちゅうこっちゃ!
♪港に赤い灯がともりゃ 残る未練のすすり泣き♪ ちゅうやっちゃわい!
ほんでもって、川面に住んでる者は、秋冬の百姓仕事が暇な時には、荷物積み下ろしで働いてけっこうな収入があった。
ほやから、他所の村とはちょっとちゃう気持ちというか気風があるのや!
せやから、川面の子は川面の者どおし仲ようせんとあかんのや!

そう言って春やんは飲み干したワンカップを右手でポケットにしまい、
「ほんで、なんでケンカしたんや?」
それを先に聞かんとあかんのとちがうんかい? と思いつつ理由を説明した。
「なんや、そんなことかいな。よっしゃ! それあったら、おっちゃんが遠山の金四郎になったろ!」
「なんやそれ?」
「裁判官やがな。これは・・・、そやなあ、相撲で言うたら取り直しや!」
「そんなん僕損するがな!」とトモヤンが言った。
「取り直し、やり直し言うても、この子(コウチャン)がするんやない。おっちゃんがするのや。おっちゃんがやって、当たろうが当たろまいが、おっちゃんのせいや。みなおっちょんが悪いんや! それでええか?」
二人がうなずいた。
「よっしゃ。どないするねん?」
コウチャンが春やんに教えた。
教えられた通り、春やんは胸にグーをつけて瓦を乗せ、よろりよろりと歩き出した。
「おっちゃん、胸から手ーはなしたらあかんねんで」とコウチャンが言った。
「わかっとるわい!」

春やんは、トモヤンが立てた瓦の前にきて、軽く前に体を傾けた。
春やんの手から瓦が真っすぐ下にスーッと落ちた。
落ちた瓦はトモヤンの立てた瓦のほんの数ミリ手前でぴたりと止まった。
「あー、惜しいなあ! もうちょっとやがな・・・。どや、これでええか?」
「殴ったんは僕やから、ごめんな」とコウチャンが言って、殴った右手を前に差し出した。
トモヤンが頬っぺたを押さえていた手を差し出して、二人は握手した。
「おお、それでこそ川面の子どもや!」
そう言って春やん、自転車に乗り、鼻歌まじりで帰って行った。
♪喜志の川面小在所なれど♪ ♪浦にどんどと舟がつくよ♪ チョイナチョイナ♪

※絵は川面出身の鶴島さんのスケッチ

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歴史29 明治――川面の浜①

2022年12月12日 | 歴史

河南橋の近くにある建具屋さんの材木置き場の空き地で「瓦当て(かわらあて)」をしていた。
10センチほどの割れた瓦を拾ってきて、地面に立てやすく、投げやすいようにコンクリートでこすって加工する。
グッパーで二つのチームに分け、5、6メートルほど離れた二本の線を引き、攻撃側と守り側に別れる。
守り側は線の上に瓦を立てる。攻撃側がそれを瓦で倒す。全部倒すことが出来れば次のフェーズ(段階)に移って攻撃が続けられるが、一つでも残れば攻守交替になるという遊びだ。
フェーズは、足の甲から始まって、膝・股・腹・胸・肩・額・頭に瓦を乗せて当てるるという具合にグレードアップしていく。

攻撃側が、片手をグーにして胸にひっつけ、その上に瓦を乗せて当てるフェーズになった。
攻撃側のコウンチャンがトモヤンの瓦をねらって見事に倒した。
「あかん。胸から手がはなれてたやん!」とトモヤンが言った。
「はなれてないわ!」とコウチャンが言い返した。
「はなれてた。じぇったいにはなれてた!」
「はなれてるかい。天の神さんに誓うてもはなれてへんわ!」
言い合いになっていくうちに興奮してきたのか、コウチャンが左手でトモヤンの胸ぐらをつかんだ。
トモヤンがその手を振り払ううとしたが空振りして、その手がコウチャンの鼻先に当たった。
カーとなったコウチャンは右手をグーにしてトモヤンの頬っぺたを殴った。
カシアスクレーのような強烈なパンチだった。
トモヤンは頬っぺたを押さえながらしゃがみこみ、ウワ、ワワワ、ワーと大きな声で泣き叫んだ。そして、瓦を拾ってコウチャンに投げつけようとした。
「こら! やめんかい!」
黒色の大きな自転車に乗った春やんだった。

「なにケンカしとんねん!」と言いながら、月光仮面がオートバイを止めるように、二人のそばで自転車を止めた。
「ケンカみたいしても何の得にもならんやろ!」
ああ、大事にならなくてよかったとホッとした。
「お前らもなんで止めにはいらへんねん!」と大きな目でにらまれた。
みんなシュンとなった。
「瓦が当たって血ーでも出たらどないすんねん!」と言いながら、積んであった材木の上にあぐらをかいて座った。
「川面(かわづら)の子は川面の子どおし仲ようせなあかんのじゃ!」といいながら、わいの前に座れという手振りをした。
みんなは体育の時間に先生の説明を聞くように体育座りで春やんの前に座った。
「今、お前らが座っている所は昔なにあったか知ってるか?」
「・・・?」
「ここは船溜まりというて、仰山のの舟が止まってた所や」と言って、ズボンのポケットからワンカップを取り出し、シュカーンと開けてゴクリと一口飲んで、春やんが話し出した。
②につづく

※上の絵は川面出身の故鶴島そんのスケッチ。下は河南橋から見た今の川面の浜。

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ちょっといっぷく39 あの日

2022年12月08日 | よもやま話

今ではどの家庭にも電気メーターがあるが、昭和前期にはよほど裕福な家庭にしかなかった。
各家庭に電気はひかれていたが、当時の電気料金は「一戸一灯契約」という定額料金で、1世帯で1個の電球を使ってもいいですよ という料金体系だったのだ。
これに目をつけたのがパナソニック(松下電器)の松下幸之助。
電球ソケットの横にもう一つソケットの付いた「二股ソケット」を開発して大ヒットする。
このソケットのおかげで一家に一つだけソケット(コンセント)があることになる。
これで充分。電化製品といえば扇風機と電気アイロン、ラジオしかなかった時代である。

そんなある日の朝。
ラジオの午前7時の時報のあと臨時ニュースが1分間放送された。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
正午にも、ニュースに続いて時の東條首相による開戦に際して国民に向けた演説「大詔を拝し奉りて」が放送される。
「ただいま、宣戦の御詔勅が煥発(かんぱつ)されました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦いを行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも関わらず、ついに決裂のやむなきに至ったのであります・・・」
1941年12月8日の月曜日(アメリカは日曜)、東アジアの平和を守るという名目の「大東亜戦争」がはじまった。


当時の人はどんな気持ちでこのラジオ放送を聞いたのだろうか。
といっても当時のラジオの普及率は50%。

※下の絵は「千人針風景」京都大学図書館でデジタルアーカイブ より

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