多分普通の日本人が「ダルマ」という言葉から連想するのは、縁日などで良く売られている縁起物の赤い起き上がりこぼしであり、或いはそのモデルとなった達磨大師くらいであって、「美徳」、「義務」、「法」といった意味を汲み取ることのできる人は、仏教やインド哲学に精通した人に限られるのかも知れない。しかし、これは非常に重要な概念なので、こうした哲学或いは宗教の分野を学ぼうとする者にとって、それを正しく理解しておくことは必須の要件になると思う。そこで、早速中村元氏(以下、著者)の『ウパニシャッドの思想』から、その語義を説明している個所をかいつまんで引用してみる。
◇◇◇
ダルマ(法、dharma)の観念は、インド、特に倫理思想において中心的位置を占めるものである。そして、それはギリシアの「ロゴス」、シナの「道」という観念に対比される。
しかし、ダルマがロゴスや道に相当するものであるかどうかは問題である。ロゴスは、その原義においては、むしろサンスクリット語のヴァーチ(ことば)に相当するものであるということが、すでに学者に認められている。・・・
これに反して、ダルマは、かえってギリシア人のディケーあるいはノモスの観念に対比されるべき側面をもっている。・・・
一方、ダルマがシナの「道」の観念に近いものであるということは疑いない事実であるけれども、漢訳仏典においては、ダルマは「道」とは訳されないで、「法」と訳されている。・・・
ダルマは特に倫理的規範としての意義が強いという特徴に注視するならば、ダルマに対比されるべきはギリシアのノモス、シナの「礼」であると考えられるので、その視点からの詳しい比較研究も行われている。ヒンドゥー教の法典の細かな規定を念頭に置くならば、この比較は当を得ているというべきであろう。・・・
Dharmaという語は、(たもつ、支持する、担う)という語根からつくられた男性名詞である。・・・
ともかくdharmaは「たもつ」「支持する」「担う」という意味の語根からつくられた語であるが、一般に-manあるいは –maという接尾語を付して形成された名詞は、はたらきの主体を示す名詞である。だからdharmaの原義は、「たもたれるもの」ではなくて「たもつもの」である。いっそう明瞭にいえば、「人間の行為をたもつもの」といい得るであろう。すなわち「規範となって人間の行為をたもつもの」なのである。近代の研究者は、ダルマを一言で定義すれば、「行為の規範」あるいは「行為の規則」であると解する。したがって、自然界の秩序とは別のものであると考えられる。したがってそれは「慣例」「習慣」「風習」さらに「なすべきこと」「つとめ」「義務」という意味になる。・・・
◇◇◇
簡単に纏めると、ダルマは、「行為の規範」或いは「義務」といった意味で捉えれば問題ないということになろう。
次に、著者はダルマの倫理的意義について語る。著者は、ダルマには、「慣例」「習慣」「風習」という意味があるとしたうえで、更に説明を続ける。
◇◇◇
さらに、この慣例、習慣、風習は、その当時の社会においては社会の各成員がしたがい、守らねばならないことであるから、その遵守すべき点を強調して、ダルマは「なすべきこと」「つとめ」「義務」の意味に用いられるにいたる。たとえば、『シャタパタ・ブラフマーナ』によると、バラモンの守るべき四種の義務とは、「バラモンの家系の出身の者であること」、「バラモンたるに相応しい行動」「名誉を保つこと」、「世人を教導すること」であり、これに対して『教導を受ける世間の人々は、四種の義務(ダルマ)をもってバラモンに奉仕する』といい、その四種とは「尊敬」「布施」「バラモンを傷つけてはならないこと」「バラモンを殺してはならないこと」であると定めている。すなわちバラモンが世間の人々に対し、また世間の人々がバラモンに対して、守るべき義務がそれぞれに四種ある。そうして、その守り行うべき義務が、彼らをそれぞれの資格に保つからダルマなのである。
◇◇◇
上記を読むと、カースト制度は当時から社会の規範であり、人々を拘束すると共に、ダルマという概念がそれを支えていたということが良く判る。おそらくは、現代においても、カーストを守ることは、インド人にとっての「ダルマ」なのであろう。更に先を続けよう。
◇◇◇
ところで、以上のような、社会の規定した一定の行為のしかたに対して、各個人はそれに服従するとともに、またこれに背くこともあり得る。従って、社会はその行為のしかたを社会の各成員に強制し、これに背反する者を処罰しなければならない。故に、人間の行為の規範としてのダルマは権力をもってする制裁の観念を包含するものとなり、ついには「法律」の意味をもあわせて持つにいたった。・・・法律は権力によって社会の各成員にその遵守を強制する。そうして、その権力を掌握し、講師していたのがクシャトリヤ、すなわち王族(或は武士族)であった。国王は「法律の擁護者」とされた。そうして、王族の本質は、じつに法律を維持することに存すると考えられていた。・・・
そうして、このダルマによって弱者もその生活を擁護され、強者もむやみに弱者を迫害し得ないのであり、いな、弱者もダルマの力をかりるならば強者をも支配し得るということを当時のインド人は既に自覚していた。・・・
◇◇◇
ウィキによると、「法の支配」が、明確な形としてあらわれたのが中世のイギリスにおいてであることには、ほぼ異論がないとされているようであるが、これが紀元前数世紀のインドにおいて既に確立されていたことは、驚くべきことだと思う。更に続ける。
◇◇◇
・・・以上、ダルマは種々に考えられているが、その共通性を求めれば、人間的合一(筆者註:行為の規範によって人間結合を実現すること)を実現しようとする方向に向かって人間の行為を規定する規範、決まりといい得るであろう。したがって漢訳の「法」という文字がよく適合するし、またその目指す方向に即して考えるならば、「善」あるいは「徳」の意味であろうと、近代の研究者は推定している。・・・
以上、種々に考察したように。ダルマは、人間結合を実現するように人間をたもつものであるから、したがって、ダルマは、人間の現実生存における「真実」を起させるものでなければならない。すなわち、ダルマそのものが主体的な意味における「真理」であると言い得よう。したがって、ウパニシャッドにおいては、ダルマはサトヤ(真実或は真理)と同一視されている。・・・
こういうわけで、後期のウパニシャッドにおいては、人間結合を実現するための行為の規範としてのダルマが、全世界の根底であり、万物はダルマにおいて安住しているのであるという思想にまで到達するに至った。
◇◇◇
上記引用文の最期に、「人間結合を実現するための行為の規範としてのダルマが、全世界の根底であり、万物はダルマにおいて安住している」との表現があるが、それではダルマを認識することは絶対者の認識と同じなのであろうか? 以下がその答えである。
◇◇◇
・・・『シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド』によると、最高の原理としての神は、「三重の別の道を有する」といわれているが、この「三重の別の道」とは、法と非法と知(jnanaすなわち絶対者の認識)とであるとされている。ゆえに、ここでも絶対者の認識、解脱はダルマには摂せられないものとされている。そうして、その後千年以上を経過した後世になっても、ウパニシャッドの思想にもとづくシャンカラの哲学は、ブラフマンの認識とダルマの実行とを対立させて、はっきりと区別している。
◇◇◇
ということでダルマの実行と「絶対者の認識」とは別物であるということではあるが、絶対者の認識のためにダルマの実行が必要であることは間違いないものと思う。
最後に、この「ダルマ」という言葉が、ギーターの中でどのように使われているか、そのうちの幾つかを例示して本稿の締め括りとしたい。
◇◇◇
・私(筆者註:クリシュナを指す)は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に依存して、自己の幻力により出現する。(第4章6節)
・実に美徳(ダルマ、正法)が衰え、不徳(非法)が栄える時、私は自身を現わすのである。(第4章7節)
・あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。それ故、あなたは万物について嘆くべきではない。(第2章30節)
・更にまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても戦慄くべきではない。というのは、クシャトリヤにとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。(第2章31節)
・以上、サーンキャ(理論)における知性が説かれた。次にヨーガ(実践)における知性を聴け。その知性をそなえれば、あなたは行為の束縛を離れるであろう。(第2章39節)
・ここにおいては、企てたことが消滅することなく、退転することもない。この[ヨーガの]教法(ダルマ)のごくわずかでも、大なる恐怖(輪廻)から人を救済する。(第2章40節)
◇◇◇
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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ダルマ(法、dharma)の観念は、インド、特に倫理思想において中心的位置を占めるものである。そして、それはギリシアの「ロゴス」、シナの「道」という観念に対比される。
しかし、ダルマがロゴスや道に相当するものであるかどうかは問題である。ロゴスは、その原義においては、むしろサンスクリット語のヴァーチ(ことば)に相当するものであるということが、すでに学者に認められている。・・・
これに反して、ダルマは、かえってギリシア人のディケーあるいはノモスの観念に対比されるべき側面をもっている。・・・
一方、ダルマがシナの「道」の観念に近いものであるということは疑いない事実であるけれども、漢訳仏典においては、ダルマは「道」とは訳されないで、「法」と訳されている。・・・
ダルマは特に倫理的規範としての意義が強いという特徴に注視するならば、ダルマに対比されるべきはギリシアのノモス、シナの「礼」であると考えられるので、その視点からの詳しい比較研究も行われている。ヒンドゥー教の法典の細かな規定を念頭に置くならば、この比較は当を得ているというべきであろう。・・・
Dharmaという語は、(たもつ、支持する、担う)という語根からつくられた男性名詞である。・・・
ともかくdharmaは「たもつ」「支持する」「担う」という意味の語根からつくられた語であるが、一般に-manあるいは –maという接尾語を付して形成された名詞は、はたらきの主体を示す名詞である。だからdharmaの原義は、「たもたれるもの」ではなくて「たもつもの」である。いっそう明瞭にいえば、「人間の行為をたもつもの」といい得るであろう。すなわち「規範となって人間の行為をたもつもの」なのである。近代の研究者は、ダルマを一言で定義すれば、「行為の規範」あるいは「行為の規則」であると解する。したがって、自然界の秩序とは別のものであると考えられる。したがってそれは「慣例」「習慣」「風習」さらに「なすべきこと」「つとめ」「義務」という意味になる。・・・
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簡単に纏めると、ダルマは、「行為の規範」或いは「義務」といった意味で捉えれば問題ないということになろう。
次に、著者はダルマの倫理的意義について語る。著者は、ダルマには、「慣例」「習慣」「風習」という意味があるとしたうえで、更に説明を続ける。
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さらに、この慣例、習慣、風習は、その当時の社会においては社会の各成員がしたがい、守らねばならないことであるから、その遵守すべき点を強調して、ダルマは「なすべきこと」「つとめ」「義務」の意味に用いられるにいたる。たとえば、『シャタパタ・ブラフマーナ』によると、バラモンの守るべき四種の義務とは、「バラモンの家系の出身の者であること」、「バラモンたるに相応しい行動」「名誉を保つこと」、「世人を教導すること」であり、これに対して『教導を受ける世間の人々は、四種の義務(ダルマ)をもってバラモンに奉仕する』といい、その四種とは「尊敬」「布施」「バラモンを傷つけてはならないこと」「バラモンを殺してはならないこと」であると定めている。すなわちバラモンが世間の人々に対し、また世間の人々がバラモンに対して、守るべき義務がそれぞれに四種ある。そうして、その守り行うべき義務が、彼らをそれぞれの資格に保つからダルマなのである。
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上記を読むと、カースト制度は当時から社会の規範であり、人々を拘束すると共に、ダルマという概念がそれを支えていたということが良く判る。おそらくは、現代においても、カーストを守ることは、インド人にとっての「ダルマ」なのであろう。更に先を続けよう。
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ところで、以上のような、社会の規定した一定の行為のしかたに対して、各個人はそれに服従するとともに、またこれに背くこともあり得る。従って、社会はその行為のしかたを社会の各成員に強制し、これに背反する者を処罰しなければならない。故に、人間の行為の規範としてのダルマは権力をもってする制裁の観念を包含するものとなり、ついには「法律」の意味をもあわせて持つにいたった。・・・法律は権力によって社会の各成員にその遵守を強制する。そうして、その権力を掌握し、講師していたのがクシャトリヤ、すなわち王族(或は武士族)であった。国王は「法律の擁護者」とされた。そうして、王族の本質は、じつに法律を維持することに存すると考えられていた。・・・
そうして、このダルマによって弱者もその生活を擁護され、強者もむやみに弱者を迫害し得ないのであり、いな、弱者もダルマの力をかりるならば強者をも支配し得るということを当時のインド人は既に自覚していた。・・・
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ウィキによると、「法の支配」が、明確な形としてあらわれたのが中世のイギリスにおいてであることには、ほぼ異論がないとされているようであるが、これが紀元前数世紀のインドにおいて既に確立されていたことは、驚くべきことだと思う。更に続ける。
◇◇◇
・・・以上、ダルマは種々に考えられているが、その共通性を求めれば、人間的合一(筆者註:行為の規範によって人間結合を実現すること)を実現しようとする方向に向かって人間の行為を規定する規範、決まりといい得るであろう。したがって漢訳の「法」という文字がよく適合するし、またその目指す方向に即して考えるならば、「善」あるいは「徳」の意味であろうと、近代の研究者は推定している。・・・
以上、種々に考察したように。ダルマは、人間結合を実現するように人間をたもつものであるから、したがって、ダルマは、人間の現実生存における「真実」を起させるものでなければならない。すなわち、ダルマそのものが主体的な意味における「真理」であると言い得よう。したがって、ウパニシャッドにおいては、ダルマはサトヤ(真実或は真理)と同一視されている。・・・
こういうわけで、後期のウパニシャッドにおいては、人間結合を実現するための行為の規範としてのダルマが、全世界の根底であり、万物はダルマにおいて安住しているのであるという思想にまで到達するに至った。
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上記引用文の最期に、「人間結合を実現するための行為の規範としてのダルマが、全世界の根底であり、万物はダルマにおいて安住している」との表現があるが、それではダルマを認識することは絶対者の認識と同じなのであろうか? 以下がその答えである。
◇◇◇
・・・『シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド』によると、最高の原理としての神は、「三重の別の道を有する」といわれているが、この「三重の別の道」とは、法と非法と知(jnanaすなわち絶対者の認識)とであるとされている。ゆえに、ここでも絶対者の認識、解脱はダルマには摂せられないものとされている。そうして、その後千年以上を経過した後世になっても、ウパニシャッドの思想にもとづくシャンカラの哲学は、ブラフマンの認識とダルマの実行とを対立させて、はっきりと区別している。
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ということでダルマの実行と「絶対者の認識」とは別物であるということではあるが、絶対者の認識のためにダルマの実行が必要であることは間違いないものと思う。
最後に、この「ダルマ」という言葉が、ギーターの中でどのように使われているか、そのうちの幾つかを例示して本稿の締め括りとしたい。
◇◇◇
・私(筆者註:クリシュナを指す)は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に依存して、自己の幻力により出現する。(第4章6節)
・実に美徳(ダルマ、正法)が衰え、不徳(非法)が栄える時、私は自身を現わすのである。(第4章7節)
・あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。それ故、あなたは万物について嘆くべきではない。(第2章30節)
・更にまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても戦慄くべきではない。というのは、クシャトリヤにとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。(第2章31節)
・以上、サーンキャ(理論)における知性が説かれた。次にヨーガ(実践)における知性を聴け。その知性をそなえれば、あなたは行為の束縛を離れるであろう。(第2章39節)
・ここにおいては、企てたことが消滅することなく、退転することもない。この[ヨーガの]教法(ダルマ)のごくわずかでも、大なる恐怖(輪廻)から人を救済する。(第2章40節)
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PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。