1971年以後の師に起こった出来事を、しばらく年表形式で追って行きたい。
1971年4月、クリヤー・ヨーガのセンターを開設するために、シカゴに派遣される。
1972年8月から1年間、インドに派遣され、マドラス等でヨーガの指導を行う。
1973年米国に戻り、ワシントンD.C.のクリヤー・ヨーガ・センターの責任者になる。その際
公務員試験を受験すると、かなり良い成績で合格し、労働省とペンタゴン(米国防省)
から誘いがかかり、最終的にペンタゴンでの仕事を選択する。
1976年頃、「宗教とヨーガの世界会議」第22回年次大会の組織運営に当る。
1977年、モントリオール・センターの管理者になる。
1980年、インドに再び派遣され、その後スリランカに渡りセンターでヨーガを指導する
1981年、米国に戻った師は、転居することになっても支障の無い職業に就こうと考え、
コンピュータ会計監査の仕事を始める(この時、電子商取引の会計監査の本を2冊出版)
1983年、ヨギヤーは重度の心臓発作に見舞われて手術を受けた後、‘国際ババジ・ヨーガ・
サンガ’の運営を彼の手から委譲するため、理事会の設置を決めたが、師はこのとき
指名された7名の理事に入っていなかった。この直後、師はヨギヤーに呼ばれ、彼が
求める条件を満たすことができたならば、144種類の技法を他に伝授することを許可すると
告げられた。その中には48日間のサーダナを6回続けて行うことを始め、クリヤー・
ヨーガの技法を終生実践する誓いなども含まれていたが、それから3年間かけて、師は
これらの困難な条件を満たして行った。
1985年、ヨギヤーは師をインドに派遣
1986年、ハルドワールで行われたマハー・クンブ・メーラーにクリヤー・ヨーガの巡礼団と共に参加。
1987年、モントリオールに戻り、コンピュータ会計検査システムの分野で資格を取得する。
又、モントリオールで開催された“宗教とヨーガの世界会議”の組織運営にもあたる。
1988年11月、アリゾナ州のユマにあるアシュラムで行われたリトリート(集中講座)に参加し、
この時師はモントリオールから連れて行った生徒と、厳格なヨギヤーの態度の板挟みになる。
彼の叱責で傷ついた生徒の気持ちを、ヨギヤーに穏便に伝えたつもりが、逆に彼の方針に
逆らったとして、ヨギヤーから叱責を受ける。
このように、師はヨギヤーが率いる“国際ババジ・ヨーガ・サンガ”のスタッフとして、インド、スリランカ、そして北米の各地で都度就職し、或いはアルバイト等を続けながらヨーガを教える生活を18年間程続けたが、前回触れたシェールを巡るトラブルも含め、その間師との関係は必ずしも良好とは言えなかったようである。
この後暫くして師はクリスマス休暇に入るのだが、その時のクリスマスの朝の様子を師は『ババジと18人のシッダ』において克明に描写しているので、その部分を引用する。
「クリスマスの日の早朝、私の心は完全に静止して無呼吸の状態になった(筆者註:所謂サマーディの状態)。すると突然、はっきりとした声が聞こえてきた。その声は次のように告げた。“汝が他のものにクリヤー・ヨーガを教えるときがきた。”それは人生の決定的な瞬間において、ババジの臨在や導きを感じたときに聞いたことがある声だった。このクリスマスの日、ババジは金色の輝きに包まれた若々しい姿で私の前に現れた。1975年、ヨギヤーと共に米国を縦断する巡礼の旅をしたときに、コロラドのパイク・ピークの近くで同様の光を見たことがある。そのとき私は、人里離れた場所で独り座って深いサマーディの状態に入っていたヨギヤーが、輝く光の中に溶け込んでいくのを見た。その時以来、私はこのような光を見た事は無かった。そして今、大師の美しい姿をはっきりと眼にした私は、打ち寄せる愛と至福の波動にすっぽりと包まれていくのを感じた。私はその波に溶け込み、心は深遠な安らぎに満たされた。」
「このヴィジョンを見た後に、私は家に籠って瞑想や信愛の行為に没頭した。ババジの命に従うことは、すなわち私がサンガという組織から離れることを意味していた。シェールと分かれた1970年代の初頭以来、サンガを出ることなど夢にも思ったことはなかった。サンガに対して終生の忠誠を誓っていた私は、ただこの組織に尽くすことだけを願っていた。友人も皆サンガの仲間たちだった。私はヨギヤーがこうした展開にどのような反応を示すだろうかとも考えた。しかしババジはその後更に2回現れて、私がサンガを離れて他の人々にクリヤー・ヨーガを教える時が到来したことを再度告げた。兄弟弟子の中には、嫉妬心からこうした展開を受け入れない者もあるだろうが、ヨギヤーは理解するはずだとババジは私に告げた。」
そして、師は愈々独立を決意して、ヨギヤーに電話をかける。
「私は新年早々にヨギヤーに電話をかけて、大師の祝福と導きを得てサンガから離れるつもりであることを伝えた。ヨギヤーはこの知らせを丁重に受け止めてはくれたが、サンガへの援助を続けたいと言う私の申し出は断った。“サンガを離れるということは、関係を断つということなのだ”とヨギヤーはきっぱりと答えた。その後私はヨギヤーに手紙を書いて、自分が見たババジのヴィジョンや彼に与えられた新しい任務のこと、そしてそれによってサンガを去らざるを得なくなったことを詳しく綴った。数日後、私は新しいアパートを見つけて転居した。」
「それから数週間後、私は偶然にゲテイン・ウレ(以前ヨギヤーの荷造りに立ち会ったことのあるサンガの仲間の友人)と出会った。彼女は数カ月前に40日間のチベット仏教のコースを終了したことを私に話した。私がクリヤー・ヨーガを教えることになったことを話すと、彼女はイニシエーションを受けることを希望した。・・・私は一連のイニシエーションを彼女に授けた。こうして彼女は、私にとっての最初の生徒になった。それからの数カ月で私たちは恋におちた。1990年7月2日、踊るシヴァ神“ナタラージャ”が見守る中、私たちはムバラムの寺院でヒンズー教のしきたりに則った結婚式を挙げた。」
「ゲテインにクリヤー・ヨーガを伝授してから間もなく、モントリオールにあるサイババ寺院の代表者から、同寺院の帰依者たちにババジのクリヤー・ヨーガを伝授して欲しいという申し出があった。1987年に開催された“宗教とヨーガの世界会議”で私はこの人物との知己を得ていた。サイババとババジの祝福の下に、私はその後の2年間で、100人以上ものサイババの帰依者にクリヤー・ヨーガを伝授した。背景が異なる二つの霊的な伝統が、教えを分かち合うことは稀である。通常、こうした可能性は権力抗争、狂信、無知などによってかき消されてします。既に述べたように、ヨギヤーは当時から38年前に、シルディのサイババによってババジへと導かれた。そして今、サティヤ・サイババが彼の帰依者たちを、私とババジのクリヤー・ヨーガに導いてくれたのである。」
しかし、ここで又師とヨギヤーの確執が始まる。
「他方ヨギヤーは、クリヤー・ヨーガを他に伝授することを止めるようにと、すぐに私に書面で伝えてきた。さらに彼は、サイババの側近の弟子の一人でもある、先のサイババ寺院の代表者に連絡して、私が伝授するクリヤー・ヨーガの暮らすに、彼女の寺院の帰依者を参加させないように要求した。しかし、ヨギヤーのこうした試みは徒労に終わった。いつどこでクリヤー・ヨーガが伝授されるかを最終的に決めるのは、ヨギヤーの管轄下にある理事会であると彼は主張した。しかし、その後の何回かのやり取りを通して、ヨギヤーがこの問題に対して公私相異なる立場をとっていることを私は確信するようになった。自分の組織に属す弟子たちを厳格な統制の下において、組織の長期的な利益を守るという立場からすると、ヨギヤーは表向きには私と対立することを余儀なくされるが、個人的な立場からすれば、私を通してクリヤー・ヨーガを普及させるというババジの決定を彼は認めているのである
そして、その後の師の活動を最後に紹介しておきたい。
「狭い視野でとらえると、ババジがとった方法は不可解に映るかもしれない。しかし私はババジがこうした状況を明確に意図したことを確信している。世界中でババジのクリヤー・ヨーガの普及に当っている既存の組織は、皆立派な働きをしているが、こうした組織の限界を私は感じるようになっていた。そして、ババジや18人のシッダたちの教えを広めるためには、別の媒体が必要であることを私は感じていた。世界中の数多くの求道者が、霊的な生活と現実生活の融合を図れるような教えが必要だと私は思う。世界には現実生活の放棄を人々に求めて、天国での生活を求めたり輪廻転生から解脱することに専念させようとする宗教が無数にある。今日求められているのは、新しい組織でも新たな宗教や信念体系でもない。またババジは彼を崇拝するカルト教団ができることも望んではいない。真に必要なことは、世界中の大勢の人々が、現実生活の挑戦に臨みながら、愛と献身をもってババジのクリヤー・ヨーガを実践することである。クリヤー・ヨーガがこうして実践されるようになれば、各人の霊的な成長が促され、それぞれが現実生活で直面する諸問題に対処することも可能になる。こうして一人ひとりが変貌を遂げることで、やがて世界は地上の天国として生まれ変わるだろう。」
「1991年4月、私は英仏2カ国語で本書の執筆を終えてこれを出版した。1991年の終盤より、私と妻のゲテインはババジの導きによって、世界8カ国の40数都市を訪れ、そこに住む真摯な求道者たちにクリヤー・ヨーガを伝授してきた。1992年にはカナダのケベック州サン・エティエンヌ・ドゥ・ボルトンに、“ババジのクリヤー・ヨーガ・アシュラム”を設立した。ここはモントリオール近郊に位置する山の頂きの美しい土地にある。40エーカー(約5万坪)あるこのアシュラムでは、リトリートを初めとして、サマーキャンプ、クリヤー・ヨーガの伝授などの活動が年間を通して催されている。世界各地のクリヤー・ヨーガの実習生は瞑想サークルを作っており、定期的に互いの家に集まっては技法の実践に励んでいる。1993年にはシッダ・ティルムラルの著作、“ティルマンディラム:ヨーガとタントラの古典”の初の英訳版を出版した。現在の私は、世界各地でクリヤー・ヨーガの指導に当るとともに、ケベック・アシュラムにおける活動の拡充に専念している。」
蛇足になるかも知れないが、当時ヨギヤーが主導していた‘国際ババジ・ヨーガ・サンガ’と師の考え方或いは方針の差を、筆者が気付いた限りで簡単に纏めると、何と言ってもその規則の厳格さが大きく異なるということだと思う。ヨギヤーはその弟子に、ドーティを身につけるようにとか、パートナーは同じクリヤー・ヨーガを実践する者に限るとか、他にイニシエーションを受ける際の条件など、かなり厳しい条件を課していたようであるが、師の場合は、普通の人が現実の生活を送りながらも自己実現の為にクリヤー・ヨーガを実践できるよう、然程厳しい規律を要求していない点にあると思う。筆者としても、会社生活を続けながら自己実現が可能であることを、師の為にも立証したいと思っている。
尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
1971年4月、クリヤー・ヨーガのセンターを開設するために、シカゴに派遣される。
1972年8月から1年間、インドに派遣され、マドラス等でヨーガの指導を行う。
1973年米国に戻り、ワシントンD.C.のクリヤー・ヨーガ・センターの責任者になる。その際
公務員試験を受験すると、かなり良い成績で合格し、労働省とペンタゴン(米国防省)
から誘いがかかり、最終的にペンタゴンでの仕事を選択する。
1976年頃、「宗教とヨーガの世界会議」第22回年次大会の組織運営に当る。
1977年、モントリオール・センターの管理者になる。
1980年、インドに再び派遣され、その後スリランカに渡りセンターでヨーガを指導する
1981年、米国に戻った師は、転居することになっても支障の無い職業に就こうと考え、
コンピュータ会計監査の仕事を始める(この時、電子商取引の会計監査の本を2冊出版)
1983年、ヨギヤーは重度の心臓発作に見舞われて手術を受けた後、‘国際ババジ・ヨーガ・
サンガ’の運営を彼の手から委譲するため、理事会の設置を決めたが、師はこのとき
指名された7名の理事に入っていなかった。この直後、師はヨギヤーに呼ばれ、彼が
求める条件を満たすことができたならば、144種類の技法を他に伝授することを許可すると
告げられた。その中には48日間のサーダナを6回続けて行うことを始め、クリヤー・
ヨーガの技法を終生実践する誓いなども含まれていたが、それから3年間かけて、師は
これらの困難な条件を満たして行った。
1985年、ヨギヤーは師をインドに派遣
1986年、ハルドワールで行われたマハー・クンブ・メーラーにクリヤー・ヨーガの巡礼団と共に参加。
1987年、モントリオールに戻り、コンピュータ会計検査システムの分野で資格を取得する。
又、モントリオールで開催された“宗教とヨーガの世界会議”の組織運営にもあたる。
1988年11月、アリゾナ州のユマにあるアシュラムで行われたリトリート(集中講座)に参加し、
この時師はモントリオールから連れて行った生徒と、厳格なヨギヤーの態度の板挟みになる。
彼の叱責で傷ついた生徒の気持ちを、ヨギヤーに穏便に伝えたつもりが、逆に彼の方針に
逆らったとして、ヨギヤーから叱責を受ける。
このように、師はヨギヤーが率いる“国際ババジ・ヨーガ・サンガ”のスタッフとして、インド、スリランカ、そして北米の各地で都度就職し、或いはアルバイト等を続けながらヨーガを教える生活を18年間程続けたが、前回触れたシェールを巡るトラブルも含め、その間師との関係は必ずしも良好とは言えなかったようである。
この後暫くして師はクリスマス休暇に入るのだが、その時のクリスマスの朝の様子を師は『ババジと18人のシッダ』において克明に描写しているので、その部分を引用する。
「クリスマスの日の早朝、私の心は完全に静止して無呼吸の状態になった(筆者註:所謂サマーディの状態)。すると突然、はっきりとした声が聞こえてきた。その声は次のように告げた。“汝が他のものにクリヤー・ヨーガを教えるときがきた。”それは人生の決定的な瞬間において、ババジの臨在や導きを感じたときに聞いたことがある声だった。このクリスマスの日、ババジは金色の輝きに包まれた若々しい姿で私の前に現れた。1975年、ヨギヤーと共に米国を縦断する巡礼の旅をしたときに、コロラドのパイク・ピークの近くで同様の光を見たことがある。そのとき私は、人里離れた場所で独り座って深いサマーディの状態に入っていたヨギヤーが、輝く光の中に溶け込んでいくのを見た。その時以来、私はこのような光を見た事は無かった。そして今、大師の美しい姿をはっきりと眼にした私は、打ち寄せる愛と至福の波動にすっぽりと包まれていくのを感じた。私はその波に溶け込み、心は深遠な安らぎに満たされた。」
「このヴィジョンを見た後に、私は家に籠って瞑想や信愛の行為に没頭した。ババジの命に従うことは、すなわち私がサンガという組織から離れることを意味していた。シェールと分かれた1970年代の初頭以来、サンガを出ることなど夢にも思ったことはなかった。サンガに対して終生の忠誠を誓っていた私は、ただこの組織に尽くすことだけを願っていた。友人も皆サンガの仲間たちだった。私はヨギヤーがこうした展開にどのような反応を示すだろうかとも考えた。しかしババジはその後更に2回現れて、私がサンガを離れて他の人々にクリヤー・ヨーガを教える時が到来したことを再度告げた。兄弟弟子の中には、嫉妬心からこうした展開を受け入れない者もあるだろうが、ヨギヤーは理解するはずだとババジは私に告げた。」
そして、師は愈々独立を決意して、ヨギヤーに電話をかける。
「私は新年早々にヨギヤーに電話をかけて、大師の祝福と導きを得てサンガから離れるつもりであることを伝えた。ヨギヤーはこの知らせを丁重に受け止めてはくれたが、サンガへの援助を続けたいと言う私の申し出は断った。“サンガを離れるということは、関係を断つということなのだ”とヨギヤーはきっぱりと答えた。その後私はヨギヤーに手紙を書いて、自分が見たババジのヴィジョンや彼に与えられた新しい任務のこと、そしてそれによってサンガを去らざるを得なくなったことを詳しく綴った。数日後、私は新しいアパートを見つけて転居した。」
「それから数週間後、私は偶然にゲテイン・ウレ(以前ヨギヤーの荷造りに立ち会ったことのあるサンガの仲間の友人)と出会った。彼女は数カ月前に40日間のチベット仏教のコースを終了したことを私に話した。私がクリヤー・ヨーガを教えることになったことを話すと、彼女はイニシエーションを受けることを希望した。・・・私は一連のイニシエーションを彼女に授けた。こうして彼女は、私にとっての最初の生徒になった。それからの数カ月で私たちは恋におちた。1990年7月2日、踊るシヴァ神“ナタラージャ”が見守る中、私たちはムバラムの寺院でヒンズー教のしきたりに則った結婚式を挙げた。」
「ゲテインにクリヤー・ヨーガを伝授してから間もなく、モントリオールにあるサイババ寺院の代表者から、同寺院の帰依者たちにババジのクリヤー・ヨーガを伝授して欲しいという申し出があった。1987年に開催された“宗教とヨーガの世界会議”で私はこの人物との知己を得ていた。サイババとババジの祝福の下に、私はその後の2年間で、100人以上ものサイババの帰依者にクリヤー・ヨーガを伝授した。背景が異なる二つの霊的な伝統が、教えを分かち合うことは稀である。通常、こうした可能性は権力抗争、狂信、無知などによってかき消されてします。既に述べたように、ヨギヤーは当時から38年前に、シルディのサイババによってババジへと導かれた。そして今、サティヤ・サイババが彼の帰依者たちを、私とババジのクリヤー・ヨーガに導いてくれたのである。」
しかし、ここで又師とヨギヤーの確執が始まる。
「他方ヨギヤーは、クリヤー・ヨーガを他に伝授することを止めるようにと、すぐに私に書面で伝えてきた。さらに彼は、サイババの側近の弟子の一人でもある、先のサイババ寺院の代表者に連絡して、私が伝授するクリヤー・ヨーガの暮らすに、彼女の寺院の帰依者を参加させないように要求した。しかし、ヨギヤーのこうした試みは徒労に終わった。いつどこでクリヤー・ヨーガが伝授されるかを最終的に決めるのは、ヨギヤーの管轄下にある理事会であると彼は主張した。しかし、その後の何回かのやり取りを通して、ヨギヤーがこの問題に対して公私相異なる立場をとっていることを私は確信するようになった。自分の組織に属す弟子たちを厳格な統制の下において、組織の長期的な利益を守るという立場からすると、ヨギヤーは表向きには私と対立することを余儀なくされるが、個人的な立場からすれば、私を通してクリヤー・ヨーガを普及させるというババジの決定を彼は認めているのである
そして、その後の師の活動を最後に紹介しておきたい。
「狭い視野でとらえると、ババジがとった方法は不可解に映るかもしれない。しかし私はババジがこうした状況を明確に意図したことを確信している。世界中でババジのクリヤー・ヨーガの普及に当っている既存の組織は、皆立派な働きをしているが、こうした組織の限界を私は感じるようになっていた。そして、ババジや18人のシッダたちの教えを広めるためには、別の媒体が必要であることを私は感じていた。世界中の数多くの求道者が、霊的な生活と現実生活の融合を図れるような教えが必要だと私は思う。世界には現実生活の放棄を人々に求めて、天国での生活を求めたり輪廻転生から解脱することに専念させようとする宗教が無数にある。今日求められているのは、新しい組織でも新たな宗教や信念体系でもない。またババジは彼を崇拝するカルト教団ができることも望んではいない。真に必要なことは、世界中の大勢の人々が、現実生活の挑戦に臨みながら、愛と献身をもってババジのクリヤー・ヨーガを実践することである。クリヤー・ヨーガがこうして実践されるようになれば、各人の霊的な成長が促され、それぞれが現実生活で直面する諸問題に対処することも可能になる。こうして一人ひとりが変貌を遂げることで、やがて世界は地上の天国として生まれ変わるだろう。」
「1991年4月、私は英仏2カ国語で本書の執筆を終えてこれを出版した。1991年の終盤より、私と妻のゲテインはババジの導きによって、世界8カ国の40数都市を訪れ、そこに住む真摯な求道者たちにクリヤー・ヨーガを伝授してきた。1992年にはカナダのケベック州サン・エティエンヌ・ドゥ・ボルトンに、“ババジのクリヤー・ヨーガ・アシュラム”を設立した。ここはモントリオール近郊に位置する山の頂きの美しい土地にある。40エーカー(約5万坪)あるこのアシュラムでは、リトリートを初めとして、サマーキャンプ、クリヤー・ヨーガの伝授などの活動が年間を通して催されている。世界各地のクリヤー・ヨーガの実習生は瞑想サークルを作っており、定期的に互いの家に集まっては技法の実践に励んでいる。1993年にはシッダ・ティルムラルの著作、“ティルマンディラム:ヨーガとタントラの古典”の初の英訳版を出版した。現在の私は、世界各地でクリヤー・ヨーガの指導に当るとともに、ケベック・アシュラムにおける活動の拡充に専念している。」
蛇足になるかも知れないが、当時ヨギヤーが主導していた‘国際ババジ・ヨーガ・サンガ’と師の考え方或いは方針の差を、筆者が気付いた限りで簡単に纏めると、何と言ってもその規則の厳格さが大きく異なるということだと思う。ヨギヤーはその弟子に、ドーティを身につけるようにとか、パートナーは同じクリヤー・ヨーガを実践する者に限るとか、他にイニシエーションを受ける際の条件など、かなり厳しい条件を課していたようであるが、師の場合は、普通の人が現実の生活を送りながらも自己実現の為にクリヤー・ヨーガを実践できるよう、然程厳しい規律を要求していない点にあると思う。筆者としても、会社生活を続けながら自己実現が可能であることを、師の為にも立証したいと思っている。
尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。