アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第6章 ウパニシャッドの思想 ⑨ 自他一体

2017年10月12日 13時37分58秒 | 第6章 ウパニシャッドの思想
 引き続き中村元氏(以後著者)の『ウパニシャッドの思想』からの引用を続けて行く。同書第11章「倫理と解脱」では、先ず「倫理の基礎づけ」と題し、ヒンドゥーの利他主義を仏教やギーターとも比較しながら論じているが、その冒頭、業(カルマ)の教えに基づき、「利己主義的な倫理観に陥りがちなウパニシャッドが、いかに利他的な倫理を基礎付けえるのか」を説明している。

◇◇◇
 人間が倫理を基礎づけるしかたについて、ウパニシャッドの哲人たちの説くところに耳を傾けてみよう。
 ウパニシャッドにおいては業の教えを説くのであるが、その結果としてウパニシャッドにおいては道徳的要素が非常に重要な役割を果たすことになる。しかし業の教えにもとづく倫理は利己主義的になる恐れがあるであろう。すなわち業の教えによると、人は自分自身のなした行為の報いを受けなければならないからである。しからば人は他人が苦しむということに関して無関心となるかもしれない。このウパニシャッド哲学はいかにして利他的な倫理を基礎づけ得るのであろうか?
 
 この問いに対してわれわれは次のように答えることが出来るであろう。アートマンの形而上学節は深い倫理的な観念をもっている。すなわち自己と他人とが究極の根底においては同一のものであり、両者の対立はかりの対象形態にすぎない。ウパニシャッドにおいては、『汝はこの全世界である』と教え、『われは汝なり』というのが、自他不二の倫理の基礎にある確信となっている。ヤージニャヴァルキャによると、アートマンのゆえに我々は同朋である生きとし生けるものを愛するのである。われわれが個々の個人のうちにおいて愛するところのものは実は普遍我なのであるから、あらゆる生きとし生けるものに対する愛情は、根底的な我を認識することからおのずから湧き出てくるのである。
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 要約すると、「自己と他人とが究極の根底においては同一のものであり」その究極の根底とはアートマン(普遍我)である、ということが倫理観を基礎づけていて、「あらゆる生きとし生けるものに対する愛情は、根底的な我を認識することからおのずから湧き出てくる」との趣旨である。

 そして、それは仏教の「無我」と同一のものであると言い、更に引き続きギーターからも引用している。

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 それは狭い対立的自我の殻を破ることであり、我執を離れることである。その境地を仏教では<無我>と呼び、『マイトリ・ウパニシャッド』においても、
『 [個我は]「それはわれである」、「これはわがものである」と、このように考えて、みずから自己を束縛するあたまも鳥が網によって[自己を縛る]ようなものである。』
といい、このような束縛から離脱すべきことを教える。『バガヴァッド・ギーター』は、
 『一切の愛欲を捨てて、欲求なく、わがものの観念なく、自我の観念のない人は、寂静に達する』(第2章71節)
と教えている。
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更に、著者は哲学者ドイセンの著作からも引用する。

◇◇◇
 ドイツの哲学者ドイセンはいった。
 『<汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ>(マタイ第19章19節)という道徳の最高の理法を、もろもろの福音書は全く正しく確立する。しかし自然界の秩序のうちにあっては、わたくしは苦楽(快感と苦痛感)をわたくし自身の内にのみ感じるのであって、わたくしの隣人のうちには感じないのに、何故にわたくしは隣人を愛さなければならないのであろうか? その答えは聖書のうちにあるのではなくて、ヴェーダのうちに、「汝はそれなり」という偉大な格言のうちに存する。それは三つの語のうちに形而上学と倫理とを結合し尽しているのである。汝は汝の隣人を汝自身の如くに愛すべきである。なんとなれば汝は汝の隣人にほかならないからである』
 わたくしの身辺のいかなる人でも時間的空間的に異なった点にあり、存在する程度を異にしている<わたくし自身>にほかならないのである。人が一切の生きとし生けるものは自分自身にほかならないと体得したときに、人はもはや利己的に行動することなく、一切の生きとし生けるもののために活動することとなるのである。
◇◇◇

 更に同書からの引用を続ける。

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 アメリカの有名なサンスクリット学者エジャトンも主張する。
 『<人は他人を自分自身と同様に扱わなければならない>という黄金律は、キリスト教におけると同様にヒンドゥー教の倫理においても重要である。のみならず、それはさらに広範囲におよぶのである。なんとなれば、それは獣にまでも適用されるのであるから。獣は人間と同様に業(カルマン)の支配を受けて輪廻のうちに堕在しているのである。それは無傷害、すなわち「いかなる生きものをも害するなかれ」という教えのうちに要約されている。
 さてキリスト教においては、この教えは、わたくしの見る限りでは、ただ思慮ある人々の本性に訴えることにもとづいている。しかしヒンドゥー教では、それは形而上学的な基盤をもっている。各個人の精神または真実の自己は宇宙のそれと同じであるということ、すなわち「汝はそれなり」ということは、上述のウパニシャッドの教説からの論理的帰結であり、その教説は、インドではつねに広く認められてきた。同一のものに等しい諸事物はおたがいに等しいから、そこで自分自身の自己をあらゆる他人の自己と同一視しなければならないということになる。もしも人が他人を害なうならば、じつは自己自身を害うことになるのである。もしも諸前提を承認するならば、もはや論理的には斥け得ないようなしかたで、黄金律がこのようにして証明されるのである。それゆえに、至上の徳ある人は、ありきたりの決まりに従って生きているあいだでも、「自分自身を一切の生けるものどもの自己と同一ならしめ」「一切の生きとし生けるものの幸いを喜ぶ」のである。』
 こういう説明は西洋人一般にとってはなかなか受けつけにくいものであり、西洋人あるいは西洋人化した日本人のあいだからは当然反発が起こるであろう。しかし、西洋人たちのあいだからこういう評価が生まれたことは注目に値する。そうして右の諸立言は少なくとも、倫理の根本問題に関する説明のしかたにおける創意を明らかにすることには貢献したと言えるであろう。
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 次に著者は、ウパニシャッド哲学とキリスト教との差異を無視しようとするクマーラスワーミーの主張を引用する。

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 あらゆる真の宗教が一致して商人するところの倫理の基礎を問題として、スリランカ人の思想家クマーラスワーミーは、ウパニシャッド哲学とキリスト教とのあいだに存する差異を無視しようとする。かれはいう。
 『われわれが「他人」に対してなすことがらはなんであろうとも、じつは、かれらの自己でもあるところの我々の自己に対してなされるのであるというのではないならば、われわれがなされたいように他人に対してもなさなければならないということの形而上学的基盤が存在しないことになってしまうであろう。その原理は黄金律のなかに内含されているのであるが、ただほかの[教説]においてはもっとはっきりとあらわにされているだけである。われわれの親族を<憎め>という命令(ルカ第14章26節)は同じ見地から理解されねばならない。ここにいう<他人>がもはや愛の対象とならないことは、「我」がもはや愛の対象とならないのと同じである。愛されるべきものは<われわれの>親族または隣人としてではなくて、われわれの<自己>としてである。われわれのうちにおいて神我あいするところのものはただかれ自身であるように、われわれがお互いのうちに愛すべきところの者は神なのである。』
 この議論は、ヒンドゥー教的見解をあまりにも推し進めているとか、ルースにすぎるとか批判されるかもしれないが、しかし東西における思惟方法の相違を通じてある普遍的なものを示してくれるので、その点は無私できないであろう。ヒンドゥー教の利他主義の根本観念は、次の句のうちに現れる。
 『すべての生けるものどものうちに自己を見、また自己のうちにすべての生けるものどもを平等に見て、自己を犠牲にして、自己を支配するにいたる。』
 この句は、インドにおける利他主義の表明としてしばしば引用されるものである。利他主義の成立する所以を、クマーラスワーミーはさらに説明していう。
 『愛の法則はそれが知られているから遵奉されるべきものではなくて、人生は愛することのうちにあるからこそ愛の法則を遵奉すべきなのである。普遍的な自己を体得する人は、あらゆる人間が理想の王国に属すると見ているのである。人間の精神は、究極においては、互いに融合しているものでなければならない。アートマンをね月ということは一切の生存しているものどもに本来具有するものであり、また自分自身をアートマンであると知る人にとっても同様に、「それ(=ブラフマン)はタドヴァナ(それへの欲求)と名づけられる。かれはタドヴァナとして崇拝されるべきである。これをかくのごとく知る人があるならば、じつにその人を一切の生存者は敬慕する」という。アリストテレースも「愛されるものはそれらを動かす」という。』
 いまここでは、南アジアの伝統においては、一元論が利他主義を基礎づけるものであると考えられ、またそれに対応する思想が西洋にもあったということを指摘するにとどめておこう。
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 以上、著者は仏教、キリスト教などを引用しながら、「倫理」の基礎は不二一元論に存するということを主張しているものと思う。結果として本稿はすべて同書からの引用になってしまい、筆者としてはそれ以上に付け加える必要性は感じないのであるが、「万物はすべて神の差別相の現れである」という汎神論を主張したスピノザも、その主著「エチカ」(英語で言えば、Ethics、即ち「倫理」)を著したその根底において、殆ど同様の考えを持っていたものと推察している。

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