アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第14章 道 ⑪マーシャル・ゴーヴィンダン師 (1)

2011-09-02 05:45:19 | 第14章 道
日本語で上梓されているマーシャル・ゴーヴィンダン師(以下、師)の著作は、恐らく『ババジと18人のシッダ』(以下、同書)のみであり、日本においてその知名度は決して高いとは言えないが、英語では『パタンジャリのヨーガスートラ』の解説書を著したり、元々タミル語で書かれた古典的大著、『ティルマンディラム』を英訳して出版したりしている。しかしこうした執筆活動とて、あくまでも師の本来の使命、即ちババジのクリヤー・ヨーガを普及させる為の手段に過ぎないものと思われる。いずれにせよ、筆者がここまで力を入れてクリヤー・ヨーガの実習に励んでいるのも、それは固よりクンダリーニ・ヨーガが解脱に極めて有効な科学的技法であるとの確信に基づいたものであるが、そもそも同書を読まなければ、残りの人生をヨーガの修行に投じようとは思わなかったと思うし、師の人柄に依るところも大きいと思うので、その技法を広めようと日夜努力している師のプロフィールを同書に収録された師の回想録にから紹介しておきたい。

師は1948年米国オハイオ州コロンブス市で生まれ、生後6カ月で家族と共に南カリフォルニアに移り住んだ。両親共に敬虔なルーテル派の信者であり、父は航空技師、母は専業主婦という家庭で育った。15歳の時、クラスメイトと共に参加した霊的な集まりで、師は突然トランス状態になり、“唯一の実在”が、その部屋にいる35人の人々を通して語っていることを感じたという。この経験の直後には、日本の禅寺に入ることも検討したようである。

その後、ケネディーの唱えた「公的な奉仕」の理想に感銘を受けた師は、ワシントンD.C.のジョージタウン大学に入学した。そこにはビル・クリントンと云う名の若者も居たと師は書いている。

学生時代、師は米国の上流家庭の友人ときらびやかな学生生活を送る一方、ベトナム戦争に行った旧友から送られてくる、戦争の恐ろしさを伝える手紙から衝撃を受け、カウンターカルチャーにも興味を持ったと書いている。そんな折、彼の親友クリスの友人「ブレイク」(仮称)がとんでもない災難に遭遇する。ブレイクは、歴代大統領を2名輩出している由緒ある名門且つ大富豪の跡取りの一人であったが、大量のハッシッシを車で輸送する話を別の友人から持ちかけられ、これを輸送する途中に交通事故に遭い、警察に逮捕される。ブレイクの近親者はこの事故を、一家の財産を独占する為の好機と見なし、判事を買収してブレイクが重罪に処せられるように手を回す。一方マフィアがこの事件を嗅ぎつけ、ブレイクの一族を遺産の件で脅そうと目論み、数百万ドル支払わなければブレイクの獄中でのおぞましい写真を新聞社に送り付けると脅迫した。ブレイクの一家はこの要求に応じなかった為、マフィアは刑務所の役人を買収してブレイクにホルモン注射などを行い、筋肉が隆々とした毛むくじゃらの獣のような姿に変えてしまった。
師とクリスは、ブレイクをなんとか救い出そうとFBIの捜査官や、当時の米国最大のマフィアのボス、ヴィット・ジェノヴェーゼとまで連絡をとったが、結局別の一族がからんでいる話であるという理由で、そのマフィアの恐喝行為を止めることは出来なかった(最終的にブレイクは南アフリカの或る富豪の家に、性愛用のペットとして売り飛ばされていることが判り、家族によって救出されるが、彼は植物人間になってしまう)。

このブレイクを巡る一件で師はひどく混乱し憂鬱になったと書いている。そして大学3年生のとき、ジョージタウン大学が出資していたスイスのフリブール大学でのプログラムに参加することを決めるが、ヨーロッパに渡って学校が始まる前の夏休み、南フランスでヒッチハイクをしていたイギリス人青年を車に乗せたのが縁となって、スペインにある彼の母の別荘に行き、そこで画家のダリや彼の妻と懇意になる。そこに出入りしていたダリの友人、フィリップ・ウェルマン(ダリのためにサイケデリックアートを制作していた)と親しくなった師は、パリのディスコに初めてサイケデリックな光を発する照明器具を取りつけたりして大金を稼ぎ、暫く大学をサボって遊びまわっていたようである。間もなく師は大学から、これ以上大学の授業に出席しないと除籍するとの通告を受け、大学の寮生活に入るが、そこでブレイク事件を題材にした小説を書き上げた(多分出版されてはいないと思うが、師は書く事を通して一連の体験を自分の中から手放すことが出来たと書いている)。

その後『あるヨギの自叙伝』を読んでババジに強く惹かれた師は、スイスから戻り、パラマハンサ・ヨガナンダの設立した、SRF(Self Realization Fellowship)を訪ねている。そこでSRFの修道会に入る許可を求めたが、そうすることが本当に自分の真意なのかどうかを確かめる為、一年間待つように求められた。そこで師はジョージタウン大学での最終学年を迎えることを決めた。間もなく、親友のクリスが或る霊的なグループ(黒魔術的なグループだったのではないかと師は云う)と接触を持ち、師にも参加するよう勧められるのであるが、師はイエズス会のトーマス.O.キング神父(精神病院に入院していた患者から13の悪霊を全て追い出す悪魔祓いの儀式を行ったこともある)に助言を求める。その時の質問は、「ヨガナンダとクリヤー・ヨーガの教えは神性を実現する道なのか、或いは悪魔に到る道なのか?」というものであり、神父は、これらの教えが神聖であるという確証を師に与えてくれた。

1969年の終盤、或る日ワシントンD.C.のカウンター・カルチャー誌、「フリー・プレス」に掲載されたクリヤー・ヨーガの講習開催の知らせが師の眼にとまった。この講習が、ヨガナンダの弟子によって開催されるものに違いないと思った師は、その会場を訪れ、ヨーギー・ラマイア*と運命的な出会いを果たす。彼は講習会の参加者にクリヤー・ハタ・ヨーガの18種類の瞑想法を教え、マントラやインドの聖歌の朗唱を指導した。又、ババジの人生と使命について、更にはクリヤー・ヨーガについての説明を行った。この講習を受けてから数週の間に、師はワシントン・センターの責任者で当時19歳のシェール・マン(このシェールが後に師の人生で様々な関わりをもって登場する)から、ヨーギー・ラマイア(以下、ヨギヤー)の人生に就いての詳しい話を聞いた。その後、ヨギヤーが開く月例集会や講義に何回か通った師は、偉大なヒマラヤ聖者の弟子であり、ババジを深く敬愛するヨギヤーに師事することが相応しい道だと感じるようになった。

*ヨーギー・ラマイアはインドのマドラス大学の大学院で地質学を学んだが、渡米直前に骨の結核に感染する。ところが、1952年3月7日、ヨガナンダが逝去した丁度その日に、シルディのサイババの信奉者、モウナ・スワミという聖者と出会い、特別なお守りとアーユルヴェーダの療法を与えられ、彼の病は一カ月以内で治ると告げられる。その後、シルディのサイババが彼のヴィジョンに現れ、「あなたのグルを見せよう」といってババジのヴィジョンを見せたと言う。ところが、病状は悪化の一途たどり、ラマイアが息を止めて死のうとしたとき、ババジの声が聞こえ、「おまえの命を私に預けなさい」と告げられる。声の主がババジであることに気付いたラマイアは、自分をババジに捧げようと決心するが、その翌朝から彼の足は目覚ましい回復の兆しを見せ、病気が奇跡的に完治するという体験を持つ。

以下は本章⑤‘グル’からの再掲である。

「1970年6月初旬にジョージタウン大学を卒業してから間もなく、私はヨギヤーからクリヤー・ヨーガのイニシエーションを受ける為にニューヨークに向かった。イニシエーションはマンハッタンのロウワー・イーストサイドにある、・・・ある建物の一階の小さなアシュラムで行われた。部屋は20名程の参加者で一杯だった。私は4日間連続で6段階のクリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマや7つの基本的な瞑想法を丸一日かけて学んだ。その次の週末には、同じアシュラムでひらかれた4日間に亘る静修の集い“アンタル・クリヤー・ヨーガ”(通称‘リトリート’筆者註:本ブログで紹介した第二イニシエーションに相当する)に参加した。そこで更に多くの呼吸法を学び、断食や丸一日間の沈黙行を行った。アパートの一室にあったそのアシュラムの中央には間に合わせの煙突が付けられており、その下で燃やされた儀式用の“マントラ・ヤグナ”の日の傍らで、私はシェールと共に“オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム”のマントラを朗唱した。ヨギヤーは、クリシュナとババジのマントラを伝受する前に、私がつい先ごろまでグルとして信奉してきたヨガナンダに敬意を表するように求めた。私はヨガナンダに意識を集中した。すると突然、まるで彼に抱きしめられているような感じがした。このときほど私はヨガナンダの存在を身近に感じたことはなかった。以降はババジとヨギヤーに尽くしていくことに対して、私はヨガナンダの祝福を求めてこれを得たことを感じた。・・・このイニシエーションの数日前に、SRFのブラザー・モクシャナンダから、私の手紙を受け取った旨を知らせる返事が送られて来た。ヨギヤーに師事する意向を、私はSRFに書面で伝えていたのだった(筆者註:著者はこれ以前にSRFを訪問し、修道会に入る許可を求めたが、それが本当に著者の真意なのか、一年間良く考えるようSRFから求められていた)。ブラザー・モクシャナンダ(彼はヨガナンダの死後数カ月後にSRFに来た人である)は私宛の返事の中で、生けるグルの存在が如何に貴重であるかについて述べていた。」

このように著者は、ヨギヤーを自身のグルとして師事することに決めた時の模様と、その際SRFに対して手紙でその意向を前もって伝えていたこと、そしてSRFが著者の判断を尊重し、その根拠として生きているグルに出会うことが如何に得難いことであるかを伝えてくれたことを述べている。

それから間もなく、同師は米国クリヤー・ヨーガ・センターの専従員になったのであるが、同書の中で、当時の専従員の従うべきいくつかの規則について触れている。以前本ブログでも簡単に触れたが、非常に興味深いのでその内の主な規則を簡単に紹介しておきたい。

1.食事:菜食とする。甘味、酸味、塩味、辛味、渋味の5種の味を含む食事を毎食とる
2.断食:毎週一日は流動食だけの断食をする
3.沈黙:週一日、できれば週末に最低24時間を無言で過ごす
4.家庭生活:クリヤー・ヨーガを生活の基盤とする。パートナーが居ない場合、又は
  パートナーが見つかるまでの間は禁欲生活を守る
5.習練:一日平均8時間はヨーガ(アーサナ、瞑想、呼吸法を含む)を実践する
6.仕事:週平均で40時間は仕事に従事する
7.服装:男性はインド製の白木綿の腰布(ドーティー)
8.髪:髪を切ってはならない、男性は髭も剃ってはならない
9.入浴:体の洗浄には、石鹸の代わりに緑豆の粉を用いる、更に週一回胡麻油の風呂に入る

師はこうした規則に込められた理想に触発される一方で、果たしてこれを守ることができるのかとの疑念を抱いた。当時の師にとっては、クリヤー・ヨーガに対する強い帰依心を持つシェール(前出)の励ましが不可欠であり、彼女にパートナーになってくれるよう申し込み、これらの規則の遵守を正式に誓うことを条件に彼女は師の願いを受け入れた(結婚ではなく、婚約したものと思う)。

師は1970年末までに144種類のクリヤー・ヨーガの技法を全て伝授されることを望んでいたが、その為にはヨギヤーの課していた条件があり、その中には6カ月間続けて一日平均8時間をヨーガの実践に充てることなどが含まれており、当時の師は、親の反対、まともな仕事に就けないことによる金銭的プレシャー、更には睡眠不足などから心の中に葛藤を抱えており、当初師を励ましていてくれたシェールともしばしば口論をするようになった。そして彼女との関係を修復するために賢明な助言をヨギヤーに何回か求めることが重なった後、1971年にヨギヤーは二人がこれまでの関係を終えるべき時が来たことを二人に告げた。師にとっては、とても辛い結末ではあったが、間もなくババジの恩寵によって、シェールとの別離を乗り越える力を得て、シカゴやインドで新たな任務に着くことを心待ちにするようになっていた。

一方シェールがどうなったかと言えば、クリヤー・ヨーガの道を献身的に歩み、ほどなくしてヨギヤーにとの間に男子を設けた。しかし1970年代中頃にシェールはアシュラムを去った。彼が求める厳格な生活を、これ以上続けられないというのがその理由であった。

このように師は若い頃から、様々な苦労や数奇な体験を経てクリヤー・ヨーガに辿り着いたようである。既にかなり長くなったので、この続きは次週としたい。

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