アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第6章 ウパニシャッドの思想 ⑥ 輪廻の主体

2017年09月21日 08時51分45秒 | 第6章 ウパニシャッドの思想
 恐らく多くの日本人は、死によって肉体が消滅することが、その時点で「その人自身」の全てが消滅する「死」なのだと考えているものと思う。そうした考えの人は、基本的に自身の肉体と「自己」を同一視しており、人間の体が肉体以外の生気体や感情体、知性体、霊体からも成り立っていること(これはヨーガによる分類で、シュタイナーなど多少異なる分類の仕方をしている学者もいる)はなかなか信じられないのであろうし、まして「魂」が輪廻していることなど、思いもよらないのかもしれない。
 しかし、この輪廻する「主体」は、「魂」と言って良いのか、それではその「魂」は、どのように成り立っているのか、それは本当の「自己」なのかをもう少し深く考えてみる必要があると思う。
 早速だが、『ウパニシャッドの思想』(以下、同書)からこうした疑問に対応している部分を引用してみる。

◇◇◇
 ところで輪廻するといっても、なにが輪廻するのであるか? 輪廻する主体は必ずしも常に明示されていない。人が輪廻するのだといっても、人が死ねば身体は焼かれるか、朽ちて腐ってしまう。では、後に残って輪廻するものはなんであるか? 輪廻する場合の主体は何であるか? 何が生まれかわるのか? 諸ウパニシャッドのなかでは、一定した説明はない。
 ウパニシャッドのなかには、水が大自然のなかを循環するという思想も述べられているし、また生気が声明を付与する原理であり、それは後に残るとも考えられていた。
 しかし輪廻の主体としての霊魂のようなものを明示せねばならぬときには、個我としてのアートマンと考えていた。多くの場合にはプルシャまたはアートマンが生まれ変わると説いていた。
 しかし本来清浄無垢であるアートマンが輪廻するというのは、筋の通らぬ話である。そのアートマンにはなにものかが付加されていて、制約を加えているに違いない。
 ある場合には、アートマンに付随して、いくつかのものが輪廻するということが述べられている。
『それ(アートマン)が出て行くあとにしたがって生気(プラーナ)が出てゆく。出てゆく生気のあとにしたがってすべての気息(生活機能)が出てゆく。[そうして]かれは認識作用あるものとなる。認識作用を有するものだけが、かれに従って出てゆくのである。知識と業とが彼をとらえて連れ去る。また前世(いま終わった生涯)に関する記憶も[かれをとらえて連れ去るのである]。』
 この文章から見ると、生命原理としてのプラーナ(生気)、もろもろの生活機能(気息)、知識と業、いま終わった生涯に関する記憶がアートマンに付き添って死後の世界に移ると考えたいたわけである。その趣意について後代のヴェーダーンタ学派では論議するが、ウパニシャッドではまだ特殊な述語で呼ぶことはなかった。右の総体にあたるものを、後世のサーンキャ学派では微細身(スクシーマ)と呼び、やがて諸学派にも採用されることになったのである。
◇◇◇

 このように、後世になって輪廻の主体が「微細身」と呼ばれることについては、筆者が以前読んだ(本ブログPartIにもその一部を記載)島岩氏の『シャンカラ』にも「個体の構造」と題する同様の記載がある。念のため、そちらからも引用しておく。但し、ヴェーダーンタ学派の理論なので、筆者がヨーガを通じて学んだ内容とは若干異なる部分があることを予めお断りしておく。

◇◇◇
 最初にまず、アートマンが内在する個体の構造について、簡単に説明しておくことにしたい。個体は、アートマンと次のような五つの構成要素から成り立っていると考えられている。すなわち、(ア)粗大な身体と微細な身体、(イ)主要生気、(ウ)五種の行動器官、(エ)五種の感覚器官、(オ)内官である。
 次に、微細な身体は、われわれには知覚できないもので、死後もアートマンとともにある。すなわちアートマンは、この微細な身体に包まれて輪廻するのである。つまり逆に言えば、解脱しない限りこの微細な身体が消滅することはない。
 主要生気とは、呼気、吸気、媒気、上気、等気の五つである。このうち媒気とは、呼気と吸気の間を媒介するものである。次に上気とは、死に際して、アートマンを身体から導きだすものである。最後に等気とは、消化の働きをなすものである。・・・
 内官とは、どの範囲のものを指すのか、シャンカラの場合は不明瞭な点もあるが、ここでは、統覚機能、自我意識、思考器官がその中に含まれていると考えておくことにする。・・・
 感覚器官と内官との違いは、外界の対象を知覚する際には、感覚器官と内官がともに必要とされるが、苦楽・貪欲・嫌悪・欲望・恐怖などの内的な対象を知覚する際には、内官だけでいいという点にある。
 個体を形成するこれら五つの構成要素はすべて、アートマンを限定するアートマンにとっては非本質的な要素だという意味で、添性と呼ばれている。そしてその際に肝心なのは、これらの五つの構成要素が全て物質だとされている点である(筆者註:「物質」というより、「プラクリティ」と言った方が精確だと思われる)。すなわちこれらは、われわれには知覚や経験といった精神的活動を行っていると思われる感覚器官や内官も含めてすべて、外界の事物と同じように、地・水・火・風・虚空といった五大元素から展開したものであって、物質にすぎないのである。つまり、純粋精神であるアートマンとは全く異なるものなのである。その意味では、サーンキャ学派が、統覚機能、自我意識、感覚器官を根本物質(筆者註:プラクリティの大元となるアヴィヤクタなどとも呼ばれる)から展開したものと考え、純粋精神プルシャのみを精神だと考えたというところと共通している。
 また、精神が物質と関わることで物質に束縛されているのが、輪廻・迷いの原因であるとする構図も、サーンキャ学派と同じである。だが、精神と物質との関係のありようは、サーンキャ学派のものとは異なっている。・・・
◇◇◇

 上記を要約すると、微細な身体には、少なくも主要生気、感覚器官、内官が含まれていると解釈できる(五種の行動器官の意味するところが今一つ不明なので、それは取り敢えず省いた)。つまり、死後もアートマンは感覚器官を伴っているので、見たり聞いたり嗅いだりすることができるし、内官すなわち統覚機能、自我意識、思考器官を有しているので、個性を有し、ものごとを考えたりすることも出来るということになる。ただ、ここでは前世の記憶や業(カルマ)を伴って行く仕組みに就いては触れていないようであるが、もしかしたら少なくも記憶は自我意識に含まれているということなのかもしれない。

 最後に、このアートマンとそれを取り巻く微細身について、バガヴァッド・ギーター第15章では、次のように説かれている。

◇◇◇
・私自身(筆者註:至高神としてのクリシュナを指す)の一部分は、生命界において、生命(ジ―ヴァ、個我)として永遠に存続する。それは、プラクリティ(根本原質)に依存する、思考器官(マナス、意)を第六のものとする諸感官(六根)を引き寄せる。(7節)
・主(個我)が身体を獲得し、また身体を離れる時、彼はそれら[の感官]を連れて行く。風が香りをその拠り所から連れ去るように。(8節)
・彼は聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、及び思考器官に依存して、諸々の対象を享受する。(9節)
◇◇◇

 我々は普通、五感も思考器官も、肉体の一部であり、それに依存しているからこそこの世で暮らしていけると思っているが、実際には生気体に夫々の感官に対応する部分が残されており、それら生気体の感官と共に「あの世」に行く、或いは輪廻しているということである。尚、幽体離脱(体外離脱)も、基本的には同様の理由で、対象を享受することが可能になるのだと筆者は信じている。因みに、新たに生まれ変わる時には、極まれな例外はあるものの、前世の記憶を消し去られるということである。

PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第6章 ウパニシャッドの思... | トップ | 第6章 ウパニシャッドの思想... »
最新の画像もっと見る

第6章 ウパニシャッドの思想」カテゴリの最新記事