アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑬単一宗教と普遍宗教

2011-05-27 06:00:00 | 第13章 世界宗教
これまでクリヤー・ヨーガの考え方やサーンキヤ哲学については相当詳しく説明してきたと思うが、ヴィヴェーカナンダの提唱する「普遍宗教」とはそも如何なるものなのか、未だ説明していない。その前に、何故筆者が「普遍宗教」という概念に興味を持ったのか簡単に説明しておく必要があると思う。
第11章⑨‘新千年紀とキリストの再来’でストーン博士の文章を引用した通り、2012年に向けて人類の覚醒が加速して行く可能性が高く、場合によっては近い将来にキリストの再臨もあるかも知れないと筆者は思っている、否むしろそれを期待している。そしてキリストが再臨した時に、彼は何を説き、そのとき既存の宗教はどのようになるのであろうかという率直な疑問を持っている。
一方で仮にキリストが再臨し、それに多くの人が帰依するのであれば、それは間違いなく世界宗教であり普遍宗教になる可能性を秘めたものになるに違いない。ところが、その普遍宗教の概念を100年以上前から提唱していた人がインドに存在したという事実自体が筆者にとっては驚きであり、是非その教えを知りたいと思ったのが、ラーマ・クリシュナやヴィヴェーカナンダに関する本を読む契機となったものである。しかも、ヴィヴェーカナンダが、当時独立すら果たしていない東洋の遥かかなたの地、インドからアメリカに単身乗り込み、世界宗教会議の流れを主導してしまったことは殆ど奇跡のような出来ごとだと思う。その部分を再度『インドの光』から引用しておく。

「この宗教会議を開催した意図が何れにあったにせよ、東洋の一角から現れたこの“異教徒”が会議全体の空気を指導し、あらゆる宗教の間の平和と愛情を確認し、普遍的な宗教真理を確立し、会議に重要な一大結論を与えたことは、恐らく主催者側の予想しなかった成果であろう。彼は堂々と論じた。“キリスト教徒はヒンズー教や仏教に改宗すべきではない。ヒンズーや仏教徒はキリスト教に改宗すべきではない。しかし各人は、他の人々の精神を同化しながらも自分の個性を保存し、かつ生長の法則に随って生長しなければならない・・・。もし宗教会議が世界に対して何か示したことがあるとすれば、それはこういうことである。即ち、この会議は、神聖、純粋、および慈悲ということは世界におけるどの教団の専有物でもないこと、および何れの組織も最も高い人格を持つ男女を生んだということを、世界に対して証明したのである。この証拠があるにもかかわらず、若し誰かが、ただ自分の宗教のみが正しくて永久に存続し、他の宗教は破滅すると夢想しているならば、私はその人を心底から憐み、彼にこういう事実を指摘しよう。それは、たとい誰が抗議しようとも、いずれの宗教の旗幟の上にも間もなく、‘互いに扶け合い、戦わず’‘理解して、破壊せず’‘調和して、不毛の論争をせず’とかかれるであろうということである”」

そこで、彼の著した『ギャーナ・ヨーガ』から、彼の所説をもう少し詳しく紹介しておきたい。

「もし、自分の宗教が全ての真理を伝えている、神はこれこれの書物によってこの真理の全部を我等にお与えになったのだ、という、ある宗教の主張が正しいなら、なぜこんなに沢山の宗派ができるのですか。・・・例としてバイブルと、そしてキリスト教徒の間に存在する全ての宗派を取り上げましょう。同一のテキストに各宗派が独自の解釈を与え、夫々が、自分たちの解釈だけが正しいと主張しています。他のあらゆる宗教においても同様です。回教徒及び仏教徒の間にも多数の宗派があり、ヒンズー教徒の間にも幾百の宗派があります。いまこの事実を皆さんにお示しするのは、霊性の世界では、全人類を一つの考え方に導こうとする、どんな試みも失敗したし、これからも必ず失敗するであろう、ということをお知らせするためです。・・・全ての人を一つの思想にはめ込むことはできません。これは事実です。そして私は、そのことを神に感謝しているのです。」
「あらゆる宗教は、その背後に一つの魂を持っています。その魂は、他の宗教の魂とは違うでしょう。しかしそれらは、互いに矛盾していますか。・・・私は、それらは矛盾していない、互いに補いあっている、と思うのです。それぞれの宗教は、謂わば、偉大な普遍的真理のある一部を取り上げて、その部分を具体化し象徴化するのに全力を尽くします。したがってそれは除外ではなく、追加なのです。これが要旨です。教理に次ぐ教理が生まれます。」
「我々は全て、真理を各自の生まれ、教育、環境等々によって異なる、様々な立場から見ています。我々は真理を、自分のハートで色付けし、自分の知性で理解し、自分の心で把握し、これらの条件が許す限りの枠の中で眺めているのです。我々は真理を、自分に関係のある限りしか受け入れることが出来ません。これが人と人との間の違いをつくり、ときには互いに矛盾する考えをさえ生み出すのですが、それでも我々は、同一の偉大な普遍真理に属しているのです。・・・あらゆる種類の食物をならべているホテルでは、誰でもが食欲を満足させることができます。・・・霊的思想も、皆さんに受け入れられる形でこなければなりません。皆さんの言葉、皆さんの魂の言葉で語られてはじめて、皆さんは満足なさるのです。」

以上の通り、ヴィヴェーカナンダは、そもそも単一宗教が世界中全ての人々を満足するようなことはそもそも出来ないのだという事を先ず説いている。それでは、彼の云う「普遍宗教」は単一宗教ではないのであろうか。引用を続ける。

「今までのところ我々は、宗教に関しては普通の特徴を見出すのは難しい、ということを知ります。それでも、そういうものがあることは、知っているのです。我々は全て人間ですが、全て同等ですか。誰が、我々は同等だと言うのですか。気違いだけです。我々は皆、頭脳において、力において、肉体において同等ですか。或る人は他の人より強いし、ある人はもう一人の人よりももっと豊かな頭脳の力を持っています。もし我々が全て同等であるなら、何故このような不平等があるのですか。誰がそれをつくったのですか。我々です。何故なら我々は多い、又は少ない力を持っていますし、多い、又は少ない頭脳の働きを持っていますし、強い、又は弱い体力を持っています。それは、我々の間に差異を創るにきまっています。それでも、平等という教えはハートに訴えることを、我々は知っています。我々は皆人間ですが、或る者たちは男、そして或る者たちは女です。ここには黒人がおり、そこには白人がいます。然し全ては人、全ては一つの人類に属しています。私は二つと同じ顔は見ません。それでも我々は、皆人間です。この一つの人類はどこにいるのでしょうか。私は男か女を、色の黒い人か白い人を見ます。そしてこれら全ての顔のなかに、全てに共通の抽象的な人間があるのだ、ということを知っています。それを把握しよう、知覚しようと努めても見出されないかもしれません。しかし私は、それがあることを確実に知っています。もし私が何かを確信しているとすれば、それはこの、我々全てに共通の人類というものについてです。私があなたを男、または女として見るのは、この総合された実体を通して、であります。この普遍宗教の場合も、神という形で世界の様々の宗教を貫くものがそれです。それは、永遠にわたって存在しなければならず、また存在しています。“私は、これら全ての真珠を貫く糸である”そしておのおのの真珠は宗教、またはそれの一宗派です。様々の真珠とはそのようなものであり、主は、それらの全てを貫く糸なのです。ただ人類の大多数は全くそれを意識していません。」
「多様の中の単一は宇宙の計画です。・・・我々は全て人です。それでも皆、互いに異なっています。人類に一部として私はあなたと一つであり、ミスター某として、私はあなたとは違います。男性として、あなたは女性とは違いますが、人間としては女性と一つです。人間として、あなたはけものとは違いますが、生き物としては、男も女も動物も植物も全てひとつ、そして存在としては、あなたは全宇宙と一つです。その宇宙的存在が、神、宇宙の究極の単一体なのです。彼の中で、我々は全て一つです。同時に、現れの中では、これらの違いは常に存続しなければなりません。・・・ですから我々は、もし普遍宗教という観念が、全人類がひとそろいの教義を信仰しなければならないことを意味するなら、それは完全に不可能だということを知ります。・・・もしあらわれたとしたら、世界は滅びるでしょう。多様性が、生命の第一の原理なのですから。・・・この宇宙で、何が動きを可能にするのですか。失われたバランスです。全てが同一か単一になるのは、この宇宙が破壊されたときだけです。・・・」

ということで、ここに来て筆者が期待していた全人類に共通の普遍宗教(の教義)の存在は、残念ながら完全に否定されてしまう。

「では私は何をさして普遍宗教とよんでいるのか。いかなる普遍の哲学を指しているのでも、一つの普遍の神話を指しているのでもありませんし、全ての人が行うような儀式を指しているのでもありません。我々は、真理は百千の形で現わされるであろうことを、そしてそれが現れている限りは、それらの各々が真理である、ということを学ばなければなりません。同一のものが百の異なる立場から眺められ得る、それでもそれは同一のものである、ということを学ばなければなりません。・・・」
「我々は実に多くの異なる性質を見ます。幾千また幾千の、心と傾向の違いがあります。それらを完全に総合することは不可能です。しかし実践上の目的の為には、それらの性質を四つのクラスに分けたら十分でしょう。第一には活動的な人、働く人がいます。彼は働くことを欲し、彼の筋肉及び神経にはすさまじいエネルギーがこもっています。彼の目的は働くこと-病院を建て、慈善事業をし、街路をつくり、計画したり、組織したりすることです。それから崇高な美しいものを過度なまでに愛する情緒的な人がいます。彼は美しいものを思うこと、自然な美的な側面を楽しむことを愛します。そして愛と、愛なる神を崇めます。彼は全身全霊をもって、全ての時代の偉大な魂たち、もろもろの宗教の予言者たち、及びこの世に生まれた神の化身達を愛します。彼は、キリストまたは仏陀が存在したことを理性が証明することができようができまいが、頓着しません。山上の垂訓が与えられた年月日とか、クリシュナの誕生の正確な時刻など、知りたいとは思いません。彼が知りたがるのは、彼等の人柄、愛に満ちた彼等の姿です。そのようなのが彼の理想です。これが愛する人、情緒的な人の性質です。それから、その心がそれ自身を分析することを、人間の心の動きを、内で働いている力は何であるかを、そしてどうしたらそれらを知り、操作し、また支配することができるかを、理解することを欲する神秘家がいます。これは神秘家的な心です。それから、一切のものをはかることを欲し、全ての人間の哲学の可能性をこえるまでに彼の知力を働かせる、哲学者がいます。」
「さて宗教は、人類のできるだけ多くを満足させるために、これら様々のタイプの心の全てに食物を供給することができなければならず、その能力の欠けているところでは、宗派は全て一方に偏ったものになっています。・・・私が広めたいと思っているのは、全ての心に同じように受け入れられる宗教です。それは等しく哲学的で、等しく情緒的で、等しく神秘的で、等しく活動の助けになるものでなければなりません。・・・全ての人間がその心の中に哲学、神秘主義、感情及び活動というこれらの要素の全てを十分に、しかも均等に備えていたならさぞ良かったでしょうに!それは理想です。完全な人間というものの、私の理想です。性格のこれらの要素の一つか二つだけを備えている人はみな、‘偏っている’と私は見ます。そしてこの世界はそのような、その一つだけの知識を持ってその中を動いている偏った人々で満ちています。そして彼等にとっては他のものは何でも、危険で恐ろしいのです。これら四つの全ての方向において調和あるバランスを保つことが、私の宗教の理想です。そしてこの宗教は、我々がインドでヨーガ―結合と呼ぶものによって、得られるのです。働く人にとっては、それは人々と全人類との結合です。神秘家にとっては、それは彼のより低い自己と、高い自己との結合です。愛の人にとっては、彼自身と神との結合であり、哲学者にとっては、それは全ての存在の結合です。これがヨーガというものなのです。これはサンスクリット語です。ヨーガのこれらの四つの区分はそれぞれ、サンスクリット語の名を持っています。この種の結合を追求する人はヨギと呼ばれます。働く人はカルマ・ヨギと呼ばれます。愛に拠る結合を求める人は、バクティ・ヨギと、神秘主義によってそれを求める人は、ラージャ・ヨギと呼ばれます。そして哲学によってそれを求める人は、ギャーナ・ヨギと呼ばれます。ですからこのヨギという言葉は、全部を含むのです。」

つまりヴィヴェーカナンダの云う普遍宗教とは、それぞれの人の性質や性格に応じて各種のヨーガ(カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ)の内の一つ或いはその組み合わせを実践させることにあるようである。
ところが、ここで第12章⑬‘ヨーガの実践’に戻って確認して頂きたいのであるが、ババジのクリヤー・ヨーガにおいてはこのカルマ・ヨーガの実践も“無私の奉仕を行う”という意味で推奨されている。以下、その部分を再度『ババジと18人のシッダ』から引用する。

「クリシュナ神は、『バガヴァッド・ギーター』の中で、次のようにアルジュナ(筆者註:マハーバーラタに出てくる英雄)に語っている。“汝の職務は行為そのものにあり、決してその結果にはない。行為の結果を動機とせず、また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、神との合一の中にとどまり、執着を捨て、成功と失敗において均衡を得よ。ヨーガとは即ち均衡である。”(『バガヴァッド・ギーター』第2章47-48節) クリヤー・カルマ・ヨーガは“私心なく巧みに遂行される奉仕”と定義することができる。通常、人は何らかの見返りを期待して行動する。これは幸福の源に対する根本的な誤解があるためである。自己の外部にある事物や活動の中に幸福を追い求める人は、幸福が常に内面においてのみ体験されるものであることを忘れている。つまり自分に幸福をもたらす状況と幸福そのものを混同してしまう。カルマ・ヨーガにおいて、人はこうした間違いを犯すことはない。なぜならカルマ・ヨーギーは幸せを求めて行動するのではなく(それは生来から人に備わっている特性である)、いかなる状況においても、そこで自分に求められている責務を愛に満ちた奉仕の心で果たすので、行動の結果に対する執着から解放されているからである。このような行為は新しいカルマや、行為の動機や執着の原因となる欲望を生まないために、人は持続する心の安らぎを得る。さらにまた、カルマ・ヨーガにおける行為は愛の精神に基づいてなされるために、人はそれを“上手く”行うことができる。この理由は、無私の精神に基づいて行動すると、高次の意識が自我の狭量な要求に妨害されることなく、人を通して働くからである。」
「クリヤー・カルマ・ヨーガの実践は、他者への奉仕活動に毎週数時間を当てることから始まる。カルマ・ヨーギーは日々の諸々の小さな行為を通して他者への奉仕を導いている神の意思と、自我の囁きとを識別するようになる。自分自身は決して“行為者”ではなく、他者を愛して奉仕するために配された神の媒体であることが分かるにつれて、その人のあらゆる行為がカルマ・ヨーガとなっていく。カルマ・ヨーギーは自分が創造の大海原における波の一つであることを理解する。するともはや、その人は自我に根ざした欲望に駆られることもなく、全ての行為は神聖な愛から生まれたものになる。」
「カルマ・ヨーギーは、怒り、自己中心主義、貪欲、更には、個人的な欲望から解放されている。彼等は広い心を持っており、常に他と分かち合って援助することを厭わない。また彼等は純粋な心を得ると同時に、万人、そして全ての中に神を見出すようになる。シッダたちのモットーに“簡素な生活と高邁な思考”というのがある。カルマ・ヨーギーはこのモットーに沿って簡素な暮らしを営む。」

又、第12章⑪‘人間社会を変容する鍵’においては、バクティ・ヨーガと多少呼称は異なるが、クリヤー・バクティ・ヨーガ(愛と奉仕の活動)が説明されているので再度引用する。

「愛と献身のヨーガであるクリヤー・バクティ・ヨーガは、自己実現に至る最短の道ともいわれる。神に捧げられた歌の歌唱、祈りの言葉の朗唱、礼拝の儀式の催行、そして聖地への巡礼は、我々の精神とハートを“愛の実在”に対して開いてくれる。聖なる実在が森羅万象に遍在することを実感するようになると、その人の活動の全てが優しさに満ちるようになる。一般的に、人は様々な傾向や欲望に陥りやすいので、愛と献身の心は揺らぎ易い。これを安定させるためには、先に述べた愛と献身の活動に従事することが必要となる。バクティ・ヨーガに心を惹かれる人は、情緒的な気質を持っているので、ときには自分の感情が手に負えない否定的なものであると感じることがあるかもしれない。感情の安定を図る為には、他のヨーガの行法、即ちアーサナ、瞑想法、呼吸法、カルマ・ヨーガ(筆者註:行為のヨーガ、いずれ解説する予定)、マントラ・ヨーガなどの実践が役に立つ。」

但し、上記はいずれも『ババジと18人のシッダ』からの引用であり、ヴィヴェーカナンダの説くところとは多少異なる部分もあるかも知れない。ヴィヴェーカナンダの所説に就いては、次週以降より詳細に紹介したい。

そしてラージャ・ヨーガに就いては、基本的には瞑想とプラーナヤーマを通じて宇宙意識との融合を目指していくものであるから、これもババジのクリヤー・ヨーガと目指す所は基本的に同じものと考えられる(但し、技法の詳細に就いては異なっている可能性が高い)。即ち、端的に言えばヴィヴェーカナンダの言う「普遍宗教」は‘ヨーガ全体’のことを指しているのである。但し、ここで敢えて両者の違いを明確にするとすれば、ヴィヴェーカナンダの主張する普遍宗教は、あらゆる人々を受け入れ、その適性や性格に応じてそれらの人をグループ分けし、グループごとの適性に応じて様々なタイプのヨーガを修得するよう指導するものであるのに対し、ババジのクリヤー・ヨーガの場合はクンダリニ覚醒(延いては解脱)を目指す極く限られた者を対象とし、ラージャ・ヨーガを行いながらも、同一人物が生活者としての側面でカルマ・ヨーガを行い、神を崇拝する者としてバクティ・ヨーガをも実践することを推奨する教えと言えよう。尚、筆者の知る限りにおいて、『ババジと18人のシッダ』に於いては、ギャーナ・ヨーガに就いては深く触れられていないが、瞑想を行ったり、ヨーガ・スートラなどを読むなかで、哲学的な思索は必要とされ、イニシエーション或いはサットサンガにおいて事実上学習される。
従って、ここで本稿の結論を纏めると、ババジのクリヤー・ヨーガは、その対象者が覚醒を目指す一部の者を対象としているものではあるが、基本的にはヴィヴェーカナンダの説く普遍宗教の一部といって差し支えないのである。

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