河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

俄の始め

2022年07月30日 | 祭と河内にわか

【その25 江戸――「俄の始めは河内の俄」の補筆として】

  「にわか=俄・二輪加など」という民族芸能がある。博多にわか、美濃にわか、吉原にわかなど日本全国に二十か所ほどが残っている。そのうちの多くが大阪にわかを源としている。

 江戸時代に俄について書かれた『古今俄選』の「又ははじめと思ふ事」の条に「住吉祭りの男」の話がある。(以下、現代語訳して引用)
 ――享保のころ、住吉祭りの参詣人が群をなして帰る最中、飲み空かした酒樽を竹馬の先にくくりつけ、提灯のように持って高くさし上げ、「ちょうさや、ちょうさや。千歳楽、万歳楽」などと言いながら通って行くお調子者を、おかしくもまた珍しく思ったのであろうか、道行く人々はこの男(たち)に付いて行って一緒に踊ったということがあった。その男は家に帰ってから、思いのほか人々がおかしがったのを独りよろこび、翌年には早くも、鬼やお多福の面などを着物の袂(たもと)に入れ、祭りの帰り道を楽しんでいたのが、何年も趣向をこらすようになって、今の(大阪俄の)型になった。京都では元文年間(一七三六~一七四一)に(俄が)はじまったという――。
 男が手にしていた「飲み空かした酒樽を竹馬の先にくくりつけ」については、挿絵が入れられている。竹竿の先に馬の頭を模した人形を付け、それに酒樽を結びつけている。何を表したものだろうか。その手がかりとして同じ『古今俄選』に次の一文がある。

 ――京江戸大阪の三都に限らず、すべての渡御(とぎょ=ご神体の移動)の前後や、神輿(みこし)が通る道筋などに、山鉾あるいは黎物荷紐(れいぶつにひも)の地車などが通ることは、古代からあったことで、今も尾州津島祭や紀州和歌まつりなどにも、その例が多くある――。
 
 「黎物荷紐の地車」の「黎」とは、渡御に付き従う祭礼の行列のことだ。「荷紐の地車」とは、大八車などに供え物を乗せて紐で縛りつけ、背に酒樽をぶらさげた馬に曳かせたものを地車と呼んでいたのだろう。地車を「だんじり」と読み替える以前は、文字通りの「ぢぐるま」と言っていた。「地」は地酒や地芝居と同様に「我が村の」という意味だ。今の「だんじり」が出来る前は、多くの祭礼で村々が「ぢぐるま」を曳いていた。
 住吉祭りの男が手に持っていたのは、馬の背中に酒樽を乗せた地車を見立てているのである。
 男が囃している「ちょうさや、ちょうさや。千歳楽、万歳楽」という言葉の中の、「ちょうさや、ちょうさや」は、西日本各地の祭礼の「ちょうさじゃ、ちょうさじゃ」のかけ声と同様である。「千歳楽、万歳楽」は、能狂言の演目「三番叟」の中にある「千秋万歳、喜びの舞いなれば、一舞い舞わん万歳楽」という文句をまねたものだ。 
 なお、「尾州津島祭」は尾張津島天王祭(愛知県津島市)である。日本三大川祭り(大阪天満宮『天神祭』・厳島神社『管絃祭』)の一つで、「車楽」と書くだんじり舟が出る。これも元は地車であったのだろう。
 さて、『古今俄選』は続けていう。


 ――その渡御ののところどころに、「笑い」と名づけて、えらく老けた老人がおかっぱ頭のかつらをかぶり、子どもが遊んでいる真似をして通って行く。または女性のかつらをかぶり、やきもちをやいている女の真似をしている者、あるいは、寺子屋の子ども姿で、師匠にせっかんされて逃げ行く真似をしている者などをよく見かけた。都会でも田舎でも、今も昔も変わらぬ姿である。これらのパフォーマンスが俄の最初だ――。

 仮装、物真似、人情の一部を切り取った「笑ひ」と呼ばれるパフォーマンスの行進が、昔から行われていた。大阪俄が発祥する以前から〈にわか〉なるものが全国に存在していたことがわかる。ただし、「にわか」という言葉を使ったのは住吉祭りの男が最初である。

 この文章のあとに「住吉祭りの男」の話が挿入され、さらに後日談が続く。

 住吉参りの帰りの最中
 「俄じゃ、思い出した」と通り過ぎる。
 参詣人が「所望する」と男の袖にすがる。
 「去年はたまたま思いついてお目にかけましたが、今年はとんと智恵が出ませんので、無念ながらお断りいたします。そのかわりに私の顔をよく覚えておいてくだされ。来年は必ず笑わせてみせますぞ」
 男が立ち去った後、鬼の面をつけた男が出て来て
 「ワッハッハッハッハ」と大笑いして通って行った。

 題をつけるとすれば「来年のことを言うと鬼が笑う」となる。笑って通る鬼が俄のオチになる。
 意味ありげな扮装をし、「俄じゃ俄じゃ」と言いながら物を持ってまかり出て、一言でオチを付けるというのが俄の最初の型だ。
 「所望、所望」の声を掛けるのは、大阪俄の最初の型である。

  『古今俄選』にある大阪俄の発祥は江戸時代の享保年間(1716-1736)。加賀屋甚兵衛が新田開発を始めた時期だ。 生まれ故郷の南河内から多くの人夫を集めたことだろう。その中の幾人かが「住吉祭りの男」だったことは否定できない。
 そう考えれば、大阪俄の原点は河内俄ということになる。そして、俄とは、仮装、物真似などの笑いを目的としたパフォーマンスであった

コメント
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