アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第14章 道 ⑩般若波羅蜜多心経

2011-08-26 06:29:18 | 第14章 道
筆者は30歳代後半に般若心経に惹かれ、それを暗記して読誦したり、時に筆写したりしてきた。当初は深い意味も判らぬまま、ただ音読していたが、年を経るにつれて、少しずつ理解が深まってきたように思う。実は1年程前から、筆者自身の訳文を本ブログに掲載したいと思っていたのだが、何となく自信がなくて延び延びになってきた。ただ此処に来て、前章で触れたシャンカラの不二一元論や、プルシャ/プラクリティの概念が明確になってくるに連れて、その解釈も更に深まったように思うので、この機に般若心経の翻訳(解説)を試みたい。但し、サンスクリット語の原典に基づく正式な解釈や解説も必要なので、中村元・紀野一義氏(以下、著者)の訳註になる、『般若心経 金剛般若経』(以下、同書、岩波文庫)を相当程度参考にさせて頂いたことを予めお断りしておく。

まず題名である、「般若波羅蜜多心経」である。同書には続いて唐の三蔵法師玄奘訳と書かれているので、これが正式な題名なのであろう。但し、筆者がよく写経用に使うものには、この題名の前に「摩訶」という言葉が付いている。これは摩訶不思議といった具合に使われるサンスクリット語だと思うが、発音は「マハ」であったり「マカ」であったりする。意味は「偉大な」という意味なので、この形容詞がついているかどうかは然して重要視するほどのことでも無いと思う。因みに、「マハトマ・ガンジー」のマハトマは、彼の名前ではなく、「偉大な魂」という意味だそうである。おなじく「マハ」がつく。
より重要なのは、「般若波羅蜜多」の意味である。この部分は、サンスクリット語なので、著者の解説(P17)を参考にさせて頂くと、般若は原語が「プラジュニャー」であり、意味は「人間が真実の生命に目覚めた時に現れる根源的な叡智のこと」とされている。普通にいう判断能力としての分別知(或いは通常は知識と呼ぶ)と区別するために、般若と音訳のまま用いられる。ここでは智慧という言葉を充てる。
「波羅蜜多」の言語はパーラミターであり、彼岸に到るとの意味だそうである。そして「般若波羅蜜多」とは、智慧の完成であると著者は述べているが、筆者は、彼岸(即ち解脱)に到る智慧と訳した方がすっきりするように思う。
そして、最後の「心経」の「心」は、真言(マントラ)の意味だそうである。筆者は最後の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」の部分のみが真言であると解していたが、どうやらこのお経全体も真言とされているようだ。

それでは、本文の訳に移るが、因みに、「空」はブラフマンと解し、「梵」と記す。又、「実体の無い」という言葉がしばしば出てくるが、これは「名前と形が無い」という意味でブラフマンを形容する為に用いており、無論「実在ではない」という意味とは異なるのでご注意願いたい。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

観自在菩薩(観世音菩薩、或いは観音とも云う)が、彼岸に到る智慧をもたらす行法を深く行じていた時、物質的現象も精神的現象も、全ての現象は梵(ブラフマン)の現れ、即ち実体の無いものであることを悟り、一切の苦厄から解放された。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

舎利子(註:釈迦の十大弟子の一人、シャーリプトラ)よ、全ての現象(宇宙)は梵と異ならず、梵も全ての現象(宇宙)に異ならない。全ての現象(宇宙)とは即ち梵の展開であり(梵を離れては存在せず)、梵とは全ての現象(宇宙)の精髄である。感覚も、想念も、行為(サンスカーラ:心の潜在的傾向に基づく行為)も、知識も実体のない梵の現れだ(註:因みに、ヨーガ学派或いはサーンキヤ哲学からすれば、受想行識はプラクリティに相当し、プルシャと区別して考える必要があるが、筆者は不二一元論の立場から、究極的にはブラフマン即ちプルシャの展開であると解する、第13章⑫参照)。

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

舎利子よ、この世の現象全ては梵の顕現で、実体の無いものであるから、生まれることなく死滅することなく、汚れていることなく浄いことなく、増えることもなければ減ることもない。

是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

故に梵の視点に立てば、現象はなく、感覚も想念も行為(行為=サンスカーラ:心の潜在的傾向による行為)も知識もなく、眼も耳も鼻も舌も体も心もなく、形なく声なく香りなく味なく触れることもない。(以下「 」内は、同書の訳からの引用)「眼の領域から意識の領域に到るまでことごとく無いのである。」

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(梵の視点からは)迷いはないが、(現象の上では)迷いが尽きることなく、(梵の視点からは)老いと死はないが、(現象の上では)老いと死が尽きることもない。「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない(註:苦諦、集諦、滅諦、道諦は四諦といい、釈迦の教義の根本と云われる)。知ることもなく、得ることもない。得る所無きを以っての故に。」

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

菩薩は、彼岸に到る智慧の完成に依るが故に、心に障りなく、障りなきが故に恐怖もなく、一切の迷いから遠く離れて涅槃寂上の境地(解脱)に到る。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

過去・現在・未来の三世にまします諸々の仏(解脱を果たされた覚者)は、彼岸に到る智慧の完成の行法に依るが故に、「この上ない正しい目ざめを覚り得られた。」

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

「それ故に人は知るべきである」。彼岸に到る智慧をもたらす真言は、大いなる霊力を有し、「大いなる悟り」をもたらし、この上無い真言であり、これに比肩する真言はない。

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日

一切の苦しみをよく取り除き、真実で偽りがない。故に彼岸に到る智慧の真言を説いて曰く、

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ」
以上が大いなる智慧の真言である。

上記は基本的には不二一元論の立場にたって訳したものであるが、同書の訳文から直接引用した部分を除き、一般に流布している解釈との間に、かなりの差がある筈であり、専門家の立場からはご批判もあるかも知れない。更に今後筆者の修行(心境)が進むにつれ、新たな解釈が出るかも知れないが、2011年8月時点での解釈を以上の通り記録に留めておく。

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