アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第6章 ウパニシャッドの思想 ⑧ 臨終正念とカルマ

2017年10月05日 20時05分25秒 | 第6章 ウパニシャッドの思想
 臨終正念というのは、余り耳慣れない言葉かも知れないので、先ずはその定義をネットの辞書(大辞林)から引用してみると、「臨終の際、心を乱すことなく、阿弥陀仏にひたすら念じて極楽往生を願うこと」と書いてある。これだけだと簡単過ぎるので、更に調べたところ、専光山慈本寺の御住職のこんな法話も出てきた。

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 「臨終正念」とは、命終わるときに臨んで、迷いの心を捨てて、安らかな心を得ることをいいます。
 仏法では、すべての事象は「生死の二法」または「生滅の二法」に括られると説きます。すなわち、この世に表れたあらゆる事象は、永遠にその事象が存在していくのではなく、常に変化し消滅の方向へ向かっているのです。また、消滅した事象は時間の経過を経てまた世に表れてくるのです。簡単にいえば、生まれたら死に、死んだら生まれるということです。
 このように「生死の二法」は普遍の法則です。ゆえに、私たちも生まれた以上死ななければなりません。それを、自分だけは永遠に生きることができるのではないかと錯覚して、生きることばかりを考えて行動をするから、貴重な人生を誤ったり、また、死のなんであるかを知らないために、死の苦しみを味わわなければならないのです。もちろん、今生の人生は一度しかありません。しかし、「生死の二法」から見てみますと、死は次に生まれてくる生のはじまりです。ゆえに、今生の生しか考えないのは誤りです。
 このような意味から、臨終は人生の最後の締めくくりとして、また、次の生を迎える大切な一瞬といえます。
 例え今生が不幸な一生であったとしても、臨終を心安らかに迎えることができれば、次の生はおおいに期待できるのではないでしょうか。
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 輪廻転生を引き合いに出すまでもなく、確かに臨終は人生の締め括りとして大事な一瞬ではあるが、ここで阿弥陀仏をひたすら祈念すること、それだけで、本当に極楽往生できるのだろうかという疑問は残るかも知れない、否、殆どの読者諸賢は疑問を感じるに違いない。

 ところで、これに近い概念はキリスト教においても見られることはご存知だろうか?興味深いので、この臨終正念に該当すると思われる個所をウィキペディア(出典はニコデモ福音書)から引用する。

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 イエスと共に十字架につけられた二人の男の名はデュスマスとゲスタスと呼ばれる悪党である。ニコデモ福音書第十章に二人の会話があるので参考までに載せる。
一緒に十字架につけられた悪党の一人が悪態をついてイエスに言った、「もしもお前がキリストならば、自分で自分を救い、また俺達を救ってくれればいいだろう。」デュスマスという名の男の方が相手を叱って言った、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れることをしないのか。俺達には当然のことさ。俺達は自分のやったことにふさわしい罰を受けているのだからな。しかしこの方は何の悪いこともしておいでではないのだぞ。」そして言った、「主よ、汝の御国にて私を思い出して下さいますように。」イエスは彼に言った、「まことにまことに汝に告ぐ、今日汝は我と共に天国にいるであろう。」
この男の記述が同じ文書の第26章にある。 このように彼らが話していると、そこに、もう一人、肩に十字架を背負った卑しい人が来た。この人に聖なる父祖達は言った、「あなたは強盗のように見えますが、それに肩に十字架をかついでおいでですが、いったいどなたですか。」その人が答えるには、「あなた方がおっしゃるように、私は世の中にいた時は強盗、盗人でした。それでユダヤ人達は私をつかまえ、十字架の死刑に処したのですが、それはちょうど私達の主イエス・キリスト様と同時でした。主が十字架にかけられ給うた時に、いろいろな奇跡がおこり、それを見て私は信じました。私はキリスト様に呼びかけて言いました、主よ、あなたが王として支配なさる時、どうぞ私のことをお忘れにならないで下さい、と。するとすぐに主は返事をして下さり、まことにまことに汝に言う、今日すでに汝は我と共に天国にいるであろう、と言われたのです。それで私は自分の十字架をかついで天国に来たのですが、そこで大天使ミカエル様にお会いしましたので、申しました。十字架につけられた私達の主イエス様が私をここにつかわし給うたのです。ですからエデンの園の門の中に私を入れて下さい、と。すると(入り口にある)燃えている剣が、十字架の徴を見て、開き、私は入ることができました。そうして、大天使様が私におっしゃいました、しばらく待っているがよい、人類の始祖であるアダムが義人達と共に来て、彼らもまた中にはいって来るから、と。というわけで今、あなた方をお見受けしたので、お迎えに参ったところです。」
 これらのことを聞いて聖者達はみな大声で叫んで言った、「我らの主キリストは偉大なるかな。その御力は偉大なるかな。」
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 このニコデモ福音書に紹介されたような罪人の事例が仏教においても同様に当てはまるかどうかまでは判らないが、この場合は或る意味仏教より更に過激で、たとい罪人として悪業を重ねたとしても、臨終の瞬間に回心さえすれば、(それまでの地上生活での悪業即ちカルマを問われることなく)天国に入ることが出来るというものである。

 これまで見てきた『ウパニシャッドの思想』の中でもこの問題が取り上げられているので紹介しておきた。

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 さて輪廻を認めるとすると、人が死んでから、天に生まれたり(筆者註:天界を指す)、良い境遇に生まれることもあれば、また虫けらに生まれかわることもあり得るわけである。その際はなにによって起こるのであるか、シャーンディリヤの説によると、
 『人はじつに意向からなる。人がこの世においていかなる意向をもったとしても、この世を去ったのちに、かれはそのとおりに意向がかなう。[それゆえに]人は意向を[正しい方向に]定めるべきである』
という。これも種々の解釈を成立させる余地があるが、ともかく人は死後に、平常、心に思っていたとおりのものとなる、というのである。これは特に臨終に心に念ずることを重んずるわけである。
 臨終に念ずるとおりになるという思想は、そののちヒンドゥー教でも協調されたし、また仏教にも継承され、後の浄土教では臨終正念を強調するようになった。
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尚、これに近い考え方は、中村元氏が指摘した通り、ヒンドゥー教(ギーター)においても見られるので、後にその部分を引用するものとし、取り敢えずここでは、『ウパニシャッドの思想』からの引用を続ける。

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しかしここで問題が起こる。人は死後のことを念じ願っているだけでよいのであろうか? 勝手なことをしたり、悪いことを行ってもかまわないのであろうか?
そこで別の思想が起こり、これが後代のインドでははるかに有力となった。それは、人間の死後の運命を決めるものは、生前の行為のいかんによる、という<業>(Karuman)の思想である。
業の観念は、ウパニシャッドの時代においては新しいものであった。そうしてそれは公に論ずることの出来ないものであった。ある人が人間の死後の運命について尋ねたときに、ヤージニャヴァルキャは「これについてはわれら二人のみが知っていることにしよう。このことは、公けに語るべきことではない」といって、二人で人のいないところへ行って、業について対談し、業を讃嘆した。そうして、じつに人は善業によって善い者となり、悪業によって悪い者となると語った。ここに業の観念がはっきりと明示されている。・・・
ヤージニャヴァルキャは他の対話においては、魂が身体から脱出する過程を詳細に生き生きと述べている。人が死ぬと、かれの明知と業と過去についての記憶とがかれにしたがって移って行くという。かれは、個我の中心としての霊魂すなわちアートマンは、身体を去ってのちに、直ちに他の身体に入ると考えていたもののごとくである。それはあたかも蛭が草の葉から他の草の葉に移るようなものであり、あるいは黄金の細工をなす人が新たに黄金の材料をとって、さらに美しい細工物をつくり出すようなものである、という。
またウパニシャッドの哲人ヤージニャヴァルキャは輪廻を考えていたわけであるが、しかし、ウパニシャッドのなかでは、一般に、原始仏教聖典におけるように、過去を反省して長いあいだの過去世を語ることはない。ともかく、この場合には、ヤージニャヴァルキャはアートマンをただ個人的霊魂とでもいうべきものとして考えていた。ところが、以前に紹介したもろもろの対話において主題とされたアートマンは単なる個人的霊魂ということはできない。それは絶対者としての意義をもっている。むしろ世界霊魂あるいは真実の自己とでもいうべきものである。故にアートマンにはこの二義があると考えられていた。すなわち、つきつめていうならば、この二種のアートマンの区別を考えねばならぬのである。ヤージニャヴァルキャはこの二種のアートマンの区別及び関係を十分に自覚していなかった。この問題が後のヴェーダーンタ哲学においてさかんに論議を惹き起こすにいたるのである。・・・
以上に述べたように、臨終正念を重んじる思想と、業を想定する思想とは互いに矛盾している。この矛盾をどう解決するかということは、後代インドの哲学者たちに委ねられることになった。ウパニシャッドのうちにはまだ解決は得られていない。
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以上の通り、ウパニシャッドにおいて、臨終正念を重んじる思想と、業を想定する思想との矛盾は解決されていないというのが、中村元氏の結論である。

因みに、この臨終正念についてギーターがどのように取り上げているか、第8章5節から16節までを引用する。因みに、引用文の中の「私」は至高神であるクリシュナを指す。
 
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・臨終の時、私のみを念じて肉体を脱して逝く者は、私の状態に達する。この点に疑いはない。
・臨終において、人がいかなる状態を念じて肉体を捨てようとも、常にその状態と一体化して、まさにその状態に赴く。
・それ故、あらゆる時にわたしを念ぜよ。そして戦え。私に意(こころ)と知性をゆだねれば、疑いなく、まさに私のもとに来るであろう。
・常習のヨーガに専心し、他に向かわぬ心によって念じつつ、人は神性なる最高のプルシャに達する。
・ヴェーダ学者はそれを不滅のものと述べ、離欲の修行者はそれに入り、人々はそれを望んで梵行(禁欲行)を行う。その境地をあなたに簡潔に語ろう。
・身体の一切の門を制御し、意(マナス:思考器官)を心中において遮断し、自己の気息を頭に止め、ヨーガの保持に努め、
・「オーム」という一音のブラフマン(聖音)を唱えながら私を念じ、肉体を捨てて逝く者、彼は最高の帰趨に達する。
・常に心を他に向けることなく、たえず私を念ずる者、その常に[私に]専心したヨーギンにとって、私は容易に到達される。
・私に到達して、最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。
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 ここで注意しなければならないのは、先に引用した仏教で言う「極楽往生」は、必ずしもギーターが説く「最高の帰趨」即ち「解脱」とは同一ではないと思われることである。無論仏教にも「解脱」という概念はあるが、臨終の際に念仏を唱えることによる「極楽往生」は、解脱(即ち輪廻転生しなくなること)ではなく、「天界」に生まれ変わることではないかと思われる(ニコデモ福音書でいう天国も「天界」を指すのであろう)。つまりそれは、六道輪廻の内に数えられる「天人」になるということであり、又「人間」に生まれ変わることを前提としている世界なのである。従って、当然ながらギーターの説く臨終の際に行うべきこと(要件)の方が、仏教やキリスト教で紹介されている「臨終正念」よりは遥かに難しい。
 
 最後に、簡単ではあるが中村元氏の『ブッダ伝』から、死んだ後「あの世」に持って行くものは何なのかを書いてある部分を参考までに引用しておく。

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 もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは、容易ではないからである。・・・ 人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを執って[身につけて](筆者補足:あの世或いは次生に)おもむく。それは、彼に従うものである。(出典:サンユッタ・ニカーヤ)
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 要は、臨終の時だけ神に縋るのではなく、平素から徳(善行即ち良いカルマ)を積む心掛けが重要だと解すべきであろう。

 蛇足かも知れないが、更に付け加えるなら、「天界」も幾つかの階層(シュタイナーによると9つの階層があるという。ユダヤ教では7階層だという・・・)に分れているので、「天国」に行くといっても、ピンキリである筈であり、より高い層に達せんと欲すれば、普段から善行或は修行を心掛けることは当然のことなのであろう。

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