アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第5章 ヒンドゥー教とガンジー ② 「真理」に関する実験

2017年05月02日 09時43分48秒 | 第5章 ヒンドゥー教とガンジー
『ガンジー自伝』(蠟山芳郎氏訳、以下同書)のはしがきには、ガンジーがこの自伝を書くことを複数の人から依頼され、当初は躊躇しながらも最終的にそれを引き受けることになった経緯と共に、彼がこの自伝を書くことを決断した真の理由が次のように書かれている。

◇◇◇
 わたしは単純に、わたしの行った数々の真実に関する実験について話をしようと思っているにすぎないのである。そしてわたしの生涯は、これらの実験だけでできあがっているのだから、話といえば自伝の形をとってしまうことはまちがいない。
◇◇◇

 そのため、同書には副題として「真実(Truth)をわたしの実験の対象として」と記載されている。既に気づいた方もおられるかも知れないが、このTruthを、「真理」と訳すか「真実」と訳すかでニュアンスはかなり変わってくる。訳者はあとがきで、日本の訳書ではすべて「真理」と訳されていたと書いているが、蠟山氏は敢えてこれを「真実」と訳している。しかし、筆者は正直なところ、「真理」と訳した方が、筆者が論じている宗教的側面から考えた場合にはしっくり来るように思うので、引用部分は訳者が考えた通り「真実」と表記するが、それ以外では「真理」と記載するつもりであることを、予めお断りしておく。

 続いてガンジーは、この真理の実験は、二つの分野、即ち「政治の分野」と「精神の分野」に亘ると述べている。以下同書の引用である。

◇◇◇
 政治の分野でのわたしの実験は、今日、インドのみならず、ある程度「文明化された」世界にも知られているところである。私にとっては、それらは、それほど貴重な価値のものではない。したがってまた、それらの実験によってわたしに与えられた「マハトマ」(筆者註:偉大な魂との意)の称号は、いっそう価値の少ないものである。その称号は、しばしばわたしを苦しめた。そして、それがわたしを喜ばせたというような瞬間を、一度も覚えていない。

 しかしわたしは、精神の分野で行ったわたしの実験を、ぜひ話しておきたいのだ。というのは、それは私自身にしかわかっていないことだからである。またその実験から、わたしは、政治の分野の活動にわたしが持っている力を引き出してきたのであった。もしも実験が真に精神的なものであれば、自己礼賛が入り込む余地がありうるはずはない。それは、わたしに謙譲を加えるのみである。過去を熟考し、回顧すればするほど、ますますはっきりとわたしの限界を感じてくるのである。
◇◇◇

 上記引用に対する説明は特に必要ないと思う。続いて、ガンジーは彼の目標をこのように表現している。

◇◇◇
 わたしがなしとげようと思っていること - ここ三十年間なしとげようと努力し、切望してきたことは、自己の完成、神にまみえること、人間解脱(モクシャ)に達することである。この目標を追って、わたしは生き、動き、そしてわたしの存在があるのである。語ったり、書いたりするやりかたによるわたしの行為のいっさいと、政治の分野におけるすべてのわたしの冒険は、同じ目的に向けられている。
◇◇◇

 これは、少なくとも信仰を持つ者にとり、究極の目標と言って良いと思う。そして、その目標に導く手段、或いは態度として、その本質を次のように語る。
 
◇◇◇
 しかしわたしは、一人の人に可能なことは、万人に可能である、とつねに信じている。だからわたしの実験は、密室の中で行われたのではなく、公然と行われてきた。・・・世の中には、個人とその創造者のみにしかわからないものがいくつかあって、それらは、明らかに他の人に伝達不可能のものである。わたしがこれから話そうとする実験の数々は、そのようなものではない。それらは、あくまでも精神的なものである。あるいは、道徳的なものといったほうがよいかもしれない。というのは、宗教の本質は道徳性にあるからである。
◇◇◇

 この最後の「宗教の本質は道徳性にある」という部分は、我々が肝に銘じておくべきものであろう。そして、それは決して深遠なものではなく、子供や老人にでも理解可能なものだと言ってガンジーは我々を鼓舞してくれる。

◇◇◇
 宗教上の事柄といっても、この話のなかにあるものは、子供たちや老人たちにも理解できるような事柄のみだろう。もしもわたしが感情に左右されない、謙譲な精神でそれらの話をすることができれば、多くのほかの実験者はそのなかから前進の為の糧を発見できるだろう。
◇◇◇

 そしてガンジーは、その実験に要求するものは、「科学者が要求するのと同じものである。彼は非常な正確さ、熟慮、そして最新の緻密さをもって実験を行うけれども、彼の得た結論に最終的な決定を要求しないのみならず、その結論につねに公平な心を持ち続けている」という。そして、その結論は、これで間違いは無いと必ずしも主張できるものではないが、彼は「私にとって、それが絶対に正しいと思われ、しばらくは最終的なものであると思われること」を土台にして行動してきたのだという。それ故彼は、「これから書くものに『真実をわたしの実験の対象として』という副題をつけたのであった」と言う。そして、更に次のように続ける。

◇◇◇
 もちろん、このなかには、非暴力、独身の生活、そして真実とは性質を異にするもろもろの原則の実験も含まれよう。しかし、わたしにとっては、真実こそ、他の無数の原則をそのなかに含んでいる大原則なのである。この真実は、言葉の使い方における誠実さのみならず、考え方における誠実さでもあう。さらに私たちの真実に関する相対的な観念であるのみならず、絶対の真実、永遠の原則、即ち神である。
◇◇◇

 くどいようであるが、参考までに再度述べておきたい。上記、そして次の引用部分も「真実」を「真理」として読み換えた方が、しっくり来ると思う。

◇◇◇
 この世の中には、神に関して数えきれないほどの定義がある。というのは、神の現れかたが無数であるからである。それらは、驚きと恐れとでわたしを満たし、また一瞬圧倒する。しかしわたしは、神を真実としてのみ礼拝する。わたしはまだ神を発見するにいたっていないし、また、今も探し求めている。この探求のためには、わたしにとって最も貴重なものでも犠牲に供する覚悟を持っている。たとえその犠牲が私の生命であったとしても、喜んでそれを犠牲に供するだろう。
 だが、私がこの絶対の真実を会得しない限り、それまでは、相対的な真実と思ったものに固執していなければならない。その間は、この相対的な真実をわたしの道しるべとし、楯としなければならない。・・・
 前へと進んでいくうちに、わたしは、ときどき、絶対の真実、神をかすかながら見ることができた。そしてさらにわたしのうえに、神のみが実在であって、他のいっさいのものは非実在である、との信念が日ましに育ってきたのである。この信念がどのようにして育ってきたか、希望する者にそれを知ってもらいたい。また、もし可能ならば、私の実験を彼らに分かち、またわたしの信念をも分けてあげたい、と思うのである。・・・
 わたしは、以下の諸章のなかにまき散らされている忠告を、だれも権威あるものとみないように期待し、また祈るものである。わたしが話す実験は、どれも例証として見なくてはならない。そしてそれに照らしながら、各自が彼自身の性向と能力に従って、彼自身の実験を実行すれば良いのである。
◇◇◇

 更に彼は続ける。

◇◇◇
 わたしの読者の前に、私の欠点やあやまちをことごとくさらけ出してみたいと思う。わたしの意図していることは、サッティヤーグラハ学に照らして実験を述べることであって、私がどれくらい善良であるかを述べることではない。私自身を判断するにあたって、できるだけきびしく誠実であることに努めよう。・・・
◇◇◇

 ここで、ガンジーの祖国独立運動のスローガンであったサッティヤーグラハに就いての説明が必要だと思う。これも同書から引用させていただく。

◇◇◇
 サンスクリット語で、サッティヤは「真実」または「愛」、アグラハは「堅持」、そこからマレル「力」という意味の言葉。つまり、真実の力、または愛の力の意味。真実及び愛は魂の属性だから、真実または愛の力は魂の力、精神力という意味になる。ガンジーは、サッティヤーグラハを自分の目指す目標としたが、「それは敵に対してではなく、自分の自我に苦悩を与えることによって、真実を証明することである」と言っている。ガンジーは自分の一生を実験第二して、サッティヤーグラハの実験を科学的にやり、それを、サッティヤーグラハ学と言った。
◇◇◇

 最後に、はしがきの結びの部分を引用しておきたい。

◇◇◇
 そのような基準に立って私自身を測定しながら、わたしは叫ばなくてはならない。
われのごとく小賢しく
いやしき者ありや
造り主を見捨てたるわれ
われはかく 不信の徒なりし
というのは、わたしの生命の一呼吸一呼吸をつかさどっており、私自身を生んでくれた神、その神からわたしがいぜんとして遠くにとどまっていることは、私の不断の苦しみであるからである。このようにわたしを神から遠く引き離しているものが、内心に宿る邪悪な欲情であることはわたしも知っている。しかし、それから逃げ出すことができないでいる。
◇◇◇

 我々凡人にとっては聖人の如き人物が、内に宿る欲情の為に、神から隔たっているという苦しみから抜け出せないでいるとは、何と謙虚な告白であろうか。筆者自身も含め、これを読む人は誰も、自分が如何に神から遠い存在であるか、反省せずにはおれないであろう。

 
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