中村元氏(以下、著者)の『ウパニシャッドの思想』(以下、同書)では、「有」という表現を用いているが、これは基本的に「存在」と置き換えて考えて大差ないと思う。そこで、筆者のブログPartI第18章⑰「存在神秘の哲学」の一部を先ず引用する。これは、古東哲明氏(著者)の『ハイデガー=存在神秘の哲学』を拠り所として書いたものであり、ハイデガーの哲学に興味のある方は、そちらも読んでみて頂きたい。
◇◇◇
それでは、ハイデガーが言う‘存在’とか‘存在の素顔’或いは‘存在神秘’とは何なのであろうか。古東氏が言うには、「最後の神。『哲学への寄与』の言い方をかりれば、むろんそれはもう、特定の宗教宗派の神ではない。複数か単数かもどうでもいい。だからもちろん、存在の起源に神をおこうというのでもない。・・・むしろ、議論は逆である。存在が神なるものを存在させる。・・・だから存在が神の起源。‘最後の神’ということでいわれていることの、それがエッセンスである。・・・よくいわれてきたように、‘神が存在である’ということでは、だからない。・・・先に引き合いにだしたエックハルトなら、Istic-heitというところだ。その意味合いで晩年にハイデガーも、エックハルトを踏襲し、‘存在が神である’(存在が神をあらしめる)とふと漏らしている。」
◇◇◇
さて、上記をどのように解説したら良いのか、筆者ははたと迷ってしまった。というのも、仏教においてもキリスト教においても、ヨーガやサーンキャ哲学でも、「存在」ということばは使われないからである。いや、敢えて言えば、キリスト教(聖書)で云うところの、「I am」(「私は存在である」という神の言葉)が近いのかも知れないが、ハイデガーの言うところは、「存在が神」であるとは逆に表現している。恐らく、ハイデガーの意味するのは、存在即ちこの世に現象しているもの全ては神(或いは神の現れ)である、ということであろうから、釈尊が悟りを開いた時の言葉として知られている、「有情非常同時成道 草木国土悉皆成仏」という意味と推測される。ということは、やはりハイデガーは、エルアイクニス即ち無想三昧を通じ、釈尊のように神我一体の境地に至ったのであろう。
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以上がPartIからの引用である。因みに、「有情非常同時成道 草木国土悉皆成仏」というのは、釈尊が悟りを開いた時の言葉ではなく(当時の筆者は思い違いをしていた)、「6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。 日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた」ということである。
さて、それではこの「存在」は、ウパニシャッドの中でどのように説明されているのか、同書から引用して行きたい。先ずは「蜜の譬喩」から。これはバラモンの父から、息子への説明という形で対話が進んで行く。
◇◇◇
[父がいった、]「愛児よ。あたかも蜜蜂が蜜をつくるとき、種々の樹木の液を集めて[蜂蜜という]同じ一つの味のものとし、そうして、そのなかでは、『わたくしはあの樹木の液である、』『わたくしはあの樹木の液である』とたがいに区別しあうことがないように、それと同様に、愛児よ。これら一切の生きとし生けるものは、[熟睡状態または死において]有のうちに合一して、[しかも]『われわれは有のうちに合一したのだ』とは知らないのである。この世においては、虎であれ、獅子であれ、狼であれ、猪であれ、虫であれ、蛾であれ、虻であれ、蚊であれ、そのほかいかなるものであっても、[再生においては]これらの生き物は、[もとと]おなじものとなって現れる」と。』
・・・たしかにこの一節は重要である。ここでは、人間は他のものに生まれ変わることができるが、獣たちは他の生き物として生まれ変わることはあり得ないと考えていたのである。例えば、虎は、生まれ変わっても、やはり虎として生まれるのである。ここには古い再生思想が表現されている。輪廻思想以前の段階である。そうして右の一説の立言は、一種の哲理を表明している。すなわち、万有は、種々の対立を含みながら絶対者であるということである。・・・
◇◇◇
つまり、この段階では、輪廻転生の確たる哲理は完成されていないものの、万有すなわち「有」は、「種々の対立を含みながら絶対者である」という思想が芽生えていると著者は指摘している。
次は、「塩水」の譬喩を引用したい。
◇◇◇
[父がいった、]「この塩を水のなかに入れて、明朝わたくしのところは来い」と。
かれはそのとおりにした。
[父が]かれにいった、「では、昨夜、おまえが水の中に入れた塩を、持ってきなさい」と。
かれはそれを捜したが、見つからなかった。何となれば溶解してしまっていたからである。
[父がいった、]「では、その水をこの端から少し啜ってみよ。どのような味がするか?」と。
[子がいった、]「塩からいです」と。
[父がいった、]「真ん中から啜ってみよ。どのような味がするか?」と。
[子がいった、]「塩からいです」と。
[父がいった、]「あの端から啜ってみよ。どのような味がするか?」と。
[子がいった、]「塩からいです」と。
[父がいった、]「それを捨てて、わたくしの近くにすわれ」と。
そこでかれはその通りにした。
[父がいった、]「塩はつねに損じするのだ(=幾度やってみても、塩からい味は存在するのだ)」と。
父が、[つづけて]いった、「この微細なるものはといえば、 - この一切(全宇宙)はそれを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンである。汝はそれである。シヴェータケートゥよ」と。・・・
◇◇◇
ここでは、アートマン(或はブラフマン)は、塩水の中の塩のように、一切に浸透して存在しているが、それは視認することはできないのだと説明している。因みに、シヴェータケートゥは子の名前であり、父の名はウッダーラカである。このウッダーラカに関する説明がある。
◇◇◇
ウッダーラカは、インド思想史において、絶対者を純粋の<有>と見なした代表的な哲学者である。<有>とはいかなるものであるか? それを述語することは不可能である。もしもそれが述語され得るものであるならば、それは純粋の有ではなくなってしまう。パルメニデースの場合には<有>(ただ有るもの)は、よく円みをつけられた球体に譬えられていたが、これに対してウッダーラカが<有>はどこまでも無限定なものであると考えていた点では、ウッダーラカのほうが徹底していたといえよう。<有>の本質は、開展せる多様性 - それは論理的に当然<非有>をも内含する - との構造連関において把捉するよりしかたがない。ここに<有>の形而上学が成立する。
ウッダーラカの哲学は、シャーンディリヤの思想を継承して、それを更に発展させたものである。ありとあらゆる万有がそのまま絶対者ブラフマンであり、それがとりも直さずわれわれの本体であるアートマンにほかならず、そうして、アートマンは極大にしてまた極小であるというシャーンディリヤの思想は、そのままウッダーラカの思想の根底をなしている。・・・
◇◇◇
シャーンディリヤの思想については、前稿(③ブラフマン)にて説明しているので、そちらも参照願いたい。
続けて、これを『汝はそれである』という句との関連について見てみたい。
◇◇◇
とくに『汝はそれである』という句は、われわれの個人存在の中心たる主体としての自己がそのまま絶対者にほかならないということを示す句として有名であり、『われはブラフマンである』という句とともに、ウパニシャッドの思想を最も的確に表明する二大文章と呼ばれている。
「汝はそれである」というとき、ここで「汝」というのは、「われ」と対立している人をさすのであるから、一般的には個々の「個人存在」を意味しているのであると考えられる。その個別的な個人存在が、じつは「それ」とのみしかいわれないような、絶対のものである。「絶対のもの」は、ことばや名称、概念をもって説明することのできないものであるから、ただ「それ」といって指示する以外にしかたのないものである。だからここの個人存在は「それ」すなわち絶対者であるというのである。そうして「それ」というのが「有」なのである。それがまた、絶対の精神なのである。つまり、「有」ということと純粋の精神とが一致している。われわれの内奥なる自己はそれと同一のものである、といっているのである。
◇◇◇
これに就いては、無論後世における批判もあるようだが、続けてヨーガと馴染みの深いサーンキャ哲学の解釈を同書からまた引用したい。
◇◇◇
なにものも無からは生じないということは、後代にシャンカラやバースカラの主張したところであった。この主張が発展してインドの後代には「因中有果論」が成立した。・・・
このように、後代のヴェーダーンタ学派で重要となる純粋の「有」という観念がウパニシャッドの中に説かれている。これをとくに強調したのはウッダーラカであるが、かれが自分の子息に残した教えによると、世界の根本はただ「有」、「有り」とのみ言われるものである。・・・そして、多くのウパニシャッドの哲人たちにとっては、有は、真実(satya,truth)と同一視された。
ここではただひとつの根本原理のなかから現象世界が現れでたことを説いているのであるが、ではその根本原理は、精神的なものであるか、物質的なものであるか、ということが問題となった。
物質的なものであると解する人々もいた。世界開展のもとは、物質的なものでなければならぬというのである。のちのサーンキャ学派の想定する非精神的な根本原質(pradhana)のことであるにちがいないと考えた。
これに対して、ヴェーダーンタ学派は、ここでいう「有」は、精神的なものであり、アートマンであるに違いない、と主張する。そのわけは、右の個所では「思う」という精神作用に言及し、また世界原因はアートマンと呼ばれているからだ、という。
おそらくウッダーラカ自身はまだ「精神」とか「物質」という概念を考えていなかったのであろう。・・・
◇◇◇
上記の問題は、現代の物理学においても、物質の実在性についての疑問が投げかけられていることに鑑み、これ以上議論しても余り意味がないと思われるので、先に進めたい。
次に著者は、<有>からの世界開展ということを説明しているが、その出だしの部分のみ引用し、興味のある読者諸賢には、同書を直接読んで頂くこととしたい。
◇◇◇
ウッダーラカによると、根源としての<有るもの>は、純粋の有であるから、唯一者である。したがって、唯一者が開展して多となるのであり、一切の事物は唯一なる原因の変化したものである。ところで、ヴェーダーンタ学派の解釈によれば、この有はまた精神性を具有しているものである。有はすなわち精神なのである。従って、神として表象されている。そしてこの有が世界を開展しようと思うのである。すなわち、一つの原理から世界が発出するというのである。
◇◇◇
以上を要約すると、「有」とは「存在」であり、それは「神」であり、その唯一の神から世界が開展した(有情非常同時成道 草木国土悉皆成仏)。従って我々人間も、全員がその神の顕現であり、梵我一如、「汝はそれである」ということになろうか・・・
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。
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それでは、ハイデガーが言う‘存在’とか‘存在の素顔’或いは‘存在神秘’とは何なのであろうか。古東氏が言うには、「最後の神。『哲学への寄与』の言い方をかりれば、むろんそれはもう、特定の宗教宗派の神ではない。複数か単数かもどうでもいい。だからもちろん、存在の起源に神をおこうというのでもない。・・・むしろ、議論は逆である。存在が神なるものを存在させる。・・・だから存在が神の起源。‘最後の神’ということでいわれていることの、それがエッセンスである。・・・よくいわれてきたように、‘神が存在である’ということでは、だからない。・・・先に引き合いにだしたエックハルトなら、Istic-heitというところだ。その意味合いで晩年にハイデガーも、エックハルトを踏襲し、‘存在が神である’(存在が神をあらしめる)とふと漏らしている。」
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さて、上記をどのように解説したら良いのか、筆者ははたと迷ってしまった。というのも、仏教においてもキリスト教においても、ヨーガやサーンキャ哲学でも、「存在」ということばは使われないからである。いや、敢えて言えば、キリスト教(聖書)で云うところの、「I am」(「私は存在である」という神の言葉)が近いのかも知れないが、ハイデガーの言うところは、「存在が神」であるとは逆に表現している。恐らく、ハイデガーの意味するのは、存在即ちこの世に現象しているもの全ては神(或いは神の現れ)である、ということであろうから、釈尊が悟りを開いた時の言葉として知られている、「有情非常同時成道 草木国土悉皆成仏」という意味と推測される。ということは、やはりハイデガーは、エルアイクニス即ち無想三昧を通じ、釈尊のように神我一体の境地に至ったのであろう。
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以上がPartIからの引用である。因みに、「有情非常同時成道 草木国土悉皆成仏」というのは、釈尊が悟りを開いた時の言葉ではなく(当時の筆者は思い違いをしていた)、「6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。 日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた」ということである。
さて、それではこの「存在」は、ウパニシャッドの中でどのように説明されているのか、同書から引用して行きたい。先ずは「蜜の譬喩」から。これはバラモンの父から、息子への説明という形で対話が進んで行く。
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[父がいった、]「愛児よ。あたかも蜜蜂が蜜をつくるとき、種々の樹木の液を集めて[蜂蜜という]同じ一つの味のものとし、そうして、そのなかでは、『わたくしはあの樹木の液である、』『わたくしはあの樹木の液である』とたがいに区別しあうことがないように、それと同様に、愛児よ。これら一切の生きとし生けるものは、[熟睡状態または死において]有のうちに合一して、[しかも]『われわれは有のうちに合一したのだ』とは知らないのである。この世においては、虎であれ、獅子であれ、狼であれ、猪であれ、虫であれ、蛾であれ、虻であれ、蚊であれ、そのほかいかなるものであっても、[再生においては]これらの生き物は、[もとと]おなじものとなって現れる」と。』
・・・たしかにこの一節は重要である。ここでは、人間は他のものに生まれ変わることができるが、獣たちは他の生き物として生まれ変わることはあり得ないと考えていたのである。例えば、虎は、生まれ変わっても、やはり虎として生まれるのである。ここには古い再生思想が表現されている。輪廻思想以前の段階である。そうして右の一説の立言は、一種の哲理を表明している。すなわち、万有は、種々の対立を含みながら絶対者であるということである。・・・
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つまり、この段階では、輪廻転生の確たる哲理は完成されていないものの、万有すなわち「有」は、「種々の対立を含みながら絶対者である」という思想が芽生えていると著者は指摘している。
次は、「塩水」の譬喩を引用したい。
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[父がいった、]「この塩を水のなかに入れて、明朝わたくしのところは来い」と。
かれはそのとおりにした。
[父が]かれにいった、「では、昨夜、おまえが水の中に入れた塩を、持ってきなさい」と。
かれはそれを捜したが、見つからなかった。何となれば溶解してしまっていたからである。
[父がいった、]「では、その水をこの端から少し啜ってみよ。どのような味がするか?」と。
[子がいった、]「塩からいです」と。
[父がいった、]「真ん中から啜ってみよ。どのような味がするか?」と。
[子がいった、]「塩からいです」と。
[父がいった、]「あの端から啜ってみよ。どのような味がするか?」と。
[子がいった、]「塩からいです」と。
[父がいった、]「それを捨てて、わたくしの近くにすわれ」と。
そこでかれはその通りにした。
[父がいった、]「塩はつねに損じするのだ(=幾度やってみても、塩からい味は存在するのだ)」と。
父が、[つづけて]いった、「この微細なるものはといえば、 - この一切(全宇宙)はそれを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンである。汝はそれである。シヴェータケートゥよ」と。・・・
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ここでは、アートマン(或はブラフマン)は、塩水の中の塩のように、一切に浸透して存在しているが、それは視認することはできないのだと説明している。因みに、シヴェータケートゥは子の名前であり、父の名はウッダーラカである。このウッダーラカに関する説明がある。
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ウッダーラカは、インド思想史において、絶対者を純粋の<有>と見なした代表的な哲学者である。<有>とはいかなるものであるか? それを述語することは不可能である。もしもそれが述語され得るものであるならば、それは純粋の有ではなくなってしまう。パルメニデースの場合には<有>(ただ有るもの)は、よく円みをつけられた球体に譬えられていたが、これに対してウッダーラカが<有>はどこまでも無限定なものであると考えていた点では、ウッダーラカのほうが徹底していたといえよう。<有>の本質は、開展せる多様性 - それは論理的に当然<非有>をも内含する - との構造連関において把捉するよりしかたがない。ここに<有>の形而上学が成立する。
ウッダーラカの哲学は、シャーンディリヤの思想を継承して、それを更に発展させたものである。ありとあらゆる万有がそのまま絶対者ブラフマンであり、それがとりも直さずわれわれの本体であるアートマンにほかならず、そうして、アートマンは極大にしてまた極小であるというシャーンディリヤの思想は、そのままウッダーラカの思想の根底をなしている。・・・
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シャーンディリヤの思想については、前稿(③ブラフマン)にて説明しているので、そちらも参照願いたい。
続けて、これを『汝はそれである』という句との関連について見てみたい。
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とくに『汝はそれである』という句は、われわれの個人存在の中心たる主体としての自己がそのまま絶対者にほかならないということを示す句として有名であり、『われはブラフマンである』という句とともに、ウパニシャッドの思想を最も的確に表明する二大文章と呼ばれている。
「汝はそれである」というとき、ここで「汝」というのは、「われ」と対立している人をさすのであるから、一般的には個々の「個人存在」を意味しているのであると考えられる。その個別的な個人存在が、じつは「それ」とのみしかいわれないような、絶対のものである。「絶対のもの」は、ことばや名称、概念をもって説明することのできないものであるから、ただ「それ」といって指示する以外にしかたのないものである。だからここの個人存在は「それ」すなわち絶対者であるというのである。そうして「それ」というのが「有」なのである。それがまた、絶対の精神なのである。つまり、「有」ということと純粋の精神とが一致している。われわれの内奥なる自己はそれと同一のものである、といっているのである。
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これに就いては、無論後世における批判もあるようだが、続けてヨーガと馴染みの深いサーンキャ哲学の解釈を同書からまた引用したい。
◇◇◇
なにものも無からは生じないということは、後代にシャンカラやバースカラの主張したところであった。この主張が発展してインドの後代には「因中有果論」が成立した。・・・
このように、後代のヴェーダーンタ学派で重要となる純粋の「有」という観念がウパニシャッドの中に説かれている。これをとくに強調したのはウッダーラカであるが、かれが自分の子息に残した教えによると、世界の根本はただ「有」、「有り」とのみ言われるものである。・・・そして、多くのウパニシャッドの哲人たちにとっては、有は、真実(satya,truth)と同一視された。
ここではただひとつの根本原理のなかから現象世界が現れでたことを説いているのであるが、ではその根本原理は、精神的なものであるか、物質的なものであるか、ということが問題となった。
物質的なものであると解する人々もいた。世界開展のもとは、物質的なものでなければならぬというのである。のちのサーンキャ学派の想定する非精神的な根本原質(pradhana)のことであるにちがいないと考えた。
これに対して、ヴェーダーンタ学派は、ここでいう「有」は、精神的なものであり、アートマンであるに違いない、と主張する。そのわけは、右の個所では「思う」という精神作用に言及し、また世界原因はアートマンと呼ばれているからだ、という。
おそらくウッダーラカ自身はまだ「精神」とか「物質」という概念を考えていなかったのであろう。・・・
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上記の問題は、現代の物理学においても、物質の実在性についての疑問が投げかけられていることに鑑み、これ以上議論しても余り意味がないと思われるので、先に進めたい。
次に著者は、<有>からの世界開展ということを説明しているが、その出だしの部分のみ引用し、興味のある読者諸賢には、同書を直接読んで頂くこととしたい。
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ウッダーラカによると、根源としての<有るもの>は、純粋の有であるから、唯一者である。したがって、唯一者が開展して多となるのであり、一切の事物は唯一なる原因の変化したものである。ところで、ヴェーダーンタ学派の解釈によれば、この有はまた精神性を具有しているものである。有はすなわち精神なのである。従って、神として表象されている。そしてこの有が世界を開展しようと思うのである。すなわち、一つの原理から世界が発出するというのである。
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以上を要約すると、「有」とは「存在」であり、それは「神」であり、その唯一の神から世界が開展した(有情非常同時成道 草木国土悉皆成仏)。従って我々人間も、全員がその神の顕現であり、梵我一如、「汝はそれである」ということになろうか・・・
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。