ひねって・焼いて・陶

陶芸の様々な技法、釉薬、お会いした陶芸家の方々の話等々、私が陶芸で学んだこと、発見したことなどを綴ります。

掛け花生け

2014年02月17日 | 制作現場
制作中の掛け花生け。タタラをくるりくるりと二ひねりして後ろで繋ぎ、底を付け、取り付け金具用の穴を開けて完成。僕のデザインにしてはめずらしく作りやすい。準備したのは、タタラ用のテンプレートと開口部分のすきまをチェックするゲージだけ。今までの作品の中で最も制作工程が単純な割には形の面白さがあると思っている。かみさんも「面白いのが出来たね。」と言ってくれたので気を良くしてる。

このデザイン、以前美濃陶磁器フェスティバルで見たベルギーのANN VAN HOEYさんのタタラ作りの作品に触発されている所もある。単純なものを少し加工することで思いがけず生まれる不思議な形、とでも言えば良いのか。これを元に更に色々な展開ができそうな気がする。



この作品、座りが悪いので塩ビパイプを切ったものにタオルを敷いて乾かした。

「泥象 鈴木治の世界」展

2014年02月11日 | 陶磁器展示会

思いがけず知人から入場券をもらって鈴木治の展覧会を観に行った。鈴木治については、「馬」と題された作品を以前見たことがあったのと、走泥社の一員だったということを知っていたくらいが予備知識だった。
展示は100を超える数の作品がそろっていたので彼がたどって来た道どりがよくわかった。
彼の作品のフォルムは大変に単純化されていて幾何学的な形で構成されているものが多い。バランスのとれた形の中に気の効いたアクセントや変化があって心地よい。そのせいかアートでありながらもデザインされたものという印象がして共感を覚える。100種類の香合という作品があって、全てシンプルな形の100のバリエーションで、そういった形の展開に仕方にもデザイナー的な発想を感じる。自分の主観的表現よりも観る人になるほどと思わせようとする表現というところがデザイナー的だ。



大方の作品は白い信楽土の上に赤系の化粧土を薄く塗り重ね、そこに灰を掛けたりマスキングするなどして適度な色の変化が付けてある。その赤茶色がとても自然な風合いだ。この色合い、丁度晩秋の雑木林の紅葉の様でもあり、また赤茶けた岩の様でもあり、自然と気持ちが和む。同じ走泥社の八木一夫と比べて色と形に親しみ易さ、わかり易さを感じる。別の作品群には影青、つまり青磁の作品があった。けれども、こっちの方は個人的に全く心に響かなかった。赤い化粧土の作品と同じ作者なのに、どうしてなのか不思議に思える。

彼は自分の作品を泥象と呼んでいる。泥象という呼び方は、当時広まっていたオブジェ焼きと言う言葉が揶揄する様な言い方であったのでそれを嫌って鈴木治が考え付いたものだと解説してあった。僕も、始めてオブジェ焼きという言葉に接した時にずいぶん妙な言い方だなと感じた。陶芸でオブジェを作るという走泥社に代表される新しい流れに対して保守的な考えの人たちが多少皮肉を込めて言った言葉だったのかも知れない。しかし、たしかに泥象という言葉は陶磁で作った立体アート作品を指すのにふさわしいと思うけれど、残念ながらそれほど普及していない。一方でオブジェ焼きという言葉は陶芸の世界では陶磁立体アート作品を指す言葉としてかなり定着してしまった。それでは、陶磁のアート作品に今はどういう言葉が使われているのだろうか。いまさらオブジェ焼きでもないし、陶磁オブジェあるいは陶磁アートだろうか。先日、長江重和さんとお話した際、長江さんは自分のアート的作品をオブジェとは呼びたくないと言っていた。ただ作品と呼びたいとおっしゃていたと記憶する。陶芸の世界の言葉の定義は人や場所によって様々なようだ。

走泥社の鈴木治や八木一夫らは日本の陶芸にアートという新しい風を吹き込み、それはその後の陶芸そのものの流れを変えたと言える。けれどもその割に、彼らは伝統工芸の大家ほどは世間一般に知られていないのは残念だと思う。こうした展覧会が彼らの功績を再認識させてくれているということか。

「底メジャー」の改良

2014年02月11日 | 仕事場や道具
以前紹介した「底メジャー」を改良。木の棒がスライドする部分の方を作品の中に入れることではるかに測り易くなった。底の厚味分だけ棒が上に持ち上がり、パイプの上端の位置で棒の目盛りを読む。この場合一目盛り5mmなので約7mm。



以前はアルミ棒の方を中に入れていたので作品に跡が付き易く、しかも目盛りはパイプの下端にあるので読み辛かった。
どうして最初に気が付かなかったのか、と思う。