アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第14章 道 ⑦空海の風景

2011-08-05 06:07:39 | 第14章 道
この人生で解脱を果たすためにはクンダリーニ・ヨーガのみならず、様々な宗教(例えばキリスト教やイスラム教)や方法(例えばカルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガなど)があることは、前章‘世界宗教’で既に説明した通りであるが、良く考えて見ると、日本にも真言宗や禅宗の各派があり、日本に生まれながらそれらに一顧だに与えずに解脱を論じることに就いて、筆者はこれまで何となく負い目のようなものを感じていた。
それら日本に根付いている宗教の中でも、特に真言宗(密教)については、空海という不世出の天才が唐から持ち帰り、更に体系付けたものであるから、その教えがどのようなものか調べてみたくなり、取敢えず司馬遼太郎(以下、著者)の『空海の風景』(以下、同書)を改めて読んでみた。著者が仏教や哲学にどの程度精通していたかは知るよしも無いが、以下はあくまでも著者の理解を通して描いた作品を筆者が読んだ上での感想なので、専門家の立場からは色々ご批判があるかも知れないことは予めお断りしておきたい。

早速だが、空海という天才誕生の背景に就いて考えてみたい。著者も驚きを持って書いているが、あの時代にどうして空海のような天才が日本に生まれたのか、又唐に渡る前にどうして密教の修法を学び、超人的な能力を身に付けることが出来たのかに就いては誰もが疑問に感じる所であろう。というのも、同書を読めば判る通り、海を渡った空海に伝法潅頂を授けた恵果(当時の唐朝における密教の最高指導者)は千人の門人を持ちながら、当時唐から見れば片田舎の島国である日本から来た若い留学僧の空海を一目みるなり、彼に法灯を譲ることを瞬時に決断してしまうからである。
それに対する著者の回答は、当時既に日本には雑密と呼ばれる、空海に依って体系付けられる以前の密教が既に存在し、空海はそれに触れていたと云うものである。又、当時の日本において既にインドの影響も垣間見える。以下、関連する部分を抜粋する。

「佐伯氏空海(筆者註:空海の出自は讃岐の佐伯氏)は、奈良の佐伯院を自分の氏寺のようにして親しんでいたであろう。私寺である佐伯院の隣が官寺である大安寺である。大安寺には、長安に留学した僧や、その弟子たちといった、海外で生活した人々が多く住んでいる。また鑑真や菩提仙那のようなインド僧も住んだことがあり、恰も長安若しくはインドの縮景であるかのような観を呈していた。更に飛躍するが大安寺というのは、その境内の景色が兜率天の宮殿の縮景であるという論理も当時にあった。・・・従って大安寺は、弥勒菩薩が日夜説法しているという兜率天宮の写しである。このことは、インド的思考法に魅かれている空海にとって、大安寺の境内に足を踏み入れること自体が、きらびやかな象徴にみちたインド的世界に入り込むことであったに違いない。」

しかし、これだけでは空海が密教に触れる機会があったというだけで、それを深く学び体得した証しとはならない。著者は、次のように続ける。

「ココニ一沙門アリ、という沙門とはどうせ大安寺に縁のある僧に違いない。その僧とは、山野を歩き回っている乞食のような私度僧であったであろう。・・・“学生よ。お前がそこまで仏法のことに熱心ならいい工夫を教えてやろう”と、一沙門は、この儒生に万巻の経典をたちまち暗誦できるという秘術を教えたのである。秘術はインド伝来のものだが、釈迦の仏教ではなく、インドにおいて仏教とは別の精神風土から発生した密教に由来しその密教は長安に伝わって、そのあと、日本に幾つかの砕片のような形で伝わっていた。・・・ついでながら雑密はその後もこの国の山河に根付き、大和の大峰や出羽の羽黒山などの山林で土俗と習合しつつ歩き巫女、外法の徒、或いは山伏といったふうな形として生き続けた。“それはこういうものだ”と、一沙門が空海に伝受してくれたのは、或いはこの当時とすればきらびやかな科学としてであったに違いない。つまり、ある真言(筆者註:マントラ)を、ある場所へ行き、そこで一定の時間内に百万べん唱えるというものである。この苦行を反覆するうちに人間の意識下に眠っているどの層かが急に光芒を放ちはじめ、その光芒に照らし出せば八万四千といわれる経文を意のままに暗誦できるようになるというものであった。要するに、インドに伝わる記憶術であった。『虚空蔵求聞持法』(こくうぞうぐもんじほう)という秘法がそれである。記憶力をつける為に虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の方法で唱える。ついでながら、真言とはやはり言語に一種であるに違いない。然し人間の言語ではなく、原理化された存在(法身如来)たちがしゃべる言語である。虚空蔵菩薩というのは天地一切の現象の表象であり、人がその現象の玄妙さに驚嘆を感じた時、たれの前にでもこの菩薩は姿を現わすであろう・・・」

この虚空蔵求聞持法を行じる為に、空海は山に籠り、不思議な体験をする。

「弟子が編んだ『御遺告』によると、“土佐ノ室生門崎ニ寂留ス。心ニ観ズルニ、明星口ニ入リ、虚空蔵光明照シ来タッテ、菩薩ノ威ヲ顕ス”と、彼は奇怪な体験を語っている。室戸岬で明星が口に飛び込んできたというのである・・・」

著者はこの空海の神秘的体験に就いて多くを語っていないが、この不思議な体験を考える上で、本ブログ第12章⑪‘マントラ’から、その効力に関する説明を再掲したい。

「神の名やマントラを唱える究極の目的は、あなたの個としての意識を神なる意識と混ぜ合わせることである。神の名もマントラも、あなた自身が“永遠の自己”としての真の資質に気付き、より高次の能力を開花させ、意識をその特定のマントラと共振ないし同調する意識レベルへと高める助けとなるのである。この極めて神聖かつ霊的な習練を続けることで、あなたは自身のオーラ場に、膨大な霊的能力とパワーを構築し、日々に出会うすべての人々と祝福を分かち合う際にそれを使うことができる。思考は驚くべき力を秘めた道具である。イエスは、あなたにからし種ほどの信仰があれば、文字通り山をも動かすことができると語っている。またポール・ソロモンは宇宙心からのチャネリング情報で、イエス・キリストは、実際に宇宙の星々の位置を変えてしまうほど強力に自由な思考を展開していたと述べている(筆者註:脚注*参照)。さらにエドガー・ケイシーは、太陽の黒点は実際、人の否定的思考が創り出したものだと語る。」

と云うことで、空海は真言(マントラ)をある定めた場所、定めた方法で繰り返し唱えることで、超人的な能力を得たのは間違い無いと思われる。更に、筆者の勝手な推測ではあるが、明星が口に飛び込んだ体験というのは、クンダリーニ昇華(本ブログ12章⑥を参照)を通じて自身が宇宙意識との合一を果たした体験を、空海が象徴的に描写したものと思われる。つまり入唐まえ、虚空蔵求聞持法等の行法によるクンダリーニ覚醒を通じて、空海は超人的な能力を既に獲得していた筈である。

先に触れた通り、やがて空海は最澄らと共に遣唐使船で唐に渡り、長安で恵果から密教の伝法潅頂を受ける訳であるが、それではその密教の教えとはどのようなものなのか。実は恵果が相承していた密教には金剛頂経系と大日経系の二つの系統があり、空海はその両方を伝受されるわけであるが、ここでは先ずは空海が渡唐前に日本の或る寺で触れた、大日経に就いてである。

「ともあれ空海は、この(筆者註:大日経)漢訳を読むことによって大日経の理論は理解出来た。但し、空海にも解せない部分がある。大日経には、仏と交感してそこから利益を引き出すと言う方法が書かれている。その部分は、秘密(宇宙の内面の呼吸のようなもの)であるがために、宇宙の言語である真言を必要とし、また交感の為には真言だけでなく印を結ぶなどの所作(筆者註:ムドラーのことか)を必要とした。この部分は大日経においても文章的表現が困難であるだけでなく、多くは梵字(サンスクリット語)で書かれている。やがて彼は唐へ入ってインド僧に梵字を学ぶが、しかしこの時期においても素養は既にあったかのようである。とはいえ、この真言と云う秘密語までは解く事が出来ず、いずれにせよ、密教は半ばは教理で構築されているが、他の半ばは膨大な方法の集積であるために、こればかりは手を取って伝受されることが必要であった。空海はこれが為に入唐を決意した。」

つまり、密教は教理だけは書物から学べても、印(ムドラーに相当する)を結ぶ所作は文字だけみても判らない部分もあるし、まして真言は精確な発音を含め、師から弟子に直接伝受されるべきものである。この部分での認識の相違が、後に最澄との確執(次週に掲載予定)に発展する下敷きとなっている。これは、クンダリーニ・ヨーガにおいても、呼吸法、瞑想法、更にはマントラなどは、イニシエーション(或る意味では儀式)を通じて師から直接伝えられなければならないので、筆者には良く理解出来る。
次は、金剛頂経系と大日経系の二つの系統に関する記述であるが正直なところ、このうち、特に密教の成り立ちの部分に就いて、筆者は他に参考とする資料を持たず、著者の書いたままを転用する。

「仮に原密教という言葉を使うとすれば、それはもともとインドに古くから存在した魔術に過ぎなかった(筆者註:くどいようであるが、特にこの部分に就いて筆者は強い抵抗を感じるが、そのまま続ける)。イランから南下したアーリア族に諸種族が征服されて以来、インド的世界は征服民族と多様な被征服民族という複雑な社会階級をつくりあげるにいたった。征服民族であるアーリア人は、軍事や政治だけに長じていたわけでなく、形而上的思考をも偏好した。思索者であるいわゆるバラモンは、この民族のなかでは最上部を占める。思索者は、インド以外の他のたいていの地域においては狂人か変り者として扱われるにすぎなかったろうが、インドにおいては聖者とされ、彼等は衣食の為に労働することなく、人々から食物の供養を受けて思索を続けるうという乞食としての特権(?)持っていた。彼等は思索をしたからといって俗世の名利を受けることがなく、ただ思索をしたいがために思索をするという人々であり、彼等と言い、また彼等を崇拝する風習といい、こういう例は、古代世界ではインド以外にはまれであったであろう。このような思索者のなかから釈迦(筆者註:釈迦はバラモンではなく、クシャトリアの出身ではないかと思う)も出た・・・。」
「二つの系統の密教もまた、それら思索者によって作り上げられた。現世を否定する釈迦の仏教に対し、現世という実在もその現象も宇宙の真理の顕れである、ということを考えた密教の創造者は、宇宙の真理との交信法として魔術に関心を持った点が釈迦と著しく異なっている。魔術、呪文、まじないの類は、山野にいくらでもころがっていた。その多くは被征服民族の土俗のなかにまみれていたものだったが、思索者はこれを丹念に拾いあげてそれらの一つ一つの意味をみがきこんで精妙にしたように思える。しかし如何に精妙にしたとはいえ、その一つひとつが孤立していれば、それらは単なる魔術、呪文、まじないに過ぎず、それが空海の時代の密教用語でいえば雑密というものであった。」
「これら土俗魔術、呪文、まじないを集めたインドにおける密教創始者の如何にも形而上的思考者である点は、魔術を超えたことであろう。それらのカケラの群れを熔かしつつ、巨大な宇宙の構造の体系を作り上げたことであるであろう。さらにいえば、生命と云うこの具体的なものを含めて、宇宙に実在するあらゆるものが一つの真理の顕れであるとし、その顕れをもたちまち形而上化してその純粋性に宗教的な威をもたせ、それをもって密教の諸仏諸菩薩諸天としたことであるにちがいない。その上、それらが真理の法則のまにまに動くという運動の中においてもとらえた。というよりその運動そのものを神聖視した。これが密教で重視する曼荼羅というものであろう。さらにはその真理のなかで人間が生体のまま真理化しうるというのが即身成仏で、正密においてはへんぺんたる魔術的行法よりも、この即身成仏をもって、この体系の最終目的とする。これによって雑と正を区別するのである。」

「ついでながら、この正密 ― 体系化された密教 ― における二つの体系が、つまり金剛頂経系と大日経系とが、インドにおいて別々に成立したということは既に触れた。その両方が、唐へ前後してやってきたことも、既に触れた。中インド生まれの金剛智が金剛頂経系を伝え、東インドのオリッサ地方の生まれといわれる善無畏が、大日経系の密教を伝えた。恵果の師匠である西域人不空は、金剛智に師事した。このため不空は金剛頂経系の人であり、恵果も本来その系統の人であった。しかしすでにふれたように、恵果は偶々善無畏の弟子であった玄超を知り、玄超から大日経系の密教を悉く譲られたため、彼は密教史上最初の両系の継承者になった。インドにおいても唐においても、両系を一身に兼ね備えているのは自分しかない、というのが恵果の誇りであった。“両部々々”ということを、恵果はしきりに云う人であった。しかしながら、恵果の中においていかにも堅牢な体系だったのは年少のころからやっていた金剛頂経系であったであろう。このためか、恵果は門人のなかで俊秀がでれば、金剛頂経系の方をゆずってきた。大日経系をも併せてゆずったのは、早世した一門人の他に空海しかいない、ということも既に触れた。」
「金剛頂経系は智(精神の原理)を説き、大日経系は理(物質の原理)を説く以上、双方異質なものであることはいうまでもない。異質な二つを生き物一つの精神の中に押し入れた場合、互いにその異が反発しあい、矛盾が激しく相克して、ときにはその人の思想性が崩れ去る程に苦痛が甚だしい。しかし恵果はそれを克服したらしく思える。“両部は実は一つのものなのだ”と、かねがね彼は口頭で言っていた。ところが、恵果はそれを著述するまでに至らなかった・・・恵果はそれを空海に期待したのであろう。・・・」

以上、ながながと引用してきたが、実は筆者もこれだけでは密教の教義の内容は良く判らない。より深い内容に就いては、いずれ機会があれば研究したいと思っているが、最後の部分で興味深いのは、精神の原理と物質の原理の統合を恵果は空海に託したという部分である。比べることが適当かどうかは判らないが、筆者の頭に浮かんだのは、精神の原理がヴェーダーンタの不二一元論であり、物質の原理がサーンキヤ哲学(プルシャとプラクリティ)に夫々対応しているのではないかという推測である。空海がその高野山の本拠を金剛峯寺と名付けたのは、当然ながら精神の原理(金剛頂経系)、即ちヴェーダーンタ的な不二一元論を物質の原理の上に置いたことの現れなのであろう。
次回は、空海と最澄の確執などに触れてみたい。

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