アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第11章 限りない光への道 ③イエスの実像(?)

2010-10-15 20:31:41 | 第11章 限りない光への道
イエスの生涯に就いては、生まれた当時の話や、布教開始前後から復活までの記載は聖書にあるものの、何故か12歳頃から30歳頃の間、彼が何をしていたのかは何も書かれていない。

ところで、インターネットでクムラン宗団(エッセネ派:前節参照、マリア・イエスが所属していたとされる)に就いて調べると、興味深い記述が見つかる。全くの偶然だが、まさに「イエスの実像を探る」という題名のHPで、その中に「死海文書とクムラン宗団(エッセネ派)」というくだりがあり、前節で述べた“光の子”という表現も出ているので、そのHPから適宜引用させて頂く。

「イエスの教えと行動に入る前に、洗礼者ヨハネとクムラン宗団(エッセネ派)についてのページがしばらく続きますが、これはイエスの青年期から宣教活動の空白期間を埋める重要な要素ですので、難しい話が続きますがご辛抱ください。」との書き出しで始まり、
「自らを“光の子”(共同体の成員をそう呼ぶ)らとして自分達の間では他のユダヤ人以上に強い相互愛を有するとし、闇の子ら(成員以外の人)に対しては「憎む」集団とする。」
「・・・クムランの聖餐の祭儀の順序は、パンに対する祝祷が最初で次にぶどう酒に対する祝祷が続くが、この順序は決して変更されない信仰によるものであり、この形こそ来るべきメシア到来の暁に行われる祝宴の原型とされているものです。伝統的ユダヤ教の祝祭の食事は、ぶどう酒が先でパンが後であり、ぶどう酒が出された時点ではパンに覆いが被されています。クムランの毎回の食事は、聖なる食事であり、聖餐の意味を持っていたと思われます。これに参加できるのは正式な会員のみであり、入会しただけの“多数者”には許されておりません。ではイエスの最後の晩餐時の順番はと言えば、マルコ・マタイ福音書ではクムラン宗団と同様パンが先でぶどう酒が後、一方ルカ福音書では、ぶどう酒が先に出され、次に種なしパンとなるが最後にまたぶどう酒への祝祷となっている。・・・またクムラン宗団では、光と闇の子との戦い、正義の子と偽りの子との戦い、サドクの子とべリアル(サタン)の子との戦い・・・という二元論的終末思想を持っていましたので、来るべき世(サタンとの聖戦に勝って、メシアの宴に与る世が来る)を信じてましたが、霊魂と肉体との二元論的価値判断から導かれた考えから、肉体の復活を信じる事はなく、霊魂不滅の信仰を持っていました。」

上記は、おそらく1947年にクムランの廃墟で所謂「死海文書」が見つかったことを契機として、聖書やキリストを学問的に研究する人たちの間で共通認識になった成果なのであろう。ところがエドガー・ケイシー(1877-1945)は、「死海文書」の発見以前に、このエッセネ派のことのみならず、更に12歳以後30歳頃に至るまでのイエスの人生をより明確に透視(リーディング)していたようである。以下は、『完全アセンション・マニュアル』(ジョシュアD.ストーン)からの引用である。

「続いてイエスの物語に魅惑的な参入を果たすのは、エッセネ派とイエスの生涯においてその共同体が担った重要な役割である。エドガー・ケイシーによれば、この共同体の存在は、メシアの到来に関して重要な意味をもっていたというが、そのエッセネ派が、不思議な事に聖書のどこにも触れられていない。エッセネ派に関する関心や期待が湧きおこり、広まりを見せたのは、1947年にクムランの廃墟で“死海文書”が発見されてからである。“死海文書”はエッセネ派の宗教書にあたる。ケイシーによれば、エッセネ派の共同体は幾つも存在していたというが、そのなかでイエスの生涯に絶大な影響を与えていた共同体がカルメル山にあった。・・・エッセネ派の人々は占星学、数秘学、骨相学、そして輪廻転生を学んでいた。・・・エッセネ派は、精神的規律を厳格に遵守して身を清めて待っていれば、メシアが肉体をまとって地上に現れると信じていた。・・・メシアの母親となるべく十二人の少女が選ばれ、カルメル山の寺院に招聘された時点で、エッセネ派による(メシアを迎える)準備は新たな局面へ突入した。マリアはそうした少女の一人であった。少女らはその地で、誠実さ、純粋さ、愛、忍耐、そして根気を養う心身の訓練を受けた。そうした霊的在り方を全面的に教え込まれる間、少女たちには特別な規定食が与えられた。ケイシーによると、その時のエッセネ派の長はユデトという名の女性であった・・・ユデトは預言者であり、霊能力者であり、また霊的教えを授ける教師でもあった。彼女はユダヤ神秘主義だけでなく、インド、エジプト、ペルシャの神秘主義的教えも学んでいた。また、彼女はヒーラーであり、数々の教えの記録者でもあった。成長したイエスを、より高度な学問と修養を身につけられるようにとエジプト、インド、ペルシャに送り出したのはユデトである。・・・イエスの誕生と初期の訓練期間に就いては聖書で精述されているため、ここでは特に触れる必要はないだろう。ここで特筆すべきは寧ろ聖書で言及されない十二歳から三十歳までのイエスである。」
「ケイシーによると、イエスは十二歳に届かぬうちにすでにユダヤ律法に精通しており、十二歳から十五・六歳になるまでの間は、カルメル山にあるユデトの館で預言を学んでいたという。その後、イエスはエジプトに赴き、それからインドに行って三年留まり、続いてペルシャでさらに叡智を深めた。イエスはペルシャにいた時に、父ヨセフの死を知らされ、一旦家に呼び戻される。その後イエスは教師となるための課程を全て修了するため、再びエジプトに赴いたのである。」
「・・・バプテスマのヨハネは、エジプトに居たイエスと明らかにエジプト滞在の一時期を共にしている。両者は聖職者になるための試験を受け、資格を取るためにエジプトの都市ヘリオポリスに滞在していたのである。リバイ氏による“宝瓶宮福音書”には、イエスが受けた七つのレベルのイニシエーションの説明がある。大ピラミッドは、大いなる白色同胞団のイニシエーションの寺院として建立されたが、イエスも大ピラミッドの中で最後のイニシエーションを通過している。それが聖書では、墓の中での三日三晩という記述になっているのである。“宝瓶宮福音書”によれば、イエスはインドにおいてバラモン教やヴェーダも学んでいるという。イエスはまた、ネパール、チベット、シリア、ギリシャ等といった土地にも在留している。」
「ケイシー、リバイ、そしてジュワル・クールによるチャネリング情報は、いずれもイエスの十八年間に及ぶ東洋紀行を記録している。しかし何より素晴らしいのは、20世紀になってインドとチベットで見つかった古文書に、イエスがそうした場所を訪れていたことを立証する記述が確認されたことであろう。1800年代の終わりにチベットを旅していたニコラス・ノートヴィッチというロシア人ジャーナリストは、チベットの首都ラサにある記録保管所で、そこに預言者イエスの存在を論じた古代の巻物が数千巻眠っていることをラマ僧から伝えきいている(東洋においてイエスは“預言者イッサ”と呼ばれている)。1894年、ノートヴィッチは通訳を介して読み上げられたという文章を出版しているが、それらの記録のなかには、イスラエルの子供たちや、インドの人々に対して、聖なる教義を伝道する覚者イッサの生きざまの描写を見出すことができるのである。・・・1922年にはスワミ・アビダナンダがチベットのヒミスの大僧院に赴き、ノートヴィッチの話の内容を再確認した。彼はラマ僧の助けを借りて、同じ文章を翻訳したものを、後にノートヴィッチの英語翻訳版と一緒に上梓している。」
「チャネリング情報や実在の証左が語る、イエスの東洋での訓練や学びの旅に関しては、抗し難い感情の高まりを感じる。またイエスの十二歳から三十歳までのそうした活動が、聖書からほぼ全面的に排除されているという事実も興味深い。」
「ここで念頭に置いていただきたい肝腎なことは、聖書は神によって書かれたものではないということである。これまでにもこのことを言わんとした人々は存在した。聖書は人の手によるものである。その中の情報のほとんどは、人による神や神性についての解釈であり、神からの直接の啓示ではない。聖書が霊的啓示を受けた末に書かれたものであることにまず間違いはないが、それでも眼識をもって読むことが大切である。」
以下は、本ブログでもたびたび触れてきたことと重なるが、
「そうした見解の第二の鍵となる歴史的事実が西暦553年に起きている。第二コンスタンティノープル公会議において、聖書から輪廻転生に関わるすべての記述の削除が公布されたのである。これは輪廻転生の概念が教会の意にそわなかったからに他ならない。」
「この史実の意味するところは明白である。聖書が、人に拠る神の解釈であるにとどまらず、人は気に染まない部分を聖書から削除することができたのである。聖書に言及のないイエスの失われた十八年間についても、輪廻転生と同様の扱いを受けたのではないかというのが私個人(筆者註:ジョシュアD.ストーン)の見解である。思うに、イエスが仏教やヒンドゥー教やゾロアスター教、並びにエジプトの神秘主義を学んでいた事実が一般庶民に知られることを、教会の上層部が快く思ったはずはなかろう。」

イエスがインドやエジプト(トスも含め)と関連が深かったことに就いては、『ヒマラヤ聖者の生活探求』(ベアードT.スポールディング)の第二巻にも記述があるので引用する。因みにこの本は1937年に英語で出版されたもの(日本語訳の初版は1969年)であるから、やはり死海文書が発見される前、既に何らかの霊感によって得られた情報であると思われる。

「イエスはイニシエーションをたびたび受け(筆者註:大ピラミッドの中でのイニシエーションも含まれると思う)、所謂神聖なる秘教や諸々の儀式を研究し、後にオシリスの教えを受け、受けてきたものを全部抱擁したことはよく知られています。これら秘教や儀式は、自分自らは一切の人為の儀式や僧院儀式及び唯物的な礼拝形式から超絶した或る僧侶がイエスに解き明かしたものなのです。その僧というのは、エジプト第一王朝のトス大王の侍従でした。トス大王は人民の権利を返上せしめ、その上に君臨する独裁者として、エジプトの帝国化を宣言しました。その数百年前には、国民はオシリスとその信奉者の指導の下に、融和と同胞愛の輝かしい文明を築き上げていました。この国民は純粋な白人種で、イスラエル人と唱えられ、ヘブライ人はその分れなのです。トスは賢明なる統治をし、オシリスの教えを保とうとしたが、彼の治世の後、トスを王位に付けた南エジプト人、即ち色の黒い遊牧民の群れが勢力を得ると共に暗黒思想が忍び込み、その後の歴代の王朝はオシリスの教えから離れ去り、次第に黒色人種の暗黒思想を採用し、遂には全くの黒魔術が横行するに至り、帝国は間もなく崩れるべくして崩れ去りました。」
「イエスはこの僧の教えに傾聴し、その深い内的意味を良く把握しました。また、仏教の教えによって得た洞察力によって、この僧の教えと仏教の底には大きな同似性があることにも気付きました。それでイエスはその時分に整っていた隊商路でインドに行こうと決心しました。インドでイエスは、相当純粋に保たれていた仏教の教えを学び、色々な種類の儀式や独断的教義が人間によって押し付けられているけれども、宗教の根源は唯一つであって、それはイエスが我が父、すべてのものの父と呼んだ内なる神であることを遂に知ったのです。・・・かくの如き悟境に達するには、何も数々のドグマ(独断的教義)や儀式、信条、形式、イニシエーション等をトボトボと長年月もかけて遍歴する必要はないことが判りました。これらのドグマその他は僧侶階級が一般人を無智にとどめ、従って隷従の境涯に置く為に掲げたものだったのです。自分の求めているものは実は他ならぬ我が内にあることを悟ったのです。キリストになるためには時分自身が本来キリストであることを宣言しなければならないこと、又それを自分の肉体に現わす為には純粋な動機、思い、言葉で、自分の求める生き方を生き抜いてゆかなければならないことが解りました。・・・」

これらを読んで読者諸賢はどのように結論付けるだろうか。筆者が思うところは、
A.アトランティス→エジプト→エッセネ派→キリスト教の繋がり
B.ピラミッドがイニシエーションに果たした役割の再認識
C.イエスキリストは、神秘学派や仏教或いはヒンドゥー教の影響も受けていること
D.イエスも輪廻転生を説いていたこと
E.すべての宗教は根底で繋がっていること
F.「聖書」には人の手によって削除された部分がある。従って「聖書」だけで宗教観を
構築することには無理があること・・・等である。

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