アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第6章 ウパニシャッドの思想 ⑤ 彼岸と解脱

2017年09月14日 11時31分38秒 | 第6章 ウパニシャッドの思想
 そもそも彼岸とは何か? 先ずはウィキペディアの定義を要約してみると、「悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に譬え(三途の川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする」その「向こう岸」にある「涅槃」の世界という意味のようだ。つまり、人間が悟りを開いた後に行き着く世界であり、死ねば誰でも行ける「あの世」とは区別して考える必要がある。中村元氏(以後、著者)も、『ウパニシャッドの思想』(以後、同書)の中で、「・・・原始仏教聖典の古層やアショーカ王詔勅文においてparaloka(彼岸の世界)は、単に『あの世』を意味しているのではなくて、絶対の世界、宗教的意義ある領域を意味しているという思想的特徴にも通ずるものがある」としている。
この「彼岸」がどのような領域なのかは「あの世」或いは「天界」との比較において後述するつもりだが、人間が悟りを開いたのちに行き着く世界であり、「絶対の世界、宗教的意義ある領域」であるという定義に基づけば、「彼岸」とは基本的に「解脱」した後の我々の「魂」の住む処と観て良いと思う。ところで、この「解脱」と敢えて括弧でくくったことにはそれなりの意味がある。というのは、そもそも「解脱」の定義が、人によってまちまちなのだ。特に、原始仏典を読むと、解脱を「もろもろの欲望から解き放たれること」という意味に用いている文章が多く見受けられる。例えば、中村元氏も『ブッダ伝』の中で、「一般に解脱とは、心が煩悩や苦悩の束縛から解放されることをいいます」と書いている(P348参照)。
無論すべての煩悩を断ち切ってしまうことは、そう簡単なことではないが、筆者が考える本当の意味での解脱、即ち「輪廻からの解放」と全く同義とは言えないと思う。しかし、「もろもろの欲望から解き放たれる」ことは、「輪廻からの解放」と密接に関わっていることがウパニシャッドでも説明されている。その部分を同書から引用する。

◇◇◇
 『・・・いま[人々は次のように]いう、<この人(プルシャ)はただ欲望からなるものである>と。[これに対してわたくしは答える、] <人はみずからの欲望に応じて意志を形成する。そうしてその人の意志のとおりに行為を行う。そうして彼が行うところの行為を、彼は達成する>と。』・・・
『[ヤージニャヴァルキャはつづけた、]「これについて、[次の]詩句がある。
 それゆえにこそ、執着のある人は、[輪廻における]微細な原理であるかれの心(manas)が執着しているところに、業とともにおもむく。この世においてかれがいかなることをなそうとも、その行為の終末(=報い)を得て、かの世から、またもとどおりこの世に帰ってくる。 - 行為を成すために。
 以上は欲望をいだいている者である。
 次に欲望を起さない者(=解脱した人)を説こう。欲望を起さず、欲望を離れ、アートマンのみを欲望として、欲望を達成した人からは気息(註:もろもろの生活機能)は出て行かない。[それら(気息)はそこ(=アートマン)に合一するのである。かれは]すでにブラフマンそのものであるがゆえに、ブラフマンに帰入するのである」と』
◇◇◇

 以上の文章からすると、欲望を起さない者イコール解脱した人であり、この世に戻る(輪廻転生する)ことなく、ブラフマンに帰入すると書かれているが、このブラフマンへの帰入こそが「彼岸」への到達と言って良いと思う。

 次に、「アートマンを悟ること」が解脱なのだと説明している部分を同書から引用する。
 
◇◇◇
 まず一般的には、アートマンを知ることが解脱であるということができる。アートマンとは元来「自己」という意味で、再帰代名詞のように用いられる語であるが、しかしウパニシャッドにおいては「本来の自己」「根源的自己」に意味に述語として使われ、世界の根底であるブラフマンと同一視されている。
 一般的にいうならば、絶他者の直感知によって人はげだつを達成することができる。それは<不死>とも呼ばれていた。それは苦しみの現実生存から離脱することである。
 アートマンを知るとは、自他あるいは主幹客観の対立を超越して、両者の合一を他県することであったらしい。したがってそれは、たがいに絶対に相い対立し、相い反するもののドプ何時、あるいはそれえらが同一の根底を有することを証明する思弁ではなくて、むしろヨーガによって心を統一して自己と万有との合一を身をもって体験することである。抽象的思索ではなくて、神秘体験であったらしい。ゆえにブラフマンを知ることは分別知によっては得られないという。[また後期の古ウパニシャッドによると、真理の認識は理論によっては得られず、普通の日常生活における認識とは意味を異にする。したがって解脱は内官によって内的に感知されるべきものである。]
 ゆえにアートマンを知るということは、決してなにかある対象的なるものを主観が知るという意味ではないから、したがって、アートマンを知ることが同時にアートマンあるいはブラフマンとなることであるといわれている。すなわちアートマンをさとることが、自己の根源であるブラフマンに帰入することなのである。
 したがって解脱ということはアートマンの認識の結果起こることではなくて、アートマンをさとるそのことが解脱であり、アートマンの知と解脱とは別のものではない、ということをドイセンは特に強調している。
◇◇◇

 上記引用の中では特に、「思弁ではなくて、むしろヨーガによって心を統一して自己と万有との合一を身をもって体験することである。抽象的思索ではなくて、神秘体験であったらしい。」という点に注目願いたい。つまり、いくら頭の中で考えても悟りを開くことは出来ず、ヨーガ(或は禅でも良いと思う)などによる神秘体験を通じてのみ解脱することが可能なのだ。換言すれば、禅で言うところの「不立文字」ということになる。

 更に著者は、後期の古ウパニシャッドの中に見られる、解脱に関する記述(表現)を下記のように纏めている。参考のため引用する。

◇◇◇
1. 最高の彼岸に渡ること
2. 真理となる
3. 生死が断ぜられる
4. 無常なるものを常在なりと執しないこと
5. 心臓の結節が断たれる。無明の結節を断ずる。
6. 解脱において業(カルマ)は無となる
7. 究極の寂静に達する、常恒の寂静を有する・・・
8. 常恒である楽を得る
9. 解脱においては各個人の名及び形はなくなる
◇◇◇

 ところで、本稿冒頭で述べた、「天界」が「彼岸」とどのように違うのかについては、バガヴァッド・ギーターの以下の文章を読むと良く判る。因みに、出だしの三ヴェーダを知り云々とあるのは、祭祀を行うバラモンを指して言っている。

◇◇◇
・三ヴェーダを知り、ソーマ酒を飲み、罪悪が清められ、祭祀により私を供養し、天かいへ行くことを求める人々は、清浄なる神々の王(インドラ)の世界に至り、天界において神聖な神々の享楽を味わう。(第9章20節)
・彼らは広大なる天界を享受してから、功徳が尽きた時、人間の世界に入る。このように、彼らは享楽を望んで三ヴェーダの規定(ダルマ)に従い、行ったり来たりする。(第9章21節)
◇◇◇

 このように、「天界」とは神々がまします世界であり、或る意味で「プラクリティ」或いは「グナ」から未だ脱していない現象世界の一部ともいえる。従って、いくら地上で功徳を積んでも、解脱しない限りは、天界に生まれ変わることができたにせよ、いずれまた地上に転生して来ることになる。そしてこれは解脱するまで、即ち彼岸に到達するまで永遠に続くのである。因みに、ギーターによると、臨終の時点で、その人のグナ(性質)がサットヴァ(純質)であれば、天界を享受するとしているが、ラジャス(激質)の場合は、天界に生まれることはないとしている。ということは、天界を享受しないうちに又地上に生まれ変わるということを指しているようである。つまり、天界に生まれる(これをギーターでは「生天」と言っている)ことですら、そう簡単ではないということであるが、この点に就いてはもう少し良く調べ、改めて本ブログに掲載するつもりである。

 尚、ヘルマン・ベックの『仏教』を読んでいたら、この輪廻する世界と涅槃の違いが、次のように述べられていることを偶々見つけたので、これも引用しておく。

◇◇◇
・・・それ故に、仏教で言う涅槃つまり解脱とは、無上なるものの領域から脱出すること、“存在”の(感性的ないし超感性的な)あらゆる領域から脱出することである。その領域は、生死輪廻が行われている場所であり、それを欲界・色界・無色界と名づけるのである。そこで、前に説明したように、超感性的の中でも低い領域に属していて、まだこの世界にかかわりのある神々は、ブッダが基体のない涅槃に入ると、もうブッダに遇えなくなるのである。
 広い意味で仏教が“有”と名づけるものはすべて三界に属している。欲界・色界・無色界を越えたところに輪廻とは別の界があり、涅槃に入るときにそこに到達し、それは常住な解脱の貴い界であるが、仏教では滅尽界とも涅槃界とも呼ぶ。・・・
◇◇◇

 因みに、筆者は本ブログPartIで、「イデアの世界」について三回に分けて掲載しており、この「イデアの世界」(観念界)が基本的には「彼岸」と同一であると現時点で筆者は考えている。興味のある方は、是非そちらもご参照願いたい。

PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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