アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第6章 ウパニシャッドの思想 ⑫ 俗世の超越とヨーガ 

2017年11月02日 13時36分10秒 | 第6章 ウパニシャッドの思想
 ここ数年来「断捨離」という言葉をよく聞くようになった。ヨーガに関係する書籍の中でも「捨離」とか「放擲」といった概念がよく使われるので、それらとの区別を明確にするため、この言葉を流行らせた、やましたひでこさんの公式サイトを念の為読んでみた。すると、「断捨離とは、モノへの執着を捨てることが最大のコンセプトです」と書いてある。単なる片付け術ではないのだ。しかし、ヨーガの「捨離」は更に進んでいる。モノだけではなく、俗世、お金、資産、地位などに対しても無執着となること(即ち放擲)を教えているのだ。そしてこの考え方は、ウパニシャッドまで遡るようである。中村元氏(以下、著者)は『ウパニシャッドの思想』(以下、同書)の第11章で、「世俗を超越する傾向」と題し、次のように書いている。

◇◇◇
 ヤージニャヴァルキャ(筆者註:ウパニシャッドの哲人の名前)は絶対者の主体性を説いた後で、『そのほかのものは[すべて]苦悩をもたらすのみ』と説いている。
 そして厭世観的な思想は、インドではその後ますます強まった。仏教やジャイナ教はいうまでもなく、正統バラモン系統にも現れている。
 『汝は捨てることによって楽しみを享受せよ。』
 われわれは世俗的な所有に悩まされないならば、世の中を楽しむことができる。われわれが貪りの欲望を抱かないならば、世界の主となり得る。他人との別異感をなくして、安らかな愛情を育むという意味での捨離(renunciation, tyaga)が強調された。・・・
◇◇◇

 さらに著者は、ヤージニャヴァルキャは「出家遍歴の生活に対する憧れを、もっとも明確に表明した哲人」であり、彼は「三つの欲望を捨てよ」と説いたと言う。

◇◇◇
 ウパニシャッドの哲学によると、自己と絶対者との一致(梵我一如)の理を体得すると解脱が得られるというのであるが、では「悟った人たちというのは、どのようになるのか、あるいは一般民衆は、どのように行動すればよいのか」という問題が起こる。・・・さとった人がどうなるかというと、ヤージニャヴァルキャの場合、三つの欲望を捨てよ、という。(一)子孫に対する欲望を捨てる。(二)財宝に対する欲望を捨てる。(三)世間に対する欲望を捨てる。そして遍歴遊行者となって、まるで蛇の抜け殻のようになって暮らすのである。そうしてその人が亡くなると、蛇がまわりの皮を捨ててひとりでに消えるように、かれもひとりでに消えて、絶対のブラフマンと合一する、とそう考えていたようである。・・・
◇◇◇

 著者は、「その後、インドの宗教家のうちでは、古来、家庭から離脱し世俗的生活から離れてひたすら自己の修養に努めていた出家修行者がその大部分を占め・・・古代・中世のインド宗教史全般として見るならば、出家修行者の生活が宗教的実践の理想として憧憬されるに至った」と続ける。
 しかし、「多くの学者は、シャンカラ哲学を前提としてウパニシャッドの本文を研究するから・・・現世超越的な思想にのみ注目する」が、「もろもろのウパニシャッドのうちには、現世肯定的な思想のほうが多く述べられている」と指摘している。更に引用を続ける。

◇◇◇
 ウパニシャッド聖典自体のなかには、種々の思想の萌芽が併存していた。それのどこを強調するかによって、のちの哲学学派の間の論争が成立したのである。だいたい出家主義の立場をとったのは、山奥に学問寺を建てた哲人シャンカラの系統に受け継がれた。反対に、近世のヴァッラバという哲人は、次のように主張した。「現実の世間に人々が住んで、家庭を営んでいるこの生活こそもっとも尊いものである。ブラフマンが絶対の者なら、その開展であるこの現象世界、われわれの日常生活 - これも絶対の意義がある、尊いものである」と。後代にも、このような思想的葛藤が起こったが、これらもウパニシャッドの源泉からの流れにもとづいているということができる。
◇◇◇

 因みに、ババジのクリヤーヨーガの教えは、「俗世の中に住みながらも、俗世のものにならない(つまり俗世に過度に巻き込まれない)」立場(中道と言って良いかもしれない)を強調しており、出家生活を特に推奨しているものではない。そういう点に限って言えば、上記引用部分に出てくるヴァッラバの考え方に近いと言えるだろう。

 続いてウパニシャッドとヨーガの関係について触れたい。著者は、「ウパニシャッドの哲人たちがヨーガの修行を行っていたことは、たしかな事実である」と述べ、次のように説明する。

◇◇◇
 <ヨーガ>は術語としては「心の作用を抑制すること」すなわち、外界からの影響に基づく心の作用を抑制することなのである。積極的にいうならば、「唯一なる原理を念じ続けること」であり、その<唯一なる原理>とはアートマンのことであると解すべきであろう。
◇◇◇

 また「ヨーガとはじつに起源であり、また帰入である」という『カータカ・ウパニシャッド』の句も引用し、さらに『マイトリ・ウパニシャッド』において「ヨーガ学派におけると同じようなしかたで、同様の術語を用いて述べている」と述べている。

◇◇◇
・・・ヨーガ学派で一般に規定するヨーガ実習法の八種のかわりに、『マイトリ・ウパニシャッド』では六種だけをあげている。その六種のうち五種(プラーナヤーマ、制感、瞑想、ダーラナ、三昧)はヨーガ学派の体系のなかに出てくる。そうして残りの三種(制戒、内制、坐法)のかわりに思慮(ターラカ)が現れる。
 とくに『マイトリ・ウパニシャッド』に説くヨーガが、制戒、内制、坐法をあげていないということは面白い。ヨーガ行者の生活規制や修行の外的条件はてんでかまわなかったのである。面倒な規制を述べるようになったのは後世の体系化以後のことであることが解る。・・・
 なおそのほかにヨーガに関する古い説明としては『アーパスタンバ・ダルマ・スートラ』をあげるべきであろう。また『マハーバーラタ』ではヨーガ説はサーンキャ説と並んで「悠久の昔からあるもの」と呼んでいる。さらに、パーニニはyogin(筆者註:ヨーガ行者)という語の形成法を述べている。『マイトリ・ウパニシャッド』にもこの語が出ているから、yoginという語の起源もかなり古いと考えなければならない。
◇◇◇

 尚、上記引用の内容に関し、筆者としては一言「異見」を述べておく必要性を感じている。「ヨーガ行者の生活規制や修行の外的条件はてんでかまわなかったのである」との部分に非常な違和感を覚えるのである。特にこの「生活規制」の部分は制戒と内制(禁戒と勧戒とも訳す)であり、特に制戒は不殺生、真実、不貪、不盗、不邪淫(或は禁欲)であり、修行者はおろか、一般人にとっても当然守るべき倫理或いは法であって、これが書いてないから、修行者な何をしても良かったということにはならないと思う。さらに内制は、清浄、苦行、聖典読誦、知足、自在神(最高神)祈念の五つを指すものであり、これらは或る意味で修業の内容そのものでもあるから、これらが書かれていなかったからといって、修行者がそれをしなくてよかったということにはなるまい。多分それでは修行が成り立たなくなってしまったであろう。まして、ウパニシャッドは主としてバラモンが読むことを想定して書かれた書物である。こうした基本的な倫理や修行の内容をいい加減にして、その他のヨーガ技法だけを習得すれば良いといったことではなく、恐らくは特にバラモンの修行者にとっては当然の「前提」として敢えて触れなかったと考えた方は筋が通っていると思う。ただ、最後の坐法(アーサナ)については、これはもともと長時間にわたって瞑想を行う姿勢を保つために、後世になって発展した種々のポーズであるから、これが抜けていることについては、別に驚くようなことではあるまい。因って筆者は、『マイトリ・ウパニシャッド』が書かれた時点で、後世(パタンジャリの時代)に見られるヨーガの体系は「坐法」の部分を除いて略完成していたものと観ている。

 最後に、同書から「絶対者の体験」に関する記述を引用しておきたい。

◇◇◇
 哲学的思索の発展とともに、絶対者そのものの体得が、理想の状態とみなされるようになった。インドではブラフマンの体得が解脱の理想と見なされた。・・・たとえば、究極の状態は次のように述べられている。 -
 『高きものおよび低き者なるそれ(アートマン)が見られたとき、心臓の結節は断たれ、一切の疑惑は除かれ、その人の業は滅する。』
 これは、絶対者を体得して悪業を除き去った人のことをいうのである。
 ウパニシャッドにおいては、めざすべき最高目標は、絶対者との合一であった。そうしてこの合一は、直観的な体験、すなわちわれわれの迷妄を除去することによってのみ達成されるのであった。迷妄を捨て去った人々のみが自己と絶対者との完全な合一を体現して解脱を得ると言うのである。現実世界の多様相の現れ出る根源を、インドの聖者たちは無明(無知、avidya)と呼んだ。
 『無知は滅する者であるが、明知は不死である』
 ただし<無知>ということばは、文化的伝統が異なるにしたがって異なった意義をもっていた。ウパニシャッドの哲人たちによると、無知を滅することによってアートマンの本性がおのずから現れ出てくる。本性が輝くのである。[アートマンという語は漢訳仏典では「性」と訳されることがしばしばある。]
◇◇◇

 この後、著者は「自己はもともと一体であるべきはずであるのに、なぜにそのことが自覚されていないのか?」など、依然として哲学的に究明されるべき問題が存在するが、それに対する確たる解答は、ウパニシャッドの中では示されていないようである。

 以上約三か月間にわたって『ウパニシャッドの思想』に書かれた重要な内容を一通り見てきたし、これでどうやらヨーガはウパニシャッドの頃には既に行われていたということも解った。そこで本章はこれまでとし、次章から、「ヨーガとサーンキャの思想」について考えて行くことにしたい。
 
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。



最新の画像もっと見る