40年も前に「雑用人生」という短文を読んだことがある。学生時代であった。学業とアルバイトとNPO活動と遊びと(そして就職のための受験準備と)に一日26時間も欲しいと思っていた頃だ。読んで深く考えさせられた。
「忙しい」時の物理的な稼動量は「忙しくない」時とあまり変わらない。「本当にやりたい本命の仕事」に割り当てる時間が少ないとき、「忙しい」とボヤキが出る。
「本命の仕事」も、それ以上に「もっとやりたい仕事」が出てくると、「雑用」に分類換えされてしまう。そして「今本当にやりたい仕事」に熱中できる時は、どんなに時間が無くても「忙しい」とは思わない。「忙しい」とは文字通り「心を亡くす」時間帯のことだ。
懸案の3つの「連続講演」を済ませて、いよいよ6月のメインイベント「麦の会会報発行」にかかる。途中、学生YMCAの会報に口を挟む。(編集発行人がジャワへ飛んで発行延期になるところを、学生達が「臨時号外」で凌ぐことにした)。昨日は丸一日(ブログも忘れるほど)多忙な雑用の一日であった。
.
「凡(すべ)てさわがしく急ぐ者は貧乏(まづしき)をいたす」(箴言21:5文語訳)
(注、口語訳は)「すべて怠るものは貧しくなる」で、これでは、騒がしさも忙しさも感じられない。(新共同訳では)「あわてて事を行う者は欠損をまねく」で、文語訳の感じが戻って来た。
.
.
ー-----------------
(今日のお弁当)
.
.
.
.
.